2009年02月13日

気まぐれ雑記帳 09-02-13 挫折の構図

 
 ゴットリープ・ダイムラーが現代のクルマの原型を完成させた時、クルマが地球の大気をこれほどまでに汚染し、地球温暖化の一因となるとは思いもよらなかったことだろう。あるいは、ロバート・ゴダードがロケットを打ち上げるために力を尽くしていた時、スペース・デブリ(宇宙ゴミ)が宇宙開発にブレーキをかける可能性には思い至らなかったことだろう。
 それと同様に、私たちが自らの将来を思い描く時にも数多くの盲点が待ち受けている。
 何度か書いてきたように、しばしば「あなたは将来何をやりたいのか?」というような問いで進路が問われる。実際のところ、人には永続的に「やりたいこと」などないのだが、それはひとまず置いて、何をやりたいのかなどと問われて答えるのはかなり難しい。なぜならやりたいことをやっても「なりたい自分になれない」からである。
 日頃の生活を考えてみればよい。やりたいことだけやっていたら生活が成り立たない場合が多いだろう。生活が成り立つためには身の回りの家事や生計を立てるなどの「為すべきことが為される」ことが基本条件である。
 人生設計も同じで「何をやりたいか」ではなく「何を為すべきか」という問題から構築しなければならない。
 モーツァルトやベートーヴェンが「やりたいから」というようなあやふやな理由で困難な作曲に立ち向かっていたとは思えない。彼らには確固たる使命感があったに違いない。しばしば、天才だから楽に作曲できたという思い込みがあるが、天才だろうが凡人だろうが全力を尽くす困難さは変わらない。変わるのは結果だけだ。その結果でさえ“入れ込み方”次第で変わる事もあるだろう。
 このコラムでは「志と覚悟」が人を形成する基本的な要素であるというスタンスをとっている。しばしば誤解されるのだが、これは“強い意思”と同義ではない。むしろ真逆の場合もある。精神力と体力は極めてよく似ている。人は多少きつい労働をしても、必要な食事をとって充分な休息をとれば体力は回復し、再び働くことができる。むしろ体力のある人は、自らを過信して無理をすることもあるのではないか。その結果、体力に自信のない人のほうが仕事量が多いということもあるだろう。
 ここで言う「志」には、何より事実と齟齬がないことが重要であり、必須である。仮に「ゾウリムシと会話をする」という志を立てたとしよう。そもそもゾウリムシに言語がなければどれだけ科学や技術が進歩しようと不可能であるから、ここには事実との大きな齟齬があると言えるだろう。しかし、ゾウリムシとて意思はあるかも知れないので「テレパシーで意思の疎通を図る」というのもあるが、時期尚早である。なぜなら、テレパシーの理論と技術が確立される見込みがたった時点で、初めて「その技術でゾウリムシと・・・」なるべきだからだ。言い換えるならば、人類が月に立つことは可能であるが、基礎技術さえ確立されていなかった江戸時代では不可能であるということと似ている。人の一生には限りがあるのだ。
 少なからざる人が現実と乖離した“志”によって、あるいは為すべきことを見極めることができなかったことによって、さらには“強い意志”と“ブレない意思”の差に気づかなかったことによって挫折しているのではないだろうか。

 野村茎一作曲工房
 

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2009年02月09日

気まぐれ雑記帳 2009-02-09 文系・理系、あるいは絶対音感・相対音感

   
 
 理系と文系という分け方がある。これは、明治時代に現在の学校教育の基となった制度がスタートした頃に文科・理科という分け方をしたことが始まりだろう。
 今日は、それらの細かい定義について書きたいのではない。「数学が苦手だから文系だ」という考え方に警鐘を鳴らしたいのだ。ならば「文章が苦手な人は理系」という考え方も成り立って然りだと思うがどうか。
 「絶対音感ではないから相対音感」という考え方も似ている。どちらも訓練(始めた年齢によって結果が異なる)が必要で、実際には絶対音感も相対音感も持ち合わせていない人が大部分だろう。
 「理系でなければ文系」という短絡的な考え方が浸透してしまったことによる人生の損失は少なくないのではないか。
 おおまかに言うと、文系は人について、理系は自然について研究する分野であるということだろうが、現在の学問は専門化すればするほど他の分野と関わってくるという状況になっている。経済学は、突き詰めるならば人の心理と行動を記述する学問であるが、現在は数学がその手法の最も大きな柱になっている。建築学科は、芸術系の大学にも工学系の大学にも設置されており、文系でも理系でもあると言える。
 文系・理系に共通するのは「発想」である。勉強すれば数学の問題が解けるようになるというのは、実は幻想に過ぎない。習った解法を当てはめることができるようになるだけである。数学的発想にたどりついた人だけが数学の問題を解くことができる。国語をどんなに勉強しても、文学的発想にたどりつかなければ架空の人物にリアリティを与えて動かし、読者に人生を考えさせるような物語を書くことはできないだろう。
 しばしば「オレだってやればできる」という考え方に出会うが、これも幻想に過ぎない。人が何かをやるのは発想(インスピレーション)があるからであって、それのない努力では正しい方向性を見いだすことが難しい。そのようなほとんどの努力は徒労に終わると言ってよいだろう。少なくとも、私はインスピレーションなしに努力している人(何をしたらよいか分からないから取りあえず努力だけしている人)に負けない絶対の自信がある(努力を軽んじているわけではないので念のため)。
 文系・理系などという分類にこだわる以前に、発想できるところまで自らを開発したかどうかを考えるべきだ。発想というのは解決への道筋へのヒントである。それは、常に事実と結びついている。事実と結びついていない考えを「荒唐無稽」という。このように書くと、私が世の中には不思議なことなど何もないと考えているプラグマティスト(合理主義者)であるように思われるかも知れないが、事実は目に見えていることばかりではない。事実こそ不思議(つまり、思い込みとは異なる姿をしている)のかたまりであり、事実をありのままに見ることこそが、私たちをファンタスティックに変貌させる。地動説(太陽中心説)を提唱した、かのコペルニクスでさえ惑星は真円運動するという考えに囚われて事実を掴みきれずに、その理論は天動説論者の反証に対抗できない要素があった。現代宇宙論の開拓者であるアインシュタインでさえ、ハッブルによってその証拠をつきつけられるまで宇宙膨張(アインシュタイン方程式のフリードマンによる解)を受け入れることができなかった。事実を受け入れるということこそが才能であると定義したいほどだ。
 レオナルド(ダ・ヴィンチ)が看破したように、私たちの世界観は観察による事実の把握によって形作られなければならない。何度も書いてきたように、ピアノ弾きがピアノ鍵盤の図を描けないことなど当たり前という状況である。少なからぬ人が黒鍵を白鍵の中央に描く。しかし、それはGis(As)だけであり、Fis(Ges)とAis(B)は約80パーセント左右にオフセットされ、Cis(Des)とDis(Es)は約70パーセントオフセットされている。だからCis-Disのトリルは幅が広く、Fis-Gisのトリルは幅が狭い。観察というのは目で見るだけではない、音も、匂いも、温度も、感触も全てが観察の対象である。平均律を理解している人もどれだけいるのだろうか。調律師は調律曲線に沿った平均律に調律する方法は知っているものの、音律とは何かということになると詳しく理解していない人もいることだろう。
 事実の把握の曖昧さの隙を突いて、疑似科学が私たちを騙そうとする。実際には、それらを主張する本人が信じていたりするので、疑似科学というよりは単に「誤った事実認識」と言ったほうがよい場合もある。それをまた他人に「本当なんですかウソなんですか?」と訊ねたりするのは愚の骨頂というものである(納得いくまで自分で調べることは別)。
 理系・文系というのは学問分野の分類であり、人の分類ではない。
 教科書をひととおり勉強したら、身の回り(自分の関心に深く関わるもの)がどうなっているのか、五感を研ぎ澄まして感じ取ることだ。何もないところからインスピレーションはやってこない。

 画家にとって真白いキャンバスなどあり得ない。(岩波「哲学講座第11巻」より)
 

 野村茎一作曲工房

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2009年02月01日

気まぐれ雑記帳 2009-02-01 天才と凡人のはざまで

 
 時折このコラムで扱う、評論家柳田邦男氏が定義した意識レベルの概念「フェイズ0〜3」(0は眠っている時、1はボーッとしている時、2は日常生活をこなしている時、3は集中している時)で言うならば、私たちは毎日0〜3までのレベルを行き来していることになる。
 有能な人というのは、いつフェイズ3という状態になるべきかを知っている人なのではないか。たとえ記憶力や計算能力が高くとも、肝心な時に気づかなければ宝(能力)の持ち腐れというものだろう。
 ところが、天才というのは時として、定義外の“フェイズ4”がやってくる。アインシュタインも天才であることは間違いないが、天才としてのデッドエンドにいると考えられるひとりであるインドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)はフェイズ4を知るきっかけを与えてくれる。答えに至った理由を尋ねられたときの「全ては女神さま(ナマギーリ女神)が教えてくれた」という彼の言葉は、自分でも解法が判らないということなのではないか。それほど一瞬にして解答がやってきた、つまり途中の演算を飛ばしていきなり正解にたどりついたということだろう。これは、ラマヌジャンの意識の中で、いくつもの事実の“意味ある相関関係”が一瞬にして明らかなったということではないだろうか。
 “集中する”という言葉(概念)を説明することは意外と難しい。心理学などにおける定義は厳密になされていると思うが、作曲工房的に言えば「事実を確認する力」である。
 バッターボックスに立った打者は、ボールの速度と軌跡の事実を確かめ、また自らの動きがそれに合致するかどうか確認するために集中する。綱渡りする曲芸師は、綱の上に自分自身の重心があるかどうかを逐一確認するために集中する。重心が外れればすぐにカウンタウェイトをかけるために、また集中する。数学のテストに解答中の受験生も、自分の計算や推論が事実と食い違っていないかどうか(論理にかなっているか)を確認するために集中する。刺繍する人も、絵を描く人も限りなく正確な位置に糸や絵の具を置くために集中する。正確さや速度のレベルが上がれば上がるほど集中力は累乗倍(感覚値だが)されて強い精神力が必要となる。しかし、どんなに集中しても、それだけはフェイズ3から一歩も進むことはできない。
 私観ではあるが、天才が到達するフェイズ4という状態は、集中しているけれども緊張していない時に訪れるような気がしている。
 それは、複数の事実から関連性を見いだすというようなことだ。簡単なところでは、階段の上下にある照明のスイッチの仕組みはどうだろう。どちらのスイッチを動かしても点灯・消灯できる回路である。スイッチ2つまでなら、少し考えれば大抵の人が回路図(正式な回路図である必要はない)を書けることだろう。しかし3つ以上になると急に難しくなる(もちろん、その回路を知らない人にとっての話)。この答えを出すには知識よりもインスピレーションが必要と言っても過言ではない。もはや発明に近いからである。インスピレーションというのは事実と事実の関連性を見いだす力(センス)のことであり、決して超能力ではない(もちろん、超能力としか呼べないようなインスピレーションもある)。想像力の本質が「何もないところから荒唐無稽な考えに辿りつく」ことではなく、事実の延長線上に考えを広げることであるように、インスピレーションも事実の把握なしでは成り立たない。やはり、ここでも事実から学べるかどうかが分かれ目になる。ちなみに3つ以上は何個のスイッチがあってもそれ以上複雑化しない。
 平々凡々とした私ではあるが、“優れる”とはどういうことかということを考え続けた結果、多少それらしい答えに近づいてきた印象がある。「天才は教育では育たない」と言われるように、勉強したところで到達点は限られているように思われる。しかし、注意深く周囲を観察して事実を読み取り、自分の認識と“事実”が一致したとき、人が高みへの階段を一段昇ったことになることは間違いないだろう。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年01月30日

気まぐれ雑記帳 2009-01-30 学習強迫観念と幻想

 
 カルチャースクール、あるいは資格講座のようなものが数多く開講されている。「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」という心理によるものであるとしたら、それは実に皮肉なことである。
 「もっと勉強しておけばよかった」という結論は「それが今の自分の人生とは異なる結果を生んだに違いない」という推論から導き出されたものであることはほぼ間違いないだろう。
 では、過去に猛勉強したと仮定する。それは教科書を丸暗記してしまうほどの徹底ぶりであった。そのかわり、代償として他の体験や経験を失うことになる。教科書から得た知識がどれだけ人の人生や人格を変えるだろうか。良いほうに変えるとはとても思えないが、どうか。
 勉強しなくてよいと言っているのではない。幻想ではなく、事実を把握すべきだと言いたいのだ。
 資格マニアのような人がいる。いくつもの講座に通って、次々と資格を取得する。それが、資格取得にのみ喜びを感じる本物の“資格マニア”であるならば正しい生き方だろう。しかし、人生を変えたい、あるいは、より高みを目指したいと考えているのならば、資格取得は目的ではないはずだ。自動車運転免許は国家資格であるが、30年間毎日運転しているからと言って“スーパードライバー”になれるとは限らない。勉強というのはパソコンソフトのチュートリアルのようなものに過ぎない。
 私の許には音大を卒業した人も、一般大学卒業の人もレッスンに通ってくださっているが、一般大学卒の人たちには「音大コンプレックス」があり、音大卒の人たちには「勉強が足りなかった」という強迫観念がある(全ての人に当てはまるわけではない)。どちらも幻想に過ぎないのだが、それに気づくには洞察力が必要である。
 卑近な例で恐縮だが、たまたま、いま手許に昨年暮に出版されたばかりの「岩波講座 哲学07 芸術/創造性の哲学」という書物がある。まだ読み始めてもいないのでランダムに一部を抜粋・引用する。
 たまたま開いたのは大塚直子さんという方の「メディアとジャンルの越境と横断」という章である。

  ***

 目の前に一枚のカンヴァスがあるとしよう。描かれているのは等身大のふたりの女性。一瞥して判るのはそれだけである。
 毎日テレビ映像に浸り、イメージを注意深く読むことを忘れた眼差しにとって、これは、それだけのイメージに終わるだろう。美術史の知識を持つ者であれば、彼女たちの姿や背景が、ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》に酷似していることに気づくかも知れない。
 
 ***

 端正で美しい文章であり、文法的に難解な点は見当たらない。しかし、“いわゆる”勉強にどれだけ励もうと、この文章の真意にたどりつくのは容易くない。引用が短すぎて、筆者の主張を伝えるに至っていないことも問題であるならば、興味を持たれた方は図書館などで続きをお読みいただきたい。私自身「ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》」というものを知らないのだが、理解のための真の問題はそこにあるのではない。おそらく、私たちが美術作品と心から対峙することによってのみ得られるレディネスが必要なのだ。
 それはもはや知識ではない。
 学生時代の私は、分からないことがあるとすぐに答えを知りたがった。もちろん、辞書や書物からは得られそうにない答えである。そういう時は作曲を師事していた土肥 泰(どい・ゆたか)先生が頼みの綱だった。彼は「答えを知っても分かるわけではないが」と前置きして的確に答えてくれたが、いつでも本当に分かるのはずっと後になってからだった。
 分かりやすい例を挙げるならば「モーツァルトは天才ですか?」というような問いの場合、答えを聞いてもまるで意味がないのと同じだ。モーツァルトが天才であるかどうかは、自らたどりつくしかない。そのために費やす時間と精神力は計り知れないものがあるが、それは人生にとって極めて意味ある行為となることだろう。
 ピアノを習うことにどのような意味があるだろうか。毎日練習してだんだん上手に弾けるようになっていくのも楽しいことだろうが、それは言い換えれば個人の楽しみに過ぎない。しかし、ピアノを通じて音楽そのものに出会えるような向き合い方をしたらどうだろうか。レッスン曲に「合格」とか「花まる」がないような世界である。
 人類は音楽を生み出し、音楽は人類に高い精神性を求め、高い精神性は音楽を洗練し、洗練された音楽は、人類をさらに高みに押し上げてきた。バッハやベートーヴェンは“音楽”という美の哲学によって限りなく高められた精神である。ところが、(悪名高き)バイエルやツェルニー、あるいは初心者用のソナチネでさえ、凡人を寄せつけぬ高い精神性が潜んでいる。それに気づくとピアノを弾くことの意味がガラリと変わる。易しいと思われているバイエル序盤の練習曲でさえ(むしろ序盤こそ)、いくら弾いても完成の域に達しないのだ。その時、向かい合う相手はすでにバイエルではなく、自らの美的精神(の低さ)となる。絵画に対する理解も同様だ。眺めれば眺めるほど細部と全体が見えてきて、ついには画家の精神性に追いつかない自分自身との対峙となる。優れた画家は自然界の真理が奥行き深く見えてきて、神にひれ伏す。たとえばレオナルドの「受胎告知」はどうだろう。鑑賞者たる我々は、いつしか、そこに描かれたマリアの崇高さ( = そこに到達したレオナルドの精神性)に気づく。すると、なんとかそこに辿りつこうとして、眺めては考え込み、考え込んでは、また眺めるということの繰り返しが続く。そのように過ごすうちに、私たちの精神性も徐々に高まっていく。これは、ただ単に解答欄に答えを埋めるために勉強する(無批判に知識を受け入れる)という手順では決して得られぬ経験だろう。
 それでも、まだチュートリアルや資格取得(資格取得後に本格的な探求が始まるとすれば全く別の話だ)に情熱を注ぎ込みたいだろうか。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年01月21日

音楽コラム 2009-01-19 経験からさえ学べない可能性

 
 以前から述べていることではあるが、なかなか理解が浸透しにくい問題でもあるので切り口を変えてもう一度書く。
 太古、人類が言語を持たなかった頃は、ほとんど全てを自らの経験から学ぶほかなかった。危険が迫れば避けたり逃げたりすることは本能的にもできるが、事前に危険を察知して近づかないようにするには経験から学んだ、というようなことである。経験から学ぶことは事実から学ぶことであり、非常に重要であるのだが大きな問題も孕んでいる。それは、個人の経験が極めて限定的であることだ。
 言語の発達とともに、最初は親から、成長するに従って出会った人々から情報を得られるようになり、個人ひとりだけの経験ではなく、何人分もの人生経験から学ぶ機会を持てるようになったことだろう。しかし、同じ地域で暮らしていれば経験も似たようなものになり、狩り場の情報なども何人から聞いても同じものだったかも知れない。おまけに、観察力の鋭い人は、そうでない人からの情報がまるで役に立たないこともあったに違いない。
 人類にとって文字の発明は言語の発明以上の画期的な出来事だった。音声は人々の記憶の中にしか残らないが(おまけに、時間の経過とともに変質したりする)、文字は時間を超えて情報を伝達する。
 時代は一気に下って、グーテンベルク(実際には彼以前にも印刷術は存在したが)は、最初の印刷物として聖書を選んだ。印刷という技術の価値を人々に知らしめるのに充分な選択だった。
 書物は、距離と時間を超えて人々に経験を伝えた。時代を隔てた昔の記述が現代に通用すれば、それは普遍的である可能性が高い。また、地域と文化を超えて通用することも普遍的であるかも知れない。ローカルな法則と普遍的な法則は、生きていく上でどちらも必要ではあるけれども、判断の最も基本としなければならないのは普遍的な法則であることは言うまでもないだろう。
 親の意見に従うことが最善と考えられいた時代も、かつては確かにあった。しかし、書物に蓄積された情報の中には自分の親よりももっとずっと高みからの判断があり、それを見極めることができた人は、当然のことながらそれに従った。
 しかし、言葉も文字も他人の認識を表しているだけで事実ではない可能性もある。つまり、究極の判断は事実を基に下す自分自身の判断であるということだ。
 そのためには、常に自分の経験と照らし合わせる必要があるのだが、これがなかなか難しい。事実から学ぶ難しさである。だから、いくら自分の判断とはいえ、事実を読み解く力が足りなければ、より優れた人の判断にはかなわない。私たちが学ぶのはテストの解答欄を埋めるためではなく、その力を育てることだ。作曲も演奏(校訂と解釈を含む)も、その力が根本にある。
 レオナルドはその困難さを観察と洞察力によって克服できることを示した。彼の初期の名作「受胎告知」には、線的遠近法、空気遠近法など、注意深い観察と洞察力の成果を見てとることができる。しかし、それを見てとることさえ、私たちの過去の観察力が試されることになる。科学と疑似科学の境界線などは、判断が非常に難しい場合がある。なぜ難しいかというと、それは一言で表現するならば“きちんと経験していない”からである。人は物事の差異を認識したときには異なる名称を付して、それらを区別する。たとえば、初めて羊の群れに出くわした時には、どれも羊に過ぎないが、羊飼いになって毎日一緒に過ごしていれば一頭ずつを区別して名前をつけて呼ぶようになる可能性が高い。
 事実は目の前にあるが、それを認識するためには私たち自身が“真に優れる”必要がある。何回も書いてきたように、アリスタルコスは半月が太陽の方向を指しているという観察的事実から、極めて論理的に太陽までの距離とその巨大さを測り、地動説(太陽中心説)に到達した。ニュートンは、物体が落下するのは物体の性質ではなく、重力によるものであることを見抜いた。マザー・テレサは、もう医者にも手の施しようがなく、助かる見込みのない死に行く人の手を握って「怖くありませんよ。私がずっとそばにいます」と言って、そのとおりにした。
 事実は決して間違えないが、凡人はいともたやすく事実を読み間違える。
 あなたは、自宅玄関ドアを記憶だけでスケッチするように言われたら、どのくらい正確に描けるだろうか。玄関ドアなどに興味がないというのなら、なんでもかまわない。ご自分が最も詳しいものについて、その姿をどこまで詳細に把握しているか確かめてみてはいかがだろうか。別に絵を描かなくともよい。思い出すだけでもよい。ちなみに、ピアノ鍵盤は記憶だけで正確に描くのは極めて難しいもののひとつである。白鍵の中央に位置しているのはGis(As)だけであり、残りは大きくオフセットしている。さらに白鍵と黒鍵の鍵盤幅、長さ、黒鍵のテーパー・シェイプ、etc. 毎日眺めたり触れているのに、大体の外見を描くことさえ難しい。
 事実を把握できずに、思い込みで行動して失敗する人を“愚か者”と言う。


 野村茎一作曲工房

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2009年01月02日

気まぐれ雑記帳 2009-01-02 美味しいとはどういうことか

 「美味しいものは何か」と問われたら、それは酒の肴(さかな)であると答えるだろう。ただし条件がある。
 その条件とは日頃の食生活にある。
 日常の食事は、皇室で天皇家の御料理番が作っているような質素で清廉なものでなければならない。メニューそのものは戦前の日本の家庭料理を基本としたようなもので、特別な献立ではない。庶民の料理との違いは、魚であれば骨を全て抜き、根菜類を煮付ける時には全て面取りをするという手間がかかっていることくらいで、豪華などは微塵も感じさせないケ(ハレに対する)の料理である。日常の食事がケの料理であるということは重要で、そうでないとハレとケのコントラストがなくなってしまう。自分で料理をしなければならない私たちが、魚の骨を全て抜くなどという手間をかける必要はないが、食卓にハレとケの区別のつかない料理を並べるような暮らしはしたくない。大根なら大根、芋なら芋、豚なら豚を美味しいと思って食べられるような食事こそが望ましい。毎日の料理に特別なアイディアはいらない。自然界は飽きない味をきちんと用意してくれているからだ。毎日、季節に応じて多少食材が変化していくだけでも私たちは充分においしい食事をすることができる。
 スーパーマーケットなどに並ぶ“ひと手間加えればすぐできる”という類いの半加工献立メニューは、その多くがハレの料理から発想されたものが多い。それは、まさに今の日本人の食に対する意識の低さを物語っていて、毎日の食事のアイディアに苦労しているにも関わらずあまり報われないばかりか、栄養学的にもいびつで、そして食に対する鋭敏な感覚をも失わせる構図を表している。そこには、どうすればよいか分からないという迷いが表現されている。
 対して酒の肴はハレの料理である。酒の肴にはインスピレーションが必要で、それが人の心を浮き立たせる。日本酒だったら、ちょっとあぶってねっとりとしたカラスミなどはシンプルさの極みだが、手を加えた肴はイマジネーションを加速する。酒の肴は、実は高度な概念であり、もしカミさんに望みどおりの肴を用意してもらおうと思ったら数年間は、その伝達のために忍耐の時を過ごす必要があるだろう。それが嫌なら自分で料理するほうがてっとり早い。逆に肴に対する鋭い感性を持ったカミさんを見つけた人は、それだけで人生の成功者と言えるかも知れない。
 洋酒の肴は各民族の文化を反映していて興味深い。ビールなどはザワクラウトとソーセージという定番があるが、バーボンとスコッチでは同じウィスキーでも全く異なる肴が合う。変わったところでは、普通はカクテルベースにするものの、ストレート・ラムをビターチョコレートで呑むのは格別の体験だ。
 さて、実は本コラムにおいて酒の肴が本題なのではない。
 高価な暮らしと高級な暮らしが異なる実態を表すように、高級な暮らしと上質な暮らしも異なる概念と捉えてよいだろう。
 落語に出てくる江戸の貧乏長屋で八ッつぁんが「スルメをね、こうちょっと炙って、冷や酒をキューっと一杯やるとね、ああ、オレは何て幸せ者なんだって思うんでさ」とつくづく言う。これは間違いなく上質な暮らしと言えるだろう。己の人生を知っている者にしか言えないセリフである。
 霧に包まれた人生観(単に考える機会が与えられなかっただけかも知れない)で生きていると、実に単純な判断さえできずに迷ってばかりということになる。
 作曲する、絵を描く、あるいは小説を書く、スポーツをする、料理をするなど、ありとあらゆる創作においては、そこにその人の全てが表れる。ゆえに、そのための訓練だけをしていても上質な結果が得られるとは限らないだろう。花屋の店先の人工的な栽培品種の花にしか目が向かず、路傍の花(まさに自然が必要として生み出した)に気づかぬような人が大成するとは、私には、とても思えない。

※ 念のために書き添えておくと、私は酒も肴も大好きだけれど飲むと作曲できなくなるので、今は晩酌はほとんどしません。

 野村茎一作曲工房

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2008年12月29日

気まぐれ雑記帳 2008-12-29 “優れる”ための覚え書き

 
 まず最初に明らかにしておかなければならないことが「優れている」という言葉の定義である。ここでは「真実への到達度が高い状態」とする。「ここでは」というのは「私が語る時には」と読み替えていただいてかまわない。
 「優れる」というのは「優れた状態に向かう過程」ということになる。

 日本では多くの子どもたちが学校に通ったり、塾に通ったりして勉強している(?)が、そのことによって誰もが優れていっているだろうか。年齢とともに経験値が増して、社会性などは身についてくるとは思うが、勉強によって人が優れるかどうかは私には判断がつきかねる。
 念のために断っておくが、私は学校教育や勉強を否定するつもりは一切ない。むしろ、もっともっと勉強すべきだと考えている。
 少し前のコラムで「ニュース脳」という言葉を出した。それは知識や情報を無批判に受け入れてしまう傾向が強いことを指す。何度も繰り返してきた言い方で説明すると「(天文学としての)天動説を習えば、そのテストで良い成績をあげてしまうのが性能のよいニュース脳の持ち主であり、その矛盾に気づいて地動説にたどりつけば“すぐれている”ことになる」ということだ。
 優れた人は、(ごく少数の例外的な天才を除けば)最初からすぐれていたわけではない。“優れてあろう”と志さない限り、真に優れることはできない。それに比して、成績を上げようなどという志は極めて低いと言わざるを得ない(それが楽だとは言っていない)。成績を上げるには、すでに用意された解答への道筋をたどるのに対し、優れるためには道を模索しなければならないからだ。つまり、優れようと志した段階で、すでにその人は優れていると言えるのかも知れない。
 優れようとした人が勉強に向き合うと、そうでない人(よい成績を望む人)との間に顕著な差が生じることだろう。
 優れているということの意味を理解しているが作成したテストは、ニュース脳教師が作成したテストとは大きく異なるものになる。テスト問題を見れば、その出題者のレベル(問題の難しさのレベルではない)が分かる。以前、長男の高校時代の音楽のテストの問題用紙を見て、その無意味さに言葉を失ったことがある。なんとか成績を出さなければならない教師側の意味のない論理がさらけだされていた。駄目なテストは授業内容を問い、すぐれたテストは真実を問う。
 優れようとした人は真実を学ぼうとし、成績を上げたい人は授業を学ぶ。
 誰もがすぐれた教師に学べるわけではないが、ガリレオ・ガリレイは自分が学び、そして自分が大学で講義していた天動説のほころびに気づくことによって地動説への扉を開いた(ガリレオが地動説を最初に唱えたのではない。これについては過去のコラム参照)。つまり、真に優れた人は誤ったことを習っても、そこから真実にたどりつく。
 “優れる”ことを志すのは、優れた存在を知ることがきっかけになるのではないか。
 私自身の例を挙げるならば、初めてバッハの偉業(フーガの技法)の一端に触れた(部分的な理解)時、一瞬にして体温が数度上がったような錯覚にとらわれた。今まで自分自身が何をしていたのだろうという無自覚さへの気づきと後悔と焦りと懺悔が一度に襲ってきた。この時、音楽は趣味ではどうにもならないないことを悟り、一生を賭ける決心をした。大学生の時だった。これと同じようなことは、アリスタルコスが半月が太陽の方向を向いているということに気づいて、太陽-地球-月のなす直角三角形だけから太陽と月との距離の比を導き出し、論理的に地動説にたどりついたことを知った時にも起こった。
 優れたいと思った。優れなくてはならないと思った。そう思ってから、初めて優れることの難しさを知った。
 小学校の時から子どもを有名進学塾に通わせたとしても、人生の途中で“優れたい”と心底、志を立てた人には全く敵わないことだろう。
 優れるためには、本当に大切な事柄では正確でなければならない。大雑把でよいところと微小な差を見分けなければならないところが分からなければならない。人の言葉は真実であるとは限らず、その人のことを表しているだけかも知れない。真実に到達した人だけが思ったことが実現する。
 レッスン(教育)とは、知識を教示したり技術の単なる伝達ではなく、優れたいと志すことの“威力”が全てに勝ることを伝えることが第一義であると考えている。
 老婆心ながらつけ加えておくと、いわゆる“強い意志”というのは、しばしば優れるための障害になることがある。アマチュア・ランナーが日課であるランニングを“強い意志で”休むことなく続けようとして心不全などで事故死したというニュースを聞くのはそういう例のひとつである。強い意思は、正しい判断の基準をいとも簡単に狂わせる(無判断の誘導、判断の停止)。毎日欠かさず(言い換えれば、思うところがなくとも)ピアノの練習をしている人は、そのうちインスピレーションをも失うことになるかも知れない。
 いつか優れて真実に到達したい。
 論語にあるように「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」の心境である。


 野村茎一作曲工房
 
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2008年12月28日

気まぐれ雑記帳 2008-12-27 山野に薬草があるのはなぜか

 
 人の身体には、自然治癒力や免疫などの力が備わっている。もちろん、そのような能力があるからこそ今まで生き延びてくることができたにちがいない。
 ところが人に生まれつき備わった力だけでは足りない時もある。そういう時には、驚くべきことに山野に薬草が用意されている(当然のことながら医学の発達も必要である)。
 それこそが神の行ないであると主張する人もいることだろう。率直に言うなら、その意見に全面的に賛同することに吝(やぶさ)かではない。
 ガイア仮説的に考えると、全ての生命は生態系によって生かされている。また、生態系は生命活動によって環境を保っている。免疫などの力は個体ごとに持っていたほうが有利だが、珍しい病気など、全ての病気に備えるのは身体に必要とは言えない機能まで持たせることになるので効果的ではない。それで、自然界に薬草を共有するようになったという考え方はどうだろうか。
 漢方薬は、その多くが薬草である(動物性のものもある)。薬草には医薬品と違って効能が表示されていない。動物が食べているのを見たり、長年の経験で効能を発見したりして徐々に蓄積された知識が薬草を実用的なものにしてきた。
 宇宙船や粒子加速器は工場で作られているような気がするが、その材料は元をただせば、全て地球が原料である。アフォーダンスとしての地球を探索することによって、いろいろな事が分かる。それが科学である。そして、目的を達成するために知識を武器に物に対して働きかけるのが技術である。薬草と同じように、地球には工夫次第でいろいろなことを可能にする資源がある。
 ここで最初に戻る。
 生命は生態系によって生かされている。しかし、行きすぎた資源開発と生態系を無視した技術開発やその行使は環境を危うくする。
 薬草に効能が表示されていないように、資源にも注意書きがない。人類は持続可能なライフスタイルを大至急確立する必要があるだろう。
 そのために必要なのは“知ること”である。その根本は、生態系が破壊されたら、生態系はバランスを取る形で回復しようとするだろう。しかし、その変化した環境が人類の生存に適しているとは限らない。
 もし、人類の幸福とは何かと問われたら、川の水が飲用可能であることと答えるだろう(ただし、水棲寄生虫も生態系の一部なので完全な排除は不可能だが、それでもよい)。水がきれいであることほど文明のスコアの高さを表す指標はないだろう。
 そのためには、よくよく考えれば必要のない物を、魅力的であると思わせて買わせようとする経済圧力に動じなければよい。私たちは自らの真の望みについてもっともっと詳しくなる必要がある。
 環境保護を訴える時に悪者にされるのが科学と技術であるが、科学も技術も真の悪者ではない。人間の誤った欲望こそが悪者だろう。むしろ、人類はもっともっと地球を探索して真実に到達しなければならない。人が本当の望みに到達した時、それは生態系を破壊するような圧力を持たないはずであると信じている。


 野村茎一作曲工房
 
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2008年12月09日

気まぐれ雑記帳 2008-12-09 ゲームばっかりしてなさい

 長男が小学生だった頃「今度の誕生日には“マザー2”が欲しい」と言ってきた。両親の答えはNo!だった。

「だって、お前は、まだ“マザー1”をやっていないじゃないか」

 当時すでに“マザー”は絶版ゲームで、カミさんと私は手当たり次第、中古ゲームソフトを扱う店を訪ねてソフトと攻略本を手に入れた。そして、しばらく後、マザーをクリアした息子はマザー2にとりかかることができたのだった。
 一時期、「ゲーム脳」という言葉が世間を騒がせた。大喜びしたのは、すっかり「ニュース脳」にやられている親たちだったに違いない。
 我が家はマンガとゲームで子育てしてきたので「ゲーム脳」のおおよその正体を知るまでは心穏やかではなかったが、恐れるに足るものではないと判断し一件落着した。後述するが「ニュース脳」のほうがはるかに怖い。
 子どもたちが小学校に入る頃から、我が家のテレビはアンテナ線に接続されていなかった。テレビはビデオゲーム(日本ではテレビゲーム)専用だったのである。ゲームをやってもよい時間は平日と休日で異なる時間が与えられていて、兄妹3人が時間をシェアしあいながら、結局親も一緒に画面を眺めてゲームを楽しんだ。テレビ番組が見られないという贅沢な環境でこそ実現できた家族団欒だった。ゲームには、我が家独特な条件があった。どのゲームも、最初に開発されたバージョンから順に行なうというルールである。だから、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーがどのように進化して行ったのかを順次体験することができた。プラットフォームの進歩がそのままゲームの面白さにつながるとは限らないこと。そのゲームがオリジナリティにあふれるものなのか、それとも単なる亜流であるのか、家族の誰もがすぐに判断できるくらいの嗅覚が身についた。
 そのうち、子どもたちは自分でゲームを作り始めた。私もやらせてもらったが、亜流を脱するのは芸術絵画や芸術音楽と同じくらい大変な世界であることを直感した。
 ロールプレイングと呼ばれるジャンルでは、冒険に出かけるパーティーのメンバーには家族の名前がつき、みんなで応援した。シューティングゲームなら点数を競い、カーレースでは、4人が同時にコントローラーを握った。“落ちもの”と言われるゲームではカミさんが子どもたちを全く寄せつけず圧勝し、「落ちものクィーン」の称号を得た。
 実は、子どもたちにゲームをやらせるにあたって、カミさんは大反対で「あたしの目が黒いうちには絶対やらせないわよ!」と仁王立ちになって家族全員を睨んでいたのだった。
 それを説得したのはゲーム自体だった。現代では優れた才能がゲームとアニメーションに集結していることを理解したのだ。
 「どうぶつの森」というジャンル不明、目的不明のゲームには家族そろってハマった。パラレルワールド(平行世界)をもじって“ひらゆき村”を作り、家族全員で村づくりに励んだ。
 子どもたちの誰ともなく「天国ってこういうところかなあ。死んだら“ひらゆき村”で暮らしたいね」と言った。家族全員が黙ったまま強く強く同意した。この瞬間、家族で世界観を共有したのだった。
 このように書くと我が家でがゲームばかりしていたように思われてしまうかも知れないが、ゲームの制限時間は短く、ボスキャラと戦うのは休日でなければ無理なくらいだった。子どもたちは週末は早く布団に入り、翌日のボス戦に備えるのが常だった。
 ゲームの時間が終わると、アンテナ線につながれていないテレビはただの箱になってしまう。子どもたちはヒマを持て余して家事の手伝いにいそしんだ。おかげで、誰もが炊事・洗濯・掃除の技術は早くから一人前になった。それでも時間が余る。残りの時間は読書だった。毎週日曜日になると、図書館でたくさんの本を借りる習慣だった。その時の読書体験が役に立ったのか、子どもたちは今でも読書家である。おそらく私と、アウトドア派の次男坊がもっとも読書量が少ないのではないか。
 カミさんや子どもたちから今でも次々に「面白かった本」というのを薦められるのだが、とても読み切れない。カミさんはそれらを全部読んでいるようだが、私は年間100冊を超えることは不可能だ(そんなに読みたくない!)。
 昨年(2007年)、エンターブレインから「ゲームばっかりしてなさい」というゲームで子育てをしたゲームクリエイターの浜村弘一(はまむら・ひろかず)さんの本が出て、家族みんなでワクワクしながら読んだ。
 その正体も知らずにゲームを嫌悪し、敵意に満ちた目で睨みつける親の監視下で、孤独にゲームを続ける子どもたちのことを思うととても気の毒に思えてならない。ゲームも玉石混交だから、子どもが小さい時には道標(みちしるべ)となってゲームを選んで与えるくらいのことがあってもよいのではないか。我が家でも、もし親がゲームに嫌悪感だけがあって、そのくせ無関心であったならば、子どもたちはゲームをする罪悪感とともに、ゲームのクォリティにも無頓着で単なる暇つぶしをしていたかも知れない。
 最後につけ加えなければならないのが「ニュース脳」問題である。ニュース報道をそのまま無批判に受け入れてしまう状態を指すのだが、これは我が家ではもっとも問題視されることなのだ。
 1994年に発生した松本サリン事件の際、第一通報者である河野義行さんが犯人として報道された。その時伝えられた証拠は、私の記憶では「河野宅の納屋に農薬があり、専門家によると専門知識があれば、農薬を原料にサリンは合成可能」という根拠の乏しいものだった。あの報道を聞いて違和感を感じた人は少なくなかったことだろう。しかし、そのニュースを鵜呑みにした人もまた少なからずいたはずである。そういうことを起こさせるのが「ニュース脳」である。後に、河野さんがテレビ出演する機会が増えて彼が素晴らしい人格者であることを日本中が知ることになる。「ニュース脳」は、こういう人をいともたやすく犯罪者に仕立て上げてしまうのだ。
 同様な例は「和歌山毒物入りカレー事件」でも起こった。第一報は食中毒事件だったが、その後すぐに「青酸中毒」と訂正された。食中毒にしては急性すぎるし、青酸中毒にしては発症が遅すぎるので、きっと多くの人がその発表にも違和感を抱いたことだろう。後に、中学生がそれを指摘したとして話題になったが、私は日本全体では相当数の人が気づいていたのではないかと考えている。
 「ニュース脳」はゲームを根拠なく嫌悪するのと逆の働きもする。たとえば健康食品を宣伝文句どおりに盲目的に信じてしまったり「◎◎高校、あるいは××大学に入れなかったら人生おしまいだ」というような考えに陥ったりする。みなさんは「ゲーム脳」と「ニュース脳」のどちらが問題だと思われるだろうか。
 今回はマンガについて書かなかったが、マンガも優れた才能が集う分野である。黎明期の源流から読み解いていかないと、亜流を区別できない可能性が生じるので子どもたちには指針が必要だ。音楽や美術と全く同じである。

 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

気まぐれ雑記帳 2008-12-02 失われた未来

 
 昨日、岡田斗司夫著の「失われた未来」(2000年 毎日新聞社刊)を読了した。
 簡単に言ってしまえば、これは未来に対する世界の勘違いを検証した書であり、それを事実と思い込まされてきた人々の悲喜こもごもをも同時に綴っている。
 「ロボット駅馬車」の項目で扱われているハリー・エントンの小説「フランク・リード・ライブラリー」が描く未来は「無限に発達する蒸気機関。この素晴らしいボイラーの力で世界は変わる。やがてロボットの馬が駅馬車をひっぱり、果てしない荒野を駆ける日が来るに違いない」というものだった。挿し絵では、蒸気機関で動く鋼鉄の馬が駅馬車を牽引して荒野を疾走している。
 しかし、著者は昔の人の想像力を笑うわけにはいかないと書いている。なぜなら現代人の未来予測もこれと大差ないに違いないだろうという主張があるからだ。
 あまりの面白さに他の項目も全編紹介したいところだが、今日のテーマは本書にあるのではない。失われた未来は、多かれ少なかれ私たち個人ひとりひとりにもあるのではないか。
 そんな今日は、すでに30歳を過ぎた人たちが対象である。
 自分の人生の設計図を具体的に思い描き始めた頃の未来予測と今の人生との落差を思い浮かべることができるだろうか。
 世間一般には“過去に未来予測した人生と現在の自分とのズレ”を“挫折”という鬱屈した言葉で呼ぶ。今の人生は挫折した結果ではなく、現実である。果たして現代の高速輸送機関は、ロボット駅馬車が“挫折”した結果なのだろうか。ロボット駅馬車を無理矢理実現させていたら、現代は大変困った世界になっていたことだろう。挫折というのは、未来予測のほうが正しかった場合に用いるべきだ。実際、そういうこともあったに違いない。自分のせいではなく、抗しがたい力、たとえば事故や病気によって望みが絶たれてしまった場合などである。
 私たちは幻の“ロスト・フューチャー”などに惑わされることなく、現実認識の重要性に目を向けるべきではないか。未来に対応する前に、現実に対応するのである。
 私自身について言うと、性格的な“欠陥”からか、自分の未来がよく分からない。将来に対する危機管理の重要性だけは分かるので、保険に加入するなどはするのだが、具体的な未来を思い描くことがない。それは根拠のない自信によって「今日よりも明日のほうが人生は上向くのではないか」というような気がするためなのかも知れない。また「人を使わず、人に仕えず」という信条のために、他人の考えによって人生が左右されることも少ない。よって、挫折という言葉には昔から違和感があった。もうひとつつけ加えると、過去への執着もほどんどない。「昔は良かった」などと思うことは稀で、常に「今も馬鹿だけれど昔はもっと馬鹿だった」と思う程度である。
 しかし、自分の未来が分からないとはいえ、どうなっているのかは楽しみだ。じっと待っていても望んだ未来はやってこないことだろう。現実の積み重ねだけが未来を作る。言葉にすると薄っぺらなので自分でびっくりしたが、それしかない。
 高校1年の時から大学を卒業するまでにFM番組から録音したカセットテープは少なくとも2000本に及んだ。いつの間にか、書物からではなく実際の音楽で音楽史を理解した。数多くの曲を聴く一方で、たった1曲の交響曲を、その7年間を通じて毎日最低でも2回は聴きつづけた。それでオーケストレーションに必要なクリアリティや音響に関するセンスを、文字からではなく、実際の響きから学んだ。学業は必要最低限の勉強でぎりぎりクリアし、アルバイトに時間を割き、毎日作曲した。ところが努力らしい努力は何もしていない。それが生活そのものだったからだ。だから続いた。そして実は、内容は変化したものの、同じような生活が今も続いている。
 私自身の意識の中では1年、時には3日で思いもよらぬ進歩が生じることがある。その都度、私にとっての“ロスト・フューチャー”が起こる。だから自分の未来は予測することができない。
 30歳を過ぎれば、未来予測がいかに当てにならないかを理解してくることだろう。特に、組織や社会制度に依存すると運不運の占める割合が増えてくる。他人の判断に振り回されるからだ。
 未来を見据えることは非常に重要で、それなしに有意な人生を送ることはできないが、それは未来に備えるということであって、あらかじめ未来をがんじがらめに規定してしまうことではない。私たちは、唯一自分でどうにかすることのできる“今”を充実させて、その結果やってくる予測不可能でフレキシブルな未来を楽しみに待つべきだろう。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 15:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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