何かをやり遂げようとする人は“意志が強い”とか“やる気がある”と思われがちだが、それは音楽を「音による時間芸術」と定義するようなもので、分かったような気がするものの実はその実像を言い表しきれてはいない。
近所の宝くじ売り場を通りかかった時、今まさに次に売られるくじが1等賞の当たり券であることが判ったら、ほとんどの人が買おうと思うのではないか。この「買う気」というのはどうすればよいかが分かっている時に起こる動機である。もちろん、結果が分かっていると言い換えることもできる。
どうすればよいのか分からない時には“やる気”は起こらない。また、結果がわかっていたとしても、それに価値や魅力を感じなければ“やる気”は起こらない。
どうすればよいのかということが分かるためには「事実の把握」が第一歩であり、それはとりもなおさず“仕組み”を理解することである。ここで当コラムのアーカイヴを思い出していただきたい。「頭が良い」とか「すぐれている」ということは「本当のことが分かること」であり、事実が把握できることである。最初にそれを具体的に言葉にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチであった。彼が万能の天才のように見えたのは(見えただけではなく実態も伴っているが)、事実の把握を何よりも重要であると考え、そのとおりにしたからである。
ちょうど、今がノーベル賞受賞者の発表時期なのだが、受賞者たちは誰もが“事実を明らかにした”功績によってその栄誉を受けているのではないか。
養老孟司さんの提唱した“バカの壁”(言葉は悪いが言い得て妙なのでこのまま使う)は、事実が捉えられなくなる限界を指している。バカの壁が分かりやすいのが数学だろう。虚数でも微積分でも、あるいはテンソルのような概念でもかまわないが、そこから先は、いくら説明を聞いても頭に入ってこないというところがあることだろう(数学者だって、もっとずっと高いところまで行けば壁があるに違いない)。それが、その人の“バカの壁”であって、学校教育の場では、それを乗り越えないと落ちこぼれてしまうことがある。しかし、それを乗り越えなければいけないかというとそんなことはない。
かつて教育課程審議会委員(後に文化庁長官)であった作家の三浦朱門氏は「二次方程式が解けなくて人生に困ったことはなかった」と主張、実際に中学数学のカリキュラムから二次方程式の解の公式は必修事項から外された。ということは、審議会にいたであろう数学者たちの誰もが「中学生には二次方程式の解の解法を知ることが必要である」ということをきちんと説明できなかったということになる。そもそも、そんなことは誰にも説明できない。だからカリキュラムとは盤石の根拠の上に成り立っているものではないし、その必要もない。
私は三浦朱門氏に賛成しているのでも反対しているのでもない。学校教育におけるカリキュラムでさえ、誰かの思い込みで構成されているだけだと言いたいのだ。そこに権威が与えられると誰もが無批判に従うようになる。以前のことになるが、わが家の子どもたちが中学生くらいの時に、さかんに学習教材を売り込む営業電話がかかってきた。そこでの売り文句は、各社異口同音に「最新の学習指導要領に準拠しております」だった。学習指導要領の権威に頼るのは、学習指導要領について自分なりの理解と見解がない場合だろう。もし、自分の言葉でその価値を語ることができるのならば、それは他人を説得するに足るものとなることだろう。
その理解が価値があると思えば(それを理解することの意味が分かっている。つまりやる気の条件)、バカの壁を克服すればよいし、そうでなければ“縁がなかった”と思って、自分が大事だと思うことを学べばよい。そもそも大多数の人が学習指導要領に頼っているのだから、学習指導要領にない分野を極めればスペシャリストになれる可能性が高いわけだ。
学習塾は苦手の克服を目標に掲げることだろう。受験対策としては正解である。しかし、苦手の克服ほどやる気の出ないものもないだろう。音楽に限らず、芽を出そうと思ったら「得意なことの限りない追究」こそが本道である。本当のことが少しでも分かれば、その価値も理解して確信できる。その確信が“やる気”の原動力である。やる気が欲しければ、きっかけが必要ではあるが、何かの本当の姿を知ることが必要である。もちろん逆もある。本当の姿を知ったら壁の高さに驚いてやる気が失せる場合だ。いずれにせよ、私たちには事実を知ることが必要だ。
自分に思い込ませようとしても駄目だ。事実は決して曲げることができない。本当のことだけが実現する。
最後にひとつ付け加えておくと、事実は一つだが真実は一つとは限らない。たとえば紹興酒を飲んだ一人が「うまい」と感じ、別の一人は「まずい」と感じた時、紹興酒の味という事実はひとつだが、それぞれの感じた「うまさ」「まずさ」は2つの真実である。ただし、この二人が紹興酒について追究していくと、そのうち感じ方が変わって同じ結論に達する可能性もある。実は芸術の本質もそこにあるのだが、それは別の機会に。
野村茎一作曲工房