2011年02月21日

音楽コラム 2011-02-21 しぶとく「どのように作曲するのですか」という質問に答えて


 「どのようにして作曲するのですか」という問いは、作曲家ならば数限りなく繰り返される儀礼のようなものだろう。
 作曲を志す以外の人がそれを尋ねる時、本当は作曲の方法など知りたいわけではなく「自分にできないことをあなたはやっている」という賛辞の別表現なのかも知れない、と思うものの、やはり答える義務があるような気がしていつも困惑してしまう。
 今までにも、当コラムにおいて幾度となく書いてきたのだが、今回は別の角度からお答えしたいと思う。

 あなたが、今までに見たこともないような美しい夕焼けを見て感動したとしよう。
 すっかり日が暮れた夕食時に、あなたは家族にそれを伝える。

「今日の夕焼けすっごくきれいだったんだよ」
「へえ」

 どうも伝わらなかったようだ。ここであなたは、実際には美の本質をほとんど伝えることのできない「きれい」という言葉の無力さに気づいた。
 後日ふたたび、きれいな夕焼けに出会う機会を得た。あなたはすぐに愛用の携帯電話のカメラ機能で夕焼けを撮影する。そして夕食時。

「ほら、今日の夕焼けこんなにきれいだったんだよ」
「ふ〜ん、きれいだね」

 小さな液晶画面にはオレンジ色に輝く雲が写っている。
 しかし、それはあなたの見た色とは微妙に異なるばかりか、視界を覆い尽くす雄大な光のパノラマと、強烈なコントラストを放つ直上の紺碧の空の深さが伝わらない。

 美というものは、本当に伝わりにくいものだ。だからクオリア(感覚だけが捉えることのできる質感)なのだけれど、別のクオリアに置き換えることができる場合がある。
 それを言葉に置き換えて表現できる人を詩人、平面作品に置き換えて表現できる人を画家、あるいは美術家といい、写真なら写真家というなことになる。
 写真なら誰でも伝えられるだろうと思う方もいらっしゃるかも知れないが、撮影会でプロと自分が同じ被写体を撮影した写真を見たら愕然とするに違いない。
 たとえば旅行先でスナップ写真を撮る時、史跡などの前に人を立たせ、写し手側の都合でシャッターを切る(写される側は、たいてい何秒間も笑顔のまま待たされる)。
 しかし、プロカメラマンは違う。人の表情は常に変化しており同じではない。だから、シャッターは自分の都合ではなく、相手の表情を先読みしながらジャストタイムでシャッターを切る。
 さらに、人の目は明るさも色温度も、露出も、さらにはラチチュード(細かい説明は省かせてください)まで気づかぬうちに脳内補正してしまうという優れた能力がある。それを知らないと、写真を撮れば夕焼だって自分の見た目のように写ると思ってしまうが、実際にはそうではない。それに、肉眼で実際に見た景色はフレーミングされていない。見える範囲というものはあるが、ピントがあっているのは中央部のわずかな領域だけで、視点中央から離れればはなれるほど視界はぼやけていく。
 思いどおりの写真を撮影するために、ここで数多くの写真撮影の技術が登場する。
 フィルムカメラの時代には、私たちは色温度を補正するための何種類ものレンズ・フィルターを持ち歩いたものだが、デジタルカメラになってからは、ホワイトバランス(色温度にほぼ等しい)を調節できるようになった(通常の使用ならばオートホワイトバランスでもかまわない)。
 しかし、夕焼けの微妙な色にまで気づいてしまった人にとっては、その再現が何より大切になってくる。ホワイトバランスの調節にも限界があることに気づくと、露出補正やレンズフィルターにも詳しくなっていく・・、とまあ、このような過程を経るに違いないと想像できる。

 では、作曲家は何をするか。

 私たち作曲家は、自らの内に美しい音楽を聴いてしまうことがある。すると、美しい夕焼けと一緒で、誰かに伝えたくなる。
 ベートーヴェンも言っている。

「私の中にあるもの(音楽)は外に出さなければならない」( )内、筆者。

 だから、作曲家の力には2つの種類があることになる。
 ひとつは「自らの内部にどれだけ美しい音楽を聴いたか」、もうひとつは「それを伝達する技術を持っているか」。

 現存する有名な作曲家のうち、おそらく10人のうちの9人までが後者の達人であり、音楽史に名を残す(その死後も演奏され、聴かれ続けている)作曲家の10人に9人は前者の達人ではないかと私は密かに考えている。

 「自らの内部に美しい音楽を聴く」というのは、以前にも書いた次のような例で説明できることだろう。

 仲間と、あるいは家族などと海に行ってその風景をみんなで眺めたとしよう。帰りの電車やクルマの中で、いま見てきた風景の話になったとする。

「水平線と空の境目がきれいだったな」
「防風林に咲いていた花がきれいだったねえ」
「磯のところで魚が海面から跳ねていて、それが良かったなあ」
「大きな貨物船がゆっくりと水平線のかなたを移動していて、ずっと目で追っちゃったよ」
「あたし、寒くて早く帰りたかったわ」

 一口に海の風景と言っても、その情報量は膨大で全てを見ることは一生をかけても難しい。100人いれば、100人とも異なる風景を見ていることは間違いない。同じ風景を描き続ける画家が存在するのも頷ける。彼(彼女)は、昨日とは違う風景を見いだしているに違いない。

 音楽を聴くのも全く同じであって、メロディーラインだけを追っている人がいるかと思えば、同時にオブリガート(対旋律)を楽しんでいる人もいる。さらに、複数の動機を聴き分けて、それらが曲全体の構成にどのように関わっているかを聴き取って感動する人もいることだろう。更には楽器の音色や、異なる楽器のユニゾンによる音色や強弱の変化、もっと深く考えれば、その楽曲で鳴り響いている音以外の、作曲家が表現し得なかった音まで聴いている人もいるに違いない。
 過去の大作曲家たちの作品から、彼らの美的内面のどこまで聴き取ることができたかが、いま作曲している作曲家たちの「自分の内に響く音楽」の質を決定的なものにする。
 つまり「何を聴きとったか」が作曲家の資質を決定する大きな要素のひとつであるということだ。
 表現技術を過去の作曲家たちの作品から聴き取ることも可能だが、優れた作曲家は楽器や演奏家(声楽家を含む)から直接学びとるもののほうが多いことだろう。
 今までずっと書き続けてきたように、音楽美は「作曲者の“音楽性”魅力」「演奏者の“音楽性”の魅力」「楽器、あるいは声の持つ魅力」の3つから構成されている。
 そして、すぐれた音楽とは「地上に生まれ育った私たちが自然から学んだ美」と乖離(かいり)することがなく、高く打ち上げられた野球のフライをキャッチできるように、その軌跡を予想することができるような表現で(これも、私たちは地球上の自然な物の動きから学んでいる)、さらに「望んでいたのだけれど、自らは到達することができなかった美的世界」を実現したものを指す。
 
 作曲するとは、そういうものを目指す営みです。

 野村茎一作曲工房

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2010年07月20日

音楽コラム 2010-07-20 音楽コラムまとめ その2

 
2.音楽の本質は学べるが習えない

2-1 才能とは何か

 芸術にかかわる才能の本質は“何を好むか”という問題に集約することができる。
なぜなら、人々は、自ら好むもの範疇からのみ素晴らしさを感じるのであり、それなしでは“才能”は見いだされないからだ。
 だから、好むものが誰とも重ならなければエキセントリックな才能とみなされ、人々の注目を集めることは難しいだろう。だからと言って、人々に迎合しようとしても無理だ。迎合で力は発揮できない。人が本当に力を発揮できるのは真の自分自身を表現できるフィールドのみである。
 さて、その発揮された力は何によって計られるかというと、次の4つの要素であると思う。

1.独創的であること(亜流ではなく、源流であること)。
2.時代を超えて通用すること(価値が変わらないこと)。
3.通俗的ではないこと(飽きられないこと)。
4.芸術性と娯楽性が両立していること(気高さと魅力を兼ね備えていること)。

1.過去の伝統から外れた独創による作品が理解されるのは、受け手のレディネスがないので非常に難しい。だから、優れた芸術家は伝統に則った“正統”という感覚を育てて人々と美を共有する道を選ぶ。また、そのようにしないと音楽的伝統は洗練されていない。伝統は守れば良いというものではなく、常に洗練という圧力にさらされて、アップデートされ続けなければならない。そのアップデート分が“独創的”と判断される部分なのだが、正統という感覚なしに洗練はなされない。人がまだやっていないことをやるのではなく、為されてしかるべきなのに未だ為されていないことを行なうことが正しい。

2.時代を超えて通用するというのは分かりにくいようだが、伝統に則った“正統”という普遍的なセンスを持つことが全てを解決する。その確認について土肥先生は「25年経てばわかる」と言った。当時高校生だった私には永遠にやってこない未来のような気がしていたが、25年過ぎてみると、それは物事がもっとも古びて見える年月のことだった。それを更に過ぎると、今度はレトロな印象になって再び受け入れられるものも出てくる。
 シェーンベルクは、弟子たちに徹底して古典を学ばせた。そうでなければ12音技法は伝統を受け継ぐ正統な音楽とならない可能性があることを知っていたのだろう。
 ドビュッシーは過去の音楽と断絶しているように見えるけれども、バッハと前後して演奏されても違和感はない。これこそが、似ているかどうかではなく、正統な音楽であるかどうかこそが重要である証左だろう。
 20世紀後半に書かれた“いわゆる現代音楽”を今になって聴くと、優れた作品とそうでない作品の区別がよく分かることだろう。作曲者自身が分からずに書いた「不協和音があれば現代風(しかし音楽語法は昔のまま)」というデタラメ音楽は、聴いた途端に恥ずかしく可笑しくて、思わず吹き出してしまいそうだ。そうかと思うと、当時は分からなかったけれどもこんなに素晴らしい作品だったのかと感嘆させられる作品もある。時代の波に洗われるというのは、作品の優劣などが顕著になってくるということなのだろう。

3と4.芸術と娯楽は相反する概念ではないが、芸術と通俗は対立する。ゆえに通俗を好む人は、その一点によって芸術とは一線を画した道を進むことになる。通俗とはその時代にしか通用しなかったり、最初はいいと思ってもいずれ飽きてしまう、あるいは後で恥ずかしさのような感覚がやってくるセンスである。過去のすぐれた作品に深く触れることによって通俗性からは離れることができるはずだが、それすら難しい人々がいることは事実である。
 娯楽性は、楽しさ、期待感、躍動感、分かりやすさ(晦渋ではないこと)などの要素からなる概念で、芸術性に対して決して劣る概念ではない。もし、ショパンやベートーヴェン作品から娯楽性が消え去ったら、その魅力はすっかり失せてしまうのではないだろうか。“いわゆる現代音楽”が人々に受け入れられ難かった最大の理由は不協和音への無分別な“忌避音(avoid)”の使用であったと考えているが、娯楽性への不寛容も挙げられるのではないか。

※忌避音について
 本来、不協和音は魅力的なものである。機能和声学上の和音を色にたとえると、3原色の単色が完全協和音、2色の混色が不完全協和音(ドミソなど)、そして3色混色が不協和音(7以上の和音)ということもできるだろう。巧みな3色混色はパステルカラーのような色合いを生むが、デタラメな混色はどれもグレーのような色になる。色から色相を奪ってしまう絵の具に相当するのが忌避音である。どれが忌避音であるかは、前後の文脈によって変わってくるので一概には言えないが、次のように考えると分かりやすいのではないか。
 13の和音には音階上の7音すべてが登場する。もし、I 度からVII度まで全ての和音を13の和音にしたら、全ての和音が同じ構成音で配置だけが異なることになる。つまり、全て同じ和音に聴こえてしまう。ここから忌避音を除いていけば音楽的な意味が見えてくることだろう。忌避音がそれで全て説明できるわけではないが、限られた文字数で言うとそのようなこととご理解いただきたい。

 さて、上記の文章が正しいとは限らない。あるいはあなたの同意を得られるとも限らない。実は、それはどうでもよい。事実から学ぶ力がなければ、その人はたったひとつの真実に到達することもないからである。この文章を読んで、何か変だと感じてもそれだけではどちらが正しく、また間違っているのかは判断できない。事実と照らし合わせて確信できなければ意味がない。しかし、自らの考えを確認するよいきっかけにはなることだろう。

その3へ続く


 野村茎一作曲工房

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2010年07月16日

音楽コラム 2010-07-17 音楽コラムまとめ その1


 音楽コラムもバックナンバーが増え、新たに作曲工房サイトにたどり着いた方が全てを読み返すのは現実的ではなくなってきた。
 そこで、音楽コラムを要約すべきと思い立った。
 
1.考えるとはどういうことか

 私は作曲の師である土肥 泰(どい・ゆたか;1925-1998)先生に出会うまで、自分がかつて一度も考えたことがなかったなどということには思い至ることがなかった。
 それまでの私は、質問されれば“思いついた”答えを答えていたにすぎなかった。
 私は彼のところに音楽を学びに行ったつもりだったが、2つの大きな勘違いをしていた。ひとつは知識と理解の違いに気づいていなかったこと、もうひとつは音楽そのものは“習えない”ことに気づいていなかったことである。
 知識と理解に関しては、次のような例を挙げることができる。

「モーツァルトは天才か?」「そうだ」

 これで、あなたはモーツァルトが天才であることを心の底から納得できるだろうか。
 仮にさらに詳細な説明を受けたとしよう。モーツァルトイヤーであった2006年にはモーツァルトを特集したテレビ番組が数多く報道されたけれど、天才の理由についてモーツァルトのソルフェージュ能力について多くの時間を割いていた。ソルフェージュ能力だけについて言うならば、サヴァン(賢人)症候群と呼ばれる一部の人々が我々を驚嘆させる能力を発揮している。高いソルフェージュ能力も天才の証のひとつかも知れないが、それだけで天才を説明するには無理がある。
 天才を測るには次のような説もある。

1.極めて早熟であること
2.並外れて高い技術を持っていること
3.発想が全く独自であったり、かけ離れていること
4.問題から直接答えに到達すること
5.時代に先駆けていること

 上記5つの条件に3つ以上当てはまることが天才の最低条件とするものである。
 ところが、ここにも問題がある。どれひとつをとっても客観的な尺度がない。(1)早熟と言っても達成した年齢を指すのか、あるいは内容を指すのか。モーツァルトの交響曲第1番が8歳の時に書かれたことが話題にのぼるが、本当に話題とすべきは、それが子どもの作品としてではなく、コンサートレパートリーとして現代のオーケストラによって演奏会で普通に取り上げられていることだ。なぜ人々に愛されているのかは、私たち自身が、交響曲第1番変ホ長調を深く理解する以外知る方法はなく、それは習うことができない。
(2)また、モーツァルトは作曲技法に関する非常に高い技術を持っていた。特にポリフォニーに関しては、バッハ作品に出会ってから極めて短期間にその音楽的重要性を理解し、たちまち優れた作品を書き上げた。しかし、私たちはそれがなぜ重要であり、優れているのか説明できるだろうか。これもいくら説明を聞いたところで自らが到達する以外ない。
(3)発想が全く独自であったか、という問題に答えるのは凡人たる私には荷が重すぎる。何か言えることがあるとすれば、それは彼が自らが出会った作曲家や作品からたちまち学んでしまうという能力があることだろう。さらに、それに沿ってオリジナルよりもすぐれた作品を書いてしまう。初期の交響曲はクリスチャン・バッハの作品と区別できないようなものがあり、その後にはシュターミッツの影響を受けた交響曲、またさらにハイドンとお互い影響しあっているように思われる。単なる真似でないことだけは確かだが、彼の発想が独自であったかどうかも我々自身が自ら結論に到達しなければならない。
(4)問題から直接答えに到達することもモーツァルトにはあった。たとえば、K.545第1楽章のソナタ形式の部分動機作法に関しては、モーツァルト自身気づかぬうちに書いていたようにさえ思える。ベートーヴェンは、モーツァルト作品のその点に着目してソナタ形式を単なる時系列構造で表せない有機的構造を構築した。しかし、それが本当にそうなのかどうかも、私たちが真に納得できるまで追究しなければならない。
(5)モーツァルトが時代に先駆けていたかということは判断が難しいが、ベートーヴェンが英雄交響曲で行なったような、後につづく作曲家たちの意識改革のようなことはなかったように思える。これとて、確信できるまで考え続ける必要がある。
 このように書いても、全ての読み手がモーツァルトの天才に到達できるかどうかは分からない。分かった気がしたのか分かったのかは次のようなテストで少しは判断できるだろう。
 一例として「魔笛」のスコアを示されて「いくら時間がかかってもかまわないからモーツァルトの天才を確認できる優れた点を明示して欲しい」と言われたら答えられるだろうか。もちろん、答えられる人もいることだろうし、答えられない人もいることだろう。その両者の差は、考えられるかどうかの違いだけである(ただし、天才はこの限りではない)。

 考える第一歩は、考えの基となる“概念”(イコール言葉)が明確であることだ。
 “学ぶ”という言葉は「知る前と知った後、あるいは理解する前と後とで行動が変わること」である。だから、私が“学ぶ”と書いたら厳密にその意味で使っている。
 “愛する”という言葉は「その価値が分かること」である。だから「自然を愛する」と言ったら「自然の重要性、価値を理解し認めていること」になり、自然破壊が起こると猛然と反対して行動に出たりする。「家族を愛する」も「音楽を愛する」も同じ意味である。愛することは全て自己基準であり、他人は関係ない。だから、かなり何かを愛せる人は自ら考える優れた人であると言えるだろう。
 「成績が良い」と「頭が良い」ことの違いは次のように説明できる。成績がよい人は知識を無批判に受け入れて、たとえば天動説のテストで100点を取る。それに対して頭が良い人は天動説の矛盾を見いだして地動説にたどり着く。天動説にも地動説にも多くの学説があるので、アバウトな例ではあるのだが、説明としては事足りると思う。
 さて“考える”とはどういうことだろうか。それは「思考が正解への道筋をたどること」である。だから誤った答えに向かった場合、それは考えていなかったことになる。「下手の考え休むに似たり」である。考えるためには、論理の構築に使った用語(概念)が明確であり、誤りがないことが前提である。

 初歩の数学(算数)では使われる数字や記号の定義が明確であるがゆえに、答えが厳密に決まるのはそのような理由からである。
 サモスのアリスタルコスは、太陽と月の距離について考えた。太陽のほうが遠いのは日食によって明らかである。太陽は自ら輝いているが、月は太陽の光を受けて光るために満ち欠けをする。ということは、半月の輝面は太陽を向いていることになる。つまり、太陽-月-地球の作る角が直角になった時(それぞれの星を頂点とした直角三角形になる時)に地球から半月を見る事ができることになる。それで、アリスタルコスは半月時の月と太陽の位置を観察した。しかし、予想に反して太陽-地球-月の為す角も直角のように思えたのである。それがあり得るのは太陽がとてつもなく遠くにある時だけだ。アリスタルコスは「少なくとも太陽は月よりも20倍以上遠い」と記している。にもかかわらず月と同じ大きさに見えるということは、事実は太陽が非常に巨大な天体である可能性を示していることになる。
 それで、アリスタルコスはそのような遠方にあり、かつ巨大な太陽が一日で地球の回りを公転することの不自然さに思い至り、人類史上初の地動説(太陽中心説)に到達した。今から2000年以上も前のことである。
 これが「考える」ということの一例である。

その2へつづく

 野村茎一作曲工房
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2010年06月30日

音楽コラム 2010-06-30 ソナタを書く


 器楽曲としてのソナタの定義は時代によって異なり、研究者たちはそれらを詳細に調べあげて「ソナタ」について説明しようとすることだろう。
 しかし、現代の作曲家がソナタを書こうとする時、研究者とは全く異なる視点からソナタを捉えようとするはずである。
 私にとってソナタとは「組織だった音楽を追究する」という宣言である。だから、たとえば多楽章であるか単楽章であるかという問題などは大きな要素ではなくなってしまう。それは全ての楽章に同じDNAから構成される主題を用いれば(組織だった構成をしようとするとしばしば行われる作法)、その時系列構造は第1楽章が提示部、最終楽章が再現部となって、単楽章にも多楽章にも聴こえてしまうからである。記譜がどのような形であれ、問題はどのように聴こえるかのほうが優先する。
 まず、なぜソナタが「組織だった音楽」であると主張するのかということから説明すると、私が優れていると感じた音楽史上の「ソナタ」が、どれも組織立った構成をとっているからである。そうでない作品も数多くあるが(むしろ、組織立っていないソナタのほうが多、多数決ならば「ソナタは決して組織立っているわけではない」ということになる)、それは作曲者の指向や能力の問題であって、そういう曲から学ぼうとは思わない。
 そして、ソナタには最低1つはいわゆる「ソナタ形式」の楽章が必要である。なぜならソナタ形式こそ「組織だった」音楽を追究するために生まれ、発展してきたツールだからだ。
 次に「組織だった」という意味について書く。もっとも組織立っている例が生き物である。「心臓は邪魔だからいらない」というような人がいないように、生物はさまざまな要素が全てお互いに必要な機能を持って働いて初めて命を宿す。さらに全ての細胞が同じDNAで設計されており、猫には猫の耳や尻尾があり、馬には馬のパーツが備わっている。
 だから真に組織だった音楽は「生きている」かのように感じられることだろう。本来は全ての音楽がそうあるべきなのだろうが、それを実現しやすい形式が、今のところソナタ形式であると感じている。
 ソナタを追究する時、書物をあてにしてはならない。多くの場合、そこには著者の勘違いと能力の限界が記されているに過ぎないからである。仮に、ベートーヴェンが自作ソナタの解説書を書き残していたとしても、その説明よりも実際の楽譜のほうが遥かに多くを語っていることだろう。モーツァルトに至っては、ひょっとしたら自分がどんなに偉大なことを成し遂げたのか気づいていない可能性すらあるのではないか。なぜなら、彼には音楽美的な駄作はないと言えるかも知れないが、構造的な傑作と駄作が混在しているからである(構造的傑作例 K.545 構造的駄作例 K.333 ただし、一般的にはどちらも名曲)。彼が組織だった音楽を確信していたとしたらそのようなことは起こらないだろう。ベートーヴェンは、歳を経るにしたがって構造が緻密になる。ここでいう緻密とは「密度が上がって精密さが増す」という意味ではない。一筆書きのような、あるいは雪舟が涙で描いた鼠のような、簡単な構造をも含んでいる。つまり、簡単なことをやっても緻密に感じるということだ(弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調を始めとする後期弦楽四重奏曲など)。

 時系列構造は決して軽んじるべきではないが、おおかたの書物がソナタ形式を時系列構造で論じている。つまり1次元(線)的な視点である。
 しかし、ソナタ形式の本質はそこから先にある。
 部分動機作法によってソナタの全主題(コーダを含む)のDNAが統一されれば音楽は2次元(面)的な広がりを持つことになる(ラヴェル「弦楽四重奏曲 ヘ長調」などに顕著な例を見る事ができる)。ただし、各主題は変化してコントラストを持たなければ意味がない。統一(共通性)と変化(コントラスト)は、そもそも同時には成り立ちにくい概念ではあるけれど、過去の大作曲家たちは果敢にもそれに挑戦してきた。そして、それらの共通性がありながらもコントラストを持つ複数の主題が対位法的に同時に提示されたら、それはもう3次元(立体)的な構造と言えるだろう。
 ここで少し音楽的パースペクティヴ(遠近法)について説明しておく。
乗り物に乗って移動すると(歩いても変化が遅いだけで同じだが)、近景は素早く動くのに遠景はゆっくりとしか動かない。アニメーションなどでもその手法で距離感を表現するが、音楽も同様である。バッハの「フーガの技法」にある「2(3)種類の時価による反行フーガ」や「新主題と原形主題による4声の2重フーガ」は立体感たっぷりに聴こえる。時代が下るとそのような作品は数多く書かれるようになるが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章の再現部などが良く知られる例だろう。ちなみに、ピアノが弾く第1主題の対旋律は第2主題の部分動機の発展形で、展開部で周到に準備されている。
 最後にひとつだけ付け加えておくと、循環形式(複数の楽章に渡って同じ主題が用いられる形式)と部分動機作法、あるいは細胞音形による主題労作は似ているようで全く異なる。循環形式は変奏曲の一形態であり、部分動機作法は変奏曲にならないための技法だからだ。ゆえに、両者は矛盾なくひとつの楽曲の中に収めることもできる。

 こんな大口を叩いてしまったのだから今更言い訳をする気などない。誰が何と言おうと作曲家は作品で勝負しなければならない。形式や構造がどんなに緻密であっても音楽そのものが美しく魅力的でなければ意味がない。それは常日頃主張しているように、音楽を後世に伝えるのは「(時代を超えて)その曲を演奏したいという演奏者の強い動機と聴きたいという聴衆の欲求」だけだからだ。
 だから、作曲家の才能と言った時、それはソルフェージュ能力でも記憶力でもなく、どのような音楽を好むかを指す。
 
私のソナタ形式の楽章を含む主な作品リスト
・ソナチネアルバム(未刊)全10曲(1983-2010)
・ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ(1996)
・オーボエとピアノのためのソナタ(1999)
・アルトサクソフォーンとピアノのためのソナタ(2000)
・4手のためのピアノソナタ(2004)
・フルートとピアノのためのソナタ(2007)
・2台のピアノのためのソナタ(4手ソナタの改稿/2010)

上記リストのほかに「ウラノメトリア・シリーズ」第3巻アルファに「初めてのピアノソナタ」、第3巻ガンマには「一楽章のソナチネ(連弾)」が収録されています。

追記:今年(2010年)9月には「フルートソナタ」が、11月には「2台ピアノのためのソナタ」が演奏されます。詳細が分かり次第、野村茎一作曲工房HP(エントランスのお知らせ掲示板)で告知します。
 

 野村茎一作曲工房
ラベル:作曲
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2009年11月21日

気まぐれ雑記 2009-11-21 スピーチはなぜつまらないのか

 
 夕食後にカミさんが言った。

「小学校から高校までの12年間の間、校長先生の話をずっと聞いてきたけど何一つ覚えてないわ」

 その後には彼女の分析が続いたが、その頃には、もう私の頭の中ではその言葉に励起された思考エンジンがフル回転して彼女の話をトレースすることができなくなっていた。
 カミさんの名誉のために一言添えておくと、私とカミさんは高校時代を2年間同じ学校で過ごしているのだが、それはもう退屈なくらい真面目な女子生徒だった。学校長の話を聞き逃すことなど考えられないくらいの性格だ。
 195X年(だったか?)の全米SFコンベンション(だったか?)で、シオドア・スタージョン(だったか?)が、「SFの9割はクズであります」という言葉で始まる有名なスピーチを行なった。おそらく自虐ユーモアとして、大拍手で迎えられたことだろう。しかし、そのうち、この言葉の持つ真理と重みに気づいて感動に変わっていったに違いない。これはSFだけに言えることではなく、全ての場合に当てはまると考えられている法則のようなもので、実際そうであろうと思う。
 なぜ、このスピーチが有名になったのかと考えるに、それは聴衆が知りたかったことについて触れたこと、そして、それを印象づけるための教養あるユーモアに満ちていたからだろう。
 結婚式のスピーチも予定調和的な内容ばかりで、聴衆が真に欲している内容(もちろん、それはゴシップではない)が含まれることは稀である。少しのユーモアが含まれていれば、面白かったという記憶だけが残ることはあるだろうが、それだけである。
 アメリカの歴代大統領の中には聴衆を熱狂させたり涙させたりする名演説を行なった人物も少なくない。言葉はただの音波ではない。そのように考え、発言した人物の内面そのものであったりする。凡人は、自分の発想を言葉にすらできないが、すぐれた人物はそれをやり遂げる。つまり、真の内面に触れて、その崇高さに感動することはあり得るということだ。だから「人の心を動かすスピーチ集」などという本を買ってきて、それを代読しても「うまい」と思われて終わってしまう可能性が高い。
 私たちは常に真実を求めている。周囲に事実は溢れ返っているのに、私たちはそこから真実を読み取ることが難しい。だから誰もが気の利いた話をする必要はない。どんな人でも時折見つける真実について話せばよいだけのことだ。
 石油より水のほうがずっと貴重で価値があるのに、周囲の人々の思い込みやニュースを見聞きしているうちに目が曇ってしまって石油の方が高くて当たり前と思うようになってしまってはいないか。会社の人的ネットワークよりも居住地域のコミュニティのほうがずっと頼りになることも忘れてしまってはいないか。そういう人たちのスピーチに真実味がないのはある程度当然と言えるだろう。
 もし感動的なスピーチをしたければ(そして、それはスピーチにとどまらないのだが)、私たちはまず生き方をあらためなければならない。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月28日

気まぐれ雑記帳 2009-10-28 天才は事実に基づいて考える

 
 過去にも、このコラムで“天才の条件”や“天才の発想”について書いてきたが、1対1の対面形式によるレッスンでは伝わりやすいことでも、文章では伝わりにくいことが少なくない。特に“事実”の重要性とそれを捉える難しさについては、クオリアのような性質があるようなので、今回は別の角度から述べる。
 天才が教育では育たないと考えられることは以前に述べた。ところが天才は100パーセント生まれつきというわけでもない。天才を生まれてすぐに薄暗い低刺激の部屋に閉じこめておいたら能力は開花しないことだろう。ということは、天才も育つのである。
 天才を育てるのは自然(“ありのまま”というような意味)であり、彼らは野(人間社会と自然界など全て)に放てばよい。彼らの周囲の事実が天才を育てる。
 天才は事実を誤解したり勘違いしたりしない。もともと勘違いしないのではない。天才は事実を捉える難しさを知っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは徹底的に観察しないと本当のことは分からないと考え、人間界で最も事実を知り得るのは画家であると明言している。
 人々はしばしば「月は地球のまわりを回っている」という言い方をするが、ヨハネス・ケプラーはそのようには捉えていない。彼は地球と月の重力が釣り合う点をお互いが公転していると見抜いた。その重心点は地球の表面よりも深いところにあるので分かりにくいが、月の公転とともに地球もグルグル揺れている。ハンマー投げの選手を考えれば分かりやすいだろう。
 ニュートンが発見したのは「万有引力の法則」の法則だが、それがいつの間にか「物が落下するのは地球の重力のせい」になっていたりする。無視できるほど小さいと言えばそれまでだが、地球と物の互いが引き合う結果が落下である。
 誰かの言葉は、その本人の認識を表しているだけであり、事実であるかどうかは分からない。もちろん、このコラムも同様である。このように書くと、早速「他人の言葉は信用しないぞ」と早とちりする人もいるかも知れない。世の中の全ての事実を自分だけで確認するには人生は短すぎるばかりか、高い能力を要求される。だからレオナルドの「事実から学べ」という言葉には、事実から真実を学び取ることのできる人を見いだすことも考慮されていると考えてよいだろう。
 ベートーヴェンの能力の高さは、すでに少年時代にモーツァルトが何を重要であると考えていたかを捉えていたことである。モーツァルトが成し遂げたのは人の美的感覚を音で具体化したことだが、そのどこが美の具体化であるのかを最初に発見したのがベートーヴェンであるということだ。その後に続く天才作曲家たちも、ベートーヴェンが何に気づいていたのかを突き止めた。それが人間心理の事実に基づいていることを理解し、その“事実”の把握によって創作活動を行なった。だから、天才は他人の言葉からも事実を見いだす。そして誰が天才であるのかを見分ける。まさに「天才は天才を知る」の言葉のとおりだ。
 では、最初に戻ろう。
 天才たちの思考は全て事実に基づいている。事実に基づく構築だけが実現するのは言うまでもない。事実を捉えていない人の考えはただの戯れ言(ざれごと)に過ぎない。
 作曲の勉強と言うと、まずは和声学と対位法だが、それ自体は間違っていない。しかし、“和声学”も“対位法”も本質を理解しなければただの言葉、あるいは誰かが書いたテキストに過ぎない。ある人が「和声学も対位法も満点を取りました」と言ったとする。それだけで、その人は和声学や対位法の本質を理解したと言えるだろうか。誰かが作った課題に答えられただけではないのか。真の答えはそんなところにはない。もしあったとするならば、世界は作曲家で埋め尽くされてしまうことだろう。
 天才というのは、“事実”に対して非常に謙虚であるのかも知れない。凡人は名前を知っていれば、それについてひと通り知っているような気がしてしまう。
 「ひまわりっていう花知ってる?」
 この問いかけに対して凡人は「知っている」と答えるだろう。しかし、天才は「いや、ほとんど何も知らない」と(心の中で)答えるかも知れない。
 「天才の思考は事実に基づいているからこそ実現する」(もちろん、それだけではないが)ということをいま一度、考えてごらんになってはいかがか。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月24日

音楽コラム 2009-10-23 サプリメントにたとえると

  
 生命活動が継続できる理由は、その仕組みと栄養、環境の3つにまとめることができる。昔、少しだけ栄養学をかじったことがあるのだが、生命を維持している物質、つまり“栄養”については分かっていないことがまだまだたくさんあるということを知った。他の科学と同じように栄養学も前途に茫洋たる謎の海が広がっているということだ。
 我々は塩など一部の無機塩類を除けば、生命を食べて生きている。考えてみれば、それは極めて当然のことであり、まさに自然の摂理であることがわかる。生きている生き物は、その体内に生命活動に必要な全ての栄養素をもっており、それを食べた生き物は必要な栄養素を摂取できるからである。中にはユーカリしか食べないコアラ、笹ばかり食べているパンダのような動物もいるが、彼らはそれを材料に体内で必要な栄養素を生成する能力を持っている。だから、笹しか食べないパンダを食べても笹を食べたことにはならない。
 栄養学が謎を解明しようがしまいが、私たちが新鮮な動植物を“過不足”なく食べていれば命は維持できる。しかし、実際には社会の進歩(実は退化?)とともに、人々は保存食品や加工食品に頼る割合が飛躍的に増えた。取れたて野菜と遠くの産地から運ばれてきた野菜の差は含まれる栄養素にある。栄養素(特にビタミン類)は種類によって壊れる速さが異なるので、人々は壊れやすいビタミン類を摂りにくくなった。加工食品も同様で、加工するとすぐに壊れてしまう栄養素は摂りにくい。
 おそらく、そこで登場したのが栄養を補助するサプリメントなのだろう。
 ところがここには大きな問題がある。サプリメントには人類が知っている限られた特定の栄養素しか入っていないのである。そして、摂るべき量は目安はあっても実は誰も知らない。
 誰でも、常に新鮮な食材による食事を続けることは容易くない。特に現代においては、その傾向が著しいことだろう。だから、緊急避難としてサプリメントを使うということは充分あり得ることで、サプリメントは生活の“お助けアイテム”とも言える。しかし、深く考えることもなく毎日習慣として(漫然と)サプリメントを常用している人は、いずれ栄養バランスの悪さが引き起こすなんらかの悪影響を受けることがあるかも知れない。
 これを音楽に置き換えるのは無謀なようにも思えるが、浮き彫りになってくる問題もある。
 自然の食材を実際の楽曲、サプリメントをテキストや理論であるとすると栄養学と似たような構図になる。
 以前も書いたが、ソナタ形式について説明している楽式論のテキストは、その多くが時系列構造に重きを置いている。それは、著者が実際の楽曲からソナタ形式をそのように読み取ったから、あるいはそのように習ってきたという“負の連鎖”によるものかも知れない。時系列構造の次には主題労作に代表されるような部分動機作法が扱われる。ところが、そこでは「この曲ではこのようになっている」というアナリーゼに終始している場合が多く、なぜそのように使われたのかという核心に触れる記述は、私が読んだ限りではほとんどない。唯一、明確に理由を述べているのは、これも以前述べたルードルフ・レティの「ベートーヴェン・ピアノソナタの構築と分析」(音楽之友社)だけである。しかし、この書を持ってしてもベートーヴェンのピアノソナタを語り尽くすのは不可能である。
 結局、テキスト(サプリメント)だけでは楽式の本質を理解して身につけることはできない。秘密は実際の楽曲の中にだけある。ベートーヴェンを知るためにはモーツァルトの楽曲が必要になる。なぜなら、ベートーヴェンはすでに少年時代にモーツァルトの楽曲から秘密を探り当てているからだ。彼らの曲を漠然とアナリーゼしても何も見えてこないことだろう。しかし焦点を共通する点に絞って見ていけばいろいろなことが見えてくる。ベートーヴェンの凄さはモーツァルトが何を重要であると考えていたかを見抜いたことである。まさに“天才は天才を知る”とはこのことだ。もし、2人の共通点が見つからなければ(たいてい見つからないのだが)、グリーグやラフマニノフのピアノコンチェルトやラヴェルの弦楽四重奏曲、ドヴォルザークの後期の交響曲などを参考資料としてもよい(問題はどこを参考資料とすべきかである)。ここに挙げたのは非常に分かりやすい例であるが、彼らもそれに気づいており、ここでも私たちはベートーヴェン、モーツァルトとの共通点を探すことに絞り込んで力を注けばよい(モーツァルトやベートーヴェンに対する聴き込みが足りないのは論外なので念のため)。
 それでも分からなければ聴き込みが足りないか、あるいはあなたに音楽家としての基礎的な訓練が不足しているかのどちらかだろう。
 ここで基礎的な訓練の内容について書く余裕はないが、初めて聴いた曲のおおよその時代様式が分かったり、あるいは主要主題がどれとどれであるのかが分かるというようなことである。重要な部分動機の区別がつくようになればなおよい。
 これらが食事で言えば主食と副食であり、テキストがサプリメントだろうか。実際の楽曲をあたると、構造以外の要素まで全てを学ぶことができる。そもそも楽曲は構造だけで存在することはできない。
 私は作曲のレッスンでテキストを使うことは稀である。多くの場合、実際の楽曲を使い、どこを見てどこを聴くべきかということをピンポイントで提示する。すると、少なからぬ人が自分でも実際の楽曲から学ぶことの意味と方法論を見いだす。
 これが最大限に生かされるのが管弦楽法だろう。テキストが役立つのは各楽器の音域と、演奏不可能なトリルや反復音を知ることくらいであって、それ以外のことはどうでもよい。各楽器について知るためには、その楽器のエチュードがよい。各楽器にはピアノのハノンに相当する技術練習曲が用意されており、それは楽器を知る上で非常に役に立つ。
 しかし実際の楽器の魅力を知ることができるのは、すぐれた作曲家の実作品だけである。
 ここで気をつけなければならないのは、その曲を作曲した作曲家について学ぶのではないということだ。そうでないとあなたはその作曲家の亜流になってしまうかも知れない。天才作曲家というのは“何が重要であるのか”を知っている作曲家のことである。学ぶ側の私たちにとっても、まさにそれが知りたくて彼らの曲から学ぼうとするのだ。簡単なようだが、その区別は難しい。それができれば作曲は独学でもなんとかなるかも知れないが、これはかなりクオリアの要素を持っているので、人によっては非常に難しいかも知れない。
 芸術において最大の要素となる“インスピレーション”は、この“重要なこと”から生まれる。事実に基づかなければ実現しないのは自明の理であり、どうすればよいのかが分かることが“インスピレーション”の正体である。
 このように書いてくると音楽理論軽視のように思われてしまうかも知れないが、音楽理論は習得済みであることが前提である。音楽理論も奥が深く、追究をはじめるときりがないのだが、本当に重要なことが何であるかが分かれば、理論で足踏みすることはない。
 それについては、別のタイトルを設けて述べることもあるだろう。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月21日

音楽コラム 2009-10-14 “音楽”には聴こえる

 
 タイトルは、前述したように、作品を持って師を訪ねた私が最初に言われた言葉。
 高校生だった当時は意味を測りかねたが、今は心底分かる。身体で分かる。そしてそれが分かるようになったことが私の成長の全てである。
 新進気鋭の美術家の展覧会に行くと、その中の少なからぬ作品(つまり作家)が、ありふれた日常のなかの美にさえ気づいていないことが分かる。
 私たちの身の回りには美的センスがあふれている。まるで鑑賞の対象になど考えもしないような箸や茶碗、障子、畳に至るまで長い伝統を持つものは洗練された美しさを持っている。大量生産の工業製品にさえ見事な美意識が息づいていたりする。
 芸術家は、まずこれらの美に誰よりも先に気づき、時の流れが美を洗練する力を畏怖し、それを乗り越えて消化すべきだろう。
 その基盤の上に立って(真似をするという意味ではない。そういう美しさを身体で覚えている人が鑑賞者の中に少なからず存在することを肝に銘じて)、創作物を発想しなければならない。
 仮に高い技術を駆使して写真のようにリアルな描写で絵画を仕上げても、安っぽい印象があったら人々は称賛を送ることはないだろう(真に高い技術は、それ自体称賛の対象であるが)。私たちが求めている美は、限りなく洗練されたセンスによって生み出された発想によるものであって、ちょっとした思いつきや小綺麗といったものではない。
 音楽に置き換えてみよう。「たこたこ上がれ」のようなわらべ歌でさえ真剣に取り組むと、その凄さのあまり、到底到達できない高みをそこに見てしまう。「これと並ばなければならないのか」と、思わず戦意喪失しそうになるほどだ。
 高校生の頃の私は、そのようなことに全く気づいていなかった。気づいていないどころか、美を勘違いしていた。だから怖いものなどなく、平気で曲を書くことができた。
 平気で曲を書くということは、崖っぷちで写真を撮っていて、ファインダーを覗くのに夢中で崖っぷちの存在を忘れているようなものだ。まわりはヒヤヒヤものだろう。
 作曲を習い始めてからも、私の書いた曲はずっと「“音楽”には聴こえる」というレベルのものだった。音楽理論を学んで、それらをある程度自由自在に使えるようになっても、なお音楽的向上はなかったに等しい。
 しばしば「天才は教育では育たない」と言われる。しかし、天才は生まれつきと断言することもできない。極端な例だが、仮にモーツァルトを生まれてからずっと外界からの刺激の少ない薄暗い部屋から出さずに過ごさせても、我々の知っているモーツァルトになったろうか。それはなさそうな気がする。天才と言えども後天的に獲得する能力は少なくないはずだ。
 天才を育てるのは自然と人間社会そのものなのではないか。だから、天才は野に放てば育つ。自然の美しさ、人間が時間の経過とともに生み出してきた伝統美。天才はそれらに気づき、それらから学んで天才になっていく。つまり、事実が天才の師でありテキストである。
 優れた凡人は伝統を継承する。しかし、天才は伝統の未来を照らしだす。駄目な凡人は伝統から外れた道に迷い込んで、そこから出られなくなる。
 人間社会に継承されてきた伝統美は、おそらく自然界の美のルールに従っている。だから全く文化的交流がなかった他の国でも通用したりするのだろう。
 “好み”の問題を持ち出す人もいるが、その“好み”の正体の多くはレベルの高低をそのまま表していたりする。

 野村茎一作曲工房
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2009年10月13日

音楽コラム 2009-10-13 真の“オリジナリティ”にたどりつくために

 
 今までに何度も述べてきたオリジナリティだが、今日は今までよりももう少し上手に伝えることができるかも知れない。
 作曲にしても演奏にしてもクリエイティヴな仕事に携わる人は、遅かれ早かれ「オリジナリティの確立」の問題に突き当たることだろう。
 そこで自らのアイデンティティやオリジナリティを確立しようと努力する。しかし、ややもすると“オリジナリティまでをも創作”しようとはしていないだろうか。つまり「これがオレのオリジナリティだ。決めた。今からそう決めたぞ」というような乱暴な決断が伴ったりする行為だ。そんなトラップにハマりこまないためにも次のようなことを考えてみていただきたい。
 人は生まれながらにして他人とは異なる顔、声、風貌、物腰、話し方、雰囲気などを持っている。つまり、すでに個性的なのである。顔だけなら似ている人もいるだろうが、上記の要素のほか、好きな食べ物、特技、趣味などまで全てが一致する人は極めて少ないことだろう。つまり、すでに私たちは誰もがオリジナリティを確立していると言えるのではないか。
 音楽で言えば、後は“心の耳”に従って自分自身を正確、かつ精密にデッサンしていくだけで自らのオリジナリティが浮かび上がってくることだろう。心の中にあるイメージを音にすることは非常に難しい。私たちの周囲にも、なんと内側にも雑音が充ち満ちているからだ。それらの雑音を排除できるのは“心の耳”だけだ。逆に“心の耳とは何か?”と問われれば、自らが真に望む音楽が聴こえる力であると答えよう。ベートーヴェンもショパンもドビュッシーも“心の耳”を持っていた。私は、それがトレーニングによって得ることができる力であると考えている。
 仮に“心の耳”によってあなた自身のオリジナリティが浮かび上がったとしよう。それが、なんとも落胆するような貧相なものだったらどうしよう。オリジナリティの真実は動かせない。
 しかし、同じ顔でもその人の生き方によって表情は変化する。話し方も行動パターンも、経験や志、覚悟によって大きく変わる。だからその時点におけるオリジナリティは如何ともしがたいが、将来のオリジナリティは変えることができるはずだ。そのためのトレーニングこそが本物である。もし、自らのオリジナリティに落胆したならば、自分が、いかにつまらないものに入れ込んできたのか、あるいは何を重要であると考えてくるべきだったということに気づくことだろう。逆に、自らのオリジナリティの凄さに気づくこともあるだろう。その時にはまっしぐらに進んでよいことになる。
 ピアニストは、毎日ピアノを弾いたからといって向上するとは限らない。作曲家も毎日作曲したからといって向上するわけではない。為すべきことを為した者だけが向上できる。それが分かるのは、心の耳で自らのオリジナリティの真実の姿を見いだした時だけであるのは間違いない。
 
 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月08日

音楽コラム 2009-10-06 師の言葉


 私が音楽に限らず人生全般の教えを受けたのは、土肥 泰(どい・ゆたか)先生という作曲家だった。
 師との出会いというものは、まさに“縁”や“運”というものであり、探して見つかるというものではないと感じている。高校時代の恩師に作曲の勉強をするためにたまたま紹介していただいたのが土肥先生と出会うきっかけだった。
 人生における私の成長は、ほとんど全て土肥先生から薫陶を受けた期間に果たされたと言っても過言ではない。
 それは私が高校一年生(16歳)の1971年6月から、先生が倒れられた3日前の1998年1月4日まで、途中の中断(就職時の多忙などによる)を除いても20年を超える歳月だった。
 先生が私に向かって一度たりとも馬鹿だと言ったり、私を軽んじるような態度をとったことはないが、それらの日々は私がいかに馬鹿で愚か者であるかを知らしめるに充分だった。
 ずっと以前の音楽コラムにも師の言葉について記したことがあるが、今回は特に重要と思われることだけを再記する。

 自作曲を持って初めて先生のもとを訪れた時、彼が楽譜をしばらくじっと見つめた後最初に発した言葉が「音楽には聴こえる」だった。

1.音楽には聴こえる。

 “音楽そのものへの理解”がなされなければ、この言葉は理解できない。私自身は何年もかかって、ようやく理解の糸口にたどりついた。そして、いまだ理解の途上にある。
 後年、先生は「作曲するということは新しい音楽美学について語るということだ」と言い、音楽美が単なる音並びから生まれないことを示唆してくださった。シェーンベルクもインスピレーションのない作曲行為の無意味さについて語っているが、先生も音並びによる曲作りには否定的であったと思う。実際に言葉では述べなかったものの、彼にとっては歴史に残る作曲家であっても、その多くが落第であったことだろう。私自身は、曲を褒められたことは一度しかない(ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ-1996)という不肖の弟子であった。

2.言われて分かることは言われなくてもたどりつける。

 それも当然のことで、今にして思えば私がレッスンに書いていった曲は、ことごとく未熟なものだった。直すべきところが多すぎるというというか、直すどころか根本的に曲として成り立っていないというようなひどい状態であったと思う。たとえば「この曲は始まっていない」と言って、先生が即興で大楽節をひとつ弾いてから私の曲を弾き始めると、見事に曲が成立する。即座に先生の言葉の意味が分かった。その私の表情を読み取って彼は「言われて分かることは言われなくてもたどりつける」と仰った。

 言われても分からないことは自らたどりつくことはできないが、言われて分かるということは、すでに判断の基準を持っているということだからただ単に詰めが甘かったということになる。作曲をするということは自分にできることを全てやり尽くすということであり、作曲するという行為はそれ以外のなにものでもない。

3.生涯に、君の曲をこのひとつしか聴くことがない人がいても悔いはないか。

 これは厳しい。
 ベートーヴェンやショパンなら、この言葉こそを待っていたことだろう。彼らは、この問いに対して控えめに、しかし、おもむろに頷くに違いない。しかし、いまだ私は頷くことができない。全力で書き尽くした曲を挙げることができないからである。この言葉の精神で曲を書く志を忘れてはならない。

4.聴く人の想像力の及ばぬところで仕事をしなければならない。

 作曲依頼を受けて、完成した作品を披露した時「まさに、こういう曲を期待していました」と喜んでもらえばよいのだろうか。クライアントが想像して期待できる範囲の曲ならば、その曲を書ける人は他にもいるかも知れない。だから真の作曲行為は「まさか、このような曲が生まれるとは想像できなかった」と感じさせるような作品を生み出すことである。毎日のように膨大な音楽作品が生まれる中、生き残るのは平均値から突出したものだけだろう。これは、本当に大変なことだ。

5.音楽を残し後世に伝えるのは出版社でも評論家でもなく、演奏したいと思う演奏家と聴きたいと思う聴衆だ。

 これも真の理解が難しい。難解な曲は聴いてもらえないからと聴衆に迎合するような曲を書いても、結局は忘れ去られてしまうことだろう。分かりやすさは重要だ。常にもっとも分かりやすい形で書くべきだろう。先鋭的で高度な曲は分かりやすく書いても難解になってくる傾向にあるが、真に適正な表現が行われているならば、それはいつか理解され評価されることだろう。易しい曲ならば、深い表現が可能であるように書くべきだろう。“子ども騙し”は芸術の世界では通用しない。調性音楽でも無調でも、技法やスタイルは問題ではない。それが演奏家や聴衆に響いて「演奏したい」「聴きたい」という強い心の希求を引き起こせば、その曲は時代を超えて愛されることだろう。つまり、本物でなければならないということだ。本物はオリジナリティに溢れており、オリジナリティの本質は過去に例がないということだ。過去に例がないからこそ人々の耳に留まる。しかし、それは“新しさ”という言葉だけでは言い表せない。
 本物の音楽は、演奏者も楽器も聴衆も全てを最大限に生かすことができる。ピアノのために書くならば、“ピアノ”という存在が最大限いかされ、演奏者の力も存分に発揮でき、聴衆の聴く力も存分に刺激するものでなければならない。パラドックスのように聞こえるかも知れないが、技術的に可能な限りやさしく書けば、とてつもない難曲も成立する。それができなければ、それほど難しくない曲でもピアニストは苦労して弾かなければならない。その結果、表現もおろそかになることだろう。その時重要なのは、その曲の内容がその技巧を真に必要とするかどうかである。ショパンは意味のない難しさや技巧を「新種のアクロバットに過ぎない」と言っている。

6.決定稿を書きなさい。

 先生は楽譜に熟達するよう仰った。
「演奏者にとって楽譜は絶対なのだから誤りがあってはならない」という言葉は何度も繰り返し聞くことになったのだが、誤りがないということさえ未だに実行できていない。これも未熟の証なのだろうが、決定稿を書くことはさらに敷き居が高い。
 楽譜を発表して作品が世に出たら、もう作曲家は手の出しようがない。どのように誤解されて演奏されても、知らないところで知らないうちに演奏されることが大部分だからどうにもならない。なるとしたら、楽譜を限りなく正しく書き上げることだけだ。先生は決定稿の水準のひとつの例としてドビュッシーの「前奏曲集第一巻」を示してくださった。
 
 ここに記した言葉は先生の言葉ではあるけれど、レッスンの時のものだけではない。正月などに遊びに行った時などの楽しい門下の語らいのなかで「作曲するっていうことは、言い換えれば新しい音楽美学について語るっていうことだからねえ、まあ一筋縄ではいかないよ」というようなちょっとした発言であったりもする。
 そういう言葉の重要性を直感して心に留めたことは誇りたい。

 野村茎一作曲工房
 
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