2011年12月02日

2011-12-02 作曲が上手くいかない人へのナノ・メッセージ


 これは作曲工房で作曲を学ぶ人へのメッセージです。しかし、作曲を学ぶ全ての人にヒントとなることが含まれているかも知れません。ですから読者を限定することはしません。

 私は作曲課題として「大楽節」を作ることを求めます。8小節になることが多いのですが、他の小節数のものも存在します。
 8小節というと短いのものですが、決して小品を求めているわけではありません。大楽節を書けない人がそれ以上大きな曲を書けるとは思えませんから、小品であれ大作であれ、大楽節は全ての出発点です。もし、大楽節を書くことが難しいと感じたならば(実際に難しいものですが)、初期バロック時代からラヴェルくらいまでの楽譜を片っ端から読みなおしてみてください。メロディーを追うだけではなく、そこに共通するルールやセンスを見出してください。
 どの曲を参考にすればよいのか迷うこともあるでしょう。もし、音楽の才能とは何かと問われれば、私は「優れた曲から学ぶ力」であると答えます。
 ですから、どのような曲を見出すかという事自体が作曲の重要なトレーニングとなります。
 携帯型音楽プレーヤーの時代になってから、聴く音楽の幅が狭くなっているかも知れません。私は、若い頃に長い間FM放送から流れてくるありとあらゆる音楽に触れるという幸運に恵まれました。
 若い皆さん方のほうが、私よりもずっと多くの音楽情報にアクセスできる環境にあると思います。にもかかわらずわずか9曲(番号付きに限れば)しかないベートーヴェンの交響曲全曲を聴いたことがある人は意外にも少ないのではないでしょうか。
 脳科学者の茂木健一郎さんは「音楽を聴くだけで頭が良くなる」と断言なさっています。私もそのとおりだと思います。
 仮にシベリウスの7つの交響曲(前衛的なところなどない名曲揃いです)を聴いてみてください。いわゆる“ながら聴き”ではなく、7つの交響曲が区別できる程度までには聴き込みます。ひとつひとつの動機、経過句などをたどって聴いていくにはそれ相当の集中力が必要なはずです。これによって得られるのは知識だけではありません。むしろ知識以外のものです。
 このトレーニングを経るとあなたにはどのような能力が芽生えるでしょうか。箇条書きにしても1冊のノートには収まりきれないほどの力が加わるはずです。
 しかし、シベリウスの音楽にあなたが必要とする音楽の要素が全て揃っているわけではありませんから、他の作曲家からも学ぶことになります。
 その時、どの作曲家を選ぶかであなたが学ぶものは大きく変わってくることでしょう。それで、優れた音楽を選び抜く力が“音楽の才能”であると書いたのです。
 もっとも優れた音楽のひとつがバッハ晩年の「フーガの技法」ですが、それ以前に基本的なトレーニングを積んでおかないとメロディーを追うだけで終わってしまうかも知れません。
 数学が加減乗除から順を追って学んでいくように、音楽にも経るべき手順があります。
 
 さらに付け加えるならば、レオナルドが看破したように、人類に共通する美の基盤は“自然美”です。ドビュッシーも「過去のスコアを研究するよりも海を眺めていたほうがずっと勉強になる」と言っていますが、それは過去のスコアを研究しつくしたドビュッシーだからこそ出た言葉でしょう。
 私達も“自然美と矛盾しない音楽”とはどういうものであるか理解する必要があるとは思いますが、それはこのコラムの目的を超えているのでまたの機会にしましょう。
 

 野村茎一作曲工房
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2011年11月29日

音楽コラム 2011-11-21 強いメロディー


 タイトルについては、誤解を招く表現ではないかとかなり悩んだ。
 しかし、物理学でも核力を「強い力」「弱い力」と表現しているので、正確に分かりやすく説明すれば理解していただけると思い「強いメロディー」というタイトルとした。
 では、あらためて「強いメロディー」とはなにか。

 それはアクが強いとか、押しが強いとか、いわゆる“キャッチーな”というものではない。
 そのひとつに「忘れられないメロディー」であることを挙げたい。
 ドヴォルザークの「母さんが教えてくれた歌(古くは「わが母の教え給いし歌」という訳もあった)」などは、私にとってはその1曲。
 もうひとつは比較的シンプルであること。モーツァルトのアイネ・クライネの第1楽章序奏部などはどうだろう。冒頭2小節の動機にはGDHの3音だけしか使われていないのに、「モーツァルトの個性」「曲の個性」が見事に表現されていて、一度聞いただけで覚えてしまうシンプルさ。
 さらに「他に類例のない際立った個性」も挙げられる。上記の2例にも当てはまっているが、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」にある「金平糖の踊り」は、似た曲を探すのが難しくはないだろうか。ほかにはショパンの「幻想即興曲」に登場する主要な3つのメロディーは全て際立った個性(特に曲独自の個性)を感じはしないだろうか。
 アクの強いメロディーはいずれ飽きるが、ここでいう「強いメロディー」は劣化にも強い。長く聴いても、時代が変化しても変わらず魅力を発揮し続ける。
 ビゼーの旋律には時代を感じさせないものが数多くある。「ハバネラ」や「美しいパースの娘」から編曲された「小さな木の実」などは作曲年代を言い当てることが難しいのではないだろうか。

 では、次に「弱いメロディー」である。これは枚挙に暇(いとま)がなく、逆に何を挙げるか悩むのだが、演奏会で聴いて数日後にはひとつとしてメロディーを思い出すことができない曲を数えていく。
 その代表はハイドンの「オラトリオ“四季”」。聴いている時には気持ちがよかったのだが、数日後には覚えているのは雰囲気だけで、正確に再現できるメロディーがひとつもなかった。決して駄作などではないだろう。しかし、メロディーが弱くて心にスタンプされなかった。
 よくよく考えてみると、初期古典派の交響曲も後期ロマン派になってからの交響曲も、主題は強烈でも全ての部分が強いわけではない。それどころか大部分は弱いメロディーが主題の間を埋めていたりする。優れた作曲家たちは、その部分に「強い主題」に関連付けられた旋律(部分動機作法やリズム借用旋律など)を持ってくるので弱さを感じさせないだけである。
 しかし、ひとつでも強い主題がないと私たちはその曲を思い出す機会が減ることは確かだろう。
 調性音楽では、楽譜で見るかぎり、強いメロディーも弱いそれももそれほどの差がない。無調音楽では楽譜が大きく異なっていても、さらに差が小さい。
 
 強いメロディーには作曲者と、その曲固有の個性が明確に打ち出される。くり返し念を押すけれどもアクやクセ(どちらかというとマイナスイメージとしての)が強いというわけではない(そういう時もある)。
 ショパンのワルツやノクターンは1曲1曲がどれもはっきりと区別できるのではないだろうか。それらはどれもアクやクセが強いだろうか。

 作曲家として人々の印象に残る作品を書こうと思ったら、少なくとも数曲は、人々にすぐに思い出してもらえる、あるいはついつい口ずさんでしまう“強いメロディー”を持つ必要があるだろう。私は、もう何十年もそればかりの考えてきた。

 作曲の師である土肥先生は「旋律作法を学ぶことが最も難しい」と語っていた。それは作曲技術だけ「では解決できない側面を持つからだ。しかし、学ぶことが不可能なわけではない。
 先生は、またこのようなことも言っていたからだ。

「旋律作法に優れているのはモーツァルト、ビゼー、チャイコフスキー」

 この3人のメロディーのヒミツを探ることはきっと何かのヒントになることだろう。



 野村茎一作曲工房
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2011年02月21日

音楽コラム 2011-02-21 しぶとく「どのように作曲するのですか」という質問に答えて


 「どのようにして作曲するのですか」という問いは、作曲家ならば数限りなく繰り返される儀礼のようなものだろう。
 作曲を志す以外の人がそれを尋ねる時、本当は作曲の方法など知りたいわけではなく「自分にできないことをあなたはやっている」という賛辞の別表現なのかも知れない、と思うものの、やはり答える義務があるような気がしていつも困惑してしまう。
 今までにも、当コラムにおいて幾度となく書いてきたのだが、今回は別の角度からお答えしたいと思う。

 あなたが、今までに見たこともないような美しい夕焼けを見て感動したとしよう。
 すっかり日が暮れた夕食時に、あなたは家族にそれを伝える。

「今日の夕焼けすっごくきれいだったんだよ」
「へえ」

 どうも伝わらなかったようだ。ここであなたは、実際には美の本質をほとんど伝えることのできない「きれい」という言葉の無力さに気づいた。
 後日ふたたび、きれいな夕焼けに出会う機会を得た。あなたはすぐに愛用の携帯電話のカメラ機能で夕焼けを撮影する。そして夕食時。

「ほら、今日の夕焼けこんなにきれいだったんだよ」
「ふ〜ん、きれいだね」

 小さな液晶画面にはオレンジ色に輝く雲が写っている。
 しかし、それはあなたの見た色とは微妙に異なるばかりか、視界を覆い尽くす雄大な光のパノラマと、強烈なコントラストを放つ直上の紺碧の空の深さが伝わらない。

 美というものは、本当に伝わりにくいものだ。だからクオリア(感覚だけが捉えることのできる質感)なのだけれど、別のクオリアに置き換えることができる場合がある。
 それを言葉に置き換えて表現できる人を詩人、平面作品に置き換えて表現できる人を画家、あるいは美術家といい、写真なら写真家というなことになる。
 写真なら誰でも伝えられるだろうと思う方もいらっしゃるかも知れないが、撮影会でプロと自分が同じ被写体を撮影した写真を見たら愕然とするに違いない。
 たとえば旅行先でスナップ写真を撮る時、史跡などの前に人を立たせ、写し手側の都合でシャッターを切る(写される側は、たいてい何秒間も笑顔のまま待たされる)。
 しかし、プロカメラマンは違う。人の表情は常に変化しており同じではない。だから、シャッターは自分の都合ではなく、相手の表情を先読みしながらジャストタイムでシャッターを切る。
 さらに、人の目は明るさも色温度も、露出も、さらにはラチチュード(細かい説明は省かせてください)まで気づかぬうちに脳内補正してしまうという優れた能力がある。それを知らないと、写真を撮れば夕焼だって自分の見た目のように写ると思ってしまうが、実際にはそうではない。それに、肉眼で実際に見た景色はフレーミングされていない。見える範囲というものはあるが、ピントがあっているのは中央部のわずかな領域だけで、視点中央から離れればはなれるほど視界はぼやけていく。
 思いどおりの写真を撮影するために、ここで数多くの写真撮影の技術が登場する。
 フィルムカメラの時代には、私たちは色温度を補正するための何種類ものレンズ・フィルターを持ち歩いたものだが、デジタルカメラになってからは、ホワイトバランス(色温度にほぼ等しい)を調節できるようになった(通常の使用ならばオートホワイトバランスでもかまわない)。
 しかし、夕焼けの微妙な色にまで気づいてしまった人にとっては、その再現が何より大切になってくる。ホワイトバランスの調節にも限界があることに気づくと、露出補正やレンズフィルターにも詳しくなっていく・・、とまあ、このような過程を経るに違いないと想像できる。

 では、作曲家は何をするか。

 私たち作曲家は、自らの内に美しい音楽を聴いてしまうことがある。すると、美しい夕焼けと一緒で、誰かに伝えたくなる。
 ベートーヴェンも言っている。

「私の中にあるもの(音楽)は外に出さなければならない」( )内、筆者。

 だから、作曲家の力には2つの種類があることになる。
 ひとつは「自らの内部にどれだけ美しい音楽を聴いたか」、もうひとつは「それを伝達する技術を持っているか」。

 現存する有名な作曲家のうち、おそらく10人のうちの9人までが後者の達人であり、音楽史に名を残す(その死後も演奏され、聴かれ続けている)作曲家の10人に9人は前者の達人ではないかと私は密かに考えている。

 「自らの内部に美しい音楽を聴く」というのは、以前にも書いた次のような例で説明できることだろう。

 仲間と、あるいは家族などと海に行ってその風景をみんなで眺めたとしよう。帰りの電車やクルマの中で、いま見てきた風景の話になったとする。

「水平線と空の境目がきれいだったな」
「防風林に咲いていた花がきれいだったねえ」
「磯のところで魚が海面から跳ねていて、それが良かったなあ」
「大きな貨物船がゆっくりと水平線のかなたを移動していて、ずっと目で追っちゃったよ」
「あたし、寒くて早く帰りたかったわ」

 一口に海の風景と言っても、その情報量は膨大で全てを見ることは一生をかけても難しい。100人いれば、100人とも異なる風景を見ていることは間違いない。同じ風景を描き続ける画家が存在するのも頷ける。彼(彼女)は、昨日とは違う風景を見いだしているに違いない。

 音楽を聴くのも全く同じであって、メロディーラインだけを追っている人がいるかと思えば、同時にオブリガート(対旋律)を楽しんでいる人もいる。さらに、複数の動機を聴き分けて、それらが曲全体の構成にどのように関わっているかを聴き取って感動する人もいることだろう。更には楽器の音色や、異なる楽器のユニゾンによる音色や強弱の変化、もっと深く考えれば、その楽曲で鳴り響いている音以外の、作曲家が表現し得なかった音まで聴いている人もいるに違いない。
 過去の大作曲家たちの作品から、彼らの美的内面のどこまで聴き取ることができたかが、いま作曲している作曲家たちの「自分の内に響く音楽」の質を決定的なものにする。
 つまり「何を聴きとったか」が作曲家の資質を決定する大きな要素のひとつであるということだ。
 表現技術を過去の作曲家たちの作品から聴き取ることも可能だが、優れた作曲家は楽器や演奏家(声楽家を含む)から直接学びとるもののほうが多いことだろう。
 今までずっと書き続けてきたように、音楽美は「作曲者の“音楽性”魅力」「演奏者の“音楽性”の魅力」「楽器、あるいは声の持つ魅力」の3つから構成されている。
 そして、すぐれた音楽とは「地上に生まれ育った私たちが自然から学んだ美」と乖離(かいり)することがなく、高く打ち上げられた野球のフライをキャッチできるように、その軌跡を予想することができるような表現で(これも、私たちは地球上の自然な物の動きから学んでいる)、さらに「望んでいたのだけれど、自らは到達することができなかった美的世界」を実現したものを指す。
 
 作曲するとは、そういうものを目指す営みです。

 野村茎一作曲工房

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2010年07月20日

音楽コラム 2010-07-20 音楽コラムまとめ その2

 
2.音楽の本質は学べるが習えない

2-1 才能とは何か

 芸術にかかわる才能の本質は“何を好むか”という問題に集約することができる。
なぜなら、人々は、自ら好むもの範疇からのみ素晴らしさを感じるのであり、それなしでは“才能”は見いだされないからだ。
 だから、好むものが誰とも重ならなければエキセントリックな才能とみなされ、人々の注目を集めることは難しいだろう。だからと言って、人々に迎合しようとしても無理だ。迎合で力は発揮できない。人が本当に力を発揮できるのは真の自分自身を表現できるフィールドのみである。
 さて、その発揮された力は何によって計られるかというと、次の4つの要素であると思う。

1.独創的であること(亜流ではなく、源流であること)。
2.時代を超えて通用すること(価値が変わらないこと)。
3.通俗的ではないこと(飽きられないこと)。
4.芸術性と娯楽性が両立していること(気高さと魅力を兼ね備えていること)。

1.過去の伝統から外れた独創による作品が理解されるのは、受け手のレディネスがないので非常に難しい。だから、優れた芸術家は伝統に則った“正統”という感覚を育てて人々と美を共有する道を選ぶ。また、そのようにしないと音楽的伝統は洗練されていない。伝統は守れば良いというものではなく、常に洗練という圧力にさらされて、アップデートされ続けなければならない。そのアップデート分が“独創的”と判断される部分なのだが、正統という感覚なしに洗練はなされない。人がまだやっていないことをやるのではなく、為されてしかるべきなのに未だ為されていないことを行なうことが正しい。

2.時代を超えて通用するというのは分かりにくいようだが、伝統に則った“正統”という普遍的なセンスを持つことが全てを解決する。その確認について土肥先生は「25年経てばわかる」と言った。当時高校生だった私には永遠にやってこない未来のような気がしていたが、25年過ぎてみると、それは物事がもっとも古びて見える年月のことだった。それを更に過ぎると、今度はレトロな印象になって再び受け入れられるものも出てくる。
 シェーンベルクは、弟子たちに徹底して古典を学ばせた。そうでなければ12音技法は伝統を受け継ぐ正統な音楽とならない可能性があることを知っていたのだろう。
 ドビュッシーは過去の音楽と断絶しているように見えるけれども、バッハと前後して演奏されても違和感はない。これこそが、似ているかどうかではなく、正統な音楽であるかどうかこそが重要である証左だろう。
 20世紀後半に書かれた“いわゆる現代音楽”を今になって聴くと、優れた作品とそうでない作品の区別がよく分かることだろう。作曲者自身が分からずに書いた「不協和音があれば現代風(しかし音楽語法は昔のまま)」というデタラメ音楽は、聴いた途端に恥ずかしく可笑しくて、思わず吹き出してしまいそうだ。そうかと思うと、当時は分からなかったけれどもこんなに素晴らしい作品だったのかと感嘆させられる作品もある。時代の波に洗われるというのは、作品の優劣などが顕著になってくるということなのだろう。

3と4.芸術と娯楽は相反する概念ではないが、芸術と通俗は対立する。ゆえに通俗を好む人は、その一点によって芸術とは一線を画した道を進むことになる。通俗とはその時代にしか通用しなかったり、最初はいいと思ってもいずれ飽きてしまう、あるいは後で恥ずかしさのような感覚がやってくるセンスである。過去のすぐれた作品に深く触れることによって通俗性からは離れることができるはずだが、それすら難しい人々がいることは事実である。
 娯楽性は、楽しさ、期待感、躍動感、分かりやすさ(晦渋ではないこと)などの要素からなる概念で、芸術性に対して決して劣る概念ではない。もし、ショパンやベートーヴェン作品から娯楽性が消え去ったら、その魅力はすっかり失せてしまうのではないだろうか。“いわゆる現代音楽”が人々に受け入れられ難かった最大の理由は不協和音への無分別な“忌避音(avoid)”の使用であったと考えているが、娯楽性への不寛容も挙げられるのではないか。

※忌避音について
 本来、不協和音は魅力的なものである。機能和声学上の和音を色にたとえると、3原色の単色が完全協和音、2色の混色が不完全協和音(ドミソなど)、そして3色混色が不協和音(7以上の和音)ということもできるだろう。巧みな3色混色はパステルカラーのような色合いを生むが、デタラメな混色はどれもグレーのような色になる。色から色相を奪ってしまう絵の具に相当するのが忌避音である。どれが忌避音であるかは、前後の文脈によって変わってくるので一概には言えないが、次のように考えると分かりやすいのではないか。
 13の和音には音階上の7音すべてが登場する。もし、I 度からVII度まで全ての和音を13の和音にしたら、全ての和音が同じ構成音で配置だけが異なることになる。つまり、全て同じ和音に聴こえてしまう。ここから忌避音を除いていけば音楽的な意味が見えてくることだろう。忌避音がそれで全て説明できるわけではないが、限られた文字数で言うとそのようなこととご理解いただきたい。

 さて、上記の文章が正しいとは限らない。あるいはあなたの同意を得られるとも限らない。実は、それはどうでもよい。事実から学ぶ力がなければ、その人はたったひとつの真実に到達することもないからである。この文章を読んで、何か変だと感じてもそれだけではどちらが正しく、また間違っているのかは判断できない。事実と照らし合わせて確信できなければ意味がない。しかし、自らの考えを確認するよいきっかけにはなることだろう。

その3へ続く


 野村茎一作曲工房

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2010年07月16日

音楽コラム 2010-07-17 音楽コラムまとめ その1


 音楽コラムもバックナンバーが増え、新たに作曲工房サイトにたどり着いた方が全てを読み返すのは現実的ではなくなってきた。
 そこで、音楽コラムを要約すべきと思い立った。
 
1.考えるとはどういうことか

 私は作曲の師である土肥 泰(どい・ゆたか;1925-1998)先生に出会うまで、自分がかつて一度も考えたことがなかったなどということには思い至ることがなかった。
 それまでの私は、質問されれば“思いついた”答えを答えていたにすぎなかった。
 私は彼のところに音楽を学びに行ったつもりだったが、2つの大きな勘違いをしていた。ひとつは知識と理解の違いに気づいていなかったこと、もうひとつは音楽そのものは“習えない”ことに気づいていなかったことである。
 知識と理解に関しては、次のような例を挙げることができる。

「モーツァルトは天才か?」「そうだ」

 これで、あなたはモーツァルトが天才であることを心の底から納得できるだろうか。
 仮にさらに詳細な説明を受けたとしよう。モーツァルトイヤーであった2006年にはモーツァルトを特集したテレビ番組が数多く報道されたけれど、天才の理由についてモーツァルトのソルフェージュ能力について多くの時間を割いていた。ソルフェージュ能力だけについて言うならば、サヴァン(賢人)症候群と呼ばれる一部の人々が我々を驚嘆させる能力を発揮している。高いソルフェージュ能力も天才の証のひとつかも知れないが、それだけで天才を説明するには無理がある。
 天才を測るには次のような説もある。

1.極めて早熟であること
2.並外れて高い技術を持っていること
3.発想が全く独自であったり、かけ離れていること
4.問題から直接答えに到達すること
5.時代に先駆けていること

 上記5つの条件に3つ以上当てはまることが天才の最低条件とするものである。
 ところが、ここにも問題がある。どれひとつをとっても客観的な尺度がない。(1)早熟と言っても達成した年齢を指すのか、あるいは内容を指すのか。モーツァルトの交響曲第1番が8歳の時に書かれたことが話題にのぼるが、本当に話題とすべきは、それが子どもの作品としてではなく、コンサートレパートリーとして現代のオーケストラによって演奏会で普通に取り上げられていることだ。なぜ人々に愛されているのかは、私たち自身が、交響曲第1番変ホ長調を深く理解する以外知る方法はなく、それは習うことができない。
(2)また、モーツァルトは作曲技法に関する非常に高い技術を持っていた。特にポリフォニーに関しては、バッハ作品に出会ってから極めて短期間にその音楽的重要性を理解し、たちまち優れた作品を書き上げた。しかし、私たちはそれがなぜ重要であり、優れているのか説明できるだろうか。これもいくら説明を聞いたところで自らが到達する以外ない。
(3)発想が全く独自であったか、という問題に答えるのは凡人たる私には荷が重すぎる。何か言えることがあるとすれば、それは彼が自らが出会った作曲家や作品からたちまち学んでしまうという能力があることだろう。さらに、それに沿ってオリジナルよりもすぐれた作品を書いてしまう。初期の交響曲はクリスチャン・バッハの作品と区別できないようなものがあり、その後にはシュターミッツの影響を受けた交響曲、またさらにハイドンとお互い影響しあっているように思われる。単なる真似でないことだけは確かだが、彼の発想が独自であったかどうかも我々自身が自ら結論に到達しなければならない。
(4)問題から直接答えに到達することもモーツァルトにはあった。たとえば、K.545第1楽章のソナタ形式の部分動機作法に関しては、モーツァルト自身気づかぬうちに書いていたようにさえ思える。ベートーヴェンは、モーツァルト作品のその点に着目してソナタ形式を単なる時系列構造で表せない有機的構造を構築した。しかし、それが本当にそうなのかどうかも、私たちが真に納得できるまで追究しなければならない。
(5)モーツァルトが時代に先駆けていたかということは判断が難しいが、ベートーヴェンが英雄交響曲で行なったような、後につづく作曲家たちの意識改革のようなことはなかったように思える。これとて、確信できるまで考え続ける必要がある。
 このように書いても、全ての読み手がモーツァルトの天才に到達できるかどうかは分からない。分かった気がしたのか分かったのかは次のようなテストで少しは判断できるだろう。
 一例として「魔笛」のスコアを示されて「いくら時間がかかってもかまわないからモーツァルトの天才を確認できる優れた点を明示して欲しい」と言われたら答えられるだろうか。もちろん、答えられる人もいることだろうし、答えられない人もいることだろう。その両者の差は、考えられるかどうかの違いだけである(ただし、天才はこの限りではない)。

 考える第一歩は、考えの基となる“概念”(イコール言葉)が明確であることだ。
 “学ぶ”という言葉は「知る前と知った後、あるいは理解する前と後とで行動が変わること」である。だから、私が“学ぶ”と書いたら厳密にその意味で使っている。
 “愛する”という言葉は「その価値が分かること」である。だから「自然を愛する」と言ったら「自然の重要性、価値を理解し認めていること」になり、自然破壊が起こると猛然と反対して行動に出たりする。「家族を愛する」も「音楽を愛する」も同じ意味である。愛することは全て自己基準であり、他人は関係ない。だから、かなり何かを愛せる人は自ら考える優れた人であると言えるだろう。
 「成績が良い」と「頭が良い」ことの違いは次のように説明できる。成績がよい人は知識を無批判に受け入れて、たとえば天動説のテストで100点を取る。それに対して頭が良い人は天動説の矛盾を見いだして地動説にたどり着く。天動説にも地動説にも多くの学説があるので、アバウトな例ではあるのだが、説明としては事足りると思う。
 さて“考える”とはどういうことだろうか。それは「思考が正解への道筋をたどること」である。だから誤った答えに向かった場合、それは考えていなかったことになる。「下手の考え休むに似たり」である。考えるためには、論理の構築に使った用語(概念)が明確であり、誤りがないことが前提である。

 初歩の数学(算数)では使われる数字や記号の定義が明確であるがゆえに、答えが厳密に決まるのはそのような理由からである。
 サモスのアリスタルコスは、太陽と月の距離について考えた。太陽のほうが遠いのは日食によって明らかである。太陽は自ら輝いているが、月は太陽の光を受けて光るために満ち欠けをする。ということは、半月の輝面は太陽を向いていることになる。つまり、太陽-月-地球の作る角が直角になった時(それぞれの星を頂点とした直角三角形になる時)に地球から半月を見る事ができることになる。それで、アリスタルコスは半月時の月と太陽の位置を観察した。しかし、予想に反して太陽-地球-月の為す角も直角のように思えたのである。それがあり得るのは太陽がとてつもなく遠くにある時だけだ。アリスタルコスは「少なくとも太陽は月よりも20倍以上遠い」と記している。にもかかわらず月と同じ大きさに見えるということは、事実は太陽が非常に巨大な天体である可能性を示していることになる。
 それで、アリスタルコスはそのような遠方にあり、かつ巨大な太陽が一日で地球の回りを公転することの不自然さに思い至り、人類史上初の地動説(太陽中心説)に到達した。今から2000年以上も前のことである。
 これが「考える」ということの一例である。

その2へつづく

 野村茎一作曲工房
ラベル:お薦め記事
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2010年06月30日

音楽コラム 2010-06-30 ソナタを書く


 器楽曲としてのソナタの定義は時代によって異なり、研究者たちはそれらを詳細に調べあげて「ソナタ」について説明しようとすることだろう。
 しかし、現代の作曲家がソナタを書こうとする時、研究者とは全く異なる視点からソナタを捉えようとするはずである。
 私にとってソナタとは「組織だった音楽を追究する」という宣言である。だから、たとえば多楽章であるか単楽章であるかという問題などは大きな要素ではなくなってしまう。それは全ての楽章に同じDNAから構成される主題を用いれば(組織だった構成をしようとするとしばしば行われる作法)、その時系列構造は第1楽章が提示部、最終楽章が再現部となって、単楽章にも多楽章にも聴こえてしまうからである。記譜がどのような形であれ、問題はどのように聴こえるかのほうが優先する。
 まず、なぜソナタが「組織だった音楽」であると主張するのかということから説明すると、私が優れていると感じた音楽史上の「ソナタ」が、どれも組織立った構成をとっているからである。そうでない作品も数多くあるが(むしろ、組織立っていないソナタのほうが多、多数決ならば「ソナタは決して組織立っているわけではない」ということになる)、それは作曲者の指向や能力の問題であって、そういう曲から学ぼうとは思わない。
 そして、ソナタには最低1つはいわゆる「ソナタ形式」の楽章が必要である。なぜならソナタ形式こそ「組織だった」音楽を追究するために生まれ、発展してきたツールだからだ。
 次に「組織だった」という意味について書く。もっとも組織立っている例が生き物である。「心臓は邪魔だからいらない」というような人がいないように、生物はさまざまな要素が全てお互いに必要な機能を持って働いて初めて命を宿す。さらに全ての細胞が同じDNAで設計されており、猫には猫の耳や尻尾があり、馬には馬のパーツが備わっている。
 だから真に組織だった音楽は「生きている」かのように感じられることだろう。本来は全ての音楽がそうあるべきなのだろうが、それを実現しやすい形式が、今のところソナタ形式であると感じている。
 ソナタを追究する時、書物をあてにしてはならない。多くの場合、そこには著者の勘違いと能力の限界が記されているに過ぎないからである。仮に、ベートーヴェンが自作ソナタの解説書を書き残していたとしても、その説明よりも実際の楽譜のほうが遥かに多くを語っていることだろう。モーツァルトに至っては、ひょっとしたら自分がどんなに偉大なことを成し遂げたのか気づいていない可能性すらあるのではないか。なぜなら、彼には音楽美的な駄作はないと言えるかも知れないが、構造的な傑作と駄作が混在しているからである(構造的傑作例 K.545 構造的駄作例 K.333 ただし、一般的にはどちらも名曲)。彼が組織だった音楽を確信していたとしたらそのようなことは起こらないだろう。ベートーヴェンは、歳を経るにしたがって構造が緻密になる。ここでいう緻密とは「密度が上がって精密さが増す」という意味ではない。一筆書きのような、あるいは雪舟が涙で描いた鼠のような、簡単な構造をも含んでいる。つまり、簡単なことをやっても緻密に感じるということだ(弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調を始めとする後期弦楽四重奏曲など)。

 時系列構造は決して軽んじるべきではないが、おおかたの書物がソナタ形式を時系列構造で論じている。つまり1次元(線)的な視点である。
 しかし、ソナタ形式の本質はそこから先にある。
 部分動機作法によってソナタの全主題(コーダを含む)のDNAが統一されれば音楽は2次元(面)的な広がりを持つことになる(ラヴェル「弦楽四重奏曲 ヘ長調」などに顕著な例を見る事ができる)。ただし、各主題は変化してコントラストを持たなければ意味がない。統一(共通性)と変化(コントラスト)は、そもそも同時には成り立ちにくい概念ではあるけれど、過去の大作曲家たちは果敢にもそれに挑戦してきた。そして、それらの共通性がありながらもコントラストを持つ複数の主題が対位法的に同時に提示されたら、それはもう3次元(立体)的な構造と言えるだろう。
 ここで少し音楽的パースペクティヴ(遠近法)について説明しておく。
乗り物に乗って移動すると(歩いても変化が遅いだけで同じだが)、近景は素早く動くのに遠景はゆっくりとしか動かない。アニメーションなどでもその手法で距離感を表現するが、音楽も同様である。バッハの「フーガの技法」にある「2(3)種類の時価による反行フーガ」や「新主題と原形主題による4声の2重フーガ」は立体感たっぷりに聴こえる。時代が下るとそのような作品は数多く書かれるようになるが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章の再現部などが良く知られる例だろう。ちなみに、ピアノが弾く第1主題の対旋律は第2主題の部分動機の発展形で、展開部で周到に準備されている。
 最後にひとつだけ付け加えておくと、循環形式(複数の楽章に渡って同じ主題が用いられる形式)と部分動機作法、あるいは細胞音形による主題労作は似ているようで全く異なる。循環形式は変奏曲の一形態であり、部分動機作法は変奏曲にならないための技法だからだ。ゆえに、両者は矛盾なくひとつの楽曲の中に収めることもできる。

 こんな大口を叩いてしまったのだから今更言い訳をする気などない。誰が何と言おうと作曲家は作品で勝負しなければならない。形式や構造がどんなに緻密であっても音楽そのものが美しく魅力的でなければ意味がない。それは常日頃主張しているように、音楽を後世に伝えるのは「(時代を超えて)その曲を演奏したいという演奏者の強い動機と聴きたいという聴衆の欲求」だけだからだ。
 だから、作曲家の才能と言った時、それはソルフェージュ能力でも記憶力でもなく、どのような音楽を好むかを指す。
 
私のソナタ形式の楽章を含む主な作品リスト
・ソナチネアルバム(未刊)全10曲(1983-2010)
・ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ(1996)
・オーボエとピアノのためのソナタ(1999)
・アルトサクソフォーンとピアノのためのソナタ(2000)
・4手のためのピアノソナタ(2004)
・フルートとピアノのためのソナタ(2007)
・2台のピアノのためのソナタ(4手ソナタの改稿/2010)

上記リストのほかに「ウラノメトリア・シリーズ」第3巻アルファに「初めてのピアノソナタ」、第3巻ガンマには「一楽章のソナチネ(連弾)」が収録されています。

追記:今年(2010年)9月には「フルートソナタ」が、11月には「2台ピアノのためのソナタ」が演奏されます。詳細が分かり次第、野村茎一作曲工房HP(エントランスのお知らせ掲示板)で告知します。
 

 野村茎一作曲工房
ラベル:作曲
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2009年10月24日

音楽コラム 2009-10-23 サプリメントにたとえると

  
 生命活動が継続できる理由は、その仕組みと栄養、環境の3つにまとめることができる。昔、少しだけ栄養学をかじったことがあるのだが、生命を維持している物質、つまり“栄養”については分かっていないことがまだまだたくさんあるということを知った。他の科学と同じように栄養学も前途に茫洋たる謎の海が広がっているということだ。
 我々は塩など一部の無機塩類を除けば、生命を食べて生きている。考えてみれば、それは極めて当然のことであり、まさに自然の摂理であることがわかる。生きている生き物は、その体内に生命活動に必要な全ての栄養素をもっており、それを食べた生き物は必要な栄養素を摂取できるからである。中にはユーカリしか食べないコアラ、笹ばかり食べているパンダのような動物もいるが、彼らはそれを材料に体内で必要な栄養素を生成する能力を持っている。だから、笹しか食べないパンダを食べても笹を食べたことにはならない。
 栄養学が謎を解明しようがしまいが、私たちが新鮮な動植物を“過不足”なく食べていれば命は維持できる。しかし、実際には社会の進歩(実は退化?)とともに、人々は保存食品や加工食品に頼る割合が飛躍的に増えた。取れたて野菜と遠くの産地から運ばれてきた野菜の差は含まれる栄養素にある。栄養素(特にビタミン類)は種類によって壊れる速さが異なるので、人々は壊れやすいビタミン類を摂りにくくなった。加工食品も同様で、加工するとすぐに壊れてしまう栄養素は摂りにくい。
 おそらく、そこで登場したのが栄養を補助するサプリメントなのだろう。
 ところがここには大きな問題がある。サプリメントには人類が知っている限られた特定の栄養素しか入っていないのである。そして、摂るべき量は目安はあっても実は誰も知らない。
 誰でも、常に新鮮な食材による食事を続けることは容易くない。特に現代においては、その傾向が著しいことだろう。だから、緊急避難としてサプリメントを使うということは充分あり得ることで、サプリメントは生活の“お助けアイテム”とも言える。しかし、深く考えることもなく毎日習慣として(漫然と)サプリメントを常用している人は、いずれ栄養バランスの悪さが引き起こすなんらかの悪影響を受けることがあるかも知れない。
 これを音楽に置き換えるのは無謀なようにも思えるが、浮き彫りになってくる問題もある。
 自然の食材を実際の楽曲、サプリメントをテキストや理論であるとすると栄養学と似たような構図になる。
 以前も書いたが、ソナタ形式について説明している楽式論のテキストは、その多くが時系列構造に重きを置いている。それは、著者が実際の楽曲からソナタ形式をそのように読み取ったから、あるいはそのように習ってきたという“負の連鎖”によるものかも知れない。時系列構造の次には主題労作に代表されるような部分動機作法が扱われる。ところが、そこでは「この曲ではこのようになっている」というアナリーゼに終始している場合が多く、なぜそのように使われたのかという核心に触れる記述は、私が読んだ限りではほとんどない。唯一、明確に理由を述べているのは、これも以前述べたルードルフ・レティの「ベートーヴェン・ピアノソナタの構築と分析」(音楽之友社)だけである。しかし、この書を持ってしてもベートーヴェンのピアノソナタを語り尽くすのは不可能である。
 結局、テキスト(サプリメント)だけでは楽式の本質を理解して身につけることはできない。秘密は実際の楽曲の中にだけある。ベートーヴェンを知るためにはモーツァルトの楽曲が必要になる。なぜなら、ベートーヴェンはすでに少年時代にモーツァルトの楽曲から秘密を探り当てているからだ。彼らの曲を漠然とアナリーゼしても何も見えてこないことだろう。しかし焦点を共通する点に絞って見ていけばいろいろなことが見えてくる。ベートーヴェンの凄さはモーツァルトが何を重要であると考えていたかを見抜いたことである。まさに“天才は天才を知る”とはこのことだ。もし、2人の共通点が見つからなければ(たいてい見つからないのだが)、グリーグやラフマニノフのピアノコンチェルトやラヴェルの弦楽四重奏曲、ドヴォルザークの後期の交響曲などを参考資料としてもよい(問題はどこを参考資料とすべきかである)。ここに挙げたのは非常に分かりやすい例であるが、彼らもそれに気づいており、ここでも私たちはベートーヴェン、モーツァルトとの共通点を探すことに絞り込んで力を注けばよい(モーツァルトやベートーヴェンに対する聴き込みが足りないのは論外なので念のため)。
 それでも分からなければ聴き込みが足りないか、あるいはあなたに音楽家としての基礎的な訓練が不足しているかのどちらかだろう。
 ここで基礎的な訓練の内容について書く余裕はないが、初めて聴いた曲のおおよその時代様式が分かったり、あるいは主要主題がどれとどれであるのかが分かるというようなことである。重要な部分動機の区別がつくようになればなおよい。
 これらが食事で言えば主食と副食であり、テキストがサプリメントだろうか。実際の楽曲をあたると、構造以外の要素まで全てを学ぶことができる。そもそも楽曲は構造だけで存在することはできない。
 私は作曲のレッスンでテキストを使うことは稀である。多くの場合、実際の楽曲を使い、どこを見てどこを聴くべきかということをピンポイントで提示する。すると、少なからぬ人が自分でも実際の楽曲から学ぶことの意味と方法論を見いだす。
 これが最大限に生かされるのが管弦楽法だろう。テキストが役立つのは各楽器の音域と、演奏不可能なトリルや反復音を知ることくらいであって、それ以外のことはどうでもよい。各楽器について知るためには、その楽器のエチュードがよい。各楽器にはピアノのハノンに相当する技術練習曲が用意されており、それは楽器を知る上で非常に役に立つ。
 しかし実際の楽器の魅力を知ることができるのは、すぐれた作曲家の実作品だけである。
 ここで気をつけなければならないのは、その曲を作曲した作曲家について学ぶのではないということだ。そうでないとあなたはその作曲家の亜流になってしまうかも知れない。天才作曲家というのは“何が重要であるのか”を知っている作曲家のことである。学ぶ側の私たちにとっても、まさにそれが知りたくて彼らの曲から学ぼうとするのだ。簡単なようだが、その区別は難しい。それができれば作曲は独学でもなんとかなるかも知れないが、これはかなりクオリアの要素を持っているので、人によっては非常に難しいかも知れない。
 芸術において最大の要素となる“インスピレーション”は、この“重要なこと”から生まれる。事実に基づかなければ実現しないのは自明の理であり、どうすればよいのかが分かることが“インスピレーション”の正体である。
 このように書いてくると音楽理論軽視のように思われてしまうかも知れないが、音楽理論は習得済みであることが前提である。音楽理論も奥が深く、追究をはじめるときりがないのだが、本当に重要なことが何であるかが分かれば、理論で足踏みすることはない。
 それについては、別のタイトルを設けて述べることもあるだろう。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月21日

音楽コラム 2009-10-14 “音楽”には聴こえる

 
 タイトルは、前述したように、作品を持って師を訪ねた私が最初に言われた言葉。
 高校生だった当時は意味を測りかねたが、今は心底分かる。身体で分かる。そしてそれが分かるようになったことが私の成長の全てである。
 新進気鋭の美術家の展覧会に行くと、その中の少なからぬ作品(つまり作家)が、ありふれた日常のなかの美にさえ気づいていないことが分かる。
 私たちの身の回りには美的センスがあふれている。まるで鑑賞の対象になど考えもしないような箸や茶碗、障子、畳に至るまで長い伝統を持つものは洗練された美しさを持っている。大量生産の工業製品にさえ見事な美意識が息づいていたりする。
 芸術家は、まずこれらの美に誰よりも先に気づき、時の流れが美を洗練する力を畏怖し、それを乗り越えて消化すべきだろう。
 その基盤の上に立って(真似をするという意味ではない。そういう美しさを身体で覚えている人が鑑賞者の中に少なからず存在することを肝に銘じて)、創作物を発想しなければならない。
 仮に高い技術を駆使して写真のようにリアルな描写で絵画を仕上げても、安っぽい印象があったら人々は称賛を送ることはないだろう(真に高い技術は、それ自体称賛の対象であるが)。私たちが求めている美は、限りなく洗練されたセンスによって生み出された発想によるものであって、ちょっとした思いつきや小綺麗といったものではない。
 音楽に置き換えてみよう。「たこたこ上がれ」のようなわらべ歌でさえ真剣に取り組むと、その凄さのあまり、到底到達できない高みをそこに見てしまう。「これと並ばなければならないのか」と、思わず戦意喪失しそうになるほどだ。
 高校生の頃の私は、そのようなことに全く気づいていなかった。気づいていないどころか、美を勘違いしていた。だから怖いものなどなく、平気で曲を書くことができた。
 平気で曲を書くということは、崖っぷちで写真を撮っていて、ファインダーを覗くのに夢中で崖っぷちの存在を忘れているようなものだ。まわりはヒヤヒヤものだろう。
 作曲を習い始めてからも、私の書いた曲はずっと「“音楽”には聴こえる」というレベルのものだった。音楽理論を学んで、それらをある程度自由自在に使えるようになっても、なお音楽的向上はなかったに等しい。
 しばしば「天才は教育では育たない」と言われる。しかし、天才は生まれつきと断言することもできない。極端な例だが、仮にモーツァルトを生まれてからずっと外界からの刺激の少ない薄暗い部屋から出さずに過ごさせても、我々の知っているモーツァルトになったろうか。それはなさそうな気がする。天才と言えども後天的に獲得する能力は少なくないはずだ。
 天才を育てるのは自然と人間社会そのものなのではないか。だから、天才は野に放てば育つ。自然の美しさ、人間が時間の経過とともに生み出してきた伝統美。天才はそれらに気づき、それらから学んで天才になっていく。つまり、事実が天才の師でありテキストである。
 優れた凡人は伝統を継承する。しかし、天才は伝統の未来を照らしだす。駄目な凡人は伝統から外れた道に迷い込んで、そこから出られなくなる。
 人間社会に継承されてきた伝統美は、おそらく自然界の美のルールに従っている。だから全く文化的交流がなかった他の国でも通用したりするのだろう。
 “好み”の問題を持ち出す人もいるが、その“好み”の正体の多くはレベルの高低をそのまま表していたりする。

 野村茎一作曲工房
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2009年10月13日

音楽コラム 2009-10-13 真の“オリジナリティ”にたどりつくために

 
 今までに何度も述べてきたオリジナリティだが、今日は今までよりももう少し上手に伝えることができるかも知れない。
 作曲にしても演奏にしてもクリエイティヴな仕事に携わる人は、遅かれ早かれ「オリジナリティの確立」の問題に突き当たることだろう。
 そこで自らのアイデンティティやオリジナリティを確立しようと努力する。しかし、ややもすると“オリジナリティまでをも創作”しようとはしていないだろうか。つまり「これがオレのオリジナリティだ。決めた。今からそう決めたぞ」というような乱暴な決断が伴ったりする行為だ。そんなトラップにハマりこまないためにも次のようなことを考えてみていただきたい。
 人は生まれながらにして他人とは異なる顔、声、風貌、物腰、話し方、雰囲気などを持っている。つまり、すでに個性的なのである。顔だけなら似ている人もいるだろうが、上記の要素のほか、好きな食べ物、特技、趣味などまで全てが一致する人は極めて少ないことだろう。つまり、すでに私たちは誰もがオリジナリティを確立していると言えるのではないか。
 音楽で言えば、後は“心の耳”に従って自分自身を正確、かつ精密にデッサンしていくだけで自らのオリジナリティが浮かび上がってくることだろう。心の中にあるイメージを音にすることは非常に難しい。私たちの周囲にも、なんと内側にも雑音が充ち満ちているからだ。それらの雑音を排除できるのは“心の耳”だけだ。逆に“心の耳とは何か?”と問われれば、自らが真に望む音楽が聴こえる力であると答えよう。ベートーヴェンもショパンもドビュッシーも“心の耳”を持っていた。私は、それがトレーニングによって得ることができる力であると考えている。
 仮に“心の耳”によってあなた自身のオリジナリティが浮かび上がったとしよう。それが、なんとも落胆するような貧相なものだったらどうしよう。オリジナリティの真実は動かせない。
 しかし、同じ顔でもその人の生き方によって表情は変化する。話し方も行動パターンも、経験や志、覚悟によって大きく変わる。だからその時点におけるオリジナリティは如何ともしがたいが、将来のオリジナリティは変えることができるはずだ。そのためのトレーニングこそが本物である。もし、自らのオリジナリティに落胆したならば、自分が、いかにつまらないものに入れ込んできたのか、あるいは何を重要であると考えてくるべきだったということに気づくことだろう。逆に、自らのオリジナリティの凄さに気づくこともあるだろう。その時にはまっしぐらに進んでよいことになる。
 ピアニストは、毎日ピアノを弾いたからといって向上するとは限らない。作曲家も毎日作曲したからといって向上するわけではない。為すべきことを為した者だけが向上できる。それが分かるのは、心の耳で自らのオリジナリティの真実の姿を見いだした時だけであるのは間違いない。
 
 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月08日

音楽コラム 2009-10-06 師の言葉


 私が音楽に限らず人生全般の教えを受けたのは、土肥 泰(どい・ゆたか)先生という作曲家だった。
 師との出会いというものは、まさに“縁”や“運”というものであり、探して見つかるというものではないと感じている。高校時代の恩師に作曲の勉強をするためにたまたま紹介していただいたのが土肥先生と出会うきっかけだった。
 人生における私の成長は、ほとんど全て土肥先生から薫陶を受けた期間に果たされたと言っても過言ではない。
 それは私が高校一年生(16歳)の1971年6月から、先生が倒れられた3日前の1998年1月4日まで、途中の中断(就職時の多忙などによる)を除いても20年を超える歳月だった。
 先生が私に向かって一度たりとも馬鹿だと言ったり、私を軽んじるような態度をとったことはないが、それらの日々は私がいかに馬鹿で愚か者であるかを知らしめるに充分だった。
 ずっと以前の音楽コラムにも師の言葉について記したことがあるが、今回は特に重要と思われることだけを再記する。

 自作曲を持って初めて先生のもとを訪れた時、彼が楽譜をしばらくじっと見つめた後最初に発した言葉が「音楽には聴こえる」だった。

1.音楽には聴こえる。

 “音楽そのものへの理解”がなされなければ、この言葉は理解できない。私自身は何年もかかって、ようやく理解の糸口にたどりついた。そして、いまだ理解の途上にある。
 後年、先生は「作曲するということは新しい音楽美学について語るということだ」と言い、音楽美が単なる音並びから生まれないことを示唆してくださった。シェーンベルクもインスピレーションのない作曲行為の無意味さについて語っているが、先生も音並びによる曲作りには否定的であったと思う。実際に言葉では述べなかったものの、彼にとっては歴史に残る作曲家であっても、その多くが落第であったことだろう。私自身は、曲を褒められたことは一度しかない(ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ-1996)という不肖の弟子であった。

2.言われて分かることは言われなくてもたどりつける。

 それも当然のことで、今にして思えば私がレッスンに書いていった曲は、ことごとく未熟なものだった。直すべきところが多すぎるというというか、直すどころか根本的に曲として成り立っていないというようなひどい状態であったと思う。たとえば「この曲は始まっていない」と言って、先生が即興で大楽節をひとつ弾いてから私の曲を弾き始めると、見事に曲が成立する。即座に先生の言葉の意味が分かった。その私の表情を読み取って彼は「言われて分かることは言われなくてもたどりつける」と仰った。

 言われても分からないことは自らたどりつくことはできないが、言われて分かるということは、すでに判断の基準を持っているということだからただ単に詰めが甘かったということになる。作曲をするということは自分にできることを全てやり尽くすということであり、作曲するという行為はそれ以外のなにものでもない。

3.生涯に、君の曲をこのひとつしか聴くことがない人がいても悔いはないか。

 これは厳しい。
 ベートーヴェンやショパンなら、この言葉こそを待っていたことだろう。彼らは、この問いに対して控えめに、しかし、おもむろに頷くに違いない。しかし、いまだ私は頷くことができない。全力で書き尽くした曲を挙げることができないからである。この言葉の精神で曲を書く志を忘れてはならない。

4.聴く人の想像力の及ばぬところで仕事をしなければならない。

 作曲依頼を受けて、完成した作品を披露した時「まさに、こういう曲を期待していました」と喜んでもらえばよいのだろうか。クライアントが想像して期待できる範囲の曲ならば、その曲を書ける人は他にもいるかも知れない。だから真の作曲行為は「まさか、このような曲が生まれるとは想像できなかった」と感じさせるような作品を生み出すことである。毎日のように膨大な音楽作品が生まれる中、生き残るのは平均値から突出したものだけだろう。これは、本当に大変なことだ。

5.音楽を残し後世に伝えるのは出版社でも評論家でもなく、演奏したいと思う演奏家と聴きたいと思う聴衆だ。

 これも真の理解が難しい。難解な曲は聴いてもらえないからと聴衆に迎合するような曲を書いても、結局は忘れ去られてしまうことだろう。分かりやすさは重要だ。常にもっとも分かりやすい形で書くべきだろう。先鋭的で高度な曲は分かりやすく書いても難解になってくる傾向にあるが、真に適正な表現が行われているならば、それはいつか理解され評価されることだろう。易しい曲ならば、深い表現が可能であるように書くべきだろう。“子ども騙し”は芸術の世界では通用しない。調性音楽でも無調でも、技法やスタイルは問題ではない。それが演奏家や聴衆に響いて「演奏したい」「聴きたい」という強い心の希求を引き起こせば、その曲は時代を超えて愛されることだろう。つまり、本物でなければならないということだ。本物はオリジナリティに溢れており、オリジナリティの本質は過去に例がないということだ。過去に例がないからこそ人々の耳に留まる。しかし、それは“新しさ”という言葉だけでは言い表せない。
 本物の音楽は、演奏者も楽器も聴衆も全てを最大限に生かすことができる。ピアノのために書くならば、“ピアノ”という存在が最大限いかされ、演奏者の力も存分に発揮でき、聴衆の聴く力も存分に刺激するものでなければならない。パラドックスのように聞こえるかも知れないが、技術的に可能な限りやさしく書けば、とてつもない難曲も成立する。それができなければ、それほど難しくない曲でもピアニストは苦労して弾かなければならない。その結果、表現もおろそかになることだろう。その時重要なのは、その曲の内容がその技巧を真に必要とするかどうかである。ショパンは意味のない難しさや技巧を「新種のアクロバットに過ぎない」と言っている。

6.決定稿を書きなさい。

 先生は楽譜に熟達するよう仰った。
「演奏者にとって楽譜は絶対なのだから誤りがあってはならない」という言葉は何度も繰り返し聞くことになったのだが、誤りがないということさえ未だに実行できていない。これも未熟の証なのだろうが、決定稿を書くことはさらに敷き居が高い。
 楽譜を発表して作品が世に出たら、もう作曲家は手の出しようがない。どのように誤解されて演奏されても、知らないところで知らないうちに演奏されることが大部分だからどうにもならない。なるとしたら、楽譜を限りなく正しく書き上げることだけだ。先生は決定稿の水準のひとつの例としてドビュッシーの「前奏曲集第一巻」を示してくださった。
 
 ここに記した言葉は先生の言葉ではあるけれど、レッスンの時のものだけではない。正月などに遊びに行った時などの楽しい門下の語らいのなかで「作曲するっていうことは、言い換えれば新しい音楽美学について語るっていうことだからねえ、まあ一筋縄ではいかないよ」というようなちょっとした発言であったりもする。
 そういう言葉の重要性を直感して心に留めたことは誇りたい。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年09月17日

音楽コラム 2009-09-17 多声部を聴き取ると


 私を含め、無理解と勘違いが服を着て(たまに裸かも知れないが)生活しているのが人間なので、人は事実に触れるたびに驚いたり学んだりする。
 ここで言う“驚く”とは、事実が予想とは異なっていたことに直面した時の感情である。
 作曲家は、多くの場合ピアノが弾ける(形だけでも)ので、大部分の人がピアノ曲を書ける。右手の単旋律に左手の和声伴奏が付けば形の上ではピアノ曲になる。スカスカでも音楽には聴こえる。それを延々30分を要する曲として仕上げても、“長い曲”ではあっても大曲とは言わないだろう(ただし、サティのような特殊な才能があれば、楽譜上はスカスカでも音楽的には緻密なものが書けることは考慮しなければならない)。
 曲が長いだけでなく、楽器編成が大きくなれば大曲だろうか。確かに大編成のオーケストラによる長大な作品は無条件に大曲と呼んでしまいそうである。ここでは、その問題について作曲する側からの考察を記す。
 作曲のレッスンをしていて、学習中の誰もがぶつかる難題のひとつが多声部化の壁である。素晴らしい着想を持つ人でも、声部がひとつ増えただけで力が発揮できなくなることがある。歌は少し違う要素があるのでここでは除くが、独奏楽器とピアノによる曲を書くとピアノが単なる和声付けのための伴奏になってしまい、本来の多声部化が実現しないことがある。対位法を駆使しなさいということではない。音楽的に対等であるべきということだ。
 ピアノと最も相性(表現力が互角と言う意味で)が良い楽器はヴァイオリンではないかと常々思っているのだが、両者が対等の関係で音楽を構築していくことが最低限(最低限ですぞ)の条件だ。
 ここで話を一度ピアノ独奏曲に戻そう。ショパンやドビュッシーはアルベルティバス(ドソミソ音形)を使わない。人は右手と左手が分離しているので、ついつい伴奏とメロディーというような関係に扱いがちではあるけれど、前述した2人は右手と左手の協調性を重視して、10本指のためのピアノ曲を書こうとしている。
 そのまま自然に独奏楽器が加われば、たとえば「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」と呼ぶのにふさわしい曲となる。ヴァイオリンが明らかに主役ならば、「ピアノ伴奏付きヴァイオリンソナタ」だろう。
 これがなかなか難しい。フランクやブラームスのヴァイオリンソナタは、この点において良い手本となる。ヴァイオリンもピアノも非常に豊かな表現力を持っているので(弾き手の表現力も重要だ)、音楽史上の一流の作曲家の作品でさえ、その表現力には届かない音楽作品が少なからず存在する。
 しかし、まあ無事に独奏楽器とピアノが対等に響く曲を書くことができるようになったとしよう。次にはもっと高い壁がそびえ立つ。それは、2つの独奏楽器とピアノのための曲だ。いわゆる「ピアノ三重奏曲」である。
 少なからぬ曲について言えることは、本当に3人の奏者が必要なのかということだ。バロック時代の通奏低音付きソナタとは全く異なる概念の話である。曲を発想した時点で、それが3声部を必要とするものでなければ、3声部で書けるはずがない。また、一人たりともオマケの奏者を作ってはならない。そのためには、まず先ほどの「独奏楽器とピアノ」のための作曲を極める必要があるだろう。
 次なる課題は「弦楽四重奏曲」である。ここから先は少し話が異なってくる。ピアノを含む曲とは違って、各楽器はもともと対等ではない。バッハの「フーガの技法」のように完全に対等である曲も存在するが、各楽器のテリトリーがはっきりしてきて役割分担が生じてくる。ここからはオーケストレーション(管弦楽法)の世界に入る。弦楽四重奏が扱えるようになったら、もう管弦楽法について学ぶ時期が来たといってよい。
 もちろん、オーケストラ曲であるべき発想を持っているという前提での話である。
 管弦楽法など知らなくても、各楽器の音域さえ守れば誰でもオーケストラのスコアを書くことはできる。オケを鳴らすだけなら難しいことは何もないと言っても過言ではない。
 ところが、これまでの手順を踏まずにいきなりオーケストラを扱うと、ベルリオーズの「幻想交響曲」のようになってしまうかも知れない。幻想交響曲は、多声部化に成功していないにも関わらず音楽的に成功した交響曲のひとつと言えるだろう。ヴォーン=ウィリアムズの「交響曲第3番」やショスタコーヴィチの「交響曲第5番」を聴き込んでから「幻想交響曲」を聴くと声部の扱いの単純さに気づくかも知れない。だからと言って幻想交響曲が駄作であるとか失敗作であるということではない。これが芸術音楽の妙とも言える面白いところなのだが、発想の秀逸さが全てをカバーしてしまうこともあるのだ。ヴォーン=ウィリアムズの第3番がどんなに見事に多声化を実現していたとしても、幻想交響曲以上にファンを集めることはないだろう。幻想交響曲のほうがはるかに分かりやすいからだ。ヴォーン=ウィリアムズとショスタコーヴィチに共通していることは、オーケストラでありながら、いたるところに綿密な室内楽的アンサンブルがちりばめられているところだ。
 冒頭に“驚く”という言葉について書いた。オーケストラ作品をメロディーだけ追って聴いていた人が、作曲者の管弦楽法に対する見識と矜持に気づいた時、それはおそらく音楽人生がひっくり返るような驚きの体験となることだろう。
 いわゆる“ドレドレ感”(ペリオーデ)に気づいた時の驚きには及ばないかも知れないが、ドレドレ感の時と同様に「今まで音楽を知らなかったのかも知れない」という感慨に関しては共通のものがあるだろう。そして、ドレドレ感同様、知らなければ知らないで全く気にならない。
 私たちが天才作曲家たちに近づくのは、本当に大変なことであると常々感じるところだが、私などいつになっても近づけそうな気がしない。謙遜しているのではない。聴こえれば聴こえるほどゴールが遠ざかってしまうのだ。


 野村茎一作曲工房
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2009年08月23日

音楽コラム 2009-08-23(05-14) 自らの疑問に答える

  
 もし「私たちが一生の間に何をすればよいのか」と問われれば「自らの疑問に答えること」と回答するだろう。
 作曲するという行為を例にとれば、どういう曲を書けばよいのかは誰にも訊ねることができない。自らに問うしかなく、当然のことながら自ら答えるしかない。これを少しずつ広げて考えれば、どのように生きるか、あるいは今日なにをすべきかということまで、答えは自ら出すしかないという単純な原理がお分かりいただけることだろう。
 ところが、楽譜の読み書きのように人間が決めた共通ルールは他者から情報を得なければならない。また種々の実験によって明らかにされた物理法則などは、自らが全てを追試したり追体験することは有限の人生においては不可能なので、他者から学ぶことのほうが合理性がある。
 その区別は明解であるように思えて、その境界線ははっきりしない。
 たとえば楽式構造としてのソナタ形式は、他者から学ぶべき要素と独自性を発揮すべき要素が渾然一体となっている。ベートーヴェンのソナタ形式は見方によっては全て同じ法則に則っていると考えることもできるし、全てが異なるとも言える。ソナタ形式というのは、多少乱暴な言い方をすれば一般化された「人間心理の図式化」であり、ソナタ形式の曲を書くということは形式に則ることではなく、作曲者自身の心理の具体化である。だから優れた作曲家が先入観に囚われずに、心の耳に忠実に書けば全て異なって当然であると言える。
 「勉強すれば作曲できる」という考え方には無理があるが「勉強しなければ作曲できない」という言葉は当たっている。しかし、勉強しただけでは作曲のスタートラインに立つこともできない。作曲のスタートラインに立つためには、自分の中に答えなければならない疑問が必要だからである。その答えが“インスピレーション”である。
 内なる疑問を持ち、なおかつそれに答えようとしない者にはインスピレーションは訪れない。
 過去の偉大な哲学者、宗教者のみならず、偉人達の残した言葉は、全て彼ら自身の内なる疑問に対する答えである。それが広く普遍性を持つものであれば格言と呼ばれるようになる。
 それを絵によって答える者が画家であり、音楽作品で答える者が作曲家である。

※これは2009年5月14日に書いたコラムを加筆修正したものです。

 野村茎一作曲工房
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2009年07月26日

音楽コラム 2009-07-26 皆さんの質問にお答えして

 
 今までに皆さんからいろいろなご質問を頂き、その都度、レッスンやメールでお答えしてきました。なかでも最も多い質問が、平たくまとめて言うと「どのように作曲するのですか?」というものだった。
 さらに細かく書くと

1.メロディーと伴奏(和声づけ)は別々に思いつくのですか、同時ですか?
2.インスピレーションは空から降ってくるのですか、それとも内側から湧き出てくるのですか?
3.曲は、まず設計するのですか、それとも思いついた曲を後で形式を整えるのですか?
4.調性はどのように決定するのですか?
5.音楽理論を勉強することとと作曲することは別のことであるように思うのですが、どうしたら作曲できるようになるのですか?

 実は、質問を全部は覚えていないので多少違っているかも知れないが、おおよそこのような内容が多かったと思う。
 私は、それらにひとつひとつ答えてきたのだが、今日、急に“質問の意味”が分かった。過去の私の回答は的外れであったかも知れないので、今日はお詫びとともに訂正させていただきます。
 
 まず“私の”大前提。
「全ての芸術は事実から乖離(かいり)しては成り立たない」
 ここからスタートしたいと思う。芸術ではないが、生命は最も巧妙なからくりであり、必要な機能が全てが正しく働かないと“生命という現象”は継続しない。音楽も似たようなところがあるだろう。
 私は質問の「メロディーと伴奏」の意味を勘違いしていたかも知れない。楽譜に書き留める時に便宜上パートを分けたり、ピアノなら右手・左手のどちらで弾くかという分業をしなければならないが、音楽を思いついた時、メロディーとか伴奏という区別はないことが多い。それどころか、音楽を発想する時にメロディーも和声も後回しである。そんなものは案外些細なことで、大切なのは、その音楽がもたらす私たちへの影響である。誰もがそれについてうまく言えないので「わあ、いい曲!」と表現する“それ”である。だから“それ”のことしか考えない。
 “それ”を音で表現するために、私の中で全てが繋がってまとまるのを待つ。ボケっと待つのではない。植物から澱粉を取り出すために細かく砕いて水に晒して沈殿を待つ、というようにきちんと手順を踏んでから待つ。その手順というのは物や情報の整理と似ている。膨大な量の荷物や情報をいきなり整理しようと思ってもできない。まず、何があるのか知ることが先決で、ひととおり分かったところで頭の中でそれらの情報が熟成するのを待つ。すると、ある時、全てが一連の情報として繋がった全体像が見えてくる。そうなってから整理すれば迷いがなく、その時の基準が後で役立つ情報となる。
 さて“それ”がはっきりしてきたら、必要な音の群れは自動的に生成される面がある。これは恣意的にやっても駄目。だから「曲が空から降ってくる」というような伝説(誤りとは言えないかも知れないが、説明不足)が生まれるのだろう。
 最初に述べたように、音楽には科学的側面(事実との整合性という意味で)がある。よって、全ての音の連なりが音楽的生命を持つように組み合わされなければならないので、答えはほぼひと通りしかないと言えるくらい。もし、目指す“それ”が凄い力を持っていれば、その解となる音並びの印象は強烈なものになる。それは聴くひとの心に楔(くさび)を打ち込んでくるような存在感があり、選択的に心に残る。ベートーヴェンの“月光ソナタ”第一楽章は、音並びは単なるミラド(嬰ハ短調読み)の羅列だけれど、ミラドから発想したのではあれだけ強い印象にはならない。発想の根本には“それ”があったからこそのミラドなのである。
 インスピレーションは何もないところから降ってくることはない。歯車の役割と組み合わせを考え続けていると、ある時、求める動きをさせるにはどうすればよいかが分かってくるのと似ている。
 だから、曲の形式も調性も自ずから定まってくる。楽式論などに頼る必要もないくらい、動機や主題はすでに各細胞のDNAのように全体像の情報を含んでいるものだ。こちらの勝手な思い込みで無理やり音楽を構成していってもどこかに無理が出ることだろう。作曲家は、科学者が本当はどうなっているのかを突き止めようとするのと同じように、音楽における“それ”の本当の正体を追求するということなのだろう。
 むしろ分かりにくくなってしまった方もいらっしゃることだろうが「そういうことか!」と閃いてくださった方もあるのではないかと秘かに期待。
 過去、ご質問いただいた方々に、ひとつひとつの問題として個別に答えてしまいましたが、どれも答えはひとつでした。お詫びするとともに訂正させていただきます。


 野村茎一作曲工房
 
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2009年05月13日

音楽コラム 2009-05-12 注意深く聴くこと その2

 
 モーツァルトを聴くと、それだけでIQが上がるという研究がある。「音楽を聴いただけでIQが上がるわけがない」と思われる方もいらっしゃるだろうが、実際には音楽を聴くということは脳を総動員しなければならない行為である。念のために断っておくと、ここで言う「音楽を聴く」とは音楽が流れている空間にいるということではなく、聴く人の脳内で音楽が再構成されて認識されているという状態をさす。
 別にモーツァルトでなくともよい、と脳科学者の茂木健一郎さんは仰っている。要するに、単なる空気の振動の中から“音楽”を認識するという行為が重要なのである。
 モーツァルトが例に出されたのは、誰にでも分かりやすいからだろう。ところが、このモーツァルトでさえ、本当に聴こうとすると大変な集中力が必要となる。
 ピアノを習って少し上手になると弾く機会の多いK.545ハ長調ソナタ第1楽章を例にとろう。ドーーミーソー/シードレドー/〜という曲である。
 もっとも単純な聴き方はメロディーを順に追っていくもので、おそらく誰にでもできるモーツァルトを楽しむ聴き方だろう。
 少し注意深く聴くと、この曲の大まかな時系列構造が分かってくる。ハ長調の第1主題、ト長調に転調したところで第2主題、そしてコデッタ(小結尾)で一度曲を閉じたように感じるところが提示部の終わり。ト短調で展開部が始まり、コーダの音形が展開されていく。そして第1主題が戻ってきたら再現部である。
 さらに注意深く聴くと、細かい時系列構造が分かってくるかもしれない。「かも知れない」と言ったのは、ここから先は独学では聴こえない人の存在が予想されるからである。
 最初の4小節(楽譜を見たことがない人には8小節に聴こえるかもしれないが、それは誤りではない)で第1主題が示され、次の4小節ではスケールによるゼクエンツが経過句として現れる。属調への転調後に現れる第2主題は、第1主題と同様に「繰り返し構造」である。そして、アルペジオによるゼクエンツがやってくる。これは、漢詩で言うところの「対句表現」であり、漢詩や欧文詩に使われる「韻を踏む」という印象もある。その後に現れる、コデッタを導く4小節の簡潔な経過句は、前半が第1主題、後半が第2主題でできており、先ほどの対句表現の「縮小形」とも言える見事な処理となっている。そしてコデッタ。
 作曲家の耳で聴くと、さらに詳しいことが分かってくる。
 第1主題は3音からなる部分動機aと、続く4音からなる部分動機bから構成されている。主題の確保となる3、4小節目の終わりにはトリルが付加される。楽譜をお持ちの方はぜひとも楽譜と見比べながらお読み頂きたいが、第1主題の冒頭はC、2小節目の第1拍はH、3小節目第1拍はA、第3拍はG、4小節目第2拍はF、第3拍はEとなっている。つまり、ハ長調の音階が徐々に短縮(加速)されながら順次進行で下降している(作曲家は、こういう単純さにこそショックを受ける)。続くスケール・ゼクエンツは3、4小節目のA-G-F-Bが各小節の冒頭にやってきて、この経過句が第1主題と有機的なつながりがあることを示す。11小節目に現れる「シ・ソミド/シ・ソミド」は、第2主題を誘導しているが、それは第1主題の部分動機a「ドミソ」の逆行形の縮小形であり、実際に第2主題は「移動ド」で歌えば「ソミドー」という第1主題部分動機aの完全な逆行・1/2縮小形で始まる。第2主題第3番目のCから始まるリズムは、第1主題部分動機bと同一であり、第2主題が第1主題の部分動機を操作することによって生まれたDNAを共有する主題であることが明らかとなる。そして、対句表現となるアルペジオによる華麗なゼクエンツが続き、それは簡潔だが見事な経過句(22-25小節)によってコデッタに導かれる。そして最大の驚きがコデッタで待っている。コデッタの2拍目から、音価を半分にした第1主題をト長調で歌いながら弾いてみていただきたい。このコデッタが第1主題のヴァリエーション(部分動機操作とは異なる)であり、第1主題そのものであることがお分かりいただけることだろう。つまり、このコデッタ主題によって、第1楽章が全て第1主題のDNAだけで構成されていることを知ることになる。「展開部は第1主題ではなく、コーダによっている・・・」という解説がしばしば見受けられるが(おまけに、そういう奇抜な発想こそがモーツァルトの天才たる所以であるという主張までが付加されている)、コデッタ主題が第1主題であるから、展開部で用いられているというのが正しいことになる。
 音楽を聴くということが、実は単純なことではないことがお分かりいただけたことだろう。音楽書を読んでいくら知識を増やそうが、注意深さと洞察力、気づきがなければ音楽の力が増すとは思えない。音楽を聴くとIQが上がるというのは、聴き方しだいではあるが、事実だろうと思う。
 ところで、ベートーヴェンが10代に書いたと思われるソナチネ第5番ト長調(ソナチネアルバム第2巻に収録)は、モーツァルトを手本としたと思われる見事な部分動機作法によって書かれており、ベートーヴェンの聴く能力の高さを感じさせるものとなっている。それは第1楽章のみならず第2楽章にも及んでおり(ソ-シ-ラ-ソ-ラ-シ-ソ)、若きベートーヴェンの潜在能力の高さを窺わせる。当時、モーツァルトのソナタ形式の分析書が出版されていたとは考えにくく(そのような分析ができる理論化・作曲家がいたら誰もが知ることになっていただろう)、ベートーヴェンは事実から学んだと考えられる。
 最後につけ加えておくと、少なからぬ音楽書がソナタ形式を「単なる時系列構造と調性構造」で記述している。つまり、提示部(第1主題/原調 - 第2主題/属調 - 小結尾)- 展開部/自由な調性 - 再現部(第1主題/原調 - 第2主題/原調 - 結尾)という形が整っていればソナタ形式というものである。たしかにハイドンを含む古典派前期ではそれで通用したかも知れないが、モーツァルト以降はショパンでもグリーグでも見事な部分動機作法を見せている。ラヴェルあたりまで時代が下ると「恐れ入りました」と平謝りしたくなるほどの綿密さになる。それらに触れずにソナタ形式(古典ソナタ形式も)を記述することは、あまり意味がないと考えるがいかがだろうか。
モーツァルトを完全に分析してみせるにはモーツァルトと同等の能力が必要になるが、音楽理論書の限界は著者の能力の限界に等しいので、それを読んで分かるのはモーツァルトのことではなくて著者についてである。
 というわけで、私の分析もモーツァルトが重要だと考えていたこと全てに言及できるはずはなく、賢明な読者諸氏からは「考え足らずの浅はかな作曲家」と思われるかも知れないが、それは事実なので仕方がない。しかし、音楽を聴くということについて改めて考える契機となれば幸いである。
 音楽書を読むよりも、注意深く音楽を聴くほうがずっと多くのことが分かる可能性が高いのだ。
 
 野村茎一作曲工房

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2009年05月11日

音楽コラム 2009-02-28 注意深く聴くこと その1

 サウンドスケープ(環境における音の情報、音の風景)について考える機会があった。すると、過去に出会ったさまざまな事例が思い出される。
 以前観たテレビ番組で、視覚障害者の人が街中のいろいろな場所で、ここは「何々の音とパンの焼ける匂いで分かる」というように視覚のハンディキャップをそれ以外の感覚情報から得ていることを知った。自分自身が意外にも周囲の音に対して注意深くなかったかということに気づいた瞬間だった。
 とある料理人は音でフライの火の通り具合を判断すると語った。工場の機械の点検は機械を叩いて、その音でボルトやナットの緩み具合を検査していた。缶詰めを叩いただけで中身を当ててしまう「打検士」という職業に至っては、ただただ驚くほかはなかった。詳しいとは微小な差に気づくことだと、自分自身で言っておきながら、もっとも重要な音の分野で私は少しも詳しくなかったかも知れない。
 蒸気機関車や鉄道は、それまでになかった音をもたらした。鉄道路線や駅に行けばそれを聴くこととなったが、その音は、明らかに人類の進歩を感じさせるものだったろう。ガソリンエンジンが発明されて、それが自動車を動かすようになると、鉄道とは異なり、自動車のほうから近くへやってきて否応なしにその音を聴くことになった。自然界が発する音、たとえば風雨や雷鳴などは“騒音”とは言わないだろう。しかし、鉄道や自動車、飛行機、土木工事やビル工事などの音は騒音となる。
 時代が下るにつれて人の住む環境は大きな音で満たされていくことになった。
 原始時代、あるいは古代においては、人々はほとんど足音をたてない肉食の獣の気配に怯えて暮らしていたと想像できる。あるいは獲物の気配を追って聞き耳を立てながら狩りにいそしんでいたに違いない。彼らは現代の私たちよりもずっと注意深く、繊細な感覚を持っていたことだろう。
 軍楽あるいは信号用の楽器を除けば、古楽器はおしなべて音量が小さい。もちろん、製作技術的な理由もあるだろうが、音色の繊細さを優先したことも考えられる。
 音楽史には演奏会用ホールの巨大化と楽器の音量の関係について記されているけれども、繊細な音を優先するならば大きなホールにおける演奏はそもそも受け入れられないはずであり、そこにはサウンドスケープに常在するようになった騒音も関係しているように思われるのである。
 初めてレッスンにお見えになった方とピアノに向かった時、誰もが、ほとんど例外なく“親の敵(かたき)”のように鍵盤を叩く。それはコンサートホールにおけるピアニストの打鍵の無批判なコピーであり(しかし、すぐれたピアニストのそれとは根本的に異なっている)、狭い部屋でのピアノの音の享受には全く向かない性質のものなのだが、本人は一向に気づいていない。ピアノの音に気づくと、ようやく打鍵の最適化というものがあることに気づく。
 似たような例が除夜の鐘などにも見られる。多くの人々が行列を作って鐘を突く順番を待ち、いよいよ自分の番になると撞木(しゅもく)を力の限り鐘に叩きつける。その際に生じる音は高い倍音成分が目立つ「コワーン」というような音になる。しかし、プロの僧侶による“タッチ(?)”は違う。静かに撞木を揺らして撞座(つきざ)に当て、「ご〜〜〜〜ん」という心静まるような響きが広がる。
 ピアノの音色は物理的な理由で決まるのであり、人の都合ではない。私たちは注意深く“ピアノの都合”を感じ取る必要がある。もし、才能という力を定義するならば「有意な微小差を注意深く感じ取る力」としてもよいのかも知れない。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年03月06日

音楽コラム 2009-03-06 ありもしない未来に振り回されてはいないか

  
 ほんの200年にも満たない昔には、全人類が電気エネルギーの恩恵を受けることなく暮らしてきた。100年前でさえ、多くの人々がそうだった。
 ところが今さらその時代に戻ることはできない。
 一つの例を挙げるならば、電気がなければ病気すら治せない。昔は治療法のない病にかかったら誰もが死を受け入れざるを得なかった。発展途上国では治療法があろうがなかろうが、今でもそうだ。実際には、今でも人類は病を克服しているわけではない。ところが現代の人々は、漠然と医学はどんどん進歩すると考えており、後戻りすることなどあり得ないと思っているように見える。医療は高度化すると技術やコストの問題で一部の人しか恩恵を受けられないということが徐々に明らかになってきている。医療の進歩が全人類に恩恵をもたらすとは限らないのだが、医療の先進化・高度化と人々のコスト負担増は続いている。医療の進歩に意義を唱えているのではない。医療の高度化と進歩が一致するとは限らないのではないかと考えているのだ。
 私自身に関して言うならば、バッハやベートーヴェンでさえ死からは逃れられなかったことが肌身で感じられる齢(よわい)となり、悔いなく生きて素直に死を受け入れたいと考えるようになってきた。それとて、私自身が歳を重ねてきたから言えることであり、このように考えるのは若い時には難しかったことだろう。
 20世紀になって大きく変わったことのひとつに「速度」がある。乗り物の速度、生産の速度、情報の速度などが飛躍的に向上した。20世紀中葉には「21世紀には全ての旅客機が超音速になっている」と言われても納得していたに違いない。実際には速度が上がると、それ以上に消費エネルギーが増えて実用的ではないことが明らかになり(それは設計段階から分かっていたが、政治家や経営者は実際に飛ばしてみるまで受け入れられなかった)、コンコルドは継続生産されることも後続機が開発されることもなく廃止された。現在日本で進められているリニア新幹線も、速度(性能)効果とコスト(需要)が釣り合うのかどうか定かではない。
 これらのことがらに共通することは一種の“勢い”ではないか。企業も業績が伸び始めると、どんどん高い目標を設定したくなると思うのだが、そのような“勢い”である。分かりやすいように大げさな例を挙げると、“勢い”とは需要が100万個のマーケットに200万個売り込もうというようなものだ。そこには、今の需要が100万個でも今後200万個まで拡大する、あるいは拡大させるという見込みがあるに違いない。たしかに、その時点は、マーケットにもそんな気配が感じられたのだろう。
 あるいは、入社以来10年くらい給与が安定して伸びてきたとする。それが自分自身の永続的な給与水準であると考えて、支払い可能限度内と判断した高額なマンションを購入するのも“勢い”のひとつだろう。経済状況の変化で給与が下がってローンが重くのしかかってくると、そこで初めて、購入時の給与が業績好調時のものであって、本来の収入ではなかったことに気づいたりする。
 ここで音楽界に目を移す。今までにも“いわゆる”現代音楽の作曲界が、勇み足とも言うべき“勢い”で聴衆と乖離してしまったことを書いてきた。しかし、それは現代音楽の作曲家たちだけに言えることではない。クラシックブームと言われることもあるが、それはまさにブームであって、長い目で見ると、少なからぬ演奏会が退屈なものになってはいないだろうか。ポピュラーミュージックばかりが聴衆を集めるのは「クラシック音楽が訓練を受けないと理解できない音楽だからだ」という主張もある。ならば、なぜクラシック音楽界には聴衆を訓練する力がないのだろうか。ポピュラー系音楽の強みは、その時代その時代に合わせて音楽が変化して人々を惹きつけるところにある。そのために音楽家たちは努力している。ところがそれが弱みでもあり、長く聴き継がれる曲が生まれにくい。クラシック系の音楽は、その歴史が古いために、時代を超えて生き続けてきた曲がレパートリーの主体となっている。源氏物語が時代に合わせてその時々の現代語訳を生み出してきたように、クラシック音楽もその音楽的解釈が更新されてしかるべきだろう。もちろん、そのように努力している音楽家も少なくない。しかし、一流と言われる演奏家でさえ、それが“個人の練習成果の発表”となるようなステージであったりすることが、ままある。もちろん、自らの向上を目指して日夜たゆまぬ努力を続けている人たちが圧倒的に多いことは間違いない。しかし、先端医療の開発と医療の進歩が一致するとはかぎらないのではないか、と書いたのと同じように、私たち音楽家は“音楽の追究”のほかに、聴衆と歩調を合わせたり、優れた聴衆が生まれる素地を作り出す努力をする必要があるのではないだろうか。聴衆に理解されないと嘆くよりも、聴衆とともに進歩していくのが本筋であるように思われてならない。“優れた音楽家は優れた聴衆を育て、優れた聴衆は優れた音楽家を育てる”ということである。
 私たちを迷わせているのは、勝手に想像した“ありもしない未来”なのではないだろうか。もし私たちに、前述した勇み足のような“勢い”があるのならば、それを見極めて冷静に排除しなければならないだろう。どんなに(音大入試やコンクールでもてはやされるような)いわゆる“音楽的な才能”があったとしても、それを本当の目的のために使えなければ力は生かされない。自らが何をすべきかが分かることこそを真の音楽的才能と言うべきだろう。 

 野村茎一作曲工房

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2009年03月03日

音楽コラム 2009-03-03 オリジナリティ


 オリジナリティとは自己の発見である。
 これで全て分かってしまったかたもあることだろうが、もう少し説明を加える。
 個人の内面とは「事象の捉え方」であり、それが行動の規範となるために、私たちは他者の内面を、その行動・行為の観察によって一部なりとも伺い知ることができる。
 突拍子もない例だが、あなたが人類初の太陽系外地球型惑星探査のメンバーに選ばれて、宇宙生物に出会ったとする。その時、あなたはその生物に知性があるかどうかをどのような基準で判断するだろうか。知性にもいろいろなタイプがあって、ひょっとしたら波間に漂うクラゲでさえ人生について深く考えているのかも知れない。しかし、人間が知性と感じるのは人間型の知性だろう。であるならば、私たちは「人工物(知性による作業の結果)」の有無によって知性と文明の存在を感じ取るのではないだろうか。
 音楽を神の啓示と考えることもできるが、楽譜として表現された瞬間、知性による作業が行なわれたことは確かである。
 ベートーヴェンの未聴曲を聴いて、それがベートーヴェンの音楽であると認識することは、私たちがそこにベートーヴェンを認めるからであり、これが他者の発見と言える。ところが、自己の発見は容易ではない。
 オリジナリティとは「まだ誰もやってないことを行なう」ことではない。他者の理解を完全に拒絶するのだと言い張って、極めて難解な(もともと理解など存在しないような)曲を書いたとしよう。それは、実は自己の理解さえ拒絶してしまうのではないか(書いたという行為に対する満足だけはあるかも知れない)。
 オリジナリティとは、他者との共通の美学に則った上で追究されるべきものである。ローカルな範囲での共通美学に則った曲(民族音楽など)は、その範囲の人々の間で好まれたり不評を買ったりするだろうが、その外にいる人たちには評価不能かも知れない。お互いの文化的な交流が始まって共通の美学を見いだせば、お互いが歩み寄ったり、あるいはワールドワイドな音楽に成長したりする。
 オリジナリティの源泉は、平たく言えば「作者の好み」である。自分が好きな音楽、求める音楽は何かというだけのことだ。答えは自分の中にしかない。こればかりは誰を頼ることもできないが、裏返して考えれば誰にも頼らずにできるということでもある。
 そのために学ぶべきは「普遍的な美学」ということになる。それは、音楽を聴く時に何を聴いているかということである。ショパンもドビュッシーも普遍的な美学の上に自己のオリジナリティを構築している。
 20世紀後半、その問題を見失った一部の作曲家たちによって書かれた曲を21世紀の耳で聴くと、伝統の上に立脚することの大切さを思い知らされる。
 念のために書き添えておくが、聴きやすいとか分かりやすい曲を書くべきだと主張しているのではない。本物であるならば、どんなに高度で、かつ難解であってもよい。“本物”とは、理解した時、その曲が触媒として作用し、聴く者を高みへと引き上げるというようなものを指す。そのような意味においては、音楽はどんなに進歩してもよい。


 野村茎一作曲工房
 
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2009年02月20日

音楽コラム 2009-02-20 未消化の時代

  
 録音が可能になっただけでなく、豊富な録音メディアの入手が楽になったのはそれほど昔のことではないだろう。
 ベートーヴェンでさえ、自分自身の交響曲を聴く機会は生涯にどれほどあったのだろうか。あるいはブラームスが、自らの作品だけでなく、他の作曲家のオーケストラ作品を聴く機会はどのくらいあったのだろうか。それに比して現代の私たちが置かれた状況は信じられないほど音楽情報が豊かであると言える。にもかかわらず、その利を生かしているかというと、そうとばかりは言えないのではないか。
 ピアノのようにひとりで完結してしまう楽器を扱う音楽家は、ずっと昔からいくらでも繰り返しひとつの曲に触れることができた。しかし、現代は誰でも世界の名演奏家の演奏にいくらでも触れることができる(決して、今日の食べ物にもこと欠く国々の人々を忘れているわけではない)。
 現代のこの音楽環境の最大の強みは音楽史と、まさに同時代の音楽世界を概観できるということだろう。ということは、私たちに要求される力が2つに集約される。それは時間軸と時間平面上に広がる3次元的な音楽世界の立体像を把握する力と、真に優れた音楽を選択する力である。それを持たない人は音楽の海を漂うだけで終わるか、あるいは溺れてしまうことだろう。
 モーツァルトは生演奏以外存在しない時代においても、その卓越した記憶力によって一度、あるいはほんの数回聴いただけのその交響曲の構造を理解したように思われる。これは私見であるが、もし、記憶に怪しげなところがあれば、それはモーツァルトのインスピレーションによって、むしろ高められて彼の中に再構成された可能性さえあるのではないか。現代は多少記憶力が悪くとも覚えるまで何回でも聴くことができる。しかし、覚えることと全体を把握することは意味が異なる。
 妙な話だが、私の場合、自分で作った曲なのに作曲した当初は曲への理解が全く足りない。それを痛感させられるのは決定稿を書くために推敲・校訂作業を行なっている時だ。アーティキュレーションもデュナーミクもすぐには決定できない。つまり、理解できていないということだ。繰り返しその曲を自分の中に流していくうちに、その曲の本来の姿が朧げながら見えてくる。これが記憶と理解の質的な差の一部を表していると思われる。
 元に戻る。「3次元的な音楽世界の立体像の把握」とは、音楽世界のアドレスを理解することであり、それによって、くまなく音楽世界を概観することができることになる。その世界で見いだした“真に優れた音楽”を吸収して、作曲者が理解していたことがらに少しでも接近することが私たちが積むべき音楽経験だろう。現代の音楽環境は、そのために利用すべきものであって、環境に振り回されていては意味も成長もない。
 豊富な音楽情報が豊かな音楽環境をもたらしているにもかかわらず、少なからぬ音楽愛好家が未消化のまま豊饒の海をあてもなく漂っているとしたら、なんとももったいない事だ。
 
 野村茎一作曲工房

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2009年01月21日

音楽コラム 2009-01-19 経験からさえ学べない可能性

 
 以前から述べていることではあるが、なかなか理解が浸透しにくい問題でもあるので切り口を変えてもう一度書く。
 太古、人類が言語を持たなかった頃は、ほとんど全てを自らの経験から学ぶほかなかった。危険が迫れば避けたり逃げたりすることは本能的にもできるが、事前に危険を察知して近づかないようにするには経験から学んだ、というようなことである。経験から学ぶことは事実から学ぶことであり、非常に重要であるのだが大きな問題も孕んでいる。それは、個人の経験が極めて限定的であることだ。
 言語の発達とともに、最初は親から、成長するに従って出会った人々から情報を得られるようになり、個人ひとりだけの経験ではなく、何人分もの人生経験から学ぶ機会を持てるようになったことだろう。しかし、同じ地域で暮らしていれば経験も似たようなものになり、狩り場の情報なども何人から聞いても同じものだったかも知れない。おまけに、観察力の鋭い人は、そうでない人からの情報がまるで役に立たないこともあったに違いない。
 人類にとって文字の発明は言語の発明以上の画期的な出来事だった。音声は人々の記憶の中にしか残らないが(おまけに、時間の経過とともに変質したりする)、文字は時間を超えて情報を伝達する。
 時代は一気に下って、グーテンベルク(実際には彼以前にも印刷術は存在したが)は、最初の印刷物として聖書を選んだ。印刷という技術の価値を人々に知らしめるのに充分な選択だった。
 書物は、距離と時間を超えて人々に経験を伝えた。時代を隔てた昔の記述が現代に通用すれば、それは普遍的である可能性が高い。また、地域と文化を超えて通用することも普遍的であるかも知れない。ローカルな法則と普遍的な法則は、生きていく上でどちらも必要ではあるけれども、判断の最も基本としなければならないのは普遍的な法則であることは言うまでもないだろう。
 親の意見に従うことが最善と考えられいた時代も、かつては確かにあった。しかし、書物に蓄積された情報の中には自分の親よりももっとずっと高みからの判断があり、それを見極めることができた人は、当然のことながらそれに従った。
 しかし、言葉も文字も他人の認識を表しているだけで事実ではない可能性もある。つまり、究極の判断は事実を基に下す自分自身の判断であるということだ。
 そのためには、常に自分の経験と照らし合わせる必要があるのだが、これがなかなか難しい。事実から学ぶ難しさである。だから、いくら自分の判断とはいえ、事実を読み解く力が足りなければ、より優れた人の判断にはかなわない。私たちが学ぶのはテストの解答欄を埋めるためではなく、その力を育てることだ。作曲も演奏(校訂と解釈を含む)も、その力が根本にある。
 レオナルドはその困難さを観察と洞察力によって克服できることを示した。彼の初期の名作「受胎告知」には、線的遠近法、空気遠近法など、注意深い観察と洞察力の成果を見てとることができる。しかし、それを見てとることさえ、私たちの過去の観察力が試されることになる。科学と疑似科学の境界線などは、判断が非常に難しい場合がある。なぜ難しいかというと、それは一言で表現するならば“きちんと経験していない”からである。人は物事の差異を認識したときには異なる名称を付して、それらを区別する。たとえば、初めて羊の群れに出くわした時には、どれも羊に過ぎないが、羊飼いになって毎日一緒に過ごしていれば一頭ずつを区別して名前をつけて呼ぶようになる可能性が高い。
 事実は目の前にあるが、それを認識するためには私たち自身が“真に優れる”必要がある。何回も書いてきたように、アリスタルコスは半月が太陽の方向を指しているという観察的事実から、極めて論理的に太陽までの距離とその巨大さを測り、地動説(太陽中心説)に到達した。ニュートンは、物体が落下するのは物体の性質ではなく、重力によるものであることを見抜いた。マザー・テレサは、もう医者にも手の施しようがなく、助かる見込みのない死に行く人の手を握って「怖くありませんよ。私がずっとそばにいます」と言って、そのとおりにした。
 事実は決して間違えないが、凡人はいともたやすく事実を読み間違える。
 あなたは、自宅玄関ドアを記憶だけでスケッチするように言われたら、どのくらい正確に描けるだろうか。玄関ドアなどに興味がないというのなら、なんでもかまわない。ご自分が最も詳しいものについて、その姿をどこまで詳細に把握しているか確かめてみてはいかがだろうか。別に絵を描かなくともよい。思い出すだけでもよい。ちなみに、ピアノ鍵盤は記憶だけで正確に描くのは極めて難しいもののひとつである。白鍵の中央に位置しているのはGis(As)だけであり、残りは大きくオフセットしている。さらに白鍵と黒鍵の鍵盤幅、長さ、黒鍵のテーパー・シェイプ、etc. 毎日眺めたり触れているのに、大体の外見を描くことさえ難しい。
 事実を把握できずに、思い込みで行動して失敗する人を“愚か者”と言う。


 野村茎一作曲工房

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2008年11月29日

音楽コラム 2008-10-19 創作の力

 
 作曲することはもちろん、絵を描く、小説を書く、映画を撮影する、研究するというような行為は膨大なエネルギーを使う。手順が決まっているような作業であっても大きなエネルギーを使うことはあるだろう。しかし、手順も決まっておらず、どのように取り組めばよいのかが分からないことに立ち向かう時には、やる気だけではどうにもならない。
 インスピレーションは創作活動に欠かせないものだが、インスピレーションは単なるアイディアとは異なるものである。簡単に言うなら、インスピレーションはアイディアと手順、やる気、集中力がセットになってやってくるものである。
 評論家の柳田邦男氏が定義した意識レベルをあらわす「フェイズ0〜3」という定義は尺度として便利なので、少々説明させていただく。
 人が眠っている時の意識レベルを「フェイズ0」とする。
 目覚めたばかりであったり、ぼーっとしていて注意力が散漫な状態を「フェイズ1」、日常生活や手順の決まった仕事をする時の意識レベルが「フェイズ2」。人は一日の多くをこの意識レベルで過ごす。そして、運動選手が試合に臨んだり、ピアニストがステージで演奏したりするなど、意識レベルが最高に高まった時が「フェイズ3」である。
 フェイズ3という状態は、自らを奮い立たせたところで到達できるわけではない。目の前にこちらに向けて攻撃態勢をとる毒蛇が現れれば、意識レベルは即座にフェイズ3に跳ね上がるだろうが、なかなかそうはならない。
 私など、日頃はふにゃふにゃと生きているので、意識をフェイズ3まで持って行くことがなかなか難しい。仮にフェイズ3まで持っていけたとしても、地力(じりき)がなければ意味がない。目的地のない飛行機のようなもので、飛べたとしても迷走するばかりだ。せいぜい「わーい、飛べた飛べた!」と喜んで終わりである。
 意識レベル、つまりやる気と集中力が手段であるとすると、その目的地に相当するのがアイディアである。
 アイディアは私たちの心の引き出しの中にバラバラに散らばって隠れており、インスピレーションがそれらを一気に関連づけて引っ張り出してくる。つまり、関連付けられるだけの知識がそろっていなければアイディアは無駄になる。これが、以前コラムに書いた「雑学の危険」である。ひとつひとつの知識はジグソーパズルのピースであり、それらが線で結ばれれば一応の形が分かって役に立つ。面で隙間なく埋まれば素晴らしいことだが、それができるのは神のみである。
 つまり、勉強というのは「何を学べばよいのか分かるようになるために」行なうのであって、知識を詰め込むことではない。真の勉強をした人だけが、その先にある「研究」の領域に進むことができ、研究によってミッシングピースが全て埋まって私たちにインスピレーションが訪れる。
 毎日たくさんの人が“勉強”と称する行為を行なっているに違いないのだが、そのうちどれだけの人が“重要なものと、そうでないもの”を区別できるようになるための訓練をしているのだろうか。雑学はクイズ番組には役立っても、それ以上のものではない。逆にすぐれた研究者であっても、クイズ番組の雑学王に輝いた人には太刀打ちできないかも知れない。その分かれ目は“正しい視点”を持つかどうかだろう。
 音楽で言うなら「誰のどの曲から何を学ぶべきか」が分からなければ「知っている曲が増えていく」だけだろう。もちろん、ハードウェアとしてのピアノから何を何を学ぶか、インターフェイスとしての鍵盤、力を弦に伝えるアクション、そしてそれらが弦の正しい振動に結びつくためにはどのような奏法をとるべきか、あるいはそのその奏法を実現するためにはどのように作曲すべきか、このようなことを分析的に考えていくと時間がかかりすぎて人生は足りなくなる。それを補ってあまりあるのがインスピレーションであると言っても間違いないだろう。
 演奏会で自分の曲を聴くと、大抵の場合「どうやって書いたのだろう?」と他人事のように思えて仕方ない。これは本当のことである。おそらく、作曲している時は自分でも信じられないような集中力とやる気に満ちあふれていて、フェイズ2で過ごしている日常には、その時のことが思い出せないのだろう。

 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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