2009年03月15日
2009-03-15 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-04 音楽史から学ぶ<やってこなかった未来>
駆け足音楽史も今回で最終回である。バッハ以前の時代に関しては、またいずれ機会をあらためて書きたいと考えている。
ところで、皆さんはドビュッシーをどのように聴かれただろうか。
私が中学生の頃、とある音楽史年表の印象派の欄にドビュッシーとラヴェルが並記されていた。ドビュッシーとラヴェルが同じように聴こえた音楽学者もいたのだろう。ドビュッシーは全く新しい音楽世界を切り拓いたが、ラヴェルは伝統に忠実な新古典主義者だった。ただし、ラヴェルは響きに関して言うならばむしろドビュッシーよりも前衛的であり、両者のスタンスが大きく異なるためにラヴェルとドビュッシーを同じカテゴリーで語るには無理がある。2人の有名な弦楽四重奏曲の第1楽章のスコアを見比べただけでも、その違いに驚くことだろう。ドビュッシーが新しい弦楽四重奏曲を生み出そうとしているのに対し、ラヴェルは主題労作をして綿密な部分動機作法によってベートーヴェンを凌ぐような楽章を超えた楽曲の有機的構築を行なっている。ラヴェルによって、モーツァルトが果たそうとしていた古典派のソナタが一応の完成を見たと言っても過言ではないだろう。ところが、ドビュッシーは、そこからどこまで離れられるかということが自身の課題だった。
前置きが長くなった。
ウェーベルンは、新ウィーン楽派の中でも傑出した存在である。20世紀中葉のヨーロッパの進歩的な作曲家たちの多くはウェーベルンの一派と見做(みな)しても誤りではない。そして、それは当時の現代音楽の進歩と発展に一定の役割を果たした。
その中の一技法である「トータル・セリエリズム」は到達点のひとつであったが、全くインスピレーションを持たない作曲家でもデタラメな作品を生み出させてしまう弱点があった。その後に生まれたチャンスオペレーション(偶然性作法)などの新しい作曲技法にも同様の弱点があった。果たして、雨後の筍(たけのこ)のように玉石混交の膨大な評価不能の作品群が誕生しては初演だけで消えていった。これは一種の災厄であった。最も被害を受けたのは、聴衆よりも、むし本当に力のある作曲家たちだったことだろう。
その災厄の元凶は誤った未来観・未来予測だった。
無調以外の作曲家は「時代遅れ」であるとされ(“調性の後進性”について、おそらく誰も根拠を示せないことだろう)、音楽(芸術)において最も重要な“精神性の高さ”と“表現手段の先進性”がすり替わっていった。
同じ年、たとえば1800年に書かれた古典派の作曲家とロマン派の作曲家の作風が異なるのは、その作曲家が何歳の時に音楽を吸収したかによる。つまり、若い時に習得した音楽的スタンスは変わりにくいということである(インスピレーションに恵まれた作曲家は別)。だから、気の毒なのは学生時代に時代錯誤的(レトロフューチャー)な前衛音楽の洗礼を受けてしまって抜け出せなくなってしまった作曲家たちである。
今でも時折、現代音楽と銘打った演奏会に出かける機会がある。そこで聴くことができるのは、優れた才能を、自分自身や聴衆のためではなく、恩師や作曲コンクールの審査員のために使っているとしか思えない作曲家たちの“勘違いの結実”であったりする。
本音を言うと、難解であっても素晴らしい作品に出会うこともある。才能ある作曲家は、表現手段にかかわらず普遍的な美に到達するものだ。そのような時には作曲者の能力の高さと、私自身の勉強不足を思い知らされて怯(ひる)んでしまうこともしばしばである。
しかし、それらの作品がどんなに優れていようとも、広く人々に受け入れられることは難しいかも知れない。その理由を挙げるならば、ひとつにはメソードの不在があるだろう。ピアノ初心者のためのメソードに無調練習曲が少ない(非常に少ない)のはどうしてだろうか。聴衆を育てる努力がなければ「未来の音楽は全て無調になる」という言い分には、どう考えても現実との整合性がない。
また、歴史というのは人々が望む場合にはその方向に進むことがある。西洋文明に出会って、それを渇望した人々が明治維新を起こしたように(江戸時代からわずか6年で鉄道を開通させている)、歴史には集団としての強い意思が影響するものだ。果たして、現代の聴衆・演奏家・音楽評論家などが音楽の先鋭化・高度化を望んでいるだろうか。
無調音楽、それも厳密な12音技法が誕生してから1世紀が経過した。人が生きられる一生分の時間なのだから、もう充分な時間が経過したと言えるだろう。シェーンベルクが予想した未来は間違いなく到来した。12音技法は一般化することはなかったものの「古典」となって確固たる地位を確保している。しかし、そこに真の音楽を聴き取ることができなかった作曲家たちの考える未来は、ついにやってくることがなかった。
今まで述べてきた音楽が難解であるから駄目だと言っているわけではない。分かりやすくてもすぐ飽きられてしまうようでは意味がないし、その時代だけに通用するだけでは作曲者として忸怩たる思いが残るだろう。要は、現代から未来永劫(ちょっと大げさだが)絶えることなく人々を虜にする音楽を追求することが作曲家の使命なのではないかということだ。
終わりに、私の座右の銘をひとつ。
「誰も演奏したいと思わなかったり、聴きたいと思わない曲は書かれなかったのと同じことである」
※手前味噌となるが、私の「60の小練習曲集」にはバイエルレベルで弾ける12音技法の練習曲「12の音で」や複調音楽の練習曲「2つの調で」などが収められている。(「musica-due music store」で全曲の試聴・入手が可能)
musica-due music store
野村茎一作曲工房
2009年03月14日
2009-03-14 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-03 近代の音楽 作曲家たちはドビュッシーをどのように聴いたか
1862年、ロマン派の閉塞感を一気に打ち破る感性を持った作曲家、ドビュッシーが誕生した。過去と断絶したかのように見える作風だったが、非常に重要な部分だけは何一つ欠けることなく持っていた。彼はショパンと同等の、完璧と言い得(う)る“ペリオーデ”に対する鋭い感覚を持っており、また、ピアノに関しては“ビロード・タッチ”と呼ばれる「ハンマーを意識させない」ほどの音色を持っていた。
ピエール・ブーレーズは、現代音楽の始まりを「牧神の午後への前奏曲」から、と述べているが、私も同じ考えである。とくに「牧神」冒頭のフルートがcisから始まっていることが象徴的である。なぜなら、正しく整音されたピアノで静かに打鍵すると、牧神冒頭のcis(エンハーモニックではdes)は一種独特な音がすることに気づくかも知れない。フルートでもcisは全てのカップを開放するので、他の音とは異なる音色となる。これは、ストラヴィンスキーが「春の祭典」の冒頭にファゴットの通常音域外の高いcのロングトーンで始めたこととも通ずるものがある。ドビュッシーは音楽は「色彩とリズムでできている」と述べているが、色彩とは音色と置き換えてもよいだろう。
ロマン派末期の作曲家たちは、調性音楽の袋小路に迷い込み始めており、ワーグナーのいわゆる「トリスタン和声」(調性が確定するまえに転調していく)をよりどころに、調性の崩壊という方向に進んでいた。そのような時にドビュッシーが登場した。無調へ進もうとしていた“進歩派(と思われていた作曲家たち)”は、調性の枠組みを外れたドビュッシーを歓迎した。“保守派(と思われていた作曲家たち)”の一部はドビュッシーを伝統の破壊者として快く思わなかったが、中には、ドビュッシーの楽譜には表れなくとも、彼の音楽に確固たる調性感を聴き取って、その音楽を歓迎した。
ドビュッシーが機能和声にとらわれなかったからといって、彼が無調音楽を指向したわけではなかった。音楽の運動力学から考えて、調性音楽を「重力のある音楽」、無調音楽を「無重力音楽」とたとえると、ドビュッシーの音楽には常に重力がある。
近代以降の音楽は、その多様化においてロマン派の比ではなくなった。一人一派と言っても過言ではないほどさまざまな価値観が氾濫することとなった。
しかし、それらは全て「重力」があるかないかに二分されると言えるだろう。ちょっと聴くと聴き慣れた長三和音が鳴るのに無重力という音楽もあるので、調性音楽イコール重力音楽というわけではない。また12音による主題が用いられていても、マルタンの「小協奏交響曲」のように明確に重力を感じる音楽もある。
ここでつけ加えておくと、12音技法の中心的な立場にあった新ウィーン楽派の3人の作曲家、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンについて言うならば、指導的立場にあったシェーンベルクは重力・無重力音楽を書き分けており、ベルクは重力派であった。彼らは、12音音楽が後期ロマン派と密接な関係にあることを示唆した。しかし、ウェーベルンは無重力派であり、20世紀の音楽が後期ロマン派の影響下から脱していくきっかけを作ったと考えられる。つまり、ウェーベルンは、他の2人とドビュッシーの聴き方が異なったのかも知れないという推測が成り立つのではないかと思えるのである。
バルトークもストラヴィンスキーもドビュッシーの重力を聴き取った。彼らの初期の作品からはドビュッシーの影響を聴き取ることができる。プロコフィエフでさえドビュッシー的重力を感じる。ところが、同じフランス生まれのメシアンは、その天才的で独特な感性によって調性(機能和声ではない)を感じるにも関わらず無重力な印象を受ける。その根はウェーベルンにあると考えられるが、メシアンの影響は非常に大きく、20世紀中葉には無重力派が大勢を占めるようになっていく。なぜなら無重力派は、そこに未来の音楽を見いだしたと考えたからである。それは、科学技術の進歩とともに人類が地球の重力から解き放たれて、地球周回軌道上の自由落下状態を手に入れたことと似ている。しかし、地球周回軌道上に地球の重力が及んでいないわけではない。遠心力と平衡状態にある特殊な環境であるだけだ。
私は無重力音楽を否定するわけではないが、それが特殊な音楽であることはこれからも変わることがないと考えている。それは地球人の誰もが地球周回軌道、または他の天体に向かう自由落下軌道で無重力を体験できることはないだろうと考える程度には特殊であると思えるからだ。
近代音楽の多様化への分岐点は、それぞれの作曲家が「ドビュッシーをどのように聴いたか」である、と考えれば近代音楽史理解の糸口が見つかりやすくなることだろう。
野村茎一作曲工房
2009年03月13日
2009-03-13 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-02 ロマン派の憂鬱
音楽史は、基本的に音楽そのものから考えるべきである。
他の分野にまたがる膨大な資料を詳細に調査することも意味がないとは言えないが、その資料から真実を見いだすのは容易ではなく、音楽史に関する研究書・書物の一部は事実の混乱した羅列に終わっているようにも思える。
ロマン派を理解するキーワードは「芸術至上主義」の一言で足りるだろう。
1.芸術至上主義がもたらしたもの
ハイドンは、その迷いのない音楽構築性によって、本来ならば古典派形成の功績が讚えられるべき前古典派の作曲家たちの作品を表舞台から駆逐してしまった。そして、そこから真の古典派音楽界が広がろうとした時、モーツァルトが誰にも真似のできないような完成度の作品を書いて、他の作曲家によるハイドン的古典派発展の芽はなくなってしまった。そこへ、間、髪(かん、はつ)を入れず現れたベートーヴェンは形こそハイドン的な部分を持っていたが、彼はそれまで誰も考えたことのないような「芸術至上主義」に基づく音楽を生みだし、音楽史的な閉塞状況が生じることはなかった。ベートーヴェンは生き様までが芸術至上主義の作品そのものだった。
“芸術”の定義は容易くないが、ベートーヴェンは「芸術は人々の魂を、より高みへと導く」というような表現をしている。娯楽と芸術は対立する概念ではないが、娯楽に対して人々は受け身であり、より強い刺激を求めるようになるのに対し、芸術には能動的に接し、理解が進むにつれて深みを求めるようになると言えるだろう。もし、落語に対して能動的に接すると落語は芸術となる(すでになっている)ように、全ての人間の行為は芸術化する可能性を秘めていると言える。
そのことが、大いにロマン派の作曲家たちを迷わせた。簡単に言うと、何をやってもよい、あるいは「自らが本当に望むこと」をやらなければならなかったのである。
それは、当然のことながら単純に誰かの後を追えばよいというものではなく、オリジナルであることが求められた。ロマン派音楽が多様化していったことの原因はそこにあった。
2.シューベルト、ベルリオーズ
シューベルトとベルリオーズの曲を聴くと、彼らがそれぞれ異なるベートーヴェンの影に怯えながら創作活動を続けたように見える。音楽のためなら生活の安定などどうでもよかったのは強迫観念が強かったのかも知れない。シューベルトは天才的なスコアを書き、ベルリオーズは素人のようなスコアを書いたが、職人芸だけでは通用しないロマン派の時代には、ままあることだった。シューベルトもベルリオーズも自らが望んだ音楽に到達したわけではなかった。シューベルトは死の直前に対位法を学ぶ手はずを整えていたし、ベルリオーズも楽器演奏に対する未習熟など勉強不足を感じていたふしがある。しかし、この2人が後のロマン派の作曲家たちに与えた影響は小さくない。
シューマンは典型的ロマンティストであり、ロマン派的交響曲作家であろうとしたが、他の作曲家たちの雑音にまみれて真の自分自身に到達できなかった部分があるように思われて残念でならない。メンデルスゾーンは性格ゆえか、溢れる才能を持ちながら古典派的な領域から抜け出ることができなかった。以後のロマン派作曲家たちも、複雑化していく音楽の流れの中で自分自身を完成の域に持っていくことが難しくなっていったことは想像に難くない。
3.ショパン
そのような中で、ショパンだけは特異な立場にあった。厳密には彼は他のロマン派作曲家たちと同列に語ることはできない。「まず、自己ありき」というロマン派の作曲家たちの中で、ショパンは自己主張する前にピアノ鍵盤と人の手指との関係性や、音楽の流れが持つ“ペリオーデ”という概念(ツェルニーが述べている“テンポ変化の対称性”が最も近いと思われる)に従った作曲家である。ショパン作品の演奏のポイントを「テンポルバート」にあるという考え方には全く賛同することができない。ペリオーデという音楽的な区切り(節)に沿って対称的なアゴーギクを与えると、テンポルバートよりも遥かに自然な音楽表現が生まれる。テンポルバートが不要ということはないが、それがペリオーデ表現の下位に来ることは間違いない。むしろ、テンポルバートが必要なのはペリオーデを考慮した作曲をしなかった他の作曲家たちだろう。ドビュッシーが同時代の作曲家たちを攻撃したのも、この点についてではないかと考えている。なぜならドビュッシーの音楽はショパンの考え方を非常に厳密に受け継いでいるからだ。
ショパンは、ピアノ鍵盤や音楽の本質に逆らうことなく自己表現を行なった点において他のロマン派作曲家たちと一線を画している。
4.ロマン派の憂鬱
ロマン派の時代には、結局ベートーヴェンに匹敵する大音楽家が現れなかった。というよりも現れにくい時代だったとも言えるだろう。なぜなら天才には事欠かなかったからである。ビゼーもチャイコフスキーも才能という点においては文句なく優れていた。しかし、迷いの時代には、名曲を書くことはできても時代を変えることは並み大抵のことではなかった。霧の中で作曲家たちは調性の曖昧さを求めたり、巨大な作品に活路を見いだそうとしたり、次第に実験的になっていったり、逆に保守的になっていったりした。
そして19世紀末の音楽界は閉塞感に満ちていった。それはドビュッシーが現れるまで続いた。
野村茎一作曲工房
他の分野にまたがる膨大な資料を詳細に調査することも意味がないとは言えないが、その資料から真実を見いだすのは容易ではなく、音楽史に関する研究書・書物の一部は事実の混乱した羅列に終わっているようにも思える。
ロマン派を理解するキーワードは「芸術至上主義」の一言で足りるだろう。
1.芸術至上主義がもたらしたもの
ハイドンは、その迷いのない音楽構築性によって、本来ならば古典派形成の功績が讚えられるべき前古典派の作曲家たちの作品を表舞台から駆逐してしまった。そして、そこから真の古典派音楽界が広がろうとした時、モーツァルトが誰にも真似のできないような完成度の作品を書いて、他の作曲家によるハイドン的古典派発展の芽はなくなってしまった。そこへ、間、髪(かん、はつ)を入れず現れたベートーヴェンは形こそハイドン的な部分を持っていたが、彼はそれまで誰も考えたことのないような「芸術至上主義」に基づく音楽を生みだし、音楽史的な閉塞状況が生じることはなかった。ベートーヴェンは生き様までが芸術至上主義の作品そのものだった。
“芸術”の定義は容易くないが、ベートーヴェンは「芸術は人々の魂を、より高みへと導く」というような表現をしている。娯楽と芸術は対立する概念ではないが、娯楽に対して人々は受け身であり、より強い刺激を求めるようになるのに対し、芸術には能動的に接し、理解が進むにつれて深みを求めるようになると言えるだろう。もし、落語に対して能動的に接すると落語は芸術となる(すでになっている)ように、全ての人間の行為は芸術化する可能性を秘めていると言える。
そのことが、大いにロマン派の作曲家たちを迷わせた。簡単に言うと、何をやってもよい、あるいは「自らが本当に望むこと」をやらなければならなかったのである。
それは、当然のことながら単純に誰かの後を追えばよいというものではなく、オリジナルであることが求められた。ロマン派音楽が多様化していったことの原因はそこにあった。
2.シューベルト、ベルリオーズ
シューベルトとベルリオーズの曲を聴くと、彼らがそれぞれ異なるベートーヴェンの影に怯えながら創作活動を続けたように見える。音楽のためなら生活の安定などどうでもよかったのは強迫観念が強かったのかも知れない。シューベルトは天才的なスコアを書き、ベルリオーズは素人のようなスコアを書いたが、職人芸だけでは通用しないロマン派の時代には、ままあることだった。シューベルトもベルリオーズも自らが望んだ音楽に到達したわけではなかった。シューベルトは死の直前に対位法を学ぶ手はずを整えていたし、ベルリオーズも楽器演奏に対する未習熟など勉強不足を感じていたふしがある。しかし、この2人が後のロマン派の作曲家たちに与えた影響は小さくない。
シューマンは典型的ロマンティストであり、ロマン派的交響曲作家であろうとしたが、他の作曲家たちの雑音にまみれて真の自分自身に到達できなかった部分があるように思われて残念でならない。メンデルスゾーンは性格ゆえか、溢れる才能を持ちながら古典派的な領域から抜け出ることができなかった。以後のロマン派作曲家たちも、複雑化していく音楽の流れの中で自分自身を完成の域に持っていくことが難しくなっていったことは想像に難くない。
3.ショパン
そのような中で、ショパンだけは特異な立場にあった。厳密には彼は他のロマン派作曲家たちと同列に語ることはできない。「まず、自己ありき」というロマン派の作曲家たちの中で、ショパンは自己主張する前にピアノ鍵盤と人の手指との関係性や、音楽の流れが持つ“ペリオーデ”という概念(ツェルニーが述べている“テンポ変化の対称性”が最も近いと思われる)に従った作曲家である。ショパン作品の演奏のポイントを「テンポルバート」にあるという考え方には全く賛同することができない。ペリオーデという音楽的な区切り(節)に沿って対称的なアゴーギクを与えると、テンポルバートよりも遥かに自然な音楽表現が生まれる。テンポルバートが不要ということはないが、それがペリオーデ表現の下位に来ることは間違いない。むしろ、テンポルバートが必要なのはペリオーデを考慮した作曲をしなかった他の作曲家たちだろう。ドビュッシーが同時代の作曲家たちを攻撃したのも、この点についてではないかと考えている。なぜならドビュッシーの音楽はショパンの考え方を非常に厳密に受け継いでいるからだ。
ショパンは、ピアノ鍵盤や音楽の本質に逆らうことなく自己表現を行なった点において他のロマン派作曲家たちと一線を画している。
4.ロマン派の憂鬱
ロマン派の時代には、結局ベートーヴェンに匹敵する大音楽家が現れなかった。というよりも現れにくい時代だったとも言えるだろう。なぜなら天才には事欠かなかったからである。ビゼーもチャイコフスキーも才能という点においては文句なく優れていた。しかし、迷いの時代には、名曲を書くことはできても時代を変えることは並み大抵のことではなかった。霧の中で作曲家たちは調性の曖昧さを求めたり、巨大な作品に活路を見いだそうとしたり、次第に実験的になっていったり、逆に保守的になっていったりした。
そして19世紀末の音楽界は閉塞感に満ちていった。それはドビュッシーが現れるまで続いた。
野村茎一作曲工房
2009年03月12日
2009-03-12 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-01 古典派の果たした役割
音楽大学で音楽史を学んだからといって、人前で音楽史について語れるとは限らない。それは、高校で世界史や物理の単位を取得したからといって、それらをマスターしたわけではないのと似ている。
そこで一念発起して音楽史を学ぼうと志を立て関連書物をひも解いても、いまいち身体に染み込んでこない。というようなことを経験したかたもあることだろう。そんな時に役立つ音楽史理解のヒントを数回に分けて不定期連載したいと考えているが、気まぐれな性格ゆえ、次回がいつになるか当てにならないので気長にお待ちいただければ幸いである。なお、私とは意見を異にする音楽史家の方も少なくないと思われるので、他の音楽史も併読することをお薦めします。
初回は古典派の理解である。
西洋音楽の歴史を通じて、古典派ほど特異で、かつ影響力の強い時代はなかったと言える。それは次の4点に集約される。
1.演奏形態の規格化
2.楽式の規格化
3.音楽の前衛化
4.演奏水準の平均化
1.演奏形態の規格化
ハイドンは数ある弦楽アンサンブルの中から「弦楽四重奏」という演奏形態を重視し、そのバランスのよさを示すお手本のような弦楽四重奏曲を数多く作曲した。それに触発された作曲家たちが、インスピレーションを得て、次々と弦楽四重奏曲の名曲を書くようになり、現在では室内楽の主要ジャンルのひとつとなっている。
オーケストラの規格化も同様にして起こった。一部の前古典派を含めて、バロック時代までは各宮廷ごとにさまざまな音楽家が集い、その時々の編成によるオーダーメイドでエクスクルーシヴ(専用の、唯一の、排他的な)な音楽作品が書かれていた。そのような中、前古典派の優れた音楽家たちが集められたマンハイム宮廷のオーケストラは大規模なものであり、早い時期にクラリネットを導入し、まさに現在言うところの「2管編成」となっていた。モーツァルトも、マンハイム宮廷のオーケストラサウンドに興奮し「交響曲第31番“パリ”」を書いたと考えられる。大編成のオーケストラはクレッシェンドひとつとっても演奏効果は絶大で、当時の作曲家たちを虜にしたことは想像に難くない。大編成オーケストラは当時は前衛的・先進的な試みであったと言えるだろう。なぜなら、その表現力は作曲家たちの求めていたものであり、それ以後のオーケストラ編成がエクスクルーシブなものではなく、ユニバーサルな編成へと統一されていったからである。
2.楽式の規格化
しばしばバロック時代はポリフォニーで古典派はホモフォニーという言い方がなされるが、実際にさまざまな曲を聴いてみると、その印象は薄れてくる。ヴィヴァルディは一部対位法的な声部処理を行なうことはあっても、一貫してホモフォニーな作曲家であるように、他のバロック期の作曲家たちも主としてポリフォニーを書いていたという例のほうが少ないように感じる。逆に、古典派の作曲家たちがポリフォニーを取り入れる例も目立つ。
古典派の最大の特徴は、ソナタ形式を初めとする楽式の定型化である。
マンハイム楽派の作曲家たちは2つの対立する主題のコントラストによる楽式であるソナタ形式の概念を推し進めていた。感情過多な印象のある優雅なバロック音楽は、力強く迷いのない古典派音楽の前に古色蒼然たるものとなった。ヨハン、およびカール・シュターミッツ父子やクリスチャン・バッハ作り上げたシンフォニーなど、最新の音楽の前にバロック音楽は舞台を去るしかなかった。そして、さらに当時の最前衛に位置することになったハイドンの作品群は、それらさえ駆逐してしまった。ソナタ形式を考案したのは前述したようにハイドンではない。しかし、ハイドンのそれは際立っていた。
楽式構造としてのソナタ形式のほかに、組曲としての「ソナタ」もハイドンによって整備された。3楽章形式で書かれることが多かった交響曲の第3楽章に「メヌエット」を置いて4楽章スタイルを定着させた。バロック時代に多かった「緩-急-緩-急」配置が、ソナタ形式の楽章を含む「急-緩-中-急」となったのである。協奏曲においては、提示部を反復する際に独奏楽器が加わる「協奏ソナタ形式」となって3楽章制が定着し、ピアノソナタなどは、そのひな形のようなスタイルをとるようになった。弦楽四重奏曲も交響曲に準ずる体裁を整え、ここに古典派の楽式スタイルが完成した。それは21世紀の今日にまで影響しており、ドビュッシーらの抵抗も空しく、現代でも作曲家たちにとって交響曲やソナタ、弦楽四重奏曲などは重要なレパートリーのひとつとなっている。
3.音楽の前衛化
バロック時代までは、作曲家は自らが仕える宮廷内での演奏を目的とした曲を書いていた。よって、とりたてて個性的であろうとか先進的であろうと考えることは少なかったように思われる。現代もその作品が取り上げられるバロック作曲家たちの多くは、それをよしとしなかった少数の人たちであり、大多数はそうではなかったはずである。なぜなら、現代においても、メディアからレストランに至るまで、実用の場においてはコピーされた同じような音楽で満ちあふれており、誰もが他と異なる音楽を必要としているとは限らないからである。
ところが、次の節で扱うように、音楽家の活躍の場が宮廷内だけにとどまらなくなると、他との差異が必要になってくる。これが「音楽の個性化」である。さらに、前古典派の時代に起こった「音楽のパラダイムシフト(枠組みの転換)」は、音楽に「進歩」という宿命を課すことになった。ハイドンはその先鋭であったが、モーツァルトの登場は、一部の作曲家たちにとってさらに衝撃的だった。モーツァルトは、ハイドンが行なったような音楽上の改革はほとんど何もしていない。しかし、何もかもが違っていた。音楽の有機的な構成を可能にするためにシュターミッツらが実現しようとしていた「主題労作」を、それこそ完璧な形で実現し、メロディーや和声は洗練の極みにあった。モーツァルト作品に出会った後のハイドンは、明らかに作品の質が向上している。
その2人の洗礼を受けたのがベートーヴェンである。彼は、先人たちの作品から学びながらも、決して倣うことはなかった。過去から学んでいても、常に未来を見据えていたのである。19世紀以後、音楽は急速にその姿を変えていくが、その転換点はハイドンというよりもベートーヴェンであったと見るほうが妥当だろう。ベートーヴェンはスタイルはハイドンから、音楽的内容はモーツァルトから影響を受けて出発したが、間もなく誰でもない、まさしくベートーヴェンとなった。ベートーヴェンの後には数多くの作曲家たちが列をなして続くことになる。
4.演奏水準の平均化
古典派も半ばを過ぎる時代になると、ヨーロッパ中を演奏旅行する音楽家たちが現れる。それまでも放浪の吟遊詩人たちが一夜の宿と報償を求めて宮廷を回ってはいたが、古典派の時代では事情が異なった。高い技術を持った演奏家たちが各都市で演奏会を開くようになったのである。それによって、人々の意識は演奏水準の高い側へと移っていった。それ以前の時代には、大きな宮廷は別としても、標準的な貴族の館では、音楽家とはいっても、普段は小間使いとして働くような環境のなかで、主人の食事や来客の際に演奏していた程度のものだった。
高いレベルにおいての演奏水準の平均化は、その後の音楽の進歩に拍車をかけることになる。
駆け足ではあったが、以上が音楽史における古典派という時代の果たした役割である。
野村茎一作曲工房
2008年07月27日
私が学んできた曲-06 2008-04-05
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第3番「田園交響曲」(1921)
ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)は、日本では、あまり馴染みがないかも知れない。レイフ・ヴォーン・ウィリアムズという表記も見かけるが、ヴォーン=ウィリアムズが姓であって、ヴォーンはミドルネームではないので注意が必要である。また、ラルフと読まれることもあるが、本人は“レイフ”と発音していたので「レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ」という表記をお薦めしたい。
その生涯についてはネット上で調べていただくとして、なぜ“有名ではない”この曲を取り上げたのかについて述べる。
まず“有名である”とか“高く評価されている”というのは他人の価値観であって、私の価値観とは関係がない。あったとしても、自分に関わるもの全て自ら判断したいと考えている。
ゴードン・ジェイコブの「管弦楽法」(音楽の友社、絶版)には「オーケストレーションで最も重要なことはクリアリティである」という記述があった。これは響きの透明性について言っているのではない。作曲者の本意がいかに明確であるかということである。これは、オーケストレーションについてのみ言えることではなく、作曲・演奏・文章など情報発信の全てについて当てはまる。この言葉は衝撃的で、以後、座右の銘となった。
私は多くの場合、スコア(総譜)を見ながら音楽を聴く。すると、いろいろなことが見えてくる。たとえばベルリオーズの“聴くと見事なのに楽譜を読むと感じる単純さ”、モーツァルトの“最小限の音で最大限の効果を引き出す巧妙さ”、ドビュッシーの“直感力”、ラヴェルの“緻密さ”などである。
ヴォーン=ウィリアムズの交響曲第3番のスコアを手に入れたのはまだ若い頃だったが、その書法は誰とも違って見えた。第一印象は、まるでアンサンブルのスコアを見るかのようだった。それは、大部分がソロ・パートによって構成されていると言う点でストラヴィンスキーの「春の祭典」のようでもあったが、音符がびっしりと書き込まれた「春の祭典」がジャングルのざわめきであるとするならば、休符だらけの「田園交響曲」は森の静けさと言えるだろう。
多くの声部が同時に進行しながらも、互いの邪魔をせずに整然と音楽は流れていく。そこにあったのは作曲者の意図が明確に示され、実現された世界であり、それはジェイコブの言う「クリアリティ」そのものだった。
私がオーケストレーションをこの曲から学ぼうと決意するのに時間はかからなかった。
「楽式論」にせよ「管弦楽法」にせよ、書物であれば、そこに書かれているのは著者の考えであり、限界である。自ら気づき、到達したことが書かれてあればまだよいが、習ってきたこと(つまり他人が気づいたこと)を羅列してあるだけだったら、それは学習の入り口にさえならないかも知れない。「楽式論」とは実際の作品から音楽構造を読み解けるようになるためのレッスンでなければならず、「管弦楽法」もまた然りである。つまり、全てのレッスンは「到達法の習得」でなければならない。
ヴォーン=ウィリアムズはバルトークやヴィラ=ロボス、パーシー・グレンジャー、最近ではアストル・ピアソラ同様、民族の伝統音楽の価値観をその基盤に置く作曲家である。その著書「National Music」が、日本では「民族音楽論」と訳されてしまったためにエスニック・ミュージックとしての「民族音楽」と誤解されて、あまり読まれないていないようなのが残念でならないが、そこには彼の到達した音楽観が見事に描かれている。イギリスにはヘンリー・パーセル以後、大作曲家の空白期が続いていた(と、言われている)。そのため、ヴォーン=ウィリアムズはパリでラヴェルに作曲を学んだ。しかし、彼はそのことについて一言も言及していない。むしろ、著書では音楽はその土地と切り離せない以上、作曲家が他国へ留学して異文化としての音楽を学ぶことの意味がないことを強調している(演奏家は、また違った意味がある)。もちろん、これには異論もあるだろうが、作曲家が自分の生まれ育った文化から離れることは難しいのではないか。
後年、ラヴェルはヴォーン=ウィリアムズに関する取材を受けて次のように答えている。
「彼は、私の真似をしない唯一の弟子だった」
彼が師の真似をしなかったのは、ラヴェルに対する反感からではないことは、民族文化と音楽に対する考え方からみて明らかである。
この曲(交響曲第3番)は、結局7年間にわたって毎日最低2回ずつ聴くことが日課となった。ある時は第1フルート奏者の席について、またある時はコントラバス奏者として聴いた。全てのパートを体験して覚えてしまった。だからといって私がヴォーン=ウィリアムズ2世になったわけではない。響きの真似をしようとも思わない。自らの考えを明確に表現しようとした志を学んだつもりである。
皆さんに同様の行為をお薦めするつもりもない。私と同じような経緯でたどりつけば意味があるかもしれないが、人はそれぞれ異なった経験をするものだからである。
ひとつだけ言えることは、この曲に出会わなかったら今の私はないということだ。
野村茎一作曲工房
ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)は、日本では、あまり馴染みがないかも知れない。レイフ・ヴォーン・ウィリアムズという表記も見かけるが、ヴォーン=ウィリアムズが姓であって、ヴォーンはミドルネームではないので注意が必要である。また、ラルフと読まれることもあるが、本人は“レイフ”と発音していたので「レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ」という表記をお薦めしたい。
その生涯についてはネット上で調べていただくとして、なぜ“有名ではない”この曲を取り上げたのかについて述べる。
まず“有名である”とか“高く評価されている”というのは他人の価値観であって、私の価値観とは関係がない。あったとしても、自分に関わるもの全て自ら判断したいと考えている。
ゴードン・ジェイコブの「管弦楽法」(音楽の友社、絶版)には「オーケストレーションで最も重要なことはクリアリティである」という記述があった。これは響きの透明性について言っているのではない。作曲者の本意がいかに明確であるかということである。これは、オーケストレーションについてのみ言えることではなく、作曲・演奏・文章など情報発信の全てについて当てはまる。この言葉は衝撃的で、以後、座右の銘となった。
私は多くの場合、スコア(総譜)を見ながら音楽を聴く。すると、いろいろなことが見えてくる。たとえばベルリオーズの“聴くと見事なのに楽譜を読むと感じる単純さ”、モーツァルトの“最小限の音で最大限の効果を引き出す巧妙さ”、ドビュッシーの“直感力”、ラヴェルの“緻密さ”などである。
ヴォーン=ウィリアムズの交響曲第3番のスコアを手に入れたのはまだ若い頃だったが、その書法は誰とも違って見えた。第一印象は、まるでアンサンブルのスコアを見るかのようだった。それは、大部分がソロ・パートによって構成されていると言う点でストラヴィンスキーの「春の祭典」のようでもあったが、音符がびっしりと書き込まれた「春の祭典」がジャングルのざわめきであるとするならば、休符だらけの「田園交響曲」は森の静けさと言えるだろう。
多くの声部が同時に進行しながらも、互いの邪魔をせずに整然と音楽は流れていく。そこにあったのは作曲者の意図が明確に示され、実現された世界であり、それはジェイコブの言う「クリアリティ」そのものだった。
私がオーケストレーションをこの曲から学ぼうと決意するのに時間はかからなかった。
「楽式論」にせよ「管弦楽法」にせよ、書物であれば、そこに書かれているのは著者の考えであり、限界である。自ら気づき、到達したことが書かれてあればまだよいが、習ってきたこと(つまり他人が気づいたこと)を羅列してあるだけだったら、それは学習の入り口にさえならないかも知れない。「楽式論」とは実際の作品から音楽構造を読み解けるようになるためのレッスンでなければならず、「管弦楽法」もまた然りである。つまり、全てのレッスンは「到達法の習得」でなければならない。
ヴォーン=ウィリアムズはバルトークやヴィラ=ロボス、パーシー・グレンジャー、最近ではアストル・ピアソラ同様、民族の伝統音楽の価値観をその基盤に置く作曲家である。その著書「National Music」が、日本では「民族音楽論」と訳されてしまったためにエスニック・ミュージックとしての「民族音楽」と誤解されて、あまり読まれないていないようなのが残念でならないが、そこには彼の到達した音楽観が見事に描かれている。イギリスにはヘンリー・パーセル以後、大作曲家の空白期が続いていた(と、言われている)。そのため、ヴォーン=ウィリアムズはパリでラヴェルに作曲を学んだ。しかし、彼はそのことについて一言も言及していない。むしろ、著書では音楽はその土地と切り離せない以上、作曲家が他国へ留学して異文化としての音楽を学ぶことの意味がないことを強調している(演奏家は、また違った意味がある)。もちろん、これには異論もあるだろうが、作曲家が自分の生まれ育った文化から離れることは難しいのではないか。
後年、ラヴェルはヴォーン=ウィリアムズに関する取材を受けて次のように答えている。
「彼は、私の真似をしない唯一の弟子だった」
彼が師の真似をしなかったのは、ラヴェルに対する反感からではないことは、民族文化と音楽に対する考え方からみて明らかである。
この曲(交響曲第3番)は、結局7年間にわたって毎日最低2回ずつ聴くことが日課となった。ある時は第1フルート奏者の席について、またある時はコントラバス奏者として聴いた。全てのパートを体験して覚えてしまった。だからといって私がヴォーン=ウィリアムズ2世になったわけではない。響きの真似をしようとも思わない。自らの考えを明確に表現しようとした志を学んだつもりである。
皆さんに同様の行為をお薦めするつもりもない。私と同じような経緯でたどりつけば意味があるかもしれないが、人はそれぞれ異なった経験をするものだからである。
ひとつだけ言えることは、この曲に出会わなかったら今の私はないということだ。
野村茎一作曲工房
2008年04月17日
2008-04-17 私が学んできた曲-06 ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 作品67
番外編
ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 作品67
世の中には不幸なことが数多くあるが、音楽的な不幸のひとつに「運命」と俗称されるこの曲の冒頭が誰にも知られているために人々の理解を得られにくいことが挙げられるだろう。
私が書いた「学んできた曲」のリストの中から欠落していたので腰を抜かすほど驚いた。この曲は私にとって空気のような存在になっているに違いない。
仮に、録音技術のない世界を想像していただきたい。私たちは生演奏でしか音楽に触れることができない。楽器演奏習得への情熱も今の状況よりもずっと熱いものがあるかも知れない。ベートーヴェンの交響曲第5番もほとんどの人が聴いたことがないことだろう。しかし、人々の耳に第5を聴いた人の驚きと興奮だけは伝わってくる。
凄い曲があるらしい、と。
聴いた人は、曲の終了を待ちきれず歓喜のあまり立ち上がってしまう、などという噂もまことしやかに流れるかも知れない。
そのような状況なら誰もが襟を正して第5と向きあうことだろう。しかし、今は第5は、むしろ「お笑い」のジャンルに分類されているのではないか。
レッスンにお見えになったピアノの先生がたに、最後に第5を聴いたのがいつであるか訊ねてみた。誰一人正確には答えられなかった。それどころか、ステージで生で聞いた人はいなかった。唯一、一般の音楽愛好家の男性がオケと指揮者まで答えてくださったが、それが現実である。
バッハの「フーガの技法」や「音楽の捧げ物」をアナリーゼすると(結局ほんの一部しか解き明かせないのだが)、宇宙の中心まで続く底なしの空間を覗き見た気持ちになるのだが、第5も同じような感慨を抱かせる作品である。
演奏にもよるが、わずか1分30秒の第1楽章主題提示部は、全曲で10分ほどに収まってしまうウェーベルンの「交響曲」なみの凝縮度である。第5を聴いた後にブラームスやブルックナーを聴くと、短く切り詰めて編曲したくなるほどである(たまたま引き合いに出しただけで、ブラームスやブルックナーに罪はありません。念のため)。
第5以後、人類は未だこれを超える交響曲を手に入れていない。もちろん、第5以後にも好きな交響曲は数多く書かれている。それは「フーガの技法」以後にも敬愛して止まない曲がいくつも存在するのと同じことである。
師の言葉を借りるからば「たどりつけなければ元々縁がなかったのだ」ということになるが、世の中の第5に対する扱い方に影響されて、第5を理解しようとしないということは、実に惜しいことである。あるいは、それ自体がその人の器や能力の限界を表しているといっても大げさではないかも知れない。
すぐれた能力は、すぐれたものを見抜く力でもあるからだ。
世間一般のモナリザに対する認識と扱いが、レオナルドへの理解を妨害している可能性があるということとも似ている。
最後に、第1楽章再現部第2主題のスコア書き換え問題について触れる。
ベートーヴェンのオリジナルスコアではC Durとなって現れる再現部第2主題にファゴットを指定している。しかし、カラヤンがホルンに書き直して演奏してから、そのようにする指揮者も出てきた。一般の人気はホルンによる再現に軍配が上がっているよいうにも思われるほどだ。
第5の初演は1808年。バルブ付きのホルンの登場は1814年ころである。カラヤンの判断は、もし作曲時にバルブ・ホルンがあればベートーヴェンはためらわずに第2主題の再現にホルンを用いただろうということであると思われる。しかし、そうならば初演当時でもC管無弁ホルンへの持ち替えで解決できるのではないか。ベートーヴェンの交響曲のスコアを詳細に検討すると、たとえば第7番第2楽章の結尾部に現れる点描的な書法による部分(第255小節以降)の第259-260小節、第267-268小節などで、ファゴットとホルンを対等に扱っているように見える。実際、響きもよく溶け合っている。ここにベートーヴェンのファゴット観を感じはしないだろうか。
ここまで綿密に書かれた第5においてベートーヴェンが一切妥協していないと考えるならば、ファゴットによる第1楽章第2主題の再現は作曲者の望んだとおりであった可能性も捨てきれないと考えるのである。
聴いてみようという気になられたなら、ぜひポケットスコアの入手をお薦めします。
参考URL(日本楽譜出版社のポケットスコアは、国内外他社に比べて信頼性が高いと感じています)
ベートーヴェン交響曲第5番スコア
野村茎一作曲工房
ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 作品67
世の中には不幸なことが数多くあるが、音楽的な不幸のひとつに「運命」と俗称されるこの曲の冒頭が誰にも知られているために人々の理解を得られにくいことが挙げられるだろう。
私が書いた「学んできた曲」のリストの中から欠落していたので腰を抜かすほど驚いた。この曲は私にとって空気のような存在になっているに違いない。
仮に、録音技術のない世界を想像していただきたい。私たちは生演奏でしか音楽に触れることができない。楽器演奏習得への情熱も今の状況よりもずっと熱いものがあるかも知れない。ベートーヴェンの交響曲第5番もほとんどの人が聴いたことがないことだろう。しかし、人々の耳に第5を聴いた人の驚きと興奮だけは伝わってくる。
凄い曲があるらしい、と。
聴いた人は、曲の終了を待ちきれず歓喜のあまり立ち上がってしまう、などという噂もまことしやかに流れるかも知れない。
そのような状況なら誰もが襟を正して第5と向きあうことだろう。しかし、今は第5は、むしろ「お笑い」のジャンルに分類されているのではないか。
レッスンにお見えになったピアノの先生がたに、最後に第5を聴いたのがいつであるか訊ねてみた。誰一人正確には答えられなかった。それどころか、ステージで生で聞いた人はいなかった。唯一、一般の音楽愛好家の男性がオケと指揮者まで答えてくださったが、それが現実である。
バッハの「フーガの技法」や「音楽の捧げ物」をアナリーゼすると(結局ほんの一部しか解き明かせないのだが)、宇宙の中心まで続く底なしの空間を覗き見た気持ちになるのだが、第5も同じような感慨を抱かせる作品である。
演奏にもよるが、わずか1分30秒の第1楽章主題提示部は、全曲で10分ほどに収まってしまうウェーベルンの「交響曲」なみの凝縮度である。第5を聴いた後にブラームスやブルックナーを聴くと、短く切り詰めて編曲したくなるほどである(たまたま引き合いに出しただけで、ブラームスやブルックナーに罪はありません。念のため)。
第5以後、人類は未だこれを超える交響曲を手に入れていない。もちろん、第5以後にも好きな交響曲は数多く書かれている。それは「フーガの技法」以後にも敬愛して止まない曲がいくつも存在するのと同じことである。
師の言葉を借りるからば「たどりつけなければ元々縁がなかったのだ」ということになるが、世の中の第5に対する扱い方に影響されて、第5を理解しようとしないということは、実に惜しいことである。あるいは、それ自体がその人の器や能力の限界を表しているといっても大げさではないかも知れない。
すぐれた能力は、すぐれたものを見抜く力でもあるからだ。
世間一般のモナリザに対する認識と扱いが、レオナルドへの理解を妨害している可能性があるということとも似ている。
最後に、第1楽章再現部第2主題のスコア書き換え問題について触れる。
ベートーヴェンのオリジナルスコアではC Durとなって現れる再現部第2主題にファゴットを指定している。しかし、カラヤンがホルンに書き直して演奏してから、そのようにする指揮者も出てきた。一般の人気はホルンによる再現に軍配が上がっているよいうにも思われるほどだ。
第5の初演は1808年。バルブ付きのホルンの登場は1814年ころである。カラヤンの判断は、もし作曲時にバルブ・ホルンがあればベートーヴェンはためらわずに第2主題の再現にホルンを用いただろうということであると思われる。しかし、そうならば初演当時でもC管無弁ホルンへの持ち替えで解決できるのではないか。ベートーヴェンの交響曲のスコアを詳細に検討すると、たとえば第7番第2楽章の結尾部に現れる点描的な書法による部分(第255小節以降)の第259-260小節、第267-268小節などで、ファゴットとホルンを対等に扱っているように見える。実際、響きもよく溶け合っている。ここにベートーヴェンのファゴット観を感じはしないだろうか。
ここまで綿密に書かれた第5においてベートーヴェンが一切妥協していないと考えるならば、ファゴットによる第1楽章第2主題の再現は作曲者の望んだとおりであった可能性も捨てきれないと考えるのである。
聴いてみようという気になられたなら、ぜひポケットスコアの入手をお薦めします。
参考URL(日本楽譜出版社のポケットスコアは、国内外他社に比べて信頼性が高いと感じています)
ベートーヴェン交響曲第5番スコア
野村茎一作曲工房
2008年03月15日
2008-03-14 私が学んできた曲-05 「教皇マルチェルスのミサ曲」
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525?-1594)
「教皇マルチェルスのミサ曲」
作家の田辺聖子さんが、少女時代に百人一首に親しんでいたために女学校の古文の授業に大変すんなり入っていけた、というようなことを書いておられた。
音大を卒業なさった方なら経験がおありと思うが、対位法の授業は身について役に立っているだろうか。もし、高校時代にパレストリーナの音楽に出会って没頭して聴き込んでいたならば、対位法の授業は小学校の算数のようにやさしく感じられたかも知れない。
管弦楽法も同様である。ベルリオーズのように声部を束ねて鳴らす流儀ならば、楽器法さえ学べば誰でもすぐに真似られるかも知れない。しかしヴォーン=ウィリアムズの、たとえば交響曲第3番のように多くの声部が独立して動き、しかもクリアリティを損ねないというような緻密な声部構成であると、管弦楽法のテキストを1冊丸暗記しても歯が立たないだろう。
パレストリーナの対位法はパレストリーナ様式と呼ばれ、バッハの和声的対位法と双璧をなす“線的対位法”の極地であり、バッハ同様パレストリーナのほかには類をみない完成度の高さを誇る。
「教皇マルチェルスのミサ曲」は、無伴奏合唱曲としての頂点に立っているかも知れない。対位法のテキストでは、何をやってはいけないかという禁則はきっちりと教え込まれるが、どうしたら美しい音楽になるのかは教えてくれない。対位法を学ぶ前にパレストリーナに没頭することは必須である。
しばしばリムスキー=コルサコフやベルリオーズが「管弦楽法の神様」と呼ばれるが、それは誰が言ったのだろうか。オーケストラの各声部を注意深く聴いたならば、洗練されているとは言い難い音の積み重ね(音の“かぶり”)や、それによる音色の中間色化に気づくことだろう。リムスキー=コルサコフやベルリオーズに近い作曲家としてはレスピーギやストラヴィンスキーがいるが、彼らの管弦楽法こそ玄人のものである。レスピーギは、いくら大音量でオケを鳴らしてもクリアリティ(音が透明であるという意味ではない。オーケストレーションの意図が明確に反映されるというような意味である)が損なわれることはない。すぐれた管弦楽曲を聴き込んで、その意味を理解してから管弦楽法の授業に臨めば、テキストの著者の実力さえ測れるほどになっているかも知れない。
パレストリーナの音楽を対位法の授業の予習と捉えられては心外だが、パレストリーナの美学を理解していれば、どういう曲が真に優れて、かつ美しいのかを判断する材料をひとつ持つことだけは確実である。
野村茎一作曲工房
「教皇マルチェルスのミサ曲」
作家の田辺聖子さんが、少女時代に百人一首に親しんでいたために女学校の古文の授業に大変すんなり入っていけた、というようなことを書いておられた。
音大を卒業なさった方なら経験がおありと思うが、対位法の授業は身について役に立っているだろうか。もし、高校時代にパレストリーナの音楽に出会って没頭して聴き込んでいたならば、対位法の授業は小学校の算数のようにやさしく感じられたかも知れない。
管弦楽法も同様である。ベルリオーズのように声部を束ねて鳴らす流儀ならば、楽器法さえ学べば誰でもすぐに真似られるかも知れない。しかしヴォーン=ウィリアムズの、たとえば交響曲第3番のように多くの声部が独立して動き、しかもクリアリティを損ねないというような緻密な声部構成であると、管弦楽法のテキストを1冊丸暗記しても歯が立たないだろう。
パレストリーナの対位法はパレストリーナ様式と呼ばれ、バッハの和声的対位法と双璧をなす“線的対位法”の極地であり、バッハ同様パレストリーナのほかには類をみない完成度の高さを誇る。
「教皇マルチェルスのミサ曲」は、無伴奏合唱曲としての頂点に立っているかも知れない。対位法のテキストでは、何をやってはいけないかという禁則はきっちりと教え込まれるが、どうしたら美しい音楽になるのかは教えてくれない。対位法を学ぶ前にパレストリーナに没頭することは必須である。
しばしばリムスキー=コルサコフやベルリオーズが「管弦楽法の神様」と呼ばれるが、それは誰が言ったのだろうか。オーケストラの各声部を注意深く聴いたならば、洗練されているとは言い難い音の積み重ね(音の“かぶり”)や、それによる音色の中間色化に気づくことだろう。リムスキー=コルサコフやベルリオーズに近い作曲家としてはレスピーギやストラヴィンスキーがいるが、彼らの管弦楽法こそ玄人のものである。レスピーギは、いくら大音量でオケを鳴らしてもクリアリティ(音が透明であるという意味ではない。オーケストレーションの意図が明確に反映されるというような意味である)が損なわれることはない。すぐれた管弦楽曲を聴き込んで、その意味を理解してから管弦楽法の授業に臨めば、テキストの著者の実力さえ測れるほどになっているかも知れない。
パレストリーナの音楽を対位法の授業の予習と捉えられては心外だが、パレストリーナの美学を理解していれば、どういう曲が真に優れて、かつ美しいのかを判断する材料をひとつ持つことだけは確実である。
野村茎一作曲工房
2008年02月27日
2008-02-25 私が学んできた曲-04 モンテヴェルディ「歌劇“オルフェオ”」より「トッカータ」
クラウディオ・モンテヴェルディ(デイヴィッド・マンロウ復元演奏)歌劇「オルフェオ」よりトッカータ
「習っていないから知らない」あるいは「習っていないからできない」という感覚は、今の日本の学校教育を受けている子どもたちには当然のものかも知れない。その感覚は言い換えれば「経験したことのない危機に出会った時、呆然と立ち尽くしてなすすべがない」ということと同じである。
哲学者も科学者も芸術家も、それとは真逆な感覚で生きているはずで、誰かが見いだしてしまったことやすでに誰かがやってしまったことには興味がないはずだ。
音楽の世界にも“初めて”はつきものだが、デイヴィッド・マンロウ(1942-1976)が復元演奏したモンテヴェルディ(1567-1643)の“トッカータ”を聴いた時には呆気にとられたものだ。
もう20代も半ばにさしかかった頃、FM放送を聴いていたら流れてきたのがこの曲だった。すぐにLPを調べたがアルヒーフ・レーベルから出ている「ゴシック期の音楽」という全集ものでしか手に入らないことが分かった。もちろん注文を出して手に入れた。手を尽くしてスコアも探しだした。当時の出版譜のファクシミリで音符はひし形である。
イギリスの古楽器奏者で古楽研究家のデイヴィッド・マンロウは、このたった1ページのスコアを見て全てを理解したのだろうか。というのも、彼が行なったことは常人には為しえないような偉業であったからである。
マンロウは、当時の楽器の復元から始めなければならなかった。博物館にある古楽器や、あるいはカメラオブスキュラという一種の投影装置を用いて正確な絵を描いていたフェルメールのような画家の絵に登場する楽器も参考にしたのかも知れないが、とにかく古楽器製作者とともに演奏に必要な当時のままの楽器を復元製作した。それを自らが組織していたロンドン古楽コンソートの奏者らに練習させて、それから録音した。そのために費やしたエネルギーはどれほどのものであっただろうか。
そのようにして復元演奏されたモンテヴェルティの傑作は、モダン楽器による演奏しか知らない私に十分な衝撃と打撃を与えた。当時の楽器の性能は今では考えられないほど低かったのだろう。スコアの下2段に記されたのはそれぞれ一つの高さの音だけ。それが全小節、全音符で埋め尽くされている。オルガン・ポイント(オルゲル・プンクト)ではない。この曲はたった1種類のコード(D dur I度)だけでできているのだ。ツィンクのような楽器で演奏されるメロディーはD-E-Fis-G-Aの5音で、一回だけ無理やり唇のコントロールで出したようなHが使われる。このような条件で作曲を依頼されても、私の力では何もできないか、失敗作が完成するかのどちらかだろう。
この曲は、音楽史上初めて、真の意味において成功したオーケストラ曲なのではないだろうか。そして、いまだ誰もこれを超えていないと言っても過言ではないかも知れない。
高校生の頃、オーケストラ曲を書くとしたら、まず頭の中に「春の祭典」のオーケストレーションが浮かんだ。その後、ヴォーン=ウィリアムズのオーケストレーションに規範を見いだすようになるのだが、この“トッカータ”を知って以来、さらに「モンテヴェルディの」という概念が加わった。
今回は「モンテヴェルディの」というよりも「モンテヴェルディとデイヴィッド・マンロウのコラボレーション」を称賛すべきだろう。
ここまで読んでこられて、冒頭に述べた「まだ習ってないからできない」という感覚をどう思われるだろうか。皆さんも「まだ習ったことがないもの、まだ誰もやっていないこと」に興味が薄れてきたのではないだろうか?
※注 現在CDで入手できるマンロウ・ロンドン古楽コンソート演奏による「トッカータ」(アマゾンなどですぐに見つかる盤)は残念ながら私が聴いた録音とは異なるようです。お聴きになられる場合はアルヒーフ「ゴシック期」の音楽というシリーズに収められているものを強くお薦めします。
お詫び:私の記憶違いで、私が聴いていた演奏がユルゲン・ユルゲンス指揮、ハンブルク・カメラータ・アカデミカ(アルヒーフ)のものであったことが判明しました。よって、このコラムには一部不正確な記述があることを記しておきます。反省を込めて、このまま残します。
野村茎一作曲工房
2008年02月25日
2008-02-24 私が学んできた曲-03 モーツァルト
モーツァルト 交響曲第40番ト短調 K.550 第3楽章
モーツァルト ピアノソナタハ長調 K.545
中学校1年生の時、私が音楽についてどのくらい何も分かっていなかったかをよく理解しているつもりだ。もちろん、当時は何を知らないのかさえ知らなかった。だからこそ理解前と理解後の、0と1のような状況がよく分かる。
小学校5年生の時に、マンガの立ち読みに訪れた市内の書店で流れていた美しい(そう感じたのではないかも知れない)ピアノ曲に電撃的なショックを受け、初めて音楽を素晴らしいと思った。もちろん作曲者も曲名も分かるはずがない。
その後、家で母親がつけっぱなしにしていたラジオからその曲が流れ、曲名が判明した。モーツァルトのピアノソナタハ長調だった。それまで私の“女神(?)”(衝撃的であったが故に信奉してしまう対象)は、オランダの画家ピエト・モンドリアンの矩形に仕切られた色彩だったのだが、モーツァルトという名前が分かった瞬間から女神様はモーツァルトになった。小学校6年生の時に渡されたソナチネアルバムにその楽譜を見いだした時の驚きは忘れることができない。
中学生1年生のときに(たぶん)K.545のレッスンで、先生がモーツァルトの交響曲40番のピアノスコアを持ち出してきて第3楽章を弾いた。もちろんオケ版も聴いた。いい曲だったが、先生の言っていることはちんぷんかんぷんだった。私に聴かせたかったのは、おそらくストレッタの部分で、モーツァルトが晩年にポリフォニックな立場に移行したことを知らしめるレッスンだったのだと思う。545でも展開部はバッハのインベンションのような掛け合い(模倣や応答)が登場する。以後、私にとってモーツァルトはポリフォニックな作曲家という認識に変わった。
このレッスンのおかげで、後々いろいろなことに到達することになった。
高校生になって、作曲のレッスンを受けるようになってから古典ソナタ形式の精神と理念を学んだ。教材として扱われたいくつかの曲のひとつがK.545の第1楽章(以下545-1)だった。ソナタの精神は“統一感”に集約される。人の身体を例にするならば、手も足も血管も髪も心臓もすべて統一感に満ちている。つまり、同じそれらはDNAから発現しているとも言えるし、人類という大きなカテゴリーで見ても共通のDNAを感じる。地球の生物全体もそうだ。音楽における“正統”という感覚は、そのDNAをかぎ分ける力を持っているかどうかに関わってくるのだろう。
545-1では、第2主題が第1主題の部分動機aの縮小逆行形と部分動機bの結合によって作られている。第1主題後半のスケールによるゼクエンツは第2主題後半ではアルペジオによるゼクエンツに置き換えられ、漢詩における対句表現のようになっている。コーダに向かう経過句は第1主題と第2主題から2小節ずつがとられ、コデッタは第1主題の別表現となっている。もし、545-1を「弾いたことがある」、あるいは「レッスンで合格した」という程度の触れかたであったならば、どのような説明を受けても「ほう!」と思う程度だっただろう。ところが545は私の女神だったことがあるのだ。耳の後ろのホクロだって知っている。私にはレディネス(受け入れる準備)があった。
その時、私はモーツァルトだった。つまり一部ではあるがモーツァルトの立場で考えることができたのだと思う。
以後、いろいろなことが聴こえるようになった。550-3を理解した演奏はジョージ・セル/クリーヴランド響のものであることも確信しているし(それ以外でモーツァルトの考えを知ることは無理なのではないか?)「ピアノソナタ ハ長調 K330」は、実はクレメンティへの嫉妬で曇ったモーツァルトによって書かれたのではないかということも感じてならない(それを示す文献や資料には出会っていないので、あくまで私の直感。ご自分で判断していただきたい)。331、332の完成度の高さに対して、ひどい出来栄えである(ただし、違う意味でお気に入りではある)。バックハウスは「モーツァルト中、もっと愛らしい1曲」と述べたそうだが、本気で思っているのか、モーツァルトも人間だったのだと皮肉っぽく語っているのかは分からない(その録音を聴くと肝心のG5音のユニゾン調律が合っておらず驚くのだが)。
モーツァルトのピアノソナタを全曲弾いたからといってモーツァルトが理解できるとは限らない。本当に重要な曲を嗅ぎ分けて(それは人によって異なるはず)、それに没入するという希有な体験を経て初めて理解へのレディネスが整うのではないか。
モーツァルトは海のように広大で、その全てを知ったわけでも理解したわけではないが、湘南の海岸で水平線を眺めて海の広さのクオリアを知ったという程度にはモーツァルトを学んだと思っている。
ちなみに、ベームの「モーツァルト交響曲全集」を始めとする“全集もの”をいくつか聴いたが(複数回)、集中力も続かず、少しも自らの役に立てることはできなかった。つまり、単に各曲を知り、明確に区別するということさえできなかった。
学ぶということは極めて個人的なものであって、誰もがそれぞれ自らの流儀によって真実に到達するしかないことを強調しておく。
野村茎一作曲工房
2008年02月24日
2008-02-23 学んできた曲02-バイエル
小説家の栗本 薫(中島 梓)が若い頃、自らに降りかかるさまざまな雑音に対して「くやしかったら書いてみろ」と繰り返し放言していたのには共感したものである。
若い私は批評側ではなく創造の立場に身を置きたかった。
今でも馬鹿だが私がもっと馬鹿だった頃、提言や創造にはインスピレーションが必要だが、反論、とくに芸術作品に対する反論は誰にでもできると思っていた。
ところが、吉田秀和さんの音楽評論集を読むようになって優れた批評眼の凄さを知り、彼には尊敬よりも畏怖の念を抱くようになった。インスピレーションのない反論や批判は、書いた本人の考えの“的外れ具合”や“誤り”を公言しているだけだということも分かってきた。
それからというもの、さまざまな批判を読んだり聞いたりすることが何よりも勉強になった。批判者が何を理解し、何を誤解しているのかが読み取れることに気づいたからである。
“バイエル批判”は、その中でも特に興味深かった。
なぜなら、私が本当の意味で音楽を学んだのはバイエルそのものだったからである。
バイエルにあらためて興味を持ったのは大学在学中の1976年頃のことだったと思う。なぜなら、この年からバイエルの編曲を始めているからである。ただし、この時にはバイエルの本当の凄さにはまだ気づいていなかった。卒業後の1980年には、何曲ものバイエル編曲を始めており、この頃、バイエルに何かあると気づいたのかも知れない。しかし、まだまだ理解には程遠く、バイエルの何が凄いのかを具体的に提示できる段階ではなかった。
1997年にピアノと作曲のレッスンを始めてから、本格的なバイエル研究が始まった。実際にはバイエルだけではなく、さまざまなピアノ・メソードの研究を始めた。
既存のメソード(すでに版権が切れたような)は概して評判が悪く、中でもバイエル批判の嵐は強く、研究資料には事欠かなかった。
いわく「古い」。
いわく「なかなかヘ音記号が出てこない」。
いわく「白鍵ばかり弾かせる」。
しまいには「音楽的ではない」というものまで飛び出す始末だった。
「古い」という批判に対しては、テクニック面では確かにスタッカートの扱いなどはモダンピアノ向きではなく、あながち的外れであるとは言えないが、音楽的には何が“古い”のか説明されている批判には出会えていない。
ト音記号とヘ音記号を時間をずらして順番に学ばせることの非についても、納得のいく説明は知らない。“白鍵主義”についてはさまざまな立場と考えがあり(ショパンは黒鍵を発明した人は天才であると断言している)、それについての批判は理解できる。バイエルをメソードに採用したレスナーは、その問題について自ら答えを出し、その結論によっては副教材を工夫する必要もでてくることだろう。
「音楽的ではない」という批判に関して意義を唱えることは、まさにバイエル研究の真骨頂である。
ショパン的な立場で答えるならば「楽譜は未だ音楽ではなく、演奏されて初めて音楽となる」ということになる。つまり「音楽的ではない」という批判は、批判者自身の演奏に対する評価となっている可能性も否定できないのではないか。バイエルの凄さは、演奏者の音楽性がいくらでも注ぎ込めるところにあるのである。他の初心者用メソードでは、いくら美しく演奏しようと思ってもあっという間に限界がやってくるのに、バイエルは天井知らずなのだ。それが顕著なのがバイエル前半。しばしば「こどものバイエル」として二分冊される“上巻”に相当する部分である。
本編に入る前に現れる“予備練習”から美しい。実際、右手、あるいは左手の予備練習の第21番より美しい曲を他の作曲家の作品から見いだすのは容易いことではない。惜しむらくは、予備練習に和声付けがなされていないことで、これに気づかないとこれがどのように扱われる教材であるのか分かりにくい。
バイエルに含まれる全曲が確固たる“フレーズ周期”に基づいて書かれており、これがリズム・メロディー・ハーモニーに続く“音楽の第4の要素”として強力に働いている。フレーズ周期から導き出されるアゴーギクの変化は、そのまま演奏者の音楽的内面を表し、まさにレッスンはそれを指標に進む。フレーズ周期に気づいた最初の作曲家こそがショパンだったが、それがクオリアであったために広く理解されたというわけではなかった。
作曲家としてのバイエルの“凄さ”は、この初級メソードに収められた各エチュードから読み取ることができる。
部分動機の縮小形によるクライマックスの誘導もそのひとつだが、原書第26番では右手と左手それぞれに現れ、それが一致したところで曲が最高潮に達する。それを発見した時の驚きは、とても言葉にできない。原書第28番から始まる反復保持音のトレーニング(厳密には第17番からと言うこともできるが、この段階では多くの場合学習者にレディネスがない)は、第39番、第40番へと受け継がれて第56番で結実する。そのベルトーンの美しさはピアノならではのもので、他楽器への編曲は不可能である。このテクニックは美しいアルベルティ・バスにも応用されるものなので決して疎かにしてはならない。某社の“こどものバイエル”の第28番には「意味のよくわからない曲です。とばしてしまってもよいでしょう」というような注釈があるが、とんでもない話である。意味が理解できないのは注釈者自身の研究不足であって、作曲者のバイエルに非はない。しかし、このような注釈に影響を受けるレスナーもいるかも知れないので、レスナーは自らの判断を大切にしてほしい。
ロールンクの獲得もバイエルの重要課題となっている。第46番から始まって第101番で結実する。第62番の美しさは特筆に値する。
予定の紙数を超えてしまった。バイエルについて語り始めると止まらない。
第104番が厳格な古典ソナタ形式に則って書かれていること、第106番はバイエルが、ずっと先でショパン・エチュードに連なることを予感させる傑作であることを書き添えて筆を置く。
野村茎一作曲工房
2008年02月17日
2008-02-16 学んできた曲-01 私が何かを学んだ曲
音楽史上に音楽は星の数ほどあるものの、人生は短く、学ぶべき曲はそれほど多くはない。とりあえず思いついたものだけを作曲者年代順リスト(私が学んだ順というわけではない)として以下に掲げた。これから順次、各曲から何を学んだのか少しずつ書いていく。
なお「学ぶ」の定義は「知る前と知った後、理解する前と理解した後で行動が変わること」であり、「知っている」ということとは大きく異なる点に注意されたい。
年代順リスト
・パレストリーナ(1525頃-1594)
「教皇マルチェルスのミサ曲」(推定作曲年1555)
・ウィリアム・バード(1540頃-1623)
「ソールズベリー伯爵のパヴァーナ」(ヴァージナルのための)(出版年1612-3頃)
・クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)
「歌劇“オルフェオ”から“トッカータ”(デイヴィッド・マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート:アルヒーフ「ゴシック期の音楽」全集)」(作曲1607)
・ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)
シャコンヌヘ短調(オルガン独奏)
・バッハ(1685-1750)
平均律クラヴィア曲集第1巻
フーガの技法
・モーツァルト(1756-1792)
交響曲第40番ト短調K.550第3楽章(1788)
ピアノソナタハ長調K.545第1楽章(1788)
・ベートーヴェン(1770-1827)
ピアノ協奏曲第2番(着手は1785頃か?)、第1番(1795)、第3番(1800)、第4番(1806)、第5番(1809)まで
ピアノソナタ第23番 ヘ短調 作品57(1806)
・フェルディナント・バイエル(1803-1863)
バイエルピアノ教則本
・チャイコフスキー(1840-1893)
ピアノ協奏曲第1番 作品23(1875)
幻想序曲「ロミオとジュリエット」(1869)
弦楽セレナーデ ハ長調 第1楽章「ソナチネ形式の小品」(1880)
・クロード・ドビュッシー(1862-1918)
「小組曲」(4手のための)(1889)
「映像」第1集(1905)
「前奏曲集」第1巻(1910)
ショパン「ノクターン集」校訂版
・フレデリック・ディーリアス(1962-1934)
「小管弦楽のための2つの小品」から第1曲「春一番のカッコウを聞いて」(1912)
・モーリス・ラヴェル(1875-1937)
弦楽四重奏曲ヘ長調(1904)第1第・2楽章
序奏とアレグロ(1905)
バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1912)
・レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)
交響曲第3番(1921)
・セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)
ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18(1901)第1・第2楽章
・バルトーク・ベーラ(1881-1945)
子どものために Sz.42(1919。最終校訂は1945)
ミクロコスモス Sz.107(1926-1939)
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 Sz.106(1936)
バッハ作品などの各種校訂版。
・イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)
「5本の指で」(1921)(ピアノ独奏)
15人の奏者のための8つのミニアチュア(1962)(「5本の指で」の編曲版)
バレエ「春の祭典」(1913)
・ジャック・イベール(1890-1962)
フルート協奏曲(1934)
・フランク・マルタン(1890-1974)
小協奏交響曲(1945)第1部
・セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)
ピアノ協奏曲第2番 作品16(1913)第1楽章
ピアノソナタ第7番 作品83(1942)第1楽章
・パウル・ヒンデミット(1896-1963)
6つの歌(無伴奏混声四部合唱)から第1曲「牝鹿」(1939)
・フランシス・プーランク(1899-1963)
フルートソナタ(1957)から第1・第2楽章
・ドミトリー・ショスタコーヴィッチ(1906-1975)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937)第1・第3楽章
・ジャン=ミシェル・ダマーズ(1928-)
フルートとハープのためのソナタ(1964)
・チック・コリア(1941-)
「Return to Forever」(1972)から「Return to Forever」
・クラウス・シュルツェ(1947-)
「Body-Love」から「No where - Now here」
野村茎一作曲工房
なお「学ぶ」の定義は「知る前と知った後、理解する前と理解した後で行動が変わること」であり、「知っている」ということとは大きく異なる点に注意されたい。
年代順リスト
・パレストリーナ(1525頃-1594)
「教皇マルチェルスのミサ曲」(推定作曲年1555)
・ウィリアム・バード(1540頃-1623)
「ソールズベリー伯爵のパヴァーナ」(ヴァージナルのための)(出版年1612-3頃)
・クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)
「歌劇“オルフェオ”から“トッカータ”(デイヴィッド・マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート:アルヒーフ「ゴシック期の音楽」全集)」(作曲1607)
・ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)
シャコンヌヘ短調(オルガン独奏)
・バッハ(1685-1750)
平均律クラヴィア曲集第1巻
フーガの技法
・モーツァルト(1756-1792)
交響曲第40番ト短調K.550第3楽章(1788)
ピアノソナタハ長調K.545第1楽章(1788)
・ベートーヴェン(1770-1827)
ピアノ協奏曲第2番(着手は1785頃か?)、第1番(1795)、第3番(1800)、第4番(1806)、第5番(1809)まで
ピアノソナタ第23番 ヘ短調 作品57(1806)
・フェルディナント・バイエル(1803-1863)
バイエルピアノ教則本
・チャイコフスキー(1840-1893)
ピアノ協奏曲第1番 作品23(1875)
幻想序曲「ロミオとジュリエット」(1869)
弦楽セレナーデ ハ長調 第1楽章「ソナチネ形式の小品」(1880)
・クロード・ドビュッシー(1862-1918)
「小組曲」(4手のための)(1889)
「映像」第1集(1905)
「前奏曲集」第1巻(1910)
ショパン「ノクターン集」校訂版
・フレデリック・ディーリアス(1962-1934)
「小管弦楽のための2つの小品」から第1曲「春一番のカッコウを聞いて」(1912)
・モーリス・ラヴェル(1875-1937)
弦楽四重奏曲ヘ長調(1904)第1第・2楽章
序奏とアレグロ(1905)
バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1912)
・レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)
交響曲第3番(1921)
・セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)
ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18(1901)第1・第2楽章
・バルトーク・ベーラ(1881-1945)
子どものために Sz.42(1919。最終校訂は1945)
ミクロコスモス Sz.107(1926-1939)
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 Sz.106(1936)
バッハ作品などの各種校訂版。
・イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)
「5本の指で」(1921)(ピアノ独奏)
15人の奏者のための8つのミニアチュア(1962)(「5本の指で」の編曲版)
バレエ「春の祭典」(1913)
・ジャック・イベール(1890-1962)
フルート協奏曲(1934)
・フランク・マルタン(1890-1974)
小協奏交響曲(1945)第1部
・セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)
ピアノ協奏曲第2番 作品16(1913)第1楽章
ピアノソナタ第7番 作品83(1942)第1楽章
・パウル・ヒンデミット(1896-1963)
6つの歌(無伴奏混声四部合唱)から第1曲「牝鹿」(1939)
・フランシス・プーランク(1899-1963)
フルートソナタ(1957)から第1・第2楽章
・ドミトリー・ショスタコーヴィッチ(1906-1975)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937)第1・第3楽章
・ジャン=ミシェル・ダマーズ(1928-)
フルートとハープのためのソナタ(1964)
・チック・コリア(1941-)
「Return to Forever」(1972)から「Return to Forever」
・クラウス・シュルツェ(1947-)
「Body-Love」から「No where - Now here」
野村茎一作曲工房

