駆け足音楽史も今回で最終回である。バッハ以前の時代に関しては、またいずれ機会をあらためて書きたいと考えている。
ところで、皆さんはドビュッシーをどのように聴かれただろうか。
私が中学生の頃、とある音楽史年表の印象派の欄にドビュッシーとラヴェルが並記されていた。ドビュッシーとラヴェルが同じように聴こえた音楽学者もいたのだろう。ドビュッシーは全く新しい音楽世界を切り拓いたが、ラヴェルは伝統に忠実な新古典主義者だった。ただし、ラヴェルは響きに関して言うならばむしろドビュッシーよりも前衛的であり、両者のスタンスが大きく異なるためにラヴェルとドビュッシーを同じカテゴリーで語るには無理がある。2人の有名な弦楽四重奏曲の第1楽章のスコアを見比べただけでも、その違いに驚くことだろう。ドビュッシーが新しい弦楽四重奏曲を生み出そうとしているのに対し、ラヴェルは主題労作をして綿密な部分動機作法によってベートーヴェンを凌ぐような楽章を超えた楽曲の有機的構築を行なっている。ラヴェルによって、モーツァルトが果たそうとしていた古典派のソナタが一応の完成を見たと言っても過言ではないだろう。ところが、ドビュッシーは、そこからどこまで離れられるかということが自身の課題だった。
前置きが長くなった。
ウェーベルンは、新ウィーン楽派の中でも傑出した存在である。20世紀中葉のヨーロッパの進歩的な作曲家たちの多くはウェーベルンの一派と見做(みな)しても誤りではない。そして、それは当時の現代音楽の進歩と発展に一定の役割を果たした。
その中の一技法である「トータル・セリエリズム」は到達点のひとつであったが、全くインスピレーションを持たない作曲家でもデタラメな作品を生み出させてしまう弱点があった。その後に生まれたチャンスオペレーション(偶然性作法)などの新しい作曲技法にも同様の弱点があった。果たして、雨後の筍(たけのこ)のように玉石混交の膨大な評価不能の作品群が誕生しては初演だけで消えていった。これは一種の災厄であった。最も被害を受けたのは、聴衆よりも、むし本当に力のある作曲家たちだったことだろう。
その災厄の元凶は誤った未来観・未来予測だった。
無調以外の作曲家は「時代遅れ」であるとされ(“調性の後進性”について、おそらく誰も根拠を示せないことだろう)、音楽(芸術)において最も重要な“精神性の高さ”と“表現手段の先進性”がすり替わっていった。
同じ年、たとえば1800年に書かれた古典派の作曲家とロマン派の作曲家の作風が異なるのは、その作曲家が何歳の時に音楽を吸収したかによる。つまり、若い時に習得した音楽的スタンスは変わりにくいということである(インスピレーションに恵まれた作曲家は別)。だから、気の毒なのは学生時代に時代錯誤的(レトロフューチャー)な前衛音楽の洗礼を受けてしまって抜け出せなくなってしまった作曲家たちである。
今でも時折、現代音楽と銘打った演奏会に出かける機会がある。そこで聴くことができるのは、優れた才能を、自分自身や聴衆のためではなく、恩師や作曲コンクールの審査員のために使っているとしか思えない作曲家たちの“勘違いの結実”であったりする。
本音を言うと、難解であっても素晴らしい作品に出会うこともある。才能ある作曲家は、表現手段にかかわらず普遍的な美に到達するものだ。そのような時には作曲者の能力の高さと、私自身の勉強不足を思い知らされて怯(ひる)んでしまうこともしばしばである。
しかし、それらの作品がどんなに優れていようとも、広く人々に受け入れられることは難しいかも知れない。その理由を挙げるならば、ひとつにはメソードの不在があるだろう。ピアノ初心者のためのメソードに無調練習曲が少ない(非常に少ない)のはどうしてだろうか。聴衆を育てる努力がなければ「未来の音楽は全て無調になる」という言い分には、どう考えても現実との整合性がない。
また、歴史というのは人々が望む場合にはその方向に進むことがある。西洋文明に出会って、それを渇望した人々が明治維新を起こしたように(江戸時代からわずか6年で鉄道を開通させている)、歴史には集団としての強い意思が影響するものだ。果たして、現代の聴衆・演奏家・音楽評論家などが音楽の先鋭化・高度化を望んでいるだろうか。
無調音楽、それも厳密な12音技法が誕生してから1世紀が経過した。人が生きられる一生分の時間なのだから、もう充分な時間が経過したと言えるだろう。シェーンベルクが予想した未来は間違いなく到来した。12音技法は一般化することはなかったものの「古典」となって確固たる地位を確保している。しかし、そこに真の音楽を聴き取ることができなかった作曲家たちの考える未来は、ついにやってくることがなかった。
今まで述べてきた音楽が難解であるから駄目だと言っているわけではない。分かりやすくてもすぐ飽きられてしまうようでは意味がないし、その時代だけに通用するだけでは作曲者として忸怩たる思いが残るだろう。要は、現代から未来永劫(ちょっと大げさだが)絶えることなく人々を虜にする音楽を追求することが作曲家の使命なのではないかということだ。
終わりに、私の座右の銘をひとつ。
「誰も演奏したいと思わなかったり、聴きたいと思わない曲は書かれなかったのと同じことである」
※手前味噌となるが、私の「60の小練習曲集」にはバイエルレベルで弾ける12音技法の練習曲「12の音で」や複調音楽の練習曲「2つの調で」などが収められている。(「musica-due music store」で全曲の試聴・入手が可能)
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野村茎一作曲工房