2007年10月05日

今日のレッスンから 2007-10-04

 
 レッスンにお見えになる方で音楽史に興味がある人は多い。その大部分は社会人の皆さんで、音大卒であってもまだまだ勉強したりないと考えている。本当のところ、それは“音楽史コンプレックス”なのであって、その原因は、いくら音楽史の書物を読んでも実感として理解できないための困惑が興味に置き換わって見えるのではなだろうか。
 大学(一般の大学、音大の区別なく)における音楽史の授業は「教養講座」としての性格が強いように思われる。もちろん、受講する学生側もそのような内容を望んでいる(音楽史の学習をそのようなものだと思い込んでいる)という事情も影響していることだろう。
 歴史とは「人々の考え方の変化が出来事として現れた」という観点から時代を捉えるものである(私のレッスンにおける歴史の定義)。音楽史の場合にも「人々の音楽に対する考え方の変化」を捉えることから始まる。つまり、その時代の人になってみることが理解に役立つ。
 昨日は音楽史の話題が出たので「貝塚」を例に説明した。歴史の授業では、貝塚が「歴史の証拠」として果たした役割について学んだことと思われるが、果たして皆さんに貝塚の実感はあるだろうか。
 ここで古代人になって貝塚ユーザーの立場になっていただきたい。とりあえず、住居から貝塚までの望ましい距離はどのくらいだろうか。貝塚は「生ゴミ捨て場」である。近ければ迷惑で、遠ければ不便だ。塵芥車(ゴミ収集車)もやって来ない。これを考えただけで貝塚が現実感をもったのではないか。無人島で一人で暮らしているのであれば、ゴミをどこに捨てようが苦情は一切来ない。しかし、コミュニティが形成されればそうはいかない。それが先ほどの歴史の定義における「人々の・・・」というところにつながる。つまり、ルールの形成である。貝塚は当時のルールであり、これは後世の人々にも伝わる出来事のひとつであり、これを読み解くと歴史となる。
 ベートーヴェンは交響曲第3番で、それ以前との交響曲の概念を変えた。しかし、歴史が動くのはベルリオーズやブラームスがベートーヴェン的視点に立った作品を発表して、それが音楽的な流れとなってからである。過去の歴史では、それが社会の潮流にならない限り、一般の人々は自ら判断を下してこなかった。(作曲工房では、自ら判断を下せる人を育てることが目標である)
 バッハに至っては、生前は人々を動かすことが少なかったと考えられる。一部の音楽的洞察力の高い人々によって評価されはしたものの、真の音楽的潮流となるのは20世紀も近づいてからである。しかし、今でもバッハの真の理解者(バッハが何を大切であると考えていたのか、つまりバッハの立場に立てる人)は少ないのではないかと感じている。
 ショパンは、当時、すぐに有名になった。分かりやすい部分だけが音楽的潮流となり、テンポ・ルバート亜流作曲家が雨後のタケノコのように現れたが、結局彼らは忘れ去られた。ショパンの本質はテンポ・ルバートではなかったからである。ショパンの立場に立つといろいろなことが見えてくるのだが、教養主義的音楽史の多くはその視点を持たない。結局、ショパンでさえ未だその本質が理解されているとは言い難いのではないか。
 長くなりそうなので、途中を省略して結尾に入る。
 音楽の歴史は20世紀に入ってから価値観が爆発的に多様化する混乱期を迎えた。これを収束させようとしたのがアメリカのジョン・ケージである。実験的前衛音楽が生み出される最大の目的は「音楽の地平線」を見いだすことである。果たしてどこまでが音楽であるのか。その答えのひとつが「4分33秒」である。
 今さら説明の必要もないかも知れないが、これは全3楽章からなるピアノ独奏曲だが、楽譜には「第1楽章Tacet、第1楽章Tacet、第1楽章Tacet」と記されている。Tacetとは、オーケストラなどで楽章まるごと、その楽器が休みであることを表す用語で、シンバルなどではむしろ当たり前となっている。ピアニストは、演奏開始とともにピアノの鍵盤蓋を閉めて、4分33秒経過したところで蓋を開けて演奏を終える。
 この曲の登場によって、無音さえ音楽であることになった(それを認めた人にとっては)。これを超える音楽的地平線は、私の発想の中にはない。
 さらにつけ加えるならば、彼は音楽史上最長の曲も書いている。彼以前の最長記録はエリック・サティのピアノ曲「ヴェクサシオン」で、演奏時間は奏者によって幅はあるものの16〜19時間くらい。それに対してケージのオルガン曲「Organ2/ASLSP(as slow as possible)」の演奏時間は636年。ドイツのハルバーシュタット市の教会で2001年から自動機械によって始まった演奏が終わるのは27世紀。「ヴェクサシオン」が2小節の短いフレーズを840回繰り返すのに対し、「Organ2」は、音と次の音との発音間隔が1年を超えるというもので、繰り返されるわけではない。つまり、人の一生の間に誰もその全曲を聴くことができないというものである。
 これらをふざけたパフォーマンスと捉えるか否かは、あなた次第である(私自身は、極めて重要な試みであったと確信している)。
 音楽史が、このような方向に進むならば袋小路に入り込むことは疑いの余地がない。ジョン・ケージは見事にそれを示した。袋小路へ向かう分岐点はどこにあったのか。私の音楽史レッスンにおける頂点は、それを解くことにある。
 音楽史を実感を伴って学ぼうという志を得たならば、あなたは茫漠たる荒野で道に迷う“プチ音楽教養人”であることから抜け出すことができるだろう。
 

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月01日

今日のレッスンから 2007-09-30

 
 今日の午前中は中学校で音楽の授業を担当している現役教諭のA先生のレッスン。近々研究授業があるということで、指導案のチェック。私も中学・高校合わせて12年間の教諭経験があるので、指導案はたくさん書いてきた。
 扱う教材の中に、新川和江さんの詩による合唱曲「名づけられた葉」があった。ポプラの葉脈を血管に見立てて命をうたいあげているすぐれた詩である。たまたまハゼノキの葉脈を音楽コラムにリンクしたばかりだったので(フラボンさんのサイトからの無断リンクでしたが、フラボンさんから暖かいコメントをいただきました。ありがとうございます)、指導案のチェック後に葉脈の“命のデザイン”を一緒に観賞した。
 彼女は葉脈の多様性におどろきながらも、いろいろな葉脈のデザインを見ていくうちに、私がなぜハゼノキを選んだのかも理解してくれた。少々マニアックだが、ハゼノキの葉脈はファンタスティックなのだ。ずっと昔(1970年代後半から80年代初頭)に読んだ“ますむらひろし”氏の幻想的なマンガの「アタゴオル」シリーズ(現在も継続中)に出てくる森のイメージがそう思わせるのかも知れない。
 すっかりその美しさに魅せられて葉脈ファンになったところで、学習版の葉脈の解説を紹介した。わずか4行からなる葉脈の解説である。

<前略・・・維管束が分岐して葉に分布しているもの・・・後略>

 葉脈を生命のデザインとして実感して、すっかり感動してしまったあとに読めば違和感充分。これが勉強の実態。もちろん生物学的な理解は必要で、ただ葉脈の美しさに感動しているだけでは足りない。しかし、ややもすると維管束とか木部、師部、導管、仮導管などという言葉だけを覚えてテストに答えて人生での関わりを終えてしまう可能性もあるだろう。
 A先生は新川和江さんのワークショップにも参加して、直接詩人の言葉に触れている。私のレッスンでは(ピアノでも作曲でも)、茨城のり子さんと新川和江さんの作品を扱う。なぜなら、彼女たちの哲学に深く共鳴しているからである。茨城のり子さんの「倚りかからず」はベートーヴェンの姿勢に重なる。
 現役のピアノレスナーで、さらに自らのレッスンを続けようする人は少ないが、現役の音楽教諭でレッスンを受け続ける人はさらに少ない。彼女のような先生に指導を受ける生徒は本当に幸運である。

 人は才能だけでは動かない、ということを私は常日頃主張している。それは、ピアノを弾く才能や技術があっても、ピアノを弾かなくなってしまった人たちがどこにでもいることを考えれはすぐに気づくことだろう。モーツァルトやベートーヴェンが、好きとか嫌いとなどというような人間の持つ不安定な感情によって音楽に向かっていたのではないことは明らかである。音楽を志すということは、その価値に気づくことが第一歩となる。それ以降は、その人の持つ“人としての力”が志を推し進める。“人としての力”とは、一見強固に見える強そうな意思のことでも熱中する性質でもない。長期的に見て“揺るがない”ということである。熱中する人は冷めやすいこともある。意思の強そうに見える人が、真実よりも思い込みを通そうとすることようなことがあるのも見てきた。
 結局、レッスンとはその人自身を高みに導くようなものでなければならない。そのためには、まず、私自身がそうあらねばならない。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

今週のレッスンから 2007-09-21

 今月は門下に新しく2人が加わった。生徒募集はしていない、と、ことあるごとに書いているが、それでも門を叩く人は拒まない。今は、むしろ積極的(?)に受け入れている。ピアノ演奏が成熟するのにはある程度時間がかかる。私の年齢を考えると、タイムリミットはそう遠くないとも思えるからである。
 他教室から作曲工房を希望して移ってきてくれた中学生の“さあや”と、駿台予備校に通うピアノ未経験のS君。受験生が、それも受験間近になってからレッスンに通うとは何ごとかと思われるかも知れないが、かなり筋の通った選択肢ではある。作曲工房のレッスンをご存知ない方には説明が長くなるので省略するが、ピアノが弾けるようになるためには楽譜が読めて指が動いたからといって十分ではない。そもそも、ピアノ演奏の根底には音楽理解がなければならないが、音楽の理解というのは知識を得ることではなくて“到達する”ことである。その“到達する”という感覚を捉えた人は、何ごとにも到達するという方法論をとることができるようになる。“作曲する”ということは作曲という作業を行なうことではなくて、求める音楽を生み出せる自分に到達することである。かならず受験勉強にも変化が表れるだろう。音楽に到達することに比べれば、受験勉強など人生の一時期の小さな出来事であることにも気づくかも知れない。そうなれば受験勉強は重圧としてのしかかるのではなく、為すべき範囲とレベルの確定した“ワーク”として今までよりもサクサクと進むことだろう。
 音楽は文化なので、その中にいない人にレッスンすることは難しい。
仮にあなたが常磐津を習いに行ったとしよう。ずっと常磐津が好きで、たくさんの曲目をソラで歌えたりして、すっかり常磐津文化に親しんでいる場合、師匠は「では、私についてきてください」と言ってすぐに稽古を始められることだろう。ところが、あなたが常磐津そのものを知らないとしたら全く稽古にならない。師匠は常磐津の概観は説明することはできても、文化としての常磐津を提示することは困難であると思われる。しばらく浄瑠璃の舞台に通ってもらい、そこで歌われる常磐津が身体にしみ込むのを待つのが一番だろう。
 ピアノのレッスンも同様である。まず、初めてレッスンにおいでになった皆さんは、それが音大卒業生であったとしてもピアノの音色差が分からない。みんな上手に聴こえてピアニストの区別がつかない人もザラである。ベートーヴェンがどういう作曲家であるか、あるいはこれから取り組もうとしている曲に、なぜ取り組む意味があるのか分からない。
 これを徐々に理解できるようにしようというのがレッスンである。家での義務としての練習などには全く期待していない。もし、音楽理解が正しく進めば、無意味な練習などにかける時間はなくなる。音楽とピアノの追及が始まるからである。こうなると、ピアノを弾くことを禁止しても無理だろう。それに、人にはいろいろと調子の波がある。今、プロピアニストになっている人でも「3年間一度も弾かない時期があった」と話しているくらいだから、レッスンは気長に、しかしたゆまず行なう。
 “さあや”には、よく知られているピアノ曲を弾いて聴かせた。曲名と作曲者が言えた曲は数曲にすぎなかった。こういう反応は普通のことだ。もし、長く通ってくれるようなら、レッスンを通じてこれから徐々に音楽史全体を見通せるようになることだろう。打鍵のレッスンを受けてこなかったので、そこからのスタートとなる。付記するなら2回のレッスンでドレドレ感を理解した。
 S君は成績優秀そうな(確認したわけではない)青年である。例によって、言葉の意味を捉えているかどうか質問する。「学ぶ」とは何か。「愛する」とはどういうことか。「音楽」とは何か。「美」とはなにか。「内面」とは何か。打てば響くような答えが返ってきた。次週は「考える」ことの意味がテーマである。ウラノメトリアで打鍵練習すると、音量にバラつきが出ることを気にしていた。まさに、そのために打鍵テクニックが存在するのだ。進歩は速いかも知れない。
 今週のレッスンのトピックは、ピアノレスナーの皆さんの進歩があげられるだろう。レスナーの進歩は生徒の進歩に等しい。だめなレスナーは生徒の練習に期待する。「あの子は練習してこないから弾けない」。ギャグとしか思えないが、それが理解できない環境でピアノを勉強している人もいることだろう。
 おまけの話題。みさきちゃんとた◎りんさんが「ベルガマスク全曲」に挑戦することになった。2人に技術的な問題はないが、インスピレーションが光るものの、粗削りなところもあるドビュッシー初期作品をどのように料理するのかが楽しみ。ベルガマスク作曲当時、ドビュッシーは本当の意味においてのピアニスティックという問題に到達していなかった。演奏者の注意力によって鍵盤を狙って打鍵しなければならない箇所も多い。その観点に立った校訂版を作れば役に立つとは思うが、ピアニスティックという問題の存在にすら気づいていない人には、何のことやら分からないかも知れず、商業的には成功しないかも知れない。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

レッスン日記 2007-09-02

 
 今日午前中は、世田谷から通ってくる“ちびまゆ”ちゃん(小2)と“あっくん”(小6)。ちびまゆちゃんは未就学の頃からのレッスンなので、最近は背も伸びて、あまり“ちび”まゆという印象ではなくなってきた。
 演奏からも子どもっぽさが影を潜め、彼女の姿を見ずに演奏だけ聴いていたら年齢は当てられないかも知れない。子どもっぽい演奏を可愛らしいと感じる人には申し訳ないが、子どもであっても大人の観賞に堪える演奏が可能ならばそれに越したことはないと考えているので、そのとおりにレッスンしている。
 ちびまゆちゃんは音楽的な成長が著しい。お兄ちゃんのあっくんはグリーグのワルツを弾いて以来、力があることが分かったので、鍵盤上における“横位置のポジション”ではなく“奥行きのポジション”について考えさせる課題を出した。ピアニスティック理解のひとつの重要な要素である。
 現存するピアノ曲は、一人の人間が一生弾き続けても弾ききることができないほどの曲数になっている。よって、本当に弾く価値のある曲だけを慎重に選び抜かなければならない。そして、それがレスナーの力の指標にもなる。弾く価値のある曲とは、まず第一に作曲者が、ショパンが言うところの「厳密な意味での音楽(音楽に傍点)」を充分理解していて、表現者である奏者が、その曲によって自分自身の美的内面を存分に発揮できるということである。もう少し分かりやすく書くならば「音楽の流れととフレーズ周期の一致、さらにその配列が適切である」ということになる。次に作曲者がピアノ鍵盤というインターフェイスに対する人の手指(もちろん全身も)の機能と音楽との高い次元における融合を図っているかどうか、つまりピアニスティックという問題に十分配慮しているかどうかということである。この2点のどちらが欠けていてもピアノ曲として優れているとは言えない。文字で読むと難しそうだが、常にこの問題に配慮したレッスンを受けている人なら、たとえ子どもでもすぐにそのセンスが育つ。言葉のセンスや料理のセンスとも似ている。
 そういうセンスがレスナー・生徒の両者に育ってくれば、生徒がどの段階まで育ってきたのかが手に取るように分かる。ところが実際には「どの曲まで進んだから、これこれのレベルである」という迷信めいた進度理解がまかり通っている。少し考えれば「同じ曲まで進んだピアノ学習者が全て同じレベルである」という命題が正しくないことくらい解るはずだ。その上手・下手は、技術的には先に述べた「ピアニスティックの理解」であり、音楽的には「フレーズとその配列の理解」と要約することができる。もちろん、この2つは根幹をなす代表的な要素なのであって、時代様式の理解、タッチや音色へのこだわり、ピアノ調整に対する見解(をピアノ技術者に伝えられるかどうか)など、細かい問題もある。だが、その2つの理解度によって生徒の進度を計ることができる。それがないと、生徒は真に必要なレッスン曲を与えられない可能性も出てくる。
 ソナチネアルバムを延々と数年間にわたってレッスンしているにもかかわらず、その生徒がまるで古典派様式を理解していなかったり、あるいは“ソナタの精神”である「統一・変化・持続」という見解を持ち得ていないとしたら、それは生徒のせいではなく、レスナーがそれらを理解していないからと言えるだろう。「そんなことは習わなかった」では済まない。楽譜に全てが表されているからだ。ソナチネアルバムの各曲は、どれも時代の風雪に耐えてきた名曲ぞろいであることは間違いない。だからといって延々レッスンしていてよいわけではない。中途半端な理解のまま、10曲も20曲も弾かせることに意味があるのだろうか。異なる性格を持つ数曲をきっちりとレッスンしたら、残りの曲は生徒自ら弾けるはずである。そして、それがレスナーの仕事である。「この曲はまだ習ってないから弾けない」ではなく「この曲にはまだ取り組んでいないから弾けない」のでなければならない。もし生徒がソナチネアルバムから学ぶべきことを学んだと感じたら、全曲を終わらせていなくとも先へ進めるべきだろう。その判断こそレスナーの力を表す。
 ところで、今日のレッスンの本題は「特別なすごろくゲーム作り」だった。詳しいことは書かないが、論理に矛盾があっては完成しないすごろくゲームを自作させる。作曲やオーケストレーションとも似ている作業で、数学的なセンスを要求される。「不公平なサイコロ」を自作したりするのだが、今日は「3が良く出る鉛筆サイコロ」ができ上がった。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レッスン日記 2007-09-01

 今日から9月。昨日の夜には“さあや”ちゃん(中1)が初めてのレッスンにやってきた。表立って生徒募集はしていないが、指名されればいつでも受け入れている。
 今まで他教室でかなり長くレッスンを受けていたということだが、ここでは関係ない。バイエルの予備練習からやりおなしていく。
 単なるドレドレ・・という音並びが美しい音楽に変化してくことを体験すると、付き添ってきたお母さまともども「今まで何をきてきたのだろう」という驚きの表情になる。それは、これがクオリア問題(クオリアをどのように伝えるか)だからなのだが、そういう説明はまだ何カ月も先になる。
 これから長い時間をかけて、彼女にも人類がどのように芸術の地平を拡大してきたのかを伝えなければならない。ピアノだけ弾いていても音楽が理解できるわけではない。成績が上がっても頭がよくなったわけではないのと同じである。真の音楽理解なくして音楽による自己表現は難しい。
 今日は、先週「道ができる!」と看破したナナちゃんを含めて子どもたちのレッスンが続いた。特筆すべきなのは、ナオコーラ先生から引き継いだ“あおい”ちゃん(小1)。ナオコーラ先生には、よくぞ彼女をここまで育てたと賛辞を贈りたい。バイエル上巻だが、あおいちゃんは、どの曲を弾いても「いい曲!」だと言う。実際、彼女が弾くととてもいい曲になる。上巻最後の3曲は感動的でさえあった。今日の帰り際にバイエルの下巻を渡して好きな曲を弾いておいで、と伝える。小さいのに1時間以上かけて遠い自宅まで帰らなければならない。彼女の近くで教室を開いているレスナーをレッスンしてバイエルの真のクオリアを伝え、あおいちゃんを通わせるのが最も早い解決方法だが、すでにここまで育ったあおいちゃんを追い越せるレスナーを探さなければならない。
 夕方、中3のR君には物理学者のエンリコ・フェルミやヴォルフガング・パウリらがどのように真実に到達したのかという話をした。アインシュタインが相対論にたどりつく道筋をたどるのも興味深いが、フェルミのそれは別格であると感じている。芸術と科学は、そう遠い関係ではない。どちらも真実を追究するという点において同じ目的を持っている。たどりつく方法と表現方法が異なるために、全く別のものに見えてしまう人もあるだろうということだ。
 
 空き時間は、この数日取り組んでいるウラノメトリア第5巻の「反行形を含む全長スケール練習曲」のスラーや運指の記入を行なう。14ページ、225小節もあるので作業は果てしなく続く。難曲だが、とてもカッコいいので人気エチュードになりそうな予感もある。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月03日

レッスン日記 2007-08-29

 楽譜に書かれていることは、作曲者が「何を大切であると考えているか」と言い換えることができる。それが顕著なのはメソードとエチュードである。
 ショパンの未完ピアノメソードの残された草稿を読めば読むほど、彼がピアノ教育についていかに深く考えていたか驚くばかりだ。極端に要約すると“ピアニスティック”という問題を理解することが最重要であるということになるだろう。現在進行中の「バイエル校訂版(現代更新版)」もウラノメトリアも、それが到達目標ということになる。
 現在、私の全ての作曲にかかわる作業がストップしている。その期間は1カ月にも及ぶだろうか。なぜなら、私自身が未解決の問題を抱えていることに気づいたからである。それを解決しようと毎日少なからぬ時間、つまり作曲に充てていた時間をCDを聴くことと楽譜を読み込むこと、あるいは、それらを同時に行なうことで何かを得ようとしてきた。そして、ようやく出口が見えてきた。
 
 今日は朝からレッスンが連続した。ダイジェストで記す。
 午前中はNさん。以前音楽コラムにも書いたことのある真珠鑑定士の養成方法について説明し、それが音楽にも一部当てはまるということを検証。優れた演奏とはどういうものであるか、さまざまなCDを比較試聴する。
 午後はバイエル校訂版執筆中の小池さん。今日は全巻のほぼ3分の2くらいにあたる曲の大フレーズを確定した。すらすらと分かるようになったので2人とも興奮のひとときだった。
 大人になってからピアノを始めた主婦のFさん。悲愴ソナタの第2楽章。同時に打鍵する和音から旋律線を構成する音だけを浮き立たせることができるようになった。また、ピアニッシモの同音連打も美しくなった。
 夜のレッスンの最後は高1のみさきちゃん。もう「ちゃん」という歳ではないが、今更なおせない。分散オクターブによる全調スケールがかなり確実になってきた。ツェルニー40の13・14・16番。ツェルニーを軽やかに弾くことも身についてきている。午後のFさんもそうだが、ツェルニーをコンサートプログラムのように美しく弾くことは非常に重要である。それができない場合には、その曲を扱うのが早すぎたことになる。現在のレッスン曲であるショパンのe-mollの遺作ワルツは、まもなく仕上がる予感。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月28日

レッスン日記 2007-08-28-2

 今日のレッスンは、群馬県妙義町で教室を開いていらっしゃる千賀子先生。
 レッスンのテーマは“正統”。
 これはなかなかやっかいな問題である。難曲が弾けようとも多くの曲を暗譜していようとも正統が理解できるとは限らない。正統の本質は“洗練”だからである。洗練は知識だけでは解決できない。また多少は関連があるものの好き嫌いの問題でもない。
 私自身、若かりし頃は、ピアニストの演奏を聴き比べて印象だけで好き嫌いを言ってしまうことが多々あった。自分自身が洗練されなければ、到達できない世界である。芸術において訓練とは、すべて洗練されるためにあると言っても過言ではないだろう。私自身、その途上にあるので偉そうなことは言えないのだが、洗練されなければならないという明確な目標を持ち、レッスンに通ってくださる方々にも、その視点で接していると胸を張って言うことだけはできる。
 後半はピアノに向かってバイエルの指導に関するレッスン。以前はバイエル以外のメソードを使っていたものの、レッスンに通うようになってからバイエルに切り替えた千賀子先生のお弟子さんたちにバイエルファンが増えているとのことで大変うれしい。正しく理解したら、これほど正統なメソードもない。
 62番はバイエル中でも名曲の部類に入るだろう。そろそろロールンクもマスターできてくる頃の人たちが弾く曲である。ロールンクを知らずにこの曲を弾いても、何が美しいのかさっぱり分からないことだろう。もしロールンクのテクニックが怪しいというのならば、49番あたりに戻って徹底的に訓練しなおすべき。左手のポジション移動は2小節目2拍目に「ひみつのF」を用意する方法で指導する。これで、ほとんどの生徒が1週間できれいに弾けるはずである。小さな子どもの場合はレスナーがペダルを使って、高音部のロールンクの美しさを際立たせるとさらに効果的だろう。
 63番は、61番から導き出された曲なので、それを復習してからレッスンに入る。バイエル最後の総ユニゾン曲。ユニゾンをぴったりのアインザッツで弾くのは思いのほか難しい。それは指の問題ではなく耳の問題だからだ。
 64番は同音連打(トレモロ)の練習曲。右手のポジションを大きく動かすようなことなく指を変える。これも名曲。何と言っても邪魔なのはセコンドパートである。美しく弾いてきた生徒の演奏をぶち壊すのがレスナーであった、ということが起こり得る曲である。セコンドは生徒の音をよく聴いてピアニッシモで弾くことをお薦めする。
 65番にはいよいよC-Durのスケールが登場する。そのためにバイエルが用意した予備練習が見事で心憎い。指おくり前の上行右手3指、下降右手1指だけが2分音符になっている。左手は逆。ウラノメトリアでもぜひ採用したい。
「ハ調 長音階」というタイトルの予備練習には両手の平行スケールが現れる。指おくりが両手同時に行われないスケールにおける指導のポイントは明解である。C-Durでは、両手でFとGのスロートリルを弾かせればよい。これで数分後には誰でも両手の平行スケールを弾いているはずである。
 65番も名曲中の名曲である。2小節を1フレーズとしてアゴーギクで表現することが基本だが、もっとも重要なのは打鍵である。当然のことながらレッスン用のピアノの整音は、きっちりと済ませておかなければならない。レッスン室で生徒と2人、感動に満たされる経験は何度してもよいものである。
 66番は6度音程の練習。77番が7度の練習になっていることからも、バイエルのウィットを感じる。2小節間続く付点4分音符は「ベルトーン」で演奏する。ベルトーンの分かりやすい例は「トンプソン第1巻(全音刊)」の30ページにある「鐘の音」である。3-4小節目からは滑らかなレガートで弾いてコントラストを明確にする。
  
 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月27日

レッスン日記 2007-08-22

 昨日(8/22)は午前中がピアノ技術者のNさん、午後は小池宏史(HNは“じゅにあ”)さんのレッスンだった。
 Nさんは某ピアノ販売会社で技術部長を務めるピアノのプロフェッショナルである。森田ピアノに出会って、実はピアノを知らなかったということに気づき(そのこと自体が彼の尋常ならざる才能を表している)、レッスンに通ってくださっている。数学で言うならば、彼はどんな難問でも解けるだけの力があるが、数学とは何であるかが答えられないということに気づいたのである。一度職業としてしまうと、さらに高みを目指す志はなかなか生まれない。それが生まれるとしたら普通は資格試験のような、目に見えたり直接評価や収入につながるものに対する即物的な意欲と言ってよいだろう。
 Nさんは哲学的な思考力の持ち主で、技術を磨いても、人として高みに登らなければ真のゴールには到達しえないことを実感しての志である。ピアノの理解(構造とか音響学という意味ではなく)に関しては、すでに私自身が彼と競わなくてはならない立場にあり、レッスンの準備も用意周到にならざるを得ない。レッスン内容はクオリア問題が多くを占めるので、ここに書いても意味がないか、あるいは長文になることは避けられない。いずれ、音楽コラムの形で少しずつ書いて行くことになるだろう。
 午後の小池さんは音大卒ではないが、音楽の道を進むことを決意した方である。これから名前を売らなければならないので実名で書く。彼は音楽の正体、つまり人の精神作用を解明しようとしている。その結果現れるのが「楽譜に表された作曲者自身の音楽美学」である。彼は楽譜の校訂を行なうことによってそれを明らかにしようとしている。
 午前中のNさんのレッスンでは、フランスの建築家コルビュジエの到達した世界が、その後の建築の標準となる経緯を実例を通してつぶさに見た。真の前衛の姿を明らかにしようという試みである。これは森田ピアノ工房の森田父子の姿にも重なる。前例のない世界を進む者は、なにをよりどころにすればよいのかという問題の追及である。もちろん、真実に基づく自らの判断だが、正しい判断は論理的な部分と感覚的な部分(たとえば倫理観などは論理だけでは説明できない)とのすり合わせによってのみ成立する。
 同じコルビュジエを教材として使っても、小池さんの場合は異なる視点からのレッスンとなる。あれだけの大建築を行なうコルビュジエ自身の住まいからの視点から問題を解き明かそうという試みである。コルビュジエにとって不足のない、しかし最小の空間で暮らすことによって生まれるものは何か。
 朝起きると、未明に彼から“教皇マルチェルスのミサ曲”の所在を知らせるメールが届いていた。
 
<昨日はレッスンありがとうございました。私にとって強烈なレッスン内容ばかりでしたので、いまだ頭が冴えて眠れません。お借りした「ミゼレーレ」を聴いて落ち着こうと思ったのですが、逆効果でますます興奮してしまいます。>

 レッスン内容が強烈であったのではない。彼の“気づき”そのものが強烈だったのである。私も気を抜かずにやっていかないと、そのうち師弟関係が逆転しかねない。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月26日

レッスン日記 2007-08-22

 昨日(8/22)は午前中がピアノ技術者のNさん、午後は小池宏史(HNは“じゅにあ”)さんのレッスンだった。
 Nさんは某ピアノ販売会社で技術部長を務めるピアノのプロフェッショナルである。森田ピアノに出会って、実はピアノを知らなかったということに気づき(そのこと自体が彼の尋常ならざる才能を表している)、レッスンに通ってくださっている。数学で言うならば、彼はどんな難問でも解けるだけの力があるが、数学とは何であるかが答えられないということに気づいたのである。一度職業としてしまうと、さらに高みを目指す志はなかなか生まれない。それが生まれるとしたら普通は資格試験のような、目に見えたり直接評価や収入につながるものに対する即物的な意欲と言ってよいだろう。
 Nさんは哲学的な思考力の持ち主で、技術を磨いても、人として高みに登らなければ真のゴールには到達しえないことを実感しての志である。ピアノの理解(構造とか音響学という意味ではなく)に関しては、すでに私自身が彼と競わなくてはならない立場にあり、レッスンの準備も用意周到にならざるを得ない。レッスン内容はクオリア問題が多くを占めるので、ここに書いても意味がないか、あるいは長文になることは避けられない。いずれ、音楽コラムの形で少しずつ書いて行くことになるだろう。
 午後の小池さんは音大卒ではないが、音楽の道を進むことを決意した方である。これから名前を売らなければならないので実名で書く。彼は音楽の正体、つまり人の精神作用を解明しようとしている。その結果現れるのが「楽譜に表された作曲者自身の音楽美学」である。彼は楽譜の校訂を行なうことによってそれを明らかにしようとしている。
 午前中のNさんのレッスンでは、フランスの建築家コルビュジエの到達した世界が、その後の建築の標準となる経緯を実例を通してつぶさに見た。真の前衛の姿を明らかにしようという試みである。これは森田ピアノ工房の森田父子の姿にも重なる。前例のない世界を進む者は、なにをよりどころにすればよいのかという問題の追及である。もちろん、真実に基づく自らの判断だが、正しい判断は論理的な部分と感覚的な部分(たとえば倫理観などは論理だけでは説明できない)とのすり合わせによってのみ成立する。
 同じコルビュジエを教材として使っても、小池さんの場合は異なる視点からのレッスンとなる。あれだけの大建築を行なうコルビュジエ自身の住まいからの視点から問題を解き明かそうという試みである。コルビュジエにとって不足のない、しかし最小の空間で暮らすことによって生まれるものは何か。
 朝起きると、未明に彼から“教皇マルチェルスのミサ曲”の所在を知らせるメールが届いていた。
 
<昨日はレッスンありがとうございました。私にとって強烈なレッスン内容ばかりでしたので、いまだ頭が冴えて眠れません。お借りした「ミゼレーレ」を聴いて落ち着こうと思ったのですが、逆効果でますます興奮してしまいます。>

 レッスン内容が強烈であったのではない。彼の“気づき”そのものが強烈だったのである。私も気を抜かずにやっていかないと、そのうち師弟関係が逆転しかねない。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月23日

今週のレッスンから 2007-08-18

 私自身の大学時代以前を棚に上げて語るならば、基本的教養とは自分自身がどこに位置しているかを理解していることである。
 地理的な教養で言うならば自分の居場所を緯度と経度で知っていることよりも、極地方と赤道地方のような自然環境、それに則した暮らしがあるということを理解することがより重要である。それによってはじめて自分の居場所が分かることになる。
 同様に文化的教養も科学的な教養も、その地平線を知ることによって自分の位置を確かめることこそが根幹であり、それ以外は努力目標と言ってもよいだろう。
 一昨日8月16日には音大受験を控えた高校生のレッスンがあった。ためしに彼女の知る音楽史世界を問うてみると、果たして霧の中であった。これは彼女のせいではなく、彼女の指導にあたっている私を含めた周囲の指導者たちの問題である。彼女は高校でも音楽を学んでいるため、こちらも油断していた。
 中学生以上のレッスンでは、なぜ音楽が今の形(つまり、現在の音楽に対する人々の認識)となり得たのか、新しい音楽に気づいていったのは誰であったのかを話してきた。美術史もしかり。なぜレオナルドはかくも重要視されるのか、モーツァルトは天才であったが、彼は何を為し得たのか。地球が球形であることに気づいたきっかけは何であったのか、最初に地球の大きさを計ろうとしたのは誰なのか、なぜ計れると思ったのか。なぜ宇宙に行かずとも宇宙が真空であると予想できたのか。
 挙げていけばキリがないが、これらの基本的教養は我々に判断の基準を与えてくれる。 そういえば、深夜のテレビ番組「コマネチ大学数学科」の今週の問題は与えられた条件からビキニ姿の女の子の数を数えるという数理論理学だった。語彙的教養と論理学も武器となる。
 「学ぶ」とはどういう意味なのか。「音楽」とは何か。明確な定義と論理があってはじめて我々は正解への道筋をたどることができる。これを「考える」という。
 これなくして音楽を学ぶことは難しい。ピアノのレッスンだけしていて、音楽が理解できたら奇跡といえるだろう(ピアノを弾くという行為から全てを導き出したショパンのような奇跡は実在する)。奇跡はそう簡単には起こらないが、順を追って物事を理解していけば我々はかなりのところまで到達できるのではないか。
 来週のレッスンからは彼女に知識としてではなく、方法論としての基本的教養を伝えていかなければならないだろう。
 
 <ピアノを分かりやすく楽しく手ほどきいたします>という魅力的なコピーで語られる教室からは、およそかけ離れているのが作曲工房である。だからといって決して無理難題を吹っかけたりはしない。そんなことは無意味である。本人が本当のことに到達することだけを目標としている以上、無理などがあったらぶち壊しである。心してかかる必要もない。気づけば心してしまうからだ。

 これをお読みの方に問題を2つ出題しよう。何を調べても、誰の言葉を引用してもかまわない。次の2語、あるいはどちらか片方だけでも説明していただきたい。自分自身に説明できればそれでよいのだが、あまりにすばらしい解答にたどりついたので、ぜひ他の読者にも知らせしたいという場合にはコメント欄に、私にだけ知らせたいという場合には下記サイトのメールフォームからどうぞ。1年、あるいはそれ以上かかる場合も考えられるので、ポイントは能力の高さや才能ではなく、到達したいという意思、つまり志(こころざし)となる。まず、到達できるだけの力を備えた自分自身にならなければならないし(答えを得るということは自分自身が変わることと同義)、長期間にわたって問題に取り組む覚悟も必要となる。この問題に取り組むことがどれだけその後の人生にとって重要であるかという認識が持てなければ、それらは生じない。

問題1.「水」
問題2.「土」 


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レッスン日記2007-08-17

 一昨日、ナオコーラさんから「せんせいは論語を読まれるんですか」と訊かれた。彼女はネット生活を送っていないので、作曲工房サイトの「音楽コラム」は読んでいない。そんな彼女にどう答えればよいか少々迷った。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず(70歳になると思うがままに振るまっても道から外れることがなくなった)という意味を理解できたと思っている」と言ってから、つけ加えた。
「全ての論語を暗唱するよりも、ひとつでも真に理解できたならば、すべての論語が読み解けるのではないか」
 偶然ながら彼女は、最初の「三十にして立つ」を理解できたと思いますと言った。
 すばらしい。30歳までに自分の考えを持つ、あるいは自分で判断するということだ。彼女の言動から本当に理解していることが伺える。30歳が近い人は、これを目標としないと三十にして立てない。
 これは論語にのみ言えることではない。バイエルを1曲、真に理解したならばショパンも理解できるかも知れない。しかし、バイエルを理解できない人がショパンを理解できるとは到底思えない。

 さて、今日の午前中は川口市内で高綱ピアノ教室を開いているroppy先生のレッスンだった。年齢もほかの先生よりも少し上だが、志の高さも一段上である。先日、3人の生徒さんを連れてレッスンに見えられた。そのおちびさんたちが書いてくれた私宛の手紙を受け取った。小学校1年生ばかりだから内容は簡単なものだが、実にうれしい。みんなピアノが大好きになったと書かれてあった。
 さて、今日の最初の教材はプーランクの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 第3楽章」。以前のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のアナリーゼでは、レッスン後にさっそくオーケストラスコアを買って勉強したくらいの人なので、レッスンはいつも少しレベルの高いところに合わせがちになる。
 古典派とかロマン派、新古典派、印象派などの分類方法があるが、それは不協和音の種類と割合で決まるものではない。私が子どものころ、音楽室に貼られていた音楽史年表には作曲家の存命期間が数直線で表されて、上部には古典派とかロマン派とか記されていた。それによるとブラームスは新古典派であって、ドヴォルザークは国民楽派、ドビュッシーとラヴェルは印象派だった。私はブラームスこそシューマンとともにドイツロマン派の中心をなす人物であり、古典派から抜け出せない部分を持っていたのはメンデルスゾーンなのではないかと考えている。ラヴェルが印象派というのは、いま考えるとどうにもおかしい。響きだけで判断していたのだろうか。そして、当時読んだLPジャケットの解説にはラフマニノフが後期ロマン派として紹介されていた。ラヴェルは新古典主義の旗手である。ラフマニノフはロマン派の衣をまとってはいるものの、私の中では新古典主義の模範である。ところがプーランクは新古典主義の衣をまとっているものの、その精神はモダニズムであった。まあ、そのようなことはどうでもよい。重要なのは言葉ではなく、音楽で理解することである。
 一緒に前述したプーランクの第3楽章を最後まで聴く。次々と新しいメロディーが現れては消えて行くというめくるめく音楽。その発想の豊かさ、カラフルさには脱帽するしかない。それからラヴェルの弦楽四重奏曲の第1楽章を第1主題の再現まで聴いた。こちらは「統一・変化・持続」というソナタの精神をそのまま具現化したような色調の整った音楽である。ここまでかけ離れていると誰でも違いが分かる。だが、本当に理解しなければならないのは形式や和声による違いではない。それが分からければ「音楽史上重要な作曲家は誰か」というような問いには答えられない。
 roppy先生には訊くまでもなかった。今日は彼女の中で“音楽史”の姿が少し明解になったことだろう。うかうかしていると、私の方が教えを乞う立場にだってなりかねない。
 レッスン後半はル・クーペのラジリテのレッスン、および、さまざまなレッスン用エチュードの扱いについての質問に答えた。
 少々話はそれるが、子どもを寝つかせる時などに適当な作り話をおもしろおかしく語る親もいることだろう。ところが、それを文章として文字に置き換えようとすると難しさは何十倍にもなる。ひょっとすると百倍を超えるかも知れない。これがピアノのレッスンとレッスン曲の校訂版執筆との差と同じことなのである。ピアノのレッスンを行なうということは、レスナーなりのレッスン曲の理解というものがあるはずである。だから全てのレスナーに校訂版を書かせると、なかには化けの皮がはがれてしまう人もいるかも知れないのだ。ピアノレスナーに対する私のレッスン目標は、校訂版が書けるほどしっかりとした考えを持てるようになることである。
 ツェルニー100番、あるいはそれに類する練習曲集はエチュード集ではあるがメソードではない。しかし、それらのエチュードをしっかりとした考えと視点のもとに配列すればメソードとなる。
 ピアノレスナーに第一に求められるのがレッスン曲の理解、つまり徹底した教材研究である。レッスンに求められる教材研究は学究的な調査・解明ではない。要するに“分かること”である。美の理解なくして生徒に練習を命じることは、たとえ指練習であったとしても馬鹿げている。
 ツェルニー100番練習曲は、バイエルがハマりまくって「バイエル教則本」の礎となったと考えられる優れたエチュード集である。しかし、100曲全部をレッスンしていたら時間がかかりすぎるばかりか、全ての曲が全ての生徒に必要であるとも思えない。ツェルニーには他にも技術的に同レベルのすぐれたエチュード集が少なからずあり、ピアノレスナーはそれらの中から生徒に必要な曲をピックアップできるだけの技量と知識が必要である。ツェルニーだけではない。グルリットのような初心者向けエチュードから邦人によるエチュード集まで教材の発掘には熱心でなければならない。しかし、何を以てすぐれているとするのか。
 校訂版を書いてみればすぐに分かる。いま、じゅにあ氏が「バイエル校訂版」を執筆中である。彼は“分かる”ということが分かってきたところだ。無理やり分かろうとしてもそれはこじつけになるだけだ。自らが“分かる”まで高まるしかない。roppyさんは、ラジリテ、もしくはその前段階としてバイエルとラジリテをつなぐピックアップ・エチュード集を手がけることになる可能性もある。この2人がそれぞれ音大卒ではないところが音大の現状の一部を表しているのかも知れない。
   
 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:15| Comment(0) | TrackBack(1) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レッスン日記2007-08-15

 今日は館山に住むナオコーラ先生のレッスン。遠地レッスンの方には本当に頭が下がる。
 レッスンの課題は“分かる”とはどういうことか。また“分かる”ためにはどうすればよいのかと決めていた。
 バイエル第104番が単楽章によるピアノソナタであることを簡単なアナリーゼによって示した。駄目な人は「バイエル104番は厳格な古典ソナタ形式で作曲されている」とメモを取ることだろう。これが知識。ところが彼女は、どうして分かったのですか、と質問してきた。合格。大事なことはそれなのだ。
 1789年にフランス革命が起こったことを覚えることよりも、どうしてヨーロッパにおいて市民革命が起こったのかと疑問を持つことのほうがずっと重要で、その疑問は全てに及んで人生を変えてしまうだろう。フランス革命について言うならば市民意識の変化であり、その変化を生んだのは都市の進化であり、都市の進化を生んだのは産業革命である。明治維新の原動力は乱暴に言うならば西洋文明への驚異による日本人の意識変化である。
 歴史というのは単に過去の出来事を並べたものではなく、人々の考え方の変化によって起こった出来事のその後への影響を分析して、最終的には未来予測につなげることである。
 ソナタ形式について知りたいと思った時、書物に頼るのはやめたほうがよい。そこには楽曲について書かれているのではなく、著者の能力の限界(実際には能力の限界まで研究している例は少なく、志と覚悟のどちらか低いほうに一致するはずである)が記されているだけだからである。
 最初にモーツァルトのk.545の提示部をアナリーゼする。時系列構造を明らかにしてから、各主題の部分動機の分析、およびそれらの有機的関連について示す。詳しくは書けないが、一般の楽式論のテキストとは異なる視点に立っている。続いて、モーツァルトが何を考えていたのを分析してみせる。とくにコデッタとコーダの分析には彼女は当然のことながら驚く。モーツァルトにも、分析してみせる私にも。

「どうして分かったのですか?」

 いい質問だ。
 ここでこちらから質問したいのは「どうして分からないのですか?」なのだが、この質問は「あなたはバカだ」と言われていると誤解されるので言わない。
 答えは簡単だ。必要なのは「分かりたい」と思う志と覚悟だけである。
 その後、モーツァルトを“高い志と強い覚悟”で徹底的に研究したと考えられるベートーヴェンの月光ソナタと熱情ソナタの驚異の構造を簡単にアナリーゼする。ついでに第1楽章の“トンネル抜け”も説明。ベートーヴェンは明らかにモーツァルトの方法論に気づいていた。書物からでは不可能で、実際の楽曲から事実を導き出したに違いない。
 志は言い換えれば「動機」である。覚悟は、その強さを表す。分かるまで、その曲とつきあえるかどうかだけである。

 プロピアニストの弾くバイエルのCDはバイエルと全く向き合う気がないということを伺わせるものばかりである。バイエルの録音を依頼されると、すぐに弾けると思ってしまうのだろう。これが想像力の欠如であり、志の低さである。「人は才能では動かない。人を動かすのは志と覚悟である」という師の言葉は、ここにおいても証明される。バイエルが分かるまで向き合えた人の勝ちであることは間違いない。何度でも言う。他人の才能など怖れることはない。
 バイエル104番を理解するためには、理解できるまで向き合えばよいだけのことである。k.545も月光ソナタも熱情ソナタも同様である。しかし、つまらないものに時間を費やしてはならない。優れたものは、向き合えば向き合うほど我々に多くのものを与えてくれる。中でもバイエルは奇跡のメソードである。バイエルが理解できないとそれ以後の全ての音楽の理解が進まないことになるだろう。バイエルの10番台、20番台の曲を弾いて、音楽的に不満に思ったことはない。ショパンを弾いた時となんら変わらぬ音楽的満足感がある。だたし、そこには自らたどりつかなくてはならない。書物を読んだところで何の足しにもならない。
 ナオコーラ先生は、とっくの昔にそのハードルは超えている。もっとも、このハードルを超えた人だけがレッスンに通ってくださっていると考えてよいだろう。
 最後にすぐれたピアノ曲がピアニスティック(人の手指の機能を含めた演奏能力と、インターフェイス、つまり入力装置としての鍵盤の機能とのすり合わせと音楽性との高い次元における融和)であるように、すぐれたオーケストラ曲とはどういうものか、という話題になった。
 ストラヴィンスキーのやさしいピアノ曲「5本の指で」を弾く。そして、それを作曲者自身が15人のアンサンブルに編曲したものを聴く。原曲もすばらしいが、アンサンブル版は、それを音楽的に凌駕する。
 それはなぜか。
 本当に素晴らしいと感じ、向き合う価値があると確信したならば、分かるまで聴き込むだけである。諦めたら覚悟はそこまでであったことが分かる。
 ヴォーン=ウィリアムズの交響曲第3番を7年間に渡って数千回聴き込んだ話をすると、どうしてそんなに聴くことができたのですか、と問い返された。
 要因のひとつは愚鈍であるからだが、それは内緒だ。どうしても分かりたいという志と覚悟だと答える。実際、どんな管弦楽法の教科書も優れた交響曲にはかなわない。テキストは風景を言葉で説明しているようなものだ。それでも一度は読んでおくといいだろう。しかし、真実は事実からしか学べない。
 別れ際に「この次私の前に現れる時には、かならずどこかが変わっているように」と告げた。実際、どんどん変わって行く人がいるのだ。それは習ったからではなく、本人がたどりついたからである。
 彼女の次のレッスンは一ヶ月後。むしろ私自身が変わる姿を見せなければならない。その間にレッスンに来てくださる方々との間でも“どちらがより多くに気づくか”という真剣勝負が待っている。そういう方々の力をお借りして私自身が前進する覚悟である。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レッスン日記2007-08-11

 土曜日前半は子どもたちのレッスン。
 子どもたちの能力を計る尺度として次の3つを設けている。

 馬鹿度 :ものを知らない程度
 阿呆度 :同じ過ちを繰り返す軽率さ
 間抜け度:ものに気づかぬ迂闊さ

 言葉は悪いが、子どもは本来、馬鹿で阿呆で間抜けである。だから、鍛えて馬鹿度低下、阿呆度低下、間抜け度低下を目指す。ものを知らなくて当然だと思っているから、こちらは子どもたちの無知に腹を立てるなどということはない。
 さて、では「ものを知る」とはどういうことだろうか。現代は情報が多すぎて重要なこととそうでないことを区別するのが難しくなっていると考えるのが妥当である。現代人の方が知識量においては勝っていても、自然観察に長けた古代人のほうがより重要な情報を知っているという逆転現象さえあり得る。あり得るなどという控えめな言い方はしなくともよいのかも知れない。
 知識には論理によって伝達できる、あるいは論理以外では伝達できないものと、色や匂いのように感覚的に知ることしかできない“クオリア”の2種類に分けることができる。
 「土を知っている」と言った時、それはどういう認識を指すのだろうか。
土を掘る、土を積み上げて固める、土を耕す、土で作物を育てる、土をこねて焼き物を作る、土砂崩れの現場に遭遇する、各地の土の質の差に気づく。結局のところ、実際の土から感覚を通して感じ取るしかない。これが土の真実を知る唯一の手段である。桃の味は桃を食べた人しか知ることができないのと同じように土も一種の“クオリア問題”を含んでいる。
 同様にピアノのレッスンも音楽理論の一部を除けば徹頭徹尾“クオリア”として扱われ、伝達される。だから独学はできないし、正統としての音楽をクオリアとして受け継ぐことのなかったピアノ教師から学ぶこともできない。
 人が勝手に決めたこと、たとえばピアノの各部の名称は言葉で伝えればよい。しかし、打鍵ひとつをとっても言葉で伝えることは不可能である。クオリアとして体験する機会がなければ、その真実を知ることはない。
 今日の子どもたちとのレッスンも実に楽しかった。彼女たちは少しずつではあるが、真実の扉を開きつつあるからだ。
 阿呆度、間抜け度に関しては後日、書くことがあるかも知れない。

野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レッスン日記2007-08-10


 我々が職業選択をするとき、その世界が人を育てる力があるかどうかを判断の尺度に加えなければならない。
 十分成熟した、すぐれた“場”では人格者が育つと考えて間違いはないだろう。人格者とは、その一例を挙げるならば、論語の次の言葉はどうだろうか。有名な「四十にして惑わず」の最後の一節である。

「七十歳になると、思うままにふるまっても人の道にはずれることがなくなった」

 幼稚園教諭から大学教授に至るまでの教育関係者、司法関係者、政治家、警察官などがセクハラや不正で懲戒処分、あるいは刑事処分というニュースがしばしば報じられている。以前なら尊敬される職種であったことだろうが、大学教授といえばすぐに思い浮かぶ言葉がセクハラやパワハラではどうしようもない。全ての人がそうであるとは限らない、一部の人だけのことだ、という考えもあることだろう。しかし、一人いれば潜在的な30人がいるという考え方もできる。それらの場は現在では人格者を育てる環境にないのかも知れない。学力も、信じられないほどの高みまで極めれば人格を磨くかも知れないが、無批判に受け入れられた知識の再確認(記憶式テスト)によって計れるような偏差値を基準にしていては、誰が本当に優れているのかなど分かろうはずもない。それが分かるような社会を作るには教育の根本から変えて行かなければならないだろう。
 仕事に、よい意味での強い緊張感は必須である。緊張感は物事を曖昧にしておかない。それが人を育てる。ぴりぴりとした癇癪持ちの上司の反応に緊張する、というのは論外だが、自らの仕事の成果や出来栄えに緊張するということは必要である。
 日々の生活の中から「この世で最も大切なものは命」であったり「事実から学べ」、「音楽は喜び」(音楽の代わりに自分の目標とするものを入れればよい)などのような結論に達することができれば、かなりよい人生を送っていると判断してもよいだろう。
 命の尊重は自分のみならず他者の尊重でもあり、目標(志と言い換えてもよい)の尊重は自他の人生の尊重である。このスタンスがとれないと部下は上司を馬鹿だと言い、上司は部下をクズだと言いあう、まさにお笑いのような状況が当たり前のように現出することになる。

野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。