地球から見て太陽と月のどちらが遠いかと訊ねられれば、あなたは即座に太陽と答えることだろう。そんなことは誰でも“知って”いると思うかも知れないが、ここで、あなたの答えの根拠を求められたらどのように答えるだろうか。
学校で習った、子どもの頃に宇宙の図鑑で太陽系の図を見た、そんなことは常識(数学で言えば命題)であって証明の必要はない・・・などいろいろ考えられるが、誰にも分かりやすく、かつ具体的にイメージしやすいのは、以前コラムにも書いたように日食時に月が太陽を掩蔽(えんぺい)するからというものではないか。
同様に、地球が球形であることの根拠も、宇宙に行って地球を眺めたことがない私たちでも緯度によって北極星の高度が異なることを挙げることができる。(実際にはゼノンの「アキレスは亀を追い越せない」式の反論が可能だが、ゼノンのパラドックスのような詭弁も詭弁でああるがゆえに事実ではなく、この場合も時間軸を持ち込むことによって、その不合理性をたやすく看破することができる)
ここで重要なのは、実際の太陽系をどこまでイメージできるかということである。
太陽の直径がおよそ140万kmであることは調べればすぐに知ることができ、テストに答えて正解することできる(テストでは140万kmという数字を知識として持っていればOKなのだ)。ところが我々は、太陽の大きさを理解していないかも知れない。数字だけではイメージしにくいからである。月と地球の平均距離が38万kmであることを考えると、その大きさがイメージしやすくなる。月の公転軌道の倍近くの大きさなのである。いま初めて太陽の大きさを実感なさった方もいるかも知れない。
地球から太陽までの距離は、およそ1億5000万kmだが、これも即座にはイメージしにくい。地球-月の距離のおよそ400倍と言われてもまだピンとこない。しかし、1億5000万円と38万円と言い換えればイメージしやすくなることだろう。
太陽(半径696000km)を直径1mの球と仮定すると地球の大きさ(半径6371km)は約9mm。それが太陽から約215m離れて公転している。そして月は2mm半くらいの粒で、地球から約55cmほどの距離をおいて公転している。直径430mの地球軌道を一望できる100m上空から眺めたところを想像していただきたい。9mmの地球は肉眼で球形に見えるだろうか。ましや2ミリ半ほどの月の存在に気づくだろうか。これがイメージすべき太陽と地球の関係である(数字は、今ざっと概算したものなので、ぜひご自分で検算なさっていただきたい)。
“天動説が信じられていた”と信じられている時代があった。天動説は実際には極めて複雑な理論であり、一般の人々で理解している人は極く少数であるか、または無視できる数であったと推定され、人々が天動説を“信じている”とは言えない状況であったかも知れない。推定の根拠は、天動説が天文学界の最先端の科学理論として高名な天文学者たちによって議論されていたからである。というわけで、人々は単に漠然と太陽が地球を回っていると思っていたはずである。現在も地動説が信じられているわけではない。多くの現代人は、太陽の直径を数字で記憶するように、ただ漠然とした知識を持っているだけという可能性がある。
地球は太陽を中心に公転することはできない。ハンマー投げをする選手が回転を始めた時、回転の中心となっているのは選手ではなく、ハンマーと選手との間にある重心である。だから地球が公転すると、地球太陽間にある(太陽の表面よりも内側だが)重心を中心に太陽も小さな円を描いて回る。地球と月でも同じことが起こる。2つの同じ質量の星がお互いを公転しあう時のことをイメージすれば分かりやすいだろう。
では、ここで音楽の話題に入ろう。
モーツァルトは音楽史上最大の天才であると言われている。
あなたは、みずから根拠を挙げてモーツァルトを自分自身の判断で天才であると断言できるだろうか。もし、できなければ、太陽の大きさを数字で覚えるのと同じように、モーツァルトは天才であるという言葉を記憶しているだけという可能性もぬぐいきれない。そんなあやふやなことを根拠にモーツァルトを論じたら、その内容と結論は真実とかけ離れてしまうことだろう。
私たちがモーツァルトの交響曲を聴く時、そこから何を聴き取っているのだろうか。空に輝く太陽や月を眺めるときも、そこから何を読み取っているのだろうか。教科書に向かって勉強しているときも、外出中突然の雨に見舞われた時も、鳥が飛ぶのを見た時も同様である。我々に与えられた条件は同じである。
バイエルを弾いて、その伝統美に則った正統性(全くぶれのないフレーズ周期や主題の提示と対比、再現による確固たる形式感、声部処理の正しさなど)に気づくと、感動するばかりか畏怖さえ覚える。しかし、音高と音価、強度とテンポのデジタルな読み取りしかできない場合には音楽にさえ聴こえないかも知れない。バイエルはつまらないという人の大半は、このような人たちであると言ってよいだろう。
バイエルは非常に美しい音楽に到達していたが、定量楽譜に記譜すると、いま我々が手にすることができる楽譜になる。そこからバイエルが想起した音楽を読み取らない限り、バイエルについては語れないことになる。「わが輩は猫である」を英訳したら“I am a cat.”であり(“I, cat.”のようなもう少しマシな訳もあるかも知れないが)、直訳してしまうと「私は猫です」となってしまうのと似ている。
では、ショパンなら分かるのか? バイエルを表現するにあたって重要な要素はアゴーギクとデュナーミクだが、ショパンも全く同様である。ショパンの演奏で重要なのはテンポ・ルバートであると主調する人もいるかも知れない。しかし、テンポ・ルバートはフレーズ周期に基づくアゴーギクの上にのみ成り立つ。バイエルのフレーズ周期の、その分かりやすさは第一級のものである。それが読み取れない人にショパン作品の持つ複雑なフレーズ周期が読み取れるとは思えない。
このように書くと難しいことのように思えるかも知れないが、正統性に基づいたレッスンでは、未就学の小さな子どもでさえ獲得できるセンスである。(ただし、自ら読み取れるようになるのに多少時間がかかるのは、科学など他の分野と同じである)
“考える”ということは“正解(真実)への道筋をたどること”である。そのためには、判断の根拠とする要素に事実誤認があってはならない。レッスンは知識の切り売りではなく、ともに事実の確認を行なうことと言い換えてもよい。これは、本来学校教育における授業も同様である。
我々がモーツァルトの交響曲を聴く時、そこからモーツァルトが何を大切であると考えていたのかが読み取れなければ、音はただの物理的な空気の振動と同じことになってしまう。
今日、あるいは明日以降見聞きすることがらは、障害を持つ人を除けば、同じ質の情報である。つまり、青空を仰ぎ見れば、そこには青空があるということだ。レイリー卿ジョン・ウィリアム・ストラットはそこに“レイリー散乱”を見いだし、空が青い理由を明らかにした。パスカルは上空に行けば行くほど気圧がさがり、ついには真空になることを見いだした。ドイツのヨゼフ・リクスナーはタンゴの名曲「青空(碧空)」を書き、私は、ひっくり返って青空を眺めてはアルフレッド・ハウゼの奏でるその曲を聴きながら、音楽コラムの発想を得たりする。
バッハのたった一曲を知って、そこからバッハの考える“宇宙(もちろん地上をも含む普遍的な)の秩序”のようなものを読み取ってしまったりすると、もう後戻りはできない。音楽に邁進するしかなくなってしまう(厳密にいうと音楽に限らず真実の追究という姿勢を持とうとすること)。
レオナルドの生涯がそうであったように、過去の偉大な先人たちは事実から真実を明らかにするために生きてきたと言ってよい。だからといって、私たちが歴史的大発見をする必要はない。ハゼノキの葉の葉脈の美しさに気づくだけで何かが変わるのではないか。葉脈は命のデザインである。このデザインでなければ生命は保てないかも知れないのだ。
(ハゼノキの葉脈)
http://www.alpine-plants-jp.com/himitunohanazono/hazenoki_himitu_2.htm
これからベートーヴェンやドビュッシーなど、過去の大家たちの作品に接する時、あなたは、そこから今までとは違う何かを読み取るかも知れない。
野村茎一作曲工房