2012年07月16日

機械より人間らしくなれるか?



「機械より人間らしくなれるか?」ブライアン・クリスチャン著

 新聞とってないけれど、読売の書評欄を読んだから書く。
 アラン・チューリングの名前は、今年(2012年)が生誕100年ということもあって、いやでも目にする(ネット時代特有の表現か)ことが多かった。誰なのか全然知らないので、当然検索してみると天才的な論理学者(ここには数学者とか暗号解読者とか計算機科学者というような意味を全て含んで書いた)らしかった。
 あらためてウィキペディアを読みなおしてみると、1952年に同性愛の罪(当時のイギリスではそれは犯罪だった)で逮捕。「セキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった」とある。イギリスは偉大な才能を自ら手放すことにしたわけだ。たかだか半世紀前であってもジョルダーノ・ブルーノの時代と大して変わらない世界だったことに驚く。ガリレオの名誉回復が1992年であることを考えれば、半世紀どころではない。まだ20年しか経っていない。

 ここから、ようやく書評の内容に移る。
 アラン・チューリングが「5分間チャット(会話)して人と区別できなければ知能とみなしてよい」と提案したそうだ。だれもチューリングに敵わないからかどうか分からないが、その定義で毎年人工知能コンテストが行なわれている。
 審査員はモニタ上で、本物の人と機械と一対一でチャットし、どちらが「より人間らしいか」を判定する。当然のことながら優勝は人工知能の開発者に与えられるのだが、本書のタイトルは、もうひとつの賞に由来する。それは人工知能に対抗して人間側に立つ役割の人に与えられる「もっとも人間らしい人間賞」だ。
 実際、機械に対抗して人間らしく会話に答えていたのに「機械」と判定されてしまうことがあるのだ。機械に負けてしまう人間というのは、いったいどういうことだろうか。というわけで、人間側を“演じる”人も本気で審査に臨む。その努力の結果が、先の賞である。
 著者は、そういう一人で「(私の)目の黒いうちはAI(人工知能)には勝たせません」と書いているそうだ。
 さて、私たちは機械よりも人間らしくなれるのだろうか?
 評者は、脳研究者で東大准教授の池谷裕二氏。読んでみたくなりました?。草思社刊、2940円。(2012年7月16日現在、アマゾンに中古品は出品なし)
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2008年02月26日

2008-02-23 クオリア降臨


 カミさんが近所の図書館から茂木健一郎の著書「クオリア降臨」を借りてきた。
 “クオリア”とは、経験によってのみ獲得できる“質感”というような概念で、その誕生は新しく、提唱されてからまだ30年そこそこくらいのものである。私自身、クオリアという概念を獲得したのはほんの少し前のことである。簡単に言えば、桃を食べたことのある人にしか桃の味は分からないというようなことである。
 結婚してから四半世紀を経て、ようやく彼女は私の弾くピアノに耳を傾けるようになった。そこで“ピアノの音色のクオリア”に気づいてクオリアに興味を持ったという次第である。
 次いで、ピアノで弾く単なる“ドレドレ”のような音並びが、いわゆる“通俗名曲”よりも美しく聴こえることが分かると、そこからは簡単、あとは斜面を転がり落ちながら膨らんでいく雪だるまのようなもので、すっかり音楽ファン、それも“コアな”という形容が付くほどの、になった。
 音楽とは、音高と音価の組み合わせによる“単なる音並び”ではなく、そこに上乗せされた別のクオリアによって成り立っている。この感覚こそが、ショパンが自らの未完のメソードの序文に記した“厳密な意味における音楽”の主たる要素であると推定(ほぼ確信)しているのだが、彼女がそれを理解した時、ほとんど天動説が地動説にパラダイムシフトしたときのような気分を味わったはずだ。生まれておよそ半世紀。周囲には音楽があふれていた。にも関わらず一度も音楽を聴いた事がなかったという感覚。太陽は毎日地球の上空を回っていたはずなのに、今では地球が太陽を公転しているということが理解できるという感覚と良く似ていることだろう。自分だけが知らなかったのではない。世界は音楽的には未だ“天動説”のままである言っても過言ではない。
 長谷川等伯の“松林図屏風”の実物の前に立たれたことのある方ならば、松林図屏風から受ける印象が和紙と墨という物理的事実だけでは説明できないことをご存知のことだろう。あの前に立つと、もう立ち去れない。複製画を見ても、まるで下描きのようなただの古くさい屏風にしか見えない。その差が実物と複製とのクオリアの差である。
 過去に、ブリジストン美術館(東京駅八重洲中央口徒歩5分)に所蔵されているザオ・ウーキーの<07.06.85>という絵を見た時にも複製できないクオリアを見いだして「ルパンならいくらで盗み出してくれるだろうか?」とジョークを言ったものだが、実は半分本気だった。
 茂木健一郎氏は、人はなぜ芸術作品に感動するのかという昔からの疑問に答えている。すでにクオリアの意味を実感している人ならこの本を読んで感動することだろう。名著である。そうでない人も優れた本であると直感することだろう。しかし、両者の間には“クオリア”という埋められない溝があることは“クオリア”を持たない人には決して伝わらないのである。

 その証左に、バイエルのクオリアがショパンエチュードのそれに勝るとも劣らないなど“阿呆のたわごと”くらいにしか思えないことだろう。


 野村茎一作曲工房

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2008年02月18日

2008-02-17 イマニュエル・カント「永遠平和のために」

 高校時代にカントの「純粋理性批判」について書かれた文章を読んで興味を持ち、岩波文庫から出ていた「永遠平和の為に」を読んだ(当時「理性批判」も読んだが、内容を問われても、いますぐ答えられないという“ていたらく”である)。ところが、つい最近、カミさんが新訳を図書館から借りてきて「面白いのよ」と言って渡してくれた。
 集英社から出ている(池内 紀訳)、まるで写真集のような体裁の小振りなハードカバーである。とても哲学書には見えないが、多くの人に読んでもらえることだろう。
 本文最初のページはたった三行の文字と一枚のブレた写真だけ。

 平和というのは、
 すべての敵意が終わった状態を
 さしている。

 これを読んだだけでカントがいかに明晰な人物であるかが分かる。
 今までにもたびたび書いてきたが「頭が良い(優れている)」というのは「成績が良い」ということと必ずしも一致しない。事実を読み解き、真実を捉える力が高いことを言う。
 基礎額力は必須だけれども、子どもに勉強ばかりさせていると、いわゆる“バカ”になってしまうかも知れない。(事実に基づく、記号化されていない)絵を描かせたり、(指練習ではなく、厳密な意味における音楽表現としての)ピアノを弾かせたり、(考える)スポーツ、あるいはピタゴラ装置を作らせたりするほうが事実を読み解く力はつくはずである。
 事実を読み解いて真実にたどりつく力があれば、いろいろな角度からの視点も持ち得ることだろう。
 仮に地球の歴史の視点に立てるならば、石油よりも真水のほうがはるかに価値が高いことなどあっさり理解できるだろう。カントが「永遠平和のために」の中で真に述べたいことが「命の真の大切さ」についてであるということも分かることだろう。
 ここでいう「命の大切さ」とは一般に言われている「いわゆる“命の大切さ”」とは質的に異なっている。それはショパンが到達した「厳密な意味における音楽」と「一般に信じられている、いわゆる“音楽”」との差ほど大きい。
 人生はそれほど長くないので、余計なことに時間を割いているヒマはない。いま何を為すべきかが分からないとしたら、まさにそれを突き止める時であると助言したい。


 野村茎一作曲工房

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2007年12月18日

2007-12-17 作曲のレッスンに対する考察、再び

 作曲のレッスンというと和声学から始まることが多い。
 なぜそうなるかというと、レッスンする側が和声学から習い始めたからなのではないだろうか。和声学から習い始めるのが誤っていると言っているのでもない。ひとつ疑問を投げかけるとするならば、和声学から始めること、および、和声学の習得によって学習者が何を解決するのかという検証が行なわれているかどうかである。和声学に罪はない。
 私は、ショパンが言うところの“厳密な意味における音楽”というセンスが学習者に育たない限り、和声学も対位法も楽式論も“雑学”となってしまう可能性が否定しきれないと考えている。
 “厳密な意味における音楽”を言葉で説明するのは難しいが、誤解を恐れずに書くならば、第一義は「ドレドレ・・・」のような単純な音並びでさえ美しく響かせる音楽センスであり、それに続くのが文部省唱歌の「春が来た」のような曲の持つ、高度な作曲技術に裏打ちされた高い音楽性に気づくセンスである。
 「ドレドレ・・・」はクオリア問題を含むために文章や楽譜での説明は困難である。こればかりはそのクオリアを知っているレスナーから直接レッスンを受けていただくしかない。「桃の味」を知るのと同じで、小さな子どもでも食べればすぐに分かるのがクオリアである。「春が来た」という曲が“高度な作曲技術に裏打ちされた高い音楽性”を持っているのかと疑問に思われる方は、徹底的なアナリーゼを行なっていただきたい。この曲が内包する細胞動機は、ベートーヴェンの「熱情ソナタ」やバッハの対位法作品とも相通ずるところがある。どうしても分からないという場合にはレッスンを受けていただくしかない。
 これらのセンスを身につけると、好き嫌いではなく、優れた音楽とそうでない音楽との違いがわかるようになるはずである。たとえば、奇跡とも思えるバイエルの高い音楽性に驚愕することになるだろう。あるいはツェルニーの美しさの虜になってしまうかも知れない。そして誰もが到達する結論は「バイエルが理解できなければ、その後の全ての曲の理解は難しい」というものに違いない。
 “厳密な意味における音楽”を理解している作曲家とそうでない作曲家との区別も、その作品から、いともたやすく推測可能になる。ドビュッシーは、なぜさまざまな作曲家を批判したのか、ショパンは、なぜ親しいはずのシューマンやリストを絶賛しなかったのか、その答えも見えてくることだろう。

 さて、そのようなセンスを身につけてから和声学を勉強したらどうだろうか? 和声学は単なる知識や理論ではなくなることだろう。楽式論などは、まるで異なったものに見えることだろう。いきなり楽式論を習い始めても「動機」の存在意義すら理解できないかも知れない。それどころか、楽式は時間の経過とともに形成される形式について述べているなどと誤解する可能性すらある。
 いくらボキャブラリーが豊富であってもよい小説が書けるとは限らないように、作曲も知識や技術だけではどうにもならない。なにより“どうすればよいのか”が分かることが大切である。
 それをレッスンするためには、さまざまなイマジネーションが必要になる。受け手にも同じことが言えるかも知れない。
 

 野村茎一作曲工房
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2007年12月13日

2007-12-13 才能と業績

 ここでは“才能”と“能力”をほぼ同義として扱う。ニュアンスとしては「持って生まれた部分の多いものを“才能”」、「訓練で身につけた部分が多ければ“能力”」というような気もするが、他者から見れば区別がつきにくいので、何かを為す力としてほぼ同義であるとして扱う。
 数学と物理学に長けた人物がいるとしよう。仮に数学の頭文字をとってM氏とする。M氏は一流大学の物理学科を首席で卒業。記憶力、演算力など、彼の持つ高い能力は他の追随を許さない。しかし、彼は自分の力を何に使えばよいのか分からなかった。
 何を為すべきかを確信することを“志”という。そしてそれを成し遂げようと決意することを“覚悟”という。志と覚悟なくして何かを成し遂げることは難しい。私が師から学んだことをまとめるならば「観察と洞察にとって事実にたどり着くこと」と「志と覚悟を持つこと」の2点に凝縮することができる。
 目の前にあること全てが事実とは限らない。ひとつのものごとでも多くの解釈が成り立ち、他の事物の解釈との整合性のあるものだけが事実だからである。
 ピアノの調律を例にとる。音律とは実に不思議なもので、直感的には完全5度を12回重ねると7オクターブになるはずだが、実際にはならない。7オクターブと24セント(100セントで平均律における半音)となる。だから純正5度と純正4度で狂いなく調律していくと、一カ所だけ妙な半音ができる。これがピタゴラス音階である。ピタゴラス音階は派生音が使えないので自由な転調ができない。純正音程で構成されるピタゴラス音階や、それを改良して考案されたさまざまな古典調律に慣れた人々にとって平均律は、まるで合っていない音律に聴こえたのかも知れない。ピタゴラス音階から平均律までの道のりは千数百年以上と長い。
 1オクターブを平均化して半音ずつ割り振ったものが“平均律”であるが、そうすると当然のことながらオクターブと各弦のユニゾン以外は何一つ合っていない(うなりがない)という音律になる。とくに長3度の広さ(高さ)は半音の1割を超え、一度聴こえてしまうとビヨヨヨヨヨヨヨヨという“うなり”が気になって仕方がない。しかし、これを逆手にとって、平均律は各音程によって微妙に異なる唸りの速度で調律していく。また、ピアノの弦は低音部を除けば1鍵盤あたり3弦が張られており、それらは当然同じ振動数でなければならない。同じ振動数ならば唸らないので、数秒に1回以内のうなり程度ならばどれも合っているように聴こえる。ここから先は、うなりではなく音色を聴き分けながら調律していく。アナログシンセサイザーで言うならば、レゾナンス調整のような感じで音色が変わる。
 ピアノの音色はなかなか聴こえてこないものだが、私のレッスン用ピアノの音色に気づいた人が「このピアノはいいピアノですね」と言ってくださる。しかし、その言い方は正しくない。“極めてよい状態に保たれたピアノ”なのだ。森田裕之父子によって整調・整音・アクションの微調整が行なわれ、とくに初めて森田裕之氏の平均律に接した時に、驚きとともに多くを学んだ。1年後、彼が再来宅したときにピアノに触れて「たいしたもんだね。全然狂ってない。室温や湿度を一定に保っていれば狂わないんだね」と仰ったのだが、実はしばしば調律の微調整を繰り返して“森田平均律”を保ち続けたのだった(自分で調律していることは言えなかった)。実際、少々乱暴なピアニストが来て弾けば、“森田平均律”はたちまち崩れてしまう。
 もし、あなたがチューニングハンマーと精密な音叉、ロングフェルト、フェルトウェッジを手に入れれば調律は始められる。しかし、観察(この場合は音を聴くこと)から平均律の事実にたどりつくことは容易ではないだろう。12音全ての整合性が図られなければ成り立たないからである。少なからぬ人がくじけてしまうかも知れない。ひ弱な志では真の覚悟は生まれないからである。覚悟があれば、音(うなり)を聴き取る能力は自然と身につくことだろう。うなりはひとつではない。倍音ごとに幾重にも重なって聴こえてくる。子どもの頃はピアノの音の何を聴いていたのだろうか、と不思議になるくらいである。
 余計なことに紙数を費やしすぎた。事実にたどりつくことについては、後日あらためて書くことにする。
 さて、先ほどのM氏は、その高い能力を何に使えばよいだろうか。志はどのようにして生まれるのだろうか。答えは簡単で。“何が重要であるか”が分かることである。ただし、たどりつくのは難しい。
 過去に何度となく書いてきたが、音楽に詳しいと言った時、それは知識が豊富であることを指すのではなく重要さが分かることである。すぐれた作曲家は誰なのか、すぐれたな楽曲や演奏とはどういうものであるのかが分かることである。
 全ての分野において共通するのは、“正しい未来を指し示した”人物こそが重要であり、そしてそれこそがすぐれた業績である。
 物理学の分野では、古代ギリシャの時代に、半月の観察によって地球と月・太陽との距離を理解し、深い洞察によって地動説(太陽中心説)にたどりついたアリスタルコスや、夏至のときの土地ごとの太陽高度の差から地球の全周を導き出したエラトステネスなどはその最たる例だろう。
 では、我々音楽を志す者は何をすべきか?
 ヒントは過去の大作曲家たちが何を重要であるかと考えていたかにある。それは作品に表れている。ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、モンテヴェルディ、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、シェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーらの作品から読み取ることができるだろう。作品を学ぶのではない。作品から学ぶのだ。これは言葉遊びではない。
 私たちはトレーニングによって能力を高めることだけに腐心していてはならない。才能だけでは大した事はできないということを深く認識しなければ真に成し遂げたいことは為しえない。どんなに明るい照明でも、光っているだけでは意味がない。必要なものを照らして初めて役に立つ。


 野村茎一作曲工房
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2007年12月01日

全自動調律ピアノへの提言

 ハワイ・マウナケア山頂にある8.2mの口径を有する“すばる”望遠鏡の「補償光学」機能について知った時には大変驚いたものだ。
 性能のよい望遠鏡を開発すればするほど見えてくるのは“大気の状態”、つまり、揺らぎである。最新の補償光学装置はレーザービームで大気の揺らぎを測定し、それを打ち消すようにアクチュエータが鏡面にわずかなゆがみを作って像を安定させる。昔の発想では、大気が邪魔ならば望遠鏡を宇宙へ持ち出せばよいというものだった。ハッブル宇宙望遠鏡は、その発想に基づく最初のプロジェクトだった。しかし、直接メンテナンスもできない軌道上の望遠鏡には運用面におけるマイナス面もあった。補償光学機能はあたかも大気がないかのような状態を作り出す、画期的なアイディアだった。
 さて、ピアノの調律はどうだろう。多くの家庭では1年に1度の調律が行なわれていることだろう。ところが、よく聴くと一度演奏してしまうと微妙なニュアンスが変わる程度に調律は動いてしまう。温度・湿度の変化があれば、確実に動く。作曲工房では気がつけば、すぐに調律する。とくに同度のユニゾンは音色を左右するので気になる。
 そこで全自動調律ピアノへの提言である。ウォームギアなどで減速してステッピングモータを組み合わせたアクチュエータをチューニングピンに接続して、高精度なチューナで制御するというアイディアである。これならば、調律曲線に基づく厳密な平均律はもとより、ユーザー・カスタマイズされた平均律、各種の古典調律もメモリから呼び出して素早く調律することができる。価格は安くはないだろうが、毎日のように調律が行なわれるコンサートホールやレコーディングスタジオではすぐにペイすることだろう。量産化が進めば価格も下がって家庭用にも普及するかも知れない。
 そうなると、調律師の仕事内容が変わることだろう。もともと、調律という作業があるために本来のピアノのメンテナンスが疎かになっていた面がある。それは、ピアノ本来の性能を保つための“整調”作業と、ピアノをより美しく響かせるための“整音”作業である。整音は作業と呼んではいけないかも知れない。これは、もう芸術的な手腕を必要とする。これでよい、というものがないのでピアノ技術者養成学校のようなところで学べばできるというものでもない。
 全自動調律ピアノが普及すると、ユーザーの関心はピアノ本来の美しさをピアノに求めるようになり、調律師(その頃はピアノ技術者、あるいはピアノ・マスターなどど呼ばれているかも知れない)の地位は劇的に向上し、“ピアノ本来の姿”に到達できない技術者は職を失うかもしれない。
 森田ピアノ・ユーザーならば、この文章を読んで大きく頷いてくださることと思う。


 野村茎一作曲工房
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2007年11月27日

2007-11-27 優れているということ

 
 その人が優れているかどうかは「事実を捉えられるかどうか、そしてそこから真実にたどりつけるか」の一点にあると断言できる。
 自転車に乗るということは、重力に対して自転車がバランスをとるとはどういうことかということにたどり着くことである。だから、いくら座学で習ってもそのまま乗れるようになるわけではない。補助輪付きの自転車に乗っていたら、おそらくいつになっても重力に対して能動的にバランスを取ることことの意味を理解することはないだろう。
 ところがピアノには、その“補助輪”がついている。それゆえ、ロールンクひとつとっても到達できない人がいる。重力のない状態で自転車に乗るのは、おそらく不可能である。車輪が接地しないのでコントロール以前の話である。たとえベルクロ(宇宙船で使われるマジックテープ)を床と車輪の両方に貼り付けても同じことだろう。ピアノも(特にグランドピアノ)無重力状態では鍵盤もハンマーも打鍵位置に戻らないので弾くことができない。ロールンクをはじめとする重力奏法は厳密に言うならばショパンを祖とするが、鍵盤のと人の身体、特に手指が重力の影響下でどのように機能するかにたどりつくことである。
 未就学の小さな子どもが美しい重力奏法による美しい順次進行を聴かせてくれるかと思えば、音大卒の人が「自分の都合と思い込みで」打鍵しているのを聴かされることもある。ピアノは独学できないばかりか、ピアノ奏法の原理に到達しているレスナー以外からは学ぶこともできない。
 ピアノだけではない。先入観を捨てきれない人は物事の真の姿が見えないので、正しい予測が立てられない。予測は人々の行動の根幹をなし、誤った予測は愚かな行動を生む。“愚か”とは誤った方法をとることである。
 私たちの一生は短く、森羅万象をくまなく観察して全ての事実を知ることはできない。それはすでにレオナルドがその人生をもって示してくれた。ならば、真に重要なことに絞って、私たちは真実に到達しなければならないのではないか。
 優れた人の中でも、特に優れた人は「人生にとって真に理解すべきは何であるか」という問題に答えられることだろう。
 

 野村茎一作曲工房
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2007年11月09日

人生スポイラの侵略 2007-11-08

 ワープロを使うようになってから漢字が書けなくなったということは誰もが体験することだろう。カーナビを頼るようになると道順を覚えなくなる。親の面倒見がよいと、子どもは身の回りのことが自分でできなくなることもある。
 私たちの身の回りには、人の能力をスポイルする要素が増えてきたとはいえないだろうか。スーパーに行けば、すぐできる青椒肉絲(チンジャオロース)から、果ては「ホワイトソースの素」なるものまで売られている。これはチンジャオロースやホワイトソースを作れなくするための策略ではないかとさえ思いたくなる。
 機械と道具の境界線は、そこにあるのではないか。
 ピアノは工学的には道具ではなく機械に分類されるかも知れないが、のこぎりや鑿(のみ)同様、人の能力を磨き上げる方向に作用する。ゆえに道具であると分類したい。
ただし、楽譜どおりに弾くことだけを目的にするのならば、ピアノと「モグラ叩きゲーム」との間に境界線はなくなり、ある意味において機械と化す。
 能力スポイラの中には、省時装置として働くものもある。省時とは省電力などと同じ意味で無駄な時間を省いてくれることである。人生において“お好み焼き”などにこだわりはなく、手早く作って食べ、浮いた時間を人生に有用なことに回すというのであれば“お好み焼きの素”は充分に存在意義がある。
 要は、我々がどれだけ人生を考え抜いて主義・信条を持つに至れるかということである。
 科学的な意味において命とは何かという問題をつきつめていくと、生命を維持する“仕組み”と“栄養素”に行き着く。現代の日本人は、かつてないほど豊富な食材に恵まれている。ということは、我々は過去には難しかったかも知れない健康維持が栄養学的には可能になっていると言えるだろう。にも関わらず生活習慣病のような食にまつわる病が蔓延している。途中を省略して結論だけ言えば、大切なこととそうでないことの区別がつかない結果であると言えるだろう。主義や信条とは、その人が重要であるとたどり着いた結論であり、それを聞けばその人の人としての立場や水準を推し量ることができる。
 その人が一日をどのように過ごしているかを見れば、あるいは、その人の金銭出納帳を見れば、どんな自己紹介よりもその人が分かることだろう。そこから何を読み取るかと言えば、第一に価値観であるが、それと同じくらい重要なのが“人生スポイラ”の存在割合である。テレビもパソコンも素晴らしい情報機器にもなれば、消時(時間を消費する)装置にもなる。
 畳の上でゴロゴロしているのは悪い事のように思われがちだが、“きちんと”退屈に過ごしていれば発想の源となる(デカルトは畳を知らなかっただろうが、彼は間違いなくそうであった)。ところが真面目な気持ち(単なる思い込みだが)“これじゃいかん”などと、焦っていると何も生まれない。その証拠に生活から“退屈”を奪うようになった現代では、人々は古代人よりも“馬鹿”になった。科学の進歩と人の賢さには何の関連もないことはあらためて言うまでもないだろう。
 私は精神的にゴロゴロする達人である。半世紀も生きてきてようやくこの境地に達することができた。人生において大切なことなどほんの一握りしかない。それ以外はどうでもいい。この“どうでもいい”が重要である。どうでもいいものが少ない人は、結局やりたいことに手が回らない。だから、大事だと思うこと以外どうでもよい私は能力スポイラにも人生スポイラに誘惑されることが少ないと思っている。


 野村茎一作曲工房
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2007年11月02日

分からないことには“たどり着く”しかない 2007-10-06

 分からないことがあると私たちは調べたり人に聞いたりする。しかし、それでは済まない場合が往々にしてある。
 知りたいことが、単なるルール(例:ある国ではクルマは左側通行であるかどうか)であればそれで事足りが、クオリア問題を含んでいれば人から人へ伝えるのは不可能であり(桃の味は言葉では伝えられず、桃を食べなければ分からない)、それ以外にも人から直接伝達できないものは非常に多い。
 音楽で言うならば、音楽史ひとつとっても“知識を得るという意味での勉強”で理解することは不可能だろう。歴史というのは「事件や出来事として表面化する“人々の考え方の変化”を読み解くこと」である。だから音楽史と言えば「音楽(音として鳴り響く美的内面)に対する考え方の変化によって生まれる時代の音楽を読み解くこと」である。
 では、読み解くとはどういうことか、以下にヒントとなり得るかも知れない事柄について記す。事実だけが述べられているとは限らないので注意。
 あまり知られてはいない時代ではあるけれども、音楽が多様化する前の16世紀から17世紀のほうが説明しやすいので、それを例に挙げる。

 パレストリーナ(1525?-1594:パレストリーナは出身地名であって、本名はジョヴァンニ・ピエルルイージ。音楽事典などではジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ)の「教皇マルチェルスのミサ曲」に代表される一連の線的対位法による多声声楽曲群は、当時の作曲家たちに多大な影響(つまり、考え方の変化)を与えたことは間違いない。パレストリーナの音楽は、音楽史学的にのみ意味があるのではなく、現在でも超一級の音楽として君臨する人類の宝である(あなた自身が作品から感銘を受けない限り、真偽を確かめる術はない)。彼の影響はいたるところに見られるが、2世代ほど後の作曲家、グレゴリオ・アレグリ(1582-1652)の有名な「ミゼレーレ」のような曲を聴くと、パレストリーナがどのような作曲家であったのか別の角度から知ることができる(それはあなたの取り組みしだい)。バッハ以前の作曲家たちはパレストリーナの影響から逃れることは難しかったであろうことは想像に難くない(これも自ら確かめて理解を深めなければ、テストの解答や素人相手に教養をひけらかす程度にしか役立たない知識である)。
 パレストリーナの活躍したローマから離れたヴェネツィアでは、パレストリーナよりも一世代若手のジョヴァンニ・ガブリエリ(1554?-1612)が、声楽曲においても器楽曲においても別の様式の多声音楽を生み出していた。もし彼がパレストリーナを聴いていたとしたら、それは別の道を開拓しようとしたに違いないし、パレストリーナを知らなかったのなら、知らなかったからこそできたことなのかもしれない(私は霧の中にいることを明らかにした。霧を晴らすのはあなた自身である)。
 そしてヴェネツィアでは、ジョヴァンニ・ガブリエリのさらに一世代あとにクラウディオ・モンテヴェルディ(1587-1643)が登場する。20世紀の天才的古楽演奏家・研究家のデイヴィッド・マンロウがロンドン古楽コンソートを率いて演奏した歌劇オルフェオの「トッカータ」(決定版はアルヒーフ・レーベルのLP。CDは未発見)は、オーケストラ作品として、未だ人類が到達できていないとも言えるほどの強烈な音楽である(これは、あくまでも私の判断であり、あなたはこれを自ら確認するまでは鵜呑みにしてはならない)。
 以後、モンテヴェルディの影響が作曲家たちに表れるようになる(どのような影響であるかはあなた自身が感じとるほかない)。
 イギリス海峡を隔てたイングランドでは、ちょうど劇作家のウィリアム・シェークスピア(1564-1616)が活躍する時代だった。この時代(エリザベス王朝)には、忘れることのできない作曲家ウィリアム・バード(1540?-1623)いる(なぜ、彼が重要であるのかは、その音楽に触れてあなた自身が理解しなければならない)。

 音楽史の書物を何度読み返しても分かった気がしないことがあることだろう。それは、著者自身が霧の中にいるというひどい場合もあるが(決して少なくない)、文章からの知識だけではどうにもならない問題を数多く含んでいるからである。すぐれた音楽史の書物は、著者の実感が伝わってきたり、何を知ればよいのかというヒントが含まれている。今回は音楽史を例に挙げたが、ピアノのレッスンはもちろん、和声学や対位法のような音楽理論であっても“自らたどり着く”姿勢がなければ“実感を伴わない、点在して孤立した知識”ばかりが増殖し、あなたの音楽観をますます混乱させることだろう。


 野村茎一作曲工房
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2007年10月31日

知の構築と視点の獲得 2007-10-27

 我々の記憶野(や)の知識が点のように存在するだけでは、クイズやテストに答える以外あまり役に立たないかも知れない。しかし、それが線でつながっていれば、物事の最も近くの理由くらい分かるだろう。それが面積を持つ2次元平面として広がっていれば遠い理由も分かるほど見通し距離が広がるに違いない。さらに、知識が体積を持つ3次元立体のように構築されていれば、未だ知らぬ知識への扉を開いたり、創作の泉となる可能性が高まることだろう。
 ニュートンやアインシュタインの知識世界は、他の同時代人にくらべて物理的事実と一致する部分が多かったことだろう。“頭がいい人”と言えば漠然と数学者や物理学者を思い描いてしまうが、そればかりではない。事実を捉えられる人はおしなべて聡明であると言える。事実は目に見えるものばかりではない。たとえば原子の構造や人間心理、世界経済の未来、次に来るべき和音などを的確に捉えることができる人は立体的に知識野を構築してきた人だろう。“知識”ではなく“知識野”と書いたのは、知識はひとつひとつの記憶のことであり、知識野とは、その記憶を利用するための脳内システムだからである。
 知識野の構築を簡単に説明すると次のようになる。
 ベートーヴェンのピアノソナタを聴いて、そこから何を読み取るかは人によって異なる。では、誰が最も多くを読み取れるかと言えば、ベートーヴェン自身である。演奏や表現に関してはベートーヴェン以上の演奏家が存在するだろう。しかし、その曲の全ての音高と音価を選び抜いた理由はベートーヴェンが一番よく知っている。だから、我々が読み取るべきはベートーヴェンの判断基準、つまり何を大切であると考えていたか、そこに尽きる。
 そのためには我々に正しい視点が必要になる。視点が定まらずに何千回聴こうが、分かる事は限られる。天動説から地動説に移行するために、天文学者たちは地上から天上界を見上げる視点から、太陽系を見下ろす視点に移動する必要があった。
 ソナタ形式を時系列で捉える視点では、ソナタ形式の曲を何曲書いてもベートーヴェンのレベルにはならない。なぜなら、彼はソナタの精神をルードルフ・レティ(1855-1957)が見抜いたように“細胞音形”という視点で捉えていたからである。
 視点なくしてピアノの練習をする人も作曲する人も、無益な努力をしている部分が多くなることだろう。
 全てのレッスンは視点の獲得に貢献するものでなければならないが、視点の移動は“分からなければ人に聞く”というような次元とは大きくかけ離れている。それゆえ、新たな視点の獲得のためには我々は全身全霊を傾ける覚悟が必要だろう。
 

 野村茎一作曲工房
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2007年10月24日

分かりやすさに飛びつく人々 2007-10-22

 クルマ好きの若者が自動車関連の仕事に就きたいと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、その若者は本当は何が好きなのだろうか? クルマを運転して、自分が行ってみたいところへ行くことが好きなのだろうか。それとも自分のクルマをドレスアップしたり、より高性能の部品に交換したりすることによって自分だけのクルマに仕上げることが好きなのだろうか? 実際には、そういう内容の仕事は極めて稀だろう。自動車整備の仕事は、規定どおりの性能に戻す仕事であり、大部分の運転の仕事は指定された場所へ時間どおりに行くというものである。裏返せば、手先が器用できちんとしたことが好きな人には自動車整備は実に楽しい仕事になるし、指定された場所へ時間どおりに到着することを誇りに思う人にとってドライバーはぴったりの仕事だろう。
 要するに、クルマが好きだからクルマの仕事を選ぶのは正しいとは限らないということを述べたいのである。分かりやすさというのは裏を返せば短絡的であるということだ。
 大人は子どもたちに向かって勉強しろと言う。そういう大人は勉強しなかった大人たちである。勉強しなかったから後悔しているなどとも言う。もし勉強していたら考えが変わっていたかも知れない。断っておくが、勉強しても意味がないと言っているのではない。「オレは勉強しなかったからお前は勉強しろ」という思考に実は論理性がないことに気づいていただきたいのである。
 ピアノを練習したらピアノは上手になるか、と、これまで問い続けてきた。これを初めて問われた人は「やはり才能がなければダメですか?」と反応することが多い。才能はあるに越したことはないが、人は才能だけで動くのではない。確かにピアノを練習すれば楽譜に書かれた順番で鍵盤を叩けるようになるかも知れない。しかし、音楽を理解するためにはそれだけでは不十分である。読み書きを勉強すれば、難しい書物でも読めるようになるだろう。しかし、内容は理解できるだろうか? 短絡的思考というのは文字を読めれば本が読めると思ってしまうことである。もし、文字を読めるだけで内容が理解できるのならば、たとえば「論語」は大ベストセラーとなっていることだろう。これが“分からないことは人に聞く”という発想と強く結びついている。
 勉強したら頭がよくなるか、という問いかけも同様である。子どもたちを成績の良い子どもにしたいというのは間違ってはいない。だが頭の良い(=賢い)子どもにしたいのなら順序が違うのではないか。現在のテスト目的の学習方法は、無批判に知識を受け入れて、それを自分の記録内容の証明として記述できればよしとするものである。だから、答えが決められるもの以外はテストに出題されることはなく、それを勉強したところで自ら考えて真実にたどりつくという力が身につくわけではない。だから「それは習ってないから分からない」という意識が育つ。現実には、我々は毎日初めて遭遇する事態に直面する。習っていないから分からないでは済まされない。
 間違えずに弾けたら合格というピアノ教室は、いったい何をレッスンしているのだろうか。プロピアニストによるレッスンでさえ、指示こそ細かくなり難度も上がるが、それを守って弾けたら合格であったりすることがある。たしかに、結果としてとても上手に聴こえるかも知れないが、すぐれた聴き手の耳はごまかせないだろう。
 極論するならば、ピアノ演奏の最終目的は演奏曲のオリジナル校訂版が書けるようになることではないか。
 以前もコラムに取り上げたが、水とは何か、あるいは英知とは何かというような漠然とした問いかけに答えられるようになったら真に物事を理解したことと言えるだろう。
 レオナルドの言葉を借りるならば、絵を描くことは事実から学ぶことである。それゆえ画家だけが創造主たる神の行ないを全て詳細に観察して、それを正しく知ることになると彼は述べている。昆虫図鑑で昆虫を知るか、実際の昆虫の観察によって昆虫を知るかという問題は興味深い。昆虫図鑑で昆虫学者ファーブル(1823-1915)は誕生しなかったに違いない。
 絵を習わせれば誰もが観察者になれるわけではないが、レオナルドの言葉を理解している指導者に巡り合えれば、テスト目的の学校の勉強(「ここはテストに出るぞ」式)は太刀打ちできないだろう。ピアノのレッスンも、いまだにお嬢さんの習い事という感覚が世間一般の認識かも知れないが(実際、そのような教室が少なくない)、やはり洞察力を育てる点において文部科学省の定める学習指導要領は太刀打ちできないだろう。
 ひとつつけ加えておかなければないことがある。厳しいピアノのレッスンというのは「まずはじめにレスナーである先生の言いつけがあって、それを守らなければならない場合」にしばしば生じる現象である。誤り(実際には誤りではないかも知れないが)がすぐに分かるので叱責されやすい。厳しいということと、先生の思い込みによる癇癪は別物である。それは企業や組織における無能な上司の行動にも似ている。それに対して音楽の理解を求めるレッスンでは癇癪を起こしても仕方がないから、お互いの精神状態から生じるストレスはない。あるのは真実の壁だけである。指導者の言葉さえ真実とは限らない。
 ここで必要となるのがへこたれない精神である。不屈の精神というのは、がむしゃらにバリバリ前進するような一瞬の気持ちを指すのではない。そのようなことをしたら何ごとも続かない。へこたれないというのは好調不調などの紆余曲折を経ても、結局あきらめないという、なんともグニャグニャした精神を指すのかも知れない。作家の故・遠藤周作さんが何かに書いておられたが、彼は自分を怠け者に思えて仕方がないそうである。書きたくないのだそうだ。どうにも何もする気が起きないらしい。ところが、ほんの時々書きたくなる時があって、そういう時だけ仕事をするのだそうだ(細かいところはウロ覚えなので、このまま信じないでいただきたい)。私は、これを読んだ時に自分と同じだと思って非常にうれしくなった(気が軽くなった)。以後、インスピレーションの湧いた時に質の高い仕事をすることのほうが、常に勤勉であるよりもレベルが高いと考えて今に至っている。問題は、いかにインスピレーションの生まれる状態に自分を持っていくかということなのだが、それはいまだに答えは出ていない。とにかく、私が考える不屈の精神の本質というのは一生自分の目的を見失わないということに尽きる。思い浮かびやすい“強靱な精神”というイメージではない。
 これがなければ、学校の勉強が役に立つとは限らないことがご理解いただけると思う。
 人は、ふと人生を振り返って、何かやらなくてはと焦りを覚えたりするものだ。そんなとき、分かりやすい“カルチャースクール通い”などに飛びついてしまうかも知れないが、大切なことはもう少し奥のほうに隠れていたりする。


 野村茎一作曲工房
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2007年10月19日

真実にたどりつくために 2007-10-19

 医師は病気を治す専門家である(と思っている)。名医と言う言葉はあるものの、具合が悪くなればとにかく医者のもとへ出向く。しかし、実際には現代の最先端の医学といえども、いまだ病気のほんの一部しか解明しておらず、医者自身、霧の中にいると言ってよいだろう。それを否定する医者に命は預けられない。別に医師不信を主張したいわけではない。ピアノ教室に行けばピアノが習えるという感覚も、これとよく似ている。
 レッスンを続けるうちにピアノレスナーのことが分かってくることだろう。ピアノレスナーはピアノと学習者を結ぶインターフェイス(掛け橋)なので、その選択は音楽人生を左右する大きな要素である。自分では弾けるが、それを伝えられないレスナー(「ほら、こんなの簡単でしょ!」などと自分の感覚を標準だと勘違いしている)。事実と言うよりは、自分が習った事(人から伝えられたことは自ら理解しなおさないと意味をなさない)をそのまま伝えるだけのレスナー、なかには上(うわ)の空のレスナーもいる。印象だけでレッスンするレスナーならいくらでもいる。もし、学習者が自分で判断できないのなら、それがその学習者の音楽レベルなので致し方ないが、ピアノが上手にならない(音楽的にも違和感がある)と感じたら、自分のせいだけではないかも知れない。
 世の中には様々な楽譜の原典版と校訂版が存在する。ということは、音楽に対して意見が一致していないということである。さまざまな意見があって当然という考え方もあるだろうが、誤った(事実誤認がある)校訂版も少なからず存在する。出版社には、それを見抜く力があるとは限らないのでそういうものもどんどん出版される。出版された印刷物は、それだけで権威を持ってしまうが、結局、それを判断するのは私たち自身でしかない。
 どこの蕎麦屋がおいしいのか。グルメ・ガイドブックで分かるだろうか。自分で食べてみるしかない。蕎麦が人生において大きな比重を占めると考えるのであれば、決して容易(たやす)くはないが、自分で蕎麦を打ってみたらどうだろう。蕎麦打ちを理解するということは真実に近づくということと同義である。おいしい蕎麦というものを理解することができるかも知れない。自分が重要だと思うことに時間を費やすことは少しも惜しくない。それこそが人生の意味だからである。
 一時期、ゲーム脳という言葉が流行った。専門家の言葉であっただけに反響は大きく、日頃ゲームを快く思っていなかった親たちは、鬼の首を取ったかのように、その言葉に飛びついた。ピアノで難曲を弾く行為などは、究極のゲーム脳促成術だろうなどと思ったものだが、今ではゲーム脳の理論を一種の疑似科学と見る人もいる。本当のことは私たち自身が判断するしかない。正しい判断ができないことを“愚か”という。
 自分に都合の良いことは無判断で受け入れるのは、迷信の時代と同じ構図である。中世も現代も人々の哲学的なレベルは少しも上がっていないのかも知れない。むしろ、自然をリテラシーして上手に利用した原始人や古代人のほうが現代人よりも優れていた面もあったことだろう。
 一時代前、大学生がマンガを読む姿を見ただけで、それを嘆く文化人がいた。マンガはメディアである。メディアを批判しても仕方がない。問題は内容だからである。私が大学生の頃、すでに優れた才能がマンガ界に育っていた。逆に文学賞を狙っているような作家の質の低さに驚いたものだ。昭和40年代後半から50年代にかけて書店に背表紙を並べていた小説家たちの多くが、今では忘れ去られているのではないか。今ではゲームの世界に優れた才能が集結している。
 ゲームにも多くのジャンルがあるが、ストーリーのある、たとえばロールプレイングゲームなどでは、ゲームに参加する自分自身が主人公であるだけに映画を観ているよりも具体的な体験を感じることだろう。ゲーム世代誕生後の人たちの晩年の述懐には、忘れ得ぬ小説や映画ではなく、ゲーム体験が語られるのではないか。
 前置きが長くなった。
 私は、人が精神的に成長するのに必要なのは“本気”になった密度×時間であると思っている。だから、修羅場をくぐり抜けてきた人たちと、のほほんと暮らしてきた人たちとの間には大きな隔たりがあると信じている。別に修羅場をくぐり抜ける必要はない。本気であるということは精神的に集中できるということである。スポーツに熱中してきた少年は、同じ時間、なんとなく塾通いしていた少年とは精神的成熟に差があることだろう。
 音楽も同様である。芸術だけではないが、何ごともその真の意味を知ると人生を賭して取り組もうと決意させられることがある。しかし、それは誰にでもできることではない。ところが、ゲームは、普通に暮らしていたらとても発揮できないような集中力を広い範囲の人々にもたらす。一生体験できないかも知れない強烈な精神の集中体験がゲームによって実現した人も多いことだろう。だからといって、その体験を誰もが人生に生かせるわけではないので、ゲームをぜひ薦めるというわけではない。
 日本の高度経済成長期に、多くの家庭が競うようにピアノを買って子どもたちに習わせた。日本は世界一のピアノ普及率となり、日本のピアノメーカー上位がそのままピアノ生産の世界上位となった。ところがピアノは思っていたよりも難しく、子どもたちは次々と脱落していった。誰もが真実を知らずにピアノを始めるのだから、実際にピアノ演奏を体験した子どもの中には、その困難に気づいてやめたいと言い出す者もいる。子どもと一緒にピアノの真実に近づこうとしなかった親は「高かったんだから続けなさい!」と勝手な論理を展開する。蕎麦を打っても、折り紙を折っても、ゴルフを始めても、その真実にたどりつかなければモノにならない。簡単そうに思えることでも、実際にやってみると知らない事だらけであることに気づくだろう。真実にたどりつくための、事実と思い込みとの微妙な差に気づくためには高い志が必要となる。志だけが集中力を生む。本気になれない人生では人は成長できないだろう。
 才能あふれる人間が、その才能を生かせない現実をいやというほど見てきた。人は才能だけでは大成しない。
 志は真実を知ることから生まれる。そのためには思い込みを排し、事実を見極めようという姿勢を持つしかない。

 野村茎一作曲工房
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2007年10月16日

いま一度、霧の中にいることを思い出せ 2007-10-16

 
 考えるということの意味は「正解へたどりつく道筋をたどること」である。
 だから、厳密な意味で言うならば、丸暗記した掛け算九九で4×7が28であると答えることができたからといって、必ずしも考えたことにはならない。それは知っていることを思い出しただけだからである。掛け算を理解するということは、その概念に最初に到達した人と同じ足跡をたどるということである。それが“考える”ことの正体ということになる。
 私たちは“考える”ことによってのみ、新たな概念・意味・意義・視点などを獲得できるのであり、それらが複合的に形を成すと哲学となることもあり得る。
 学校教育における筆記テストが記憶の確認であるかぎり、考えると言う習慣は身につかないことだろう。なぜなら、真の解答には“解答例”を持ち出すことが不可能、あるいは困難だからである。
 仮に“水”とは何かという問題に答えるとしよう。H2Oと答えても、それは水を別の言葉で表現しただけで、水を説明しきれたわけではない。化学・物理的な性質、生命における役割、自然環境における水の意味な詳細に説明を始めたら、永遠とも言えるほどの時間と労力が必要となるだろう。
 私たちはピアノについて何を知っているだろう。ピアノのおよそ230本の弦にかかる張力が20トンに及ぶことを知っていても、フレームの設計者でなければ単なる雑学で終わってしまう知識かも知れない。ピアノの音律について何を知っているのだろうか。仮に書物でピタゴラス音律から、純正律、古典調律、平均律までの知識と音響物理学的な裏付けを理解したとしてもそれで何が分かったのだろうか。実際に調律という作業を行なうと、それまで狂っているとは思ってもみなかった平均律が音痴に聴こえてくる。ところが、純正律に合わせ直すと単純な3和音のうなりは消えるものの、ピアノの音ではないように聴こえてくる。平均律に戻すと、やはり第3音の高さが妙に気になってしまう。音律の問題とともに複弦のユニゾンの不思議な性質にも出会う。ユニゾンには微妙な幅があって、音色が変わる。もちろん打鍵によっても大きく変わる。その日の天気によっても変わる。おそらく一生をかけてもピアノのほんの一部のことしか理解することはできないだろう。
 もし、学生時代(高校以前)のテストを捨てずに持っていらっしゃるか、あるいはお子さんのテストを見る機会がある方は、そこで何を問われているか確かめてみるとよいだろう。そこには、こんなことを知って何になるのだろうかと思われる単なる雑学クイズのような設問が並んでいるはずである。とくに歴史などで、それを強く感じるのではないか。
 水はおろか、休まず呼吸し続けている空気についても、毎日食べ続けている食べ物についても、その根本となる命についても曖昧な認識しかないのに、それらを飛び越えて計算したり年号を覚えたりしてきたのだ。
 あなたが演奏者としての立場でピアノ演奏に関する筆記テストを作るとしたら、果たして何を問うだろうか? そこには、あなたのピアノ演奏に対する姿勢や考え方が表れてくることだろう。
 私たちは依然として見通しのきかない霧の中にいるという現実を忘れてはならない。植物とはなにかという質問に対して、少し調べれば学問的な定義を答えることはできるだろう。しかし、あなた自身の言葉で、あなた自身が納得する植物に対する説明をすることはできるだろうか。否であるはずだ。なぜなら答えは他者から聞いても他者の考えを知ることしかできないからである。
 霧の中からの脱出は、我々自身が“考える”という行為によってしか為し得ないということを肝に銘じなければならない。


 野村茎一作曲工房
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2007年10月09日

練習曲の美しさ 2007-10-09

 ピアノ学習者に現在練習中のブルクミュラー25番とツェルニー100番のどちらが好きであるかとたずねるのは、一般的には意味がないと思われるかも知れない。
 しかし、私や私の門下のピアノレスナーのレッスンでは、これはとても興味深い質問となるだろう。正統な演奏を行なった時のバイエルの美しさは別格であるとしても、ツェルニーの美しさもブルクミュラーに勝るとも劣らない。
 しかし、他教室から移ってきた人たちのツェルニー・アレルギーは相当なもので、どうやったらここまでツェルニー(というよりもピアノ演奏)を誤解できるのかと思うほどだが、レッスンを始めるとたちまちツェルニーファンになる。音楽は、その捉え方によって、これほど差が出る。
 逆に、作曲工房では「ツェルニー嫌いを生み出すレッスンもあるのだ」と説明しても理解されないかも知れない。しかも、練習曲を美しく捉えるためには特別な才能も猛練習も必要がない。それを知るレスナーに師事すればよいだけのことである。音大に行っても、そのような指導者に出会えるとは限らない。プロピアニストだからといって全てが信頼できるわけでもない。
 「ショパンエチュードは、もはや練習曲とは言えない」という言い方があるが、その言葉に疑問を持たない人が、練習曲を棒弾きしていることは間違いない。果たして練習曲と、それ以外の曲に音楽表現上の差があるのだろうか?
 ひとつ大切なことを忘れていた。ピアノの整音である。よい状態を保てば、ピアノ本来の音はとても美しい。よい音を知っているピアノ技術者を探し出すことも重要である。あるいは、ピアノの音そのもののレッスンを受けなければ、一生、ピアノ本来の音を知らずに終わってしまうかも知れない。
 これを書き始めるとクオリア問題となってしまうので、ここまで。


 野村茎一作曲工房
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2007年10月07日

哲学者としてのグレン・グールド 2007-10-06


 ピアニストのグレン・グールド(1932-82)については非常に興味があり、彼の評伝はいくつか読んできた。子どもの頃に初めて興味を引かれたクラシック音楽であるモーツァルトのK.545を弾いていたのはグールドであったと後に気づいたことも大きな要因だろう。書店で立ち読みしながら聴いたモーツァルトは刺激的で画期的だった。しかし、私が曲名を知るに至ったのは、それからしばらく経ったラジオのAM放送(たぶんNHK)だった。そこではノロマなモーツァルトがモタモタとピアノを弾いているような印象だった。それまでに私の中で勝手にK.545がテンポを上げていた可能性もあるが、私のイメージは颯爽としたモーツァルトだった。
 その後も、グールドの演奏でなじんでしまった曲は、ほかのピアニストの演奏では物足りなかった。逆のこともあった。他のピアニストでなじんだ曲のグールド版は違和感があったりした。
 ピアニストとしてのグールドは演奏が全てを語っていると言えるだろう。天才的と毛要されるピアニストの中には、技巧こそ発揮しているものの、音楽理解の不十分な軽業師がしばしば混ざっている。それは、そのピアニストを天才的と評した人間の音楽理解を表しているだけなのだが、グールドは天才的というよりは思慮深い哲学者のようなピアニストだった。
 浅薄なピアニストを暴くのは簡単だ。音楽に関する本質的な発言を求めるか、文章を書かせればよいだけのことである。
 その点においてグールドは、その著作や発言において我々に少なからぬ問題提起をしている。
 今回読んだのは、みすず書房から出ている「グレングールド発言集」と「グレン・グールド著作集1」の2冊で、それぞれ4300円と5500円という高価な本なので図書館から借りたものである。2週間ではとても足りないので、期間延長を申し出るつもりだが、今までに分かったことは、グールドと私が実は立場を大きく異にしているということと、私が考えもしなかったような事がらを見いだしては思索を重ねているということである。
 グールドはストラヴィンスキーを開拓者とは認めないと言明している。革命者ではあるかも知れないが、開拓者ではないという論を展開している。グールドにとって真の開拓者、つまり“火星や木星で最初に音楽家になる”ようなことを成し遂げたのはモンテヴェルディとシェーンベルクであるとも述べている。それには私も強く同意する。
 また、彼はショパンが対位法的ではなく、もっぱらピアニスティックを追及した作曲家として興味がないようだった。私の分析では、ショパンはバッハからリズム(ヘミオラやリズム補填原則、フレーズ内における拍節とリズム構造)を吸収しているが、確かに対位法的には、オブリガートさえ登場することが少ない。グールドはピアノは対位法的な楽器であると捉えていたのである。私がショパンをピアノ音楽史上もっとも重要であると考えているのと対照的である。だからと言って反論する気は毛頭ない。
 興味深いのはグールドがモーツァルト嫌いであるという点だった。K.545の最初の録音における第2楽章の扱い(まるでモーツァルトを小馬鹿にしたかのようなテンポとアーティキュレーション)は、その現れなのかも知れない。交響曲第40番において彼が興味を示したのは第4楽章の展開部開始直後(127小節目アウフタクト)から始まる12音音列にもたとえられる部分だけである。これは確かウェーベルンが12音技法を予言するものとして指摘した部分で(このような指摘ができることが真の能力である)、シェーンベルクを信奉するグールドらしい点である。ところが、もっとも対位法的に書かれた第3楽章のストレットについては言及がなかった。グールドにとっては、あまりに当たり前だったのだろうか。
 「創造プロセスにおける贋造と模倣の問題」(発言集)は、特に興味深かった。
 この問題に関しては、私も考察したことがあった。以下は、私の意見である。作品の真贋は衆目の興味を集める。ところが多くの人々が知りたいのは専門家がどのように判断するかであって、自分自身の判断ではない。分からないのであれば、その人にとって真贋はどうでもよく、分かる人は良いものを選ぶだろうというのが私の見解である。なぜならば数千年後(あるいは長い時を経て)、作者が全く分からなくなってしまい、作品そのものだけでしか触れることができない芸術作品を前にしたとき、真贋が問われることはないだろうからである。
 グールドはこの問題を深く掘り下げて考えていた。私の音楽コラムなど、まだまだ修業が足りない。密度が高く、かつ情報量の多い書物なので、通読は可能でも読破(内容を見抜いて読了する)は容易くない書物2冊である。もし、少しだけ読んでみたいという気持ちになられたなら、このわずか17ページほどの一章を図書館で立ち読みしてから一巻まるごとに挑むかどうか決めてもよいだろう。
 
 野村茎一作曲工房
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2007年10月04日

日本語の単語に並べ替えられた外国語 2007-10-04

 以前、なにかのメディアで“Bijinesu Hoteru”と大きく看板を出している日本のホテルが紹介されていた。英語圏の人たちは読むことができても意味は分からないことだろう。
 これはローマ字が実は日本語であるということに気づかなかった極めて特殊な例だが、翻訳の世界では、日本の文字と単語が用いられているにもかかわらず元の言語の構文がそのまま用いられていることが少なくない。
 いま読んでいる「グレングールド発言集」がとくいひどいと言うわけではないが(たまたま手許にあるがゆえに例に出しただけで、一般論として捉えていただきたい)、ここにも「異なる種類の機会を連結する経路として機能します」というような言い回しが登場する。ローマ字がアルファベットを使った日本語表記であるとするならば、これは日本の文字と単語を使用した他言語と言えるかも知れない。
 過去にもピアニスティックという問題について語ってきたけれども、“弾きやすさ”ということがピアニスティックであるというように誤解を受ける面もあったかも知れない。
 わかりやすく美しい日本語で、感動的な物語が記述されているのが理想的であるのはお分かりいただけると思う。“分かりやすく美しい日本語”という部分がピアニスティックであり“感動的な物語”が音楽である。
 中には、翻訳文ではないのに最初から翻訳調(たとえば英米語の関係代名詞をそのまま翻訳したような)で文章を書く人もいて、英語教育の見直しの必要性を感じたりもする。それと同じように、ピアノのためのオリジナル曲なのに、他楽器からの編曲もの、あるいはアンサンブルやオーケストラのコンデンスト・スコア(ピアノで弾けるように総譜を大譜表に直したもの。演奏用というようりは指揮者の勉強用に使われる)のような楽譜を書く人もいる。
 この問題は根が深く、ピアノレスナーがピアニスティックという問題に対するセンスを持っていないと、レッスン曲、あるいはレッスン曲の配列としてのメソードに“非ピアニスティック”な曲を持ち込んでしまうところから問題は始まる。ピアニスティックであることはピアノテクニックと密接な関係があり、指の上下運動以外の要素を演奏に生かす重力奏法(ショパン演奏の際の基本的なテクニック)では、ピアニスティックな曲でなければ生かすことができない。しかし、単にピアニスティックであればよいわけではない。曲の作りにフレーズ周期と、いわゆる“ドレドレ感”のセンスがないと、感動的な音楽にはなりにくい。ル・クーペの「ラジリテ」第2番は、ピアニスティック、フレーズ周期、ドレドレ感の3拍子揃った名曲である。しかし、演奏者に、この3つのセンスがなければ、ただの音の羅列として鳴り響くだけだろう。
 ロールンクなどのテクニックを使って打鍵すると、ピアノは全く異なる音色と表情(この形容は決して大げさではない)を見せる。その美しいさを知ることなくピアノを弾き続けることは学習者にとって悲劇でさえある。
 そのためにもピアニスティックとは何かという問題について考える必要があり、ピアノレスナーにとって最低限の責任であると考える。
 
 野村茎一作曲工房
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2007年09月29日

クオリア問題 2007-08-24

 一ヶ月以上放置してあった文章なので、多少古く感じられてしまう可能性があることをお断りしておきます。

 クオリア問題 2007-08-24

 クオリアとは共通体験のある者どうしの間でしかコミュニケーションが成り立たない感覚的な世界のことである。桃の実を食べたことがない人にしか桃の味は分からない、というようなたとえが使われる。
 “クオリア”に“問題”が付加された“クオリア問題”とは、そのクオリアを伝えようとする試みに立ちはだかる障壁のことである。
 音楽を文章で語ろうとすると、必ずと言ってよいほどクオリア問題に突き当たる。
 人類は言語や文字によって獲得した知識を後世に伝える術(すべ)を持った。そのおかげで人間のような愚かな生き物でも、スズメやネズミに少しは近づくことができるようになった。なにしろ彼らは学校に行って勉強しなくても、自らの健康を維持してきちんと子孫を残していけるのだ。おまけに判断の誤りが人間よりもずっと少ないように思える。
 ところがクオリアだけは体験を共有する者同士しか伝えあうことができない。宮本武蔵が到達した境地を「五輪書」(ごりんのしょ)だけで伝承することが困難であることはクオリア問題とは異なるが、難しさでは一緒である。
 ピアノにおけるクオリア問題は根が深い。
 ショパンは、若い頃に一、二度試みただけで大ホールにおける公開演奏をやめてしまった。大方の見解は「ショパンは大ホールでの演奏が苦手だった」「ショパンは指が弱く大きな音が出せなかった」というようなことである。私は全く異なった見解を持っている。そもそも、ショパンはピアノのキーを“叩く”つもりなど毛頭なかったはずである。それを最優先させたショパンは「大ホールでは彼の伝えたいことが伝わらない」と直感したに違いない。
 彼は演奏の場を、より小さなサロンに移した。シューマン、リスト、メンデルスゾーンなどのそうそうたるメンバーの集うサロンで彼は自ら自作品を弾いた。シューマンらは熱狂して彼を天才と讚えた。
 ところがショパンは愕然とする。ショパンを褒め称える彼らは、ショパンが大切であると思っていることを理解しなかった(気づかなかった)のだ。ショパンは、どんなに賛辞を贈られても彼らに感謝こそしても、尊敬はしなかったと考えられる。それは、ショパンがレッスンで弟子の弾いたピアノに対し「それではリストになってしまいますよ」と言ったことからも伺える。
 ついにショパンの活躍は、さらに狭いレッスンの場へと移る。レッスンでは、ショパンが最も重要であると確信していた“ドレドレ感”や“フレーズ周期”、あるいはピアノの音色のようなクオリアを伝えることができたのである。
 現在のピアノ・レッスン環境はどうであるか。
 練習はおろか、レッスンに電子ピアノが使われる例が徐々に増えてきており、レスナー自身がピアノの響きのクオリアを持っていないことが伺える状況が間違いなく存在する。それは極端な例かも知れないが、生ピアノであったとしても、充分な整音がなされていないピアノで“ピアノの響きのクオリア”を伝えることは難しい。
 そういう人たちがバイエルの美しさに気づくことも難しいだろう。作曲者がピアノの響きのクオリアを持たなければ、響きに無頓着なメソードが生まれるのは当然のことである。フレーズ周期も“ドレドレ感”も同様である。だから、レスナーがどのようなメソードを使っているかを聞けば、それだけでそのレスナーの演奏はかなりの部分、推定することができる。
 私自身は、レッスンとは正統性の理解と“クオリアの伝達”こそに高いプライオリティがあると考えている。だから、独学が不可能であるばかりか、クオリアを持たないレスナーから学ぶことも難しい。
 

 追記:
 ウィキペディアの<ディートリヒ・ブクステフーデ>の項目の執筆者には敬意を表したい。複数ある手持ちの音楽事典では全く太刀打ちできないできない内容である。専門家の手によるものとは思うが、それにしても詳細にして明晰な解説と資料である。ぜひご覧いただきたい。ちなみに、ブクステフーデは、当時の北ドイツ最大の作曲家と目されており(南ドイツはパッヘルベル)、バッハに大きな影響を与えた。

ブクステフーデ


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2007年09月28日

またまた・事実から何を読み取るか 2007-09-27

 地球から見て太陽と月のどちらが遠いかと訊ねられれば、あなたは即座に太陽と答えることだろう。そんなことは誰でも“知って”いると思うかも知れないが、ここで、あなたの答えの根拠を求められたらどのように答えるだろうか。
 学校で習った、子どもの頃に宇宙の図鑑で太陽系の図を見た、そんなことは常識(数学で言えば命題)であって証明の必要はない・・・などいろいろ考えられるが、誰にも分かりやすく、かつ具体的にイメージしやすいのは、以前コラムにも書いたように日食時に月が太陽を掩蔽(えんぺい)するからというものではないか。
 同様に、地球が球形であることの根拠も、宇宙に行って地球を眺めたことがない私たちでも緯度によって北極星の高度が異なることを挙げることができる。(実際にはゼノンの「アキレスは亀を追い越せない」式の反論が可能だが、ゼノンのパラドックスのような詭弁も詭弁でああるがゆえに事実ではなく、この場合も時間軸を持ち込むことによって、その不合理性をたやすく看破することができる)
 ここで重要なのは、実際の太陽系をどこまでイメージできるかということである。
 太陽の直径がおよそ140万kmであることは調べればすぐに知ることができ、テストに答えて正解することできる(テストでは140万kmという数字を知識として持っていればOKなのだ)。ところが我々は、太陽の大きさを理解していないかも知れない。数字だけではイメージしにくいからである。月と地球の平均距離が38万kmであることを考えると、その大きさがイメージしやすくなる。月の公転軌道の倍近くの大きさなのである。いま初めて太陽の大きさを実感なさった方もいるかも知れない。
 地球から太陽までの距離は、およそ1億5000万kmだが、これも即座にはイメージしにくい。地球-月の距離のおよそ400倍と言われてもまだピンとこない。しかし、1億5000万円と38万円と言い換えればイメージしやすくなることだろう。
 太陽(半径696000km)を直径1mの球と仮定すると地球の大きさ(半径6371km)は約9mm。それが太陽から約215m離れて公転している。そして月は2mm半くらいの粒で、地球から約55cmほどの距離をおいて公転している。直径430mの地球軌道を一望できる100m上空から眺めたところを想像していただきたい。9mmの地球は肉眼で球形に見えるだろうか。ましや2ミリ半ほどの月の存在に気づくだろうか。これがイメージすべき太陽と地球の関係である(数字は、今ざっと概算したものなので、ぜひご自分で検算なさっていただきたい)。
 “天動説が信じられていた”と信じられている時代があった。天動説は実際には極めて複雑な理論であり、一般の人々で理解している人は極く少数であるか、または無視できる数であったと推定され、人々が天動説を“信じている”とは言えない状況であったかも知れない。推定の根拠は、天動説が天文学界の最先端の科学理論として高名な天文学者たちによって議論されていたからである。というわけで、人々は単に漠然と太陽が地球を回っていると思っていたはずである。現在も地動説が信じられているわけではない。多くの現代人は、太陽の直径を数字で記憶するように、ただ漠然とした知識を持っているだけという可能性がある。
 地球は太陽を中心に公転することはできない。ハンマー投げをする選手が回転を始めた時、回転の中心となっているのは選手ではなく、ハンマーと選手との間にある重心である。だから地球が公転すると、地球太陽間にある(太陽の表面よりも内側だが)重心を中心に太陽も小さな円を描いて回る。地球と月でも同じことが起こる。2つの同じ質量の星がお互いを公転しあう時のことをイメージすれば分かりやすいだろう。
 では、ここで音楽の話題に入ろう。
 モーツァルトは音楽史上最大の天才であると言われている。
 あなたは、みずから根拠を挙げてモーツァルトを自分自身の判断で天才であると断言できるだろうか。もし、できなければ、太陽の大きさを数字で覚えるのと同じように、モーツァルトは天才であるという言葉を記憶しているだけという可能性もぬぐいきれない。そんなあやふやなことを根拠にモーツァルトを論じたら、その内容と結論は真実とかけ離れてしまうことだろう。
 私たちがモーツァルトの交響曲を聴く時、そこから何を聴き取っているのだろうか。空に輝く太陽や月を眺めるときも、そこから何を読み取っているのだろうか。教科書に向かって勉強しているときも、外出中突然の雨に見舞われた時も、鳥が飛ぶのを見た時も同様である。我々に与えられた条件は同じである。
 バイエルを弾いて、その伝統美に則った正統性(全くぶれのないフレーズ周期や主題の提示と対比、再現による確固たる形式感、声部処理の正しさなど)に気づくと、感動するばかりか畏怖さえ覚える。しかし、音高と音価、強度とテンポのデジタルな読み取りしかできない場合には音楽にさえ聴こえないかも知れない。バイエルはつまらないという人の大半は、このような人たちであると言ってよいだろう。
 バイエルは非常に美しい音楽に到達していたが、定量楽譜に記譜すると、いま我々が手にすることができる楽譜になる。そこからバイエルが想起した音楽を読み取らない限り、バイエルについては語れないことになる。「わが輩は猫である」を英訳したら“I am a cat.”であり(“I, cat.”のようなもう少しマシな訳もあるかも知れないが)、直訳してしまうと「私は猫です」となってしまうのと似ている。
 では、ショパンなら分かるのか? バイエルを表現するにあたって重要な要素はアゴーギクとデュナーミクだが、ショパンも全く同様である。ショパンの演奏で重要なのはテンポ・ルバートであると主調する人もいるかも知れない。しかし、テンポ・ルバートはフレーズ周期に基づくアゴーギクの上にのみ成り立つ。バイエルのフレーズ周期の、その分かりやすさは第一級のものである。それが読み取れない人にショパン作品の持つ複雑なフレーズ周期が読み取れるとは思えない。
 このように書くと難しいことのように思えるかも知れないが、正統性に基づいたレッスンでは、未就学の小さな子どもでさえ獲得できるセンスである。(ただし、自ら読み取れるようになるのに多少時間がかかるのは、科学など他の分野と同じである)
 “考える”ということは“正解(真実)への道筋をたどること”である。そのためには、判断の根拠とする要素に事実誤認があってはならない。レッスンは知識の切り売りではなく、ともに事実の確認を行なうことと言い換えてもよい。これは、本来学校教育における授業も同様である。
 我々がモーツァルトの交響曲を聴く時、そこからモーツァルトが何を大切であると考えていたのかが読み取れなければ、音はただの物理的な空気の振動と同じことになってしまう。
 今日、あるいは明日以降見聞きすることがらは、障害を持つ人を除けば、同じ質の情報である。つまり、青空を仰ぎ見れば、そこには青空があるということだ。レイリー卿ジョン・ウィリアム・ストラットはそこに“レイリー散乱”を見いだし、空が青い理由を明らかにした。パスカルは上空に行けば行くほど気圧がさがり、ついには真空になることを見いだした。ドイツのヨゼフ・リクスナーはタンゴの名曲「青空(碧空)」を書き、私は、ひっくり返って青空を眺めてはアルフレッド・ハウゼの奏でるその曲を聴きながら、音楽コラムの発想を得たりする。
 バッハのたった一曲を知って、そこからバッハの考える“宇宙(もちろん地上をも含む普遍的な)の秩序”のようなものを読み取ってしまったりすると、もう後戻りはできない。音楽に邁進するしかなくなってしまう(厳密にいうと音楽に限らず真実の追究という姿勢を持とうとすること)。
 レオナルドの生涯がそうであったように、過去の偉大な先人たちは事実から真実を明らかにするために生きてきたと言ってよい。だからといって、私たちが歴史的大発見をする必要はない。ハゼノキの葉の葉脈の美しさに気づくだけで何かが変わるのではないか。葉脈は命のデザインである。このデザインでなければ生命は保てないかも知れないのだ。

(ハゼノキの葉脈)
http://www.alpine-plants-jp.com/himitunohanazono/hazenoki_himitu_2.htm
 
 これからベートーヴェンやドビュッシーなど、過去の大家たちの作品に接する時、あなたは、そこから今までとは違う何かを読み取るかも知れない。

 野村茎一作曲工房
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2007年09月27日

我々が欲するもの 2007-09-23

 子ども時代には、誰でも欲しい物がある。つまり、物が欲しい。これは分かりやすい欲求だ。これが一生続く人もいる。ただし、これはコレクションの対象物に向けられる欲求とは異なる。
 子どもと言っても、心理学で言うところの“ギャングエイジ”の頃になると、より高い序列が欲しくなる。対人関係における序列である。一目置かれたいとか、より有利なポジションに位置したいというようなことである。学力成績や体力測定の結果なども序列を決める要素になる。この欲求が一生涯続く人もいる。ただし、これは人々の役に立つために、何かの目的を持った組織の長となって役目を果たそうという志とは異なる。
 青年期になると才能を欲するようになる。
 子ども時代の“英雄願望”とは違って、より現実に近いものだが、才能に万能感を抱いて、才能があればなんとかなるのではないかという欲求である。ここで言う才能とは学校での成績のように他者と横一線に比較できるものではなく、他とは異なる能力のことを指す。自らを訓練したり磨いたりするわけでもなく、この欲求だけが一生涯続く人もいる。
 値段と価値の違いに気づいた人は、価値あるものが欲しくなる。価値とは極めて個人的なものであり、愛とほぼ同義と言ってよい。恋人や家族を愛するということは、その価値が計り知れないということを認識しているからである。自然を愛する人は自然の価値を認識しているからこそ守ろうとするし、音楽を愛する人は音楽の価値を知っていると言い換えることができる。
 しかし、本当に手に入れなければならないものは他にある。上記の全てを包括するもので、その人のレベルを表す指標ともなる。それが、つね日頃述べている“志と覚悟”である。いくら才能があっても志がなければ人は動かない。覚悟がなければ続かない。
 言葉では誰もが分かる。だが、いくら言葉で「よし、オレは覚悟を決めたぞ!」と叫んだところでどうにもならない。志も覚悟も決めるものではなく“決まるもの”だからである。
 私が師から受けたレッスンは、結局、全てはそのためだけにあったと言ってよい。もちろん、和声学だの対位法だのも習ったが、それは私の知識と技術を多少増すことはあったかも知れないが、そんなことで作曲の真の能力が上がるわけではないし、第一、私を動かすには足りない。
 今となっても私は高い志と強い覚悟にたどり着いたわけではない。それどころか、望む高さまでたどり着くことは一生ないだろう。なぜなら前進すると地平線の先に新たな大地が見えてくるからである。
 現代は、音楽も科学も含めたあらゆる分野が非常に進んでいるかのように見える。しかし、それは単なる過去との比較であって、我々が本当に比較しなくてはならないのは過去ではなく“全ての事実”である。我々の周囲は真実で埋め尽くされている。にも関わらず、そのほんの一部を切り出しただけの、単なる誰かの意見に過ぎないかも知れない書物や言葉から学ぼうとしてはいないだろうか。このコラムでさえそうだ。ここに書かれていることが真実であるかどうかは、読者である皆さん自身が判断しなければならない。その判断の基となるのが、あなた自身の事実の観察と矛盾がないかどうかである。
 事実を師とすると明言したのはレオナルド・ダ・ヴィンチが初めてではないか。その言葉からだけでも彼の志の高さと覚悟が分かろうというものだ。進歩しなければならないのは学問や芸術そのものではなく、人間である。

 野村茎一作曲工房
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2007年09月26日

音楽“本気”鑑賞入門 2007-09-23

 
 絵を趣味とする人で、絵ばかり描いていて美術史には興味がないように見える人がいる(詳しく研究・吸収済みで、すでに美術史には興味を失っているという意味ではない)。
 音楽でも同様で、ピアノで言うならば、過去に自分がレッスンを受けた曲、または有名なピアノ曲しか知らない人が少なからずいる。
 確かにレオナルドは「だめな画家は画家から学び、すぐれた画家は自然(事実・ありのまま)から学ぶ」という重要な言葉を残しており、ドビュッシーも過去の大家のスコアを研究している友人に向かって「そんなことをするよりも海でも眺めていたほうがよほど役に立つ」とも言っているが、学習期には当てはまらない。
 音楽鑑賞入門というと、普通は観賞の道筋を示す鑑賞ガイドのように書かれることだろう。ところが私は、いわゆる“音楽プチ教養人”を育てようなどとは露ほども思っていないので、これから述べることは、少なからぬ読者を面食らわせるかも知れない。
 では本題に入る。

 ピアノを習うということは、ピアノと音楽の美の本質に迫ることであって、ピアノを弾いて暇つぶしすることではない。
 私が初めてクラシック音楽に感動したのは、小学校5年生。市内の大きな書店でマンガの立ち読みをしているときに流れたモーツァルトのK.545(もちろん当時は作曲者も曲名も知らない)だった。自分自身かなりびっくりした。それまでなんとなく習っていたピアノに“打ち込もう”と(いま思い返せば豆腐のような)固い決意をさせたほどの出来事であった。
 当時は録音機材も持っておらず、ラジオとテレビのクラシック番組だけが情報源だった。番組表をチェックしてはいろいろな音楽に聴き入った。しかし、鑑賞態度を一変させたのは当時のピアノの師のレッスンだった。
 彼は私にいろいろな曲を聴かせてくれたが、そのどれもが重要な音楽ばかりだった。ベートーヴェンの俗に言う3大ピアノソナタ(月光・悲愴・熱情)、モーツァルトの交響曲第40番、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番などであったが、鑑賞に付随する彼のコメントが見事だった。先に述べたドビュッシーの友人は大作曲家のスコアを見て“何を”勉強していたのだろうか。勉強後、彼は大きく変わることができたのだろうか。
 私の師は、その作曲家が何を大切であると考えていたのかを指摘した。演奏や作品には演奏家や作曲家の全能力が表れるが、それを読み取るための助言をしてくれたと言ってよい。つまり、鑑賞するにもコーチが必要なのである。
 例を挙げると、月光ソナタでは、第1楽章右手冒頭の開始3音と第3楽章のそれとは完全に一致する。第1楽章第1主題ソプラノの付点リズムは、第3楽章では第2主題に現れることに気づかなければならない、というようなことである。ラフマニノフの協奏曲では、第1楽章のソナタの精神の実現に向けた緻密で周到な“設計”を聴き取るというようなことだった。
 私にとって鑑賞は音楽的訓練そのものに変わった。それまで漫然と(私は本気のつもり)聴いていた時に比べて楽しさと熱中度、充実感が数倍になった。
 いま思い返せば、いろいろなことが聴こえてきたために、突然作曲を志そうと思ったのかも知れない。
 ピアノの師に連れていってもらった演奏会で、初めてドビュッシーの「喜びの島」を聴いた。私にとっては新しい音楽だった。これを吸収しないわけにはいかない。バルトークやショスタコーヴィッチとの出会いも鮮烈だった。

 「音楽もいいが勉強も忘れちゃいかん」

 こんなことを本気で言う学校教師たちと親、それを真に受ける世の中の風潮のおかげで今の私がいる。勉強すれば頭がよくなるという思い込みが、ライバルたちを次々と脱落させていったことは間違いない。中2当時、授業中の私の頭の中にはオーケストラが鳴り響いているか、ひざピアノで練習中かのどちらかであって、成績など眼中になかった。しかし、ボーッとしていたわけではないので、私の“全体としての能力”は急速に高まりつつあった。大作曲家たちが何を実現しようとしていたのかを読み取ろうという姿勢、それを演奏に生かそうとする試み、そして何より、作曲することによって大作曲家たちの偉業を再現しようという努力。
 中3の後半、一応少しだけ受験勉強をした。あまりのやさしさに気が抜けた。交響曲のスコアを読み解く作業と比べたら、中学校の教科書など幼稚園の絵本のように思えた。陸上競技でオリンピックを目指そうと決意した(つまり世界レベルを知った)中学生が久しぶりに地元の中学校の運動会に出た時の驚きといったほうが分かりやすいかもしれない。(ここまで読まれた方には、この言葉になんの違和感も抱かないことだろう)
 高校生になると、ようやく自分のステレオを手に入れた。これで番組表の時刻に合わせてではなく、自分のスケジュールで音楽を聴けるようになった。それまでに優れた音楽とそうでない音楽の違いが分かるようになってきていたので、FMラジオは未聴曲を聴く役割、ステレオは自分の目的の曲を聴く役割となった。
 ひとつの曲を、徹底的に聴き込むということが始まった。きちんと聴くとすぐれた曲ならば新しい発見がある。新しい発見があるということは何かを学んだということだが、その発見が他人からの指摘ではないというところが重要である。バルトークの「弦・打・チェレスタ」やショスタコーヴィッチの「交響曲第5番(通称タコ5)」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などはおそらく1000回を超えて聴き込んでも発見があったが、もっとも長く発見が続いた(つまり解明が困難であった)のが今まで何度も述べてきたヴォーン=ウィリアムズの「交響曲第3番」だった(バッハの「フーガの技法」に至ってはお手上げ状態だったので、ここでは除外)。そのオーケストレーションは同時に多くの声部が異なる旋律を奏でるのだが、それらが極めて巧妙に織合わされているためにデッドパートがない。そのクリアリティの秘密に迫るのに7年を要したが、未だに全てが分かったわけではない。もっとも、分かった曲など実は1曲もないのかも知れない。
 
 今まで述べてきたことは、ある意味において極めて個人的なことである。誰もがマンガを立ち読みしていて偶然K.545が聴けるわけではないし、それにのめり込めるわけでもない。私の真似をしてヴォーン=ウィリアムズの交響曲を聴いても何も得るものがないかも知れない。だから、聴き込むに足る重要な曲であるという判断は皆さん自身が行なわなければならないが、そのセンスを育てるためには観賞にもコーチが必要かも知れないということである。コーチは生身の人間からでなくとも、洞察力さえあればこの文章から受けることも可能だろう。
 いまレッスンに通ってくれているおちびちゃんたちとも、5年後くらいには歴史的名曲のオーケストラスコアを前に音楽を語りあう日が来るのかも知れない。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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