2007年09月30日

音楽コラム2005 新・大作曲家の系譜 第10回(最終回) イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971;ロシア)

 20世紀前衛音楽で第一に挙げるべき作曲家を、私はジョン・ケージ(1912-1992)であると考えています。なぜなら彼は3楽章からなるピアノ独奏曲「4分33秒」(1952年)において、音楽の地平線(どこまでが音楽と言えるのか)を明確に示したからです。彼以後、前衛音楽における地平線拡大は不可能となりました(地平線拡大の意味がなくなっただけで、前衛音楽には無限の開拓すべき領域が残されています)。しかし、ケージが最初期から師であるシェーンベルクの影響を受けた12音技法作品から出発しているところから、彼がどれだけ正統性を身につけることができたのか疑問が残ります。ケージは「過去から学び過去に倣わず」という作曲家であったのかどうか私には判断しかねます。
 それに対して、ストラヴィンスキーはシェーンベルクやバルトーク同様、人類の過去の音楽遺産を余すところなく吸収した上で自らの美学を打ち立てたと思わせる点においてベートーヴェンやショパン、ドビュッシーと同列に扱うことができる作曲家です。
 例によって、生い立ちや作品についてはネットや関係の書物でお調べください。
 ストラヴィンスキーは生涯に作風を変えていった作曲家です。それは実際に交流のあった画家のピカソにも似ています。ジョン・ケージがジャクソン・ポロック(画家;アメリカ、1912-56)的であるとすれば、ストラヴィンスキーはピカソ的です。
 バレエ音楽“春の祭典”が初演時のみならずセンセーショナルな話題を提供したのと同様、ピカソもセンセーショナルな画家でした。それに対して、はるかに前衛的といえるケージやポロックは専門家の間で話題となったと言えるでしょう。
 21世紀の目で見ると、ピカソはあまり前衛的な印象がありません。すでに古典的な美をたたえています。“春の祭典”も骨太で古典的な作品です。古典になったということは、世の中が道標(みちしるべ)としたということにほかなりません。
 高校時代、春の祭典(以後“春祭”)のスコアを手に入れて初めて“春のきざし”の8声部のホルンパートをピアノで弾いた時の驚きを忘れることはできません。それはショパンのいう「厳密な意味での“音楽”」という精神に則って選び抜かれた響きでした。師から見せてもらった春祭の自筆スコアのファクシミリでは各パートが色分けされており、計画的に復調が使われていることを直感させました。12音技法において音列をランダムに並べても魅力的なメロディーとなるとは限らないように(ハ長調でデタラメな曲を書こうとする人はいないでしょう)、複調も、その組み合わせをすぐれた美的内面によって慎重に選び抜かれなければなりません。中学時代にダリウス・ミヨーの作品によって複調音楽の魅力は十分知っているつもりでしたが、ストラヴィンスキーの流儀はミヨーとは大きく異なるものでした。また、複雑な混合拍子についてもバルトークで経験済みでしたが、ストラヴィンスキーはそれとも大きく異なっていました。それはリズムによるポリフォニーと言えるようなもので、複雑なポリリズムも当然のことように次々と現れました。これはシェーンベルクやバルトークにも見られない特殊なセンスと言えるでしょう。
 オーケストレーションも特異でした。時代をさかのぼると、ロマン派の時代には作曲家たちは楽器が美しく響く音域を効果的に用いようとしました。当然と言えば当然のことです。しかし、春祭では冒頭から調子はずれに聴こえるようなファゴットの高音から始まり、当時としてはまだまだ特殊楽器であったであろうアルトフルートやバストランペットが次々と現れます。各楽器はその楽器のもてる音域を余すところなく使って演奏され(アルトフルートの高音などは出てきません)、当時の聴衆が聴いたことのないような音響世界を提示したのです。
 ストラヴィンスキーは春祭において、その時点において為すべきことをすべてやりおえました。以後、彼は類似する作品を残していません。それは14歳のピカソが「聖体拝領」以後、同種の作品を残していないのと似ています。春祭の次に書かれたバレエ音楽はペルゴレージらの旋律を用いた“プルチネルラ”でしたが、それは編曲ではなくストラヴィンスキー作曲とされています。そこには3大バレエ時代のような過激な不協和音もリズムも存在せず、新古典主義作品と言われていますが、むしろ新しい感覚で書かれており、より前衛的に思える春祭よりも理解に時間のかかる曲でした。
 ストラヴィンスキーの優れたオーケストレーションの特徴がよく表れているのは大規模な管弦楽曲だけではありません。ピアノ曲「5本の指で」を室内楽用に書き直した「15人の奏者のための8つのミニアチュア」は、管弦楽法の教科書のような作品です。私自身、楽器の扱いについては春祭よりもこの曲からのほうがより多くを学んだ気がしています。第1曲はドレミファソ(C→G)の5音だけでできた曲ですが、厳密にはハ長調でもイオニア旋法でもない独特な音楽で、複調とは異なる意味で新しい境地を感じさせます。
 ピアノ曲や独奏楽器を伴う室内楽曲、協奏曲などで、各楽器の新たな奏法の開拓やピアニスティックの追及というようなことはストラヴィンスキーの目的ではなかったように思われます。そのかわり「兵士の物語」のような、雑多でありながら簡潔で、聴く者の意表を突く音楽や、新古典主義時代の次には12音技法(それも“調性的な”と本人が言う)への傾倒など、多様な様式を追及しつづけました。
 ストラヴィンスキーによってインスパイアされた作曲家は数知れないことでしょう。ストラヴィンスキー作品を聴くと新しい曲のアイディアを受け取ったような気になるのです。
 しかし、いま現在、私自身はストラヴィンスキーの影響からどんどん遠ざかっているような気がしています。ストラヴィンスキー自身、晩年には過去の自作品から遠ざかっていたふしがあります。皆さんがストラヴィンスキーの作品を十分に聴き込んだ時、どのように感じるのでしょうか。

 野村茎一作曲工房
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2007年09月18日

音楽コラム2005 新・大作曲家の系譜 第9回 バルトーク(ハンガリー;1881-1945)


 2005年から書き始めて未だ終わらず、前回からも間があいてしまったので、いま一度、私が選んだ音楽史上の大作曲家10人のリストを掲げます。

ジョスカン・デ・プレ(1450/55-1521;フランドル)
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525?-1594;イタリア)
クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643;イタリア)

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750;ドイツ)

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827;ドイツ)
フランソア・フレデリック・ショパン(1810-1849;ポーランド)
クロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918;フランス)

アルノルト・シェーンベルク(1874-1951;ドイツ)
バルトーク・ベーラ(1881-1945;ハンガリー)
イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971;ロシア)

 はじめの3人は黎明期に活躍したバッハを知らない世代。バッハは音楽史上傑出した作曲家。次に来る3人は俗に言うクラシック音楽のジャンルで牽引役を果たした作曲家。最後の3人は伝統の流れの中にありながら過去から脱却した新しい世代の作曲家。

 バルトークの生涯についてはネット検索などで前もってお読みくだされば幸いです。

 「2001年宇宙の旅」(1968)という映画で、スタンリー・キューブリック監督は作曲家のアレックス・ノースに音楽を依頼していたにもかかわらず、実際には音楽のすべてを既成のクラシック音楽に置き換えました。リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス、アラム・ハチャトゥリアン、ジェルジ・リゲティらの作品からの選曲は見事で、それらが映画の質を高めたことは間違いありません。(バルトーク作品は入っていません、誤解なきよう)
 その後、映画に使われなかったアレックス・ノース版の音楽がCDで発売になったので幸いにも聴くことができました。それはそれで映画音楽として第一級の見事な作品でした。このような書き方をすると映画音楽がレベルが低いような印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。時代と伝統の洗礼を受ける期間がまだ短く、真の評価が定まっていない要素があるということです。それゆえアレックス・ノースに限らず、いかに優れた作曲家であろうと、これだけの様々な個性と戦って勝利することは難しいでしょう。個性だけではなく、数多くの名作のなかから選び抜かれた音楽に対抗するのは誰にとっても困難と言うものかも知れません。
 これをクラシック音楽と伝統音楽(民謡)に置き換えてみると、似たような構図が浮かび上がります。伝統音楽は時代の波に洗われ、風雪に耐えて磨かれ、生き残ってきました。クラシック音楽も書かれた当時はコンテンポラリーな音楽で、その多くは忘れ去られていきました。今、生き残っているのは本当に一部の作曲家たちによる少しの作品だけなのです。生き残る基準は、伝統音楽のレベルに達しているかどうかであったのではないかと私は考えています。
 料理雑誌に毎号掲載されている、現代の料理研究家たちによる新作料理と伝統料理を比べると分かりやすいかも知れません。新作料理は最初おいしいと感じても、繰り返し食べたくなる料理は、そう多くありません。その点、味噌汁などの定番伝統料理は飽きが来ません。伝統料理は素材の扱い、バランス、味付けなどが長い時間をかけて洗練されてきたからではないでしょうか。今でも、人々によってさらに磨きをかけられています。
 バルトークは、音楽仲間のコダーイとともにハンガリーばかりか、様々な国を訪ねては民謡収集にあたりました。それは、ヴォーン=ウィリアムズとホルスト、また別行動ではありましたがパーシー・グレンジャーがイギリス民謡の収集と研究を行なったこととも重なります。
 その成果はバルトークの様々な作品に反映されていますが、中でも特にすぐれているのは「こどものために」というピアノ曲集です。若い頃、私はバルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」や「管弦楽のための協奏曲」に夢中になっていましたが、師からは「こどものために」を研究しなさいとアドヴァイスされました。それからしばらくの間、私は「こどものために」全曲を弾き、なにやら分かった気になっていました。ところが、30年を経た今ごろになってようやく「こどものために」の真の素晴らしさが理解できるようになってきました。存命中には前衛作曲家としての面ばかりが強調して捉えられていたバルトークですが、彼は目新しさを求めた作曲家ではなく、どんなに新しい要素を持っている音楽でも、その中心には伝統音楽の洗練度を求めた作曲家だったのです。これは過去の大作曲家全てに言えることですが、残念ながら目新しさだけに捕らわれてしまった作曲家も少なくありません。
 バルトークのピアノ作品には、しばしば混合拍子や変拍子が見られます。ハンガリー音楽と言うとジプシー音楽を基にした作品を思い浮かべてしまいますが、ハンガリーはマジャール人文化の国です。バルトークはマジャール民謡を研究し、その民謡に含まれる特異な拍子を自分の音楽にも取り入れました。「こどものために」やピアノメソードである「ミクロコスモス」も例外ではありません。混合拍子は5拍子や7拍子のように2拍子や3拍子といった単純拍子の組み合わせによる拍子で、変拍子とは1曲の中で、拍子が変化して使われることを指します(異なる解釈もあります)。バルトークは同じ8分の3+3+2拍子でも「ミクロコスモス」では混合拍子としてそれを1小節に収め(第6巻153番)、「こどものために」では3/8拍子、3/8拍子、2/8拍子というように変拍子表記をしています(第1巻26番)。これも演奏者の年齢や経験までを配慮したバルトークの厳密な表記なのでしょう。近代・現代の作曲家の中には単に奇をてらったとしか思えないようなリズムや拍子を用いている例も見かけますが、バルトークは長い伝統のなかで磨かれてきたリズムや拍子センスによって作曲しているので、それを理解した聴衆には違和感なく聴くことができるでしょう。
 若い頃、私は師から「音楽は、すでに拍子を内包している。だから無理やり変わった拍子の曲にすることはできない」という趣旨の忠告をたびたび受けました。若い頃は変わった拍子の曲にあこがていただけだったのです。その忠告とバルトーク作品は私に拍子の持つ真の力を教えてくれました。私の拍子感を磨くトレーニングは、バルトークと次回のストラヴィンスキーを研究することによって行なわれたことは間違いありません。
 独創的な発想、高い洗練度、考え抜かれた和声、厳密なリズムと拍子、そして高度なポリフォニー、雄大なオーケストレーションと緻密なアンサンブル。バルトークは、どれをとっても音楽史上特筆すべき作曲家であると考えています。

 野村茎一作曲工房
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2006年10月11日

気まぐれ雑記帳2005 その048-8 新・大作曲家の系譜(第6夜)

クロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)

 ピアノのレッスンに通ってくださる、ごく普通の主婦のかたが「ピアノのレッスンなんて優雅でいいわねえ」と言われますと話し始めました。
 「・・・最初は私もちょっとピアノが弾けたらすてきだなあと思って始めたのですが・・・」と続きますが、あとは私が要約します。
 レッスンが進むにつれて音楽の高みを覗き見てしまったら、人間の到達しうる精神性の深さに驚き、好きとか嫌いとか楽しいとか楽しくないとか、そんな感情の問題ではないところで音楽やピアノや自分自身と向かい合いはじめた、ということでした。
 これは大変すばらしいことで、ピアノのレッスンが演奏技術だけを伝えるものではないということをあらためて認識させてくれます。「練習とは技術だけを得るものではない」という格言を持ち出すまでもなく、音楽に限らず、何かを追求すると、その人の精神性は必ず高まることでしょう。私たちがものごとに価値を感じるのは、そういうことを実感した時ではないでしょうか。
 音楽史上の大作曲家たちは、誰もが音楽を深く追求していたに違いありませんが、バッハは別格としても、それが際立つように思えるのが今回取り上げるドビュッシーでしょう。
 ドビュッシーについては多くの研究書があり、数えきれないほどの資料や評伝がネット上にも溢れています。ですから、彼の生涯や作品については、それらを参考になさっていただきたいと思います。このコラムは私自身のドビュッシー観をお伝えしようとするものであり、それを心にとどめてお読みください。もちろん、シリーズの他の9人の作曲家についても同様です。
 ドビュッシーについて語る上で忘れてはならない点がいくつかあります。それは、彼がショパンの孫弟子にあたること、そしてその結果、「リズム・メロディー・ハーモニー」に続く音楽の“第4の要素”に気づいていたこと。また、ドビュッシーがバッハを特に重んじ、シャブリエとショパンを敬愛していたことです。
 一般に全音音階(Whole tone scale)はドビュッシーが先駆者とされていますが、シャブリエ(1841-1894)のピアノ曲の傑作「ブーレ・ファンタスク(1891)」には、ほぼ完全な全音音階(6音中の5音が使われており、全音音階以外は想起させない)によるフレーズが登場します。ブーレ・ファンタスクには、全音音階中に形成される「増3和音(Augment)」が多用されており、そのクライマックスで、下降する全音音階が必然的な印象で使われています。もちろん、全音音階の本格的な使用はドビュッシーからと言うべきですが、創始者はシャブリエではないかと考えています。このほかにもグリンカなど他の作曲家にも部分的な全音音階の先駆的使用が認められますが、1890年に作曲された「スティリー風タランテラ(単に“Dance”とも)」がシャブリエへの傾倒の成果としか思えないことからも、ドビュッシーが少なくとも一時期はシャブリエの影響下にあったと考えても間違いではないでしょう。
 ドビュッシーのピアノ曲演奏に求められる“アゴーギク”、とりわけ“テンポルバート”のセンスにはショパン作品と共通するものがあります。ドビュッシーはいくつものショパン作品の校訂を行なっており、それらは現在でもデュラン社版で手に入れることができます。私自身は、バッハの校訂譜では、今のところバルトーク版を最高のものと考えるように、ショパンの楽譜はドビュッシー版を決定版と位置づけています。学術的な研究による、ショパン作品の背景にあるさまざまな事実への到達に関してはドビュッシーの及ぶところではないかも知れませんが、どれほど権威ある音楽学者が音楽作品を研究しようとも、ショパンの音楽的感性を高い次元で理解できるとは限りません。その根拠は何かと問われても、物的証拠を挙げるわけにはいきません。しかし、ドビュッシーが自らの楽譜に対して行なった演奏指示のための書き込みの変遷を見ていくと、彼が音楽に対してどのように姿勢を変えていったか、つまり、より成長していったかが伺え、彼が誰よりも“音楽”そのものに接近していった作曲家であったことが推測できます。20世紀に入ってから、多くの進歩的な作曲家の書き込みが詳細、かつ精密になっていきます。しかし、意義の感じられない書き込みも増えていきます。その点、ドビュッシーは有名な「前奏曲集第1巻」あたりから、ほぼ完成された楽譜の姿を見せてくれます。
 もう一点、ドビュッシーは、この「前奏曲集第1巻」でピアノとの向き合い方に一つの方向性を示します。
 もし、お手元に、その楽譜をお持ちでしたらぜひ開いてみていただきたいと思います。弾いたことのあるかたならご存知のことことは思いますが、ドビュッシーの与えた強弱記号の割合に注意して楽譜をめくり進んでいただきたいのです。数だけではなく、持続時間にも注意をお払いください。ピアニッシモが保たれる箇所はあっても、フォルテが延々と続く場所は少ないはずです。これは、なによりピアノの音色への関心を示していると考えられます。

 例として第1曲「デルフの踊り子」について検証してみます。

・mp以下の記号 26個
mp          0個
p          10個
piu p(pのあとの) 1個 
pp          9個
piu pp(ppのあとの)2個
ppp         4個

・mf以上の記号 3個
mf         1個
f          2個
ff          0個

 「デルフの踊り子」だけが特殊なのではありません。第2曲「帆」以下についてはご自分で検証願いたいのですが、ドビュッシーという作曲家がこれだけでもどのような作曲家であったのか分かるような気がします。

 ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシーの3人は、それぞれが、それ以前、あるいは同時代の作曲家と大きく異なっています。
 この3人の姿勢を一言で言うならば「過去に学び、過去に倣わず」ということになるでしょう。彼らは間違いなく過去から学んだ「正統」な血筋を持った作曲家です。ですから、ドビュッシーのように様式的な過去との断絶を感じるようなことがあっても、同じステージで過去の作曲家と前後して演奏されても違和感がありません。
 真の創造者たちは「まだ誰もやっていないから」というような理由で新しいことに挑戦したのではありません。彼らには過去の、あるいは同世代の誰が何をしようと、そんなことには関心がなかったことでしょう。自分自身が何をなすべきか分かっていたと考えるべきで、それが彼らの真の才能です。
 ドビュッシーは、とくにそれが際立つ作曲家であると言えるでしょう。

chopindebussy.JPG

 作曲工房以外のリンク、あるいは検索エンジンからおいでの皆さまへ
 ここは「野村茎一作曲工房HP」に付属する音楽コラムです。HPへは、こちらからどうぞ。

野村茎一作曲工房

※これは新着コラムであるにもかかわらずタイトルが2005となっているのは、2005年第48回コラムの続きとして書かれているためです。
ラベル:ドビュッシー
posted by tomlin at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 大作曲家の系譜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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