それに対して、ストラヴィンスキーはシェーンベルクやバルトーク同様、人類の過去の音楽遺産を余すところなく吸収した上で自らの美学を打ち立てたと思わせる点においてベートーヴェンやショパン、ドビュッシーと同列に扱うことができる作曲家です。
例によって、生い立ちや作品についてはネットや関係の書物でお調べください。
ストラヴィンスキーは生涯に作風を変えていった作曲家です。それは実際に交流のあった画家のピカソにも似ています。ジョン・ケージがジャクソン・ポロック(画家;アメリカ、1912-56)的であるとすれば、ストラヴィンスキーはピカソ的です。
バレエ音楽“春の祭典”が初演時のみならずセンセーショナルな話題を提供したのと同様、ピカソもセンセーショナルな画家でした。それに対して、はるかに前衛的といえるケージやポロックは専門家の間で話題となったと言えるでしょう。
21世紀の目で見ると、ピカソはあまり前衛的な印象がありません。すでに古典的な美をたたえています。“春の祭典”も骨太で古典的な作品です。古典になったということは、世の中が道標(みちしるべ)としたということにほかなりません。
高校時代、春の祭典(以後“春祭”)のスコアを手に入れて初めて“春のきざし”の8声部のホルンパートをピアノで弾いた時の驚きを忘れることはできません。それはショパンのいう「厳密な意味での“音楽”」という精神に則って選び抜かれた響きでした。師から見せてもらった春祭の自筆スコアのファクシミリでは各パートが色分けされており、計画的に復調が使われていることを直感させました。12音技法において音列をランダムに並べても魅力的なメロディーとなるとは限らないように(ハ長調でデタラメな曲を書こうとする人はいないでしょう)、複調も、その組み合わせをすぐれた美的内面によって慎重に選び抜かれなければなりません。中学時代にダリウス・ミヨーの作品によって複調音楽の魅力は十分知っているつもりでしたが、ストラヴィンスキーの流儀はミヨーとは大きく異なるものでした。また、複雑な混合拍子についてもバルトークで経験済みでしたが、ストラヴィンスキーはそれとも大きく異なっていました。それはリズムによるポリフォニーと言えるようなもので、複雑なポリリズムも当然のことように次々と現れました。これはシェーンベルクやバルトークにも見られない特殊なセンスと言えるでしょう。
オーケストレーションも特異でした。時代をさかのぼると、ロマン派の時代には作曲家たちは楽器が美しく響く音域を効果的に用いようとしました。当然と言えば当然のことです。しかし、春祭では冒頭から調子はずれに聴こえるようなファゴットの高音から始まり、当時としてはまだまだ特殊楽器であったであろうアルトフルートやバストランペットが次々と現れます。各楽器はその楽器のもてる音域を余すところなく使って演奏され(アルトフルートの高音などは出てきません)、当時の聴衆が聴いたことのないような音響世界を提示したのです。
ストラヴィンスキーは春祭において、その時点において為すべきことをすべてやりおえました。以後、彼は類似する作品を残していません。それは14歳のピカソが「聖体拝領」以後、同種の作品を残していないのと似ています。春祭の次に書かれたバレエ音楽はペルゴレージらの旋律を用いた“プルチネルラ”でしたが、それは編曲ではなくストラヴィンスキー作曲とされています。そこには3大バレエ時代のような過激な不協和音もリズムも存在せず、新古典主義作品と言われていますが、むしろ新しい感覚で書かれており、より前衛的に思える春祭よりも理解に時間のかかる曲でした。
ストラヴィンスキーの優れたオーケストレーションの特徴がよく表れているのは大規模な管弦楽曲だけではありません。ピアノ曲「5本の指で」を室内楽用に書き直した「15人の奏者のための8つのミニアチュア」は、管弦楽法の教科書のような作品です。私自身、楽器の扱いについては春祭よりもこの曲からのほうがより多くを学んだ気がしています。第1曲はドレミファソ(C→G)の5音だけでできた曲ですが、厳密にはハ長調でもイオニア旋法でもない独特な音楽で、複調とは異なる意味で新しい境地を感じさせます。
ピアノ曲や独奏楽器を伴う室内楽曲、協奏曲などで、各楽器の新たな奏法の開拓やピアニスティックの追及というようなことはストラヴィンスキーの目的ではなかったように思われます。そのかわり「兵士の物語」のような、雑多でありながら簡潔で、聴く者の意表を突く音楽や、新古典主義時代の次には12音技法(それも“調性的な”と本人が言う)への傾倒など、多様な様式を追及しつづけました。
ストラヴィンスキーによってインスパイアされた作曲家は数知れないことでしょう。ストラヴィンスキー作品を聴くと新しい曲のアイディアを受け取ったような気になるのです。
しかし、いま現在、私自身はストラヴィンスキーの影響からどんどん遠ざかっているような気がしています。ストラヴィンスキー自身、晩年には過去の自作品から遠ざかっていたふしがあります。皆さんがストラヴィンスキーの作品を十分に聴き込んだ時、どのように感じるのでしょうか。
野村茎一作曲工房