2012年03月30日

気まぐれ雑記帳 2012-03-30 “分かる”という手順


 若い頃に読んだ江戸時代の国学者か誰かの評伝に「幼少期より漢文を習い・・」というようなくだりがあった。おそらく当人はちんぷんかんぷんだったことだろう。
 私は高校時代から「漢文」という独立した授業があった。高校生くらいになれば漢文もよく分かるだろうという、文部科学省のありがたい配慮(むしろ逆配慮か?)によって漢文のテストには問題なく解答できるようになったが、漢文に親しむまでは至らなかった(今でもいくつかの漢詩は暗唱できるので、無理やり)。
 手元に世田谷区教育委員会が編纂した小学生用の教科書「日本語」(低学年、中学年、高学年用の3分冊)があるのだが、これが実に素晴らしい。
 和歌、俳句から漢文、日本の詩、西洋の翻訳詩、能、狂言、歌舞伎まで、相手が小学生だなんて関係ないというような内容。もちろん、やさしく語りかけてくれているが、言葉の問題では解決しないことばかりだ。
 世田谷区教育委員会の英断には敬意を表するとともに、この考え方が日本中に広がれば良いと切に願うものだ。

 さて、私が作曲をしようと思い立った中学校1年生の時、当然のことながら何をすればよいのかさっぱり分からなかった。とにかく作曲をしなければならないとだけ思い、1年ものあいだ五線紙に向かい続けた。1曲も完成しないのに、1日も休むことなく五線紙に向かい続けた熱意だけは立派だったと思う。
 2年生の時ころだったか「楽典と楽式」(属 啓成著)という本を手に入れ、それを暗記してしまうほど読み込んだ。いま、それが手許にないということは、形がなくなるほどボロボロにしてしまったということだろう。
 それを読んで何がわかったかというと、おそらく「音読すれば、このような音声が発せられる」という言葉の順序くらいのものだろう。

 なぜ、このような物言いをするかをご理解いただくために、試しに“フォルテ”を説明してみていただきたい。ふつうは「強く」と教え込まれているので、それで分かったような気がしているが、楽譜を書くにあたっては(演奏する時も同じだけれど)それでは分からない。
 フォルテを理解しているかどうかは「白地図」ならぬ、デュナーミクもアーティキュレーションもない「白楽譜」にフォルテやピアノを書きこんでみれば分かる。

 優れた指揮者の演奏する、優れた作曲家による作品を、できれば優れた案内役のもとで聴き続けたらどうだろうか。
 最初はメロディーだけを追っていることだろうが、そのうちオブリガートも聴こえてくることだろう。アーティキュレーションは比較的早い段階で聴きとるだろうが、デュナーミクとアゴーギクは聴きとろうと思うようにならなければ「聴いているつもり」で通りすぎてしまう可能性がある。さらに聴きこんでいくと、曲の大まかな構造が見えてくることだろう。そして、適切なナビゲーションがあれば詳細な時系列構造にも気づくことができるだろう。しかし、作曲家が丹精込めて打ち込んでいるのは、曲のどの部分を聴いてもその曲だと分かる統一された個性の表出だったりする。大きなコントラストを持つ対立した主題であったとしても、いわば共通するDNAとなる部分動機を与えて、それが同じ曲の一部分であることを分からせようとしていることにまで気づけば、作曲家も少し安心するかも知れない。それは、手を見ただけで「人のものである」と分かるように、優れた芸術は往々にして生命のデザインに倣っていることが少なくないのだ。
 それで、ようやく「フォルテ」が「強く」などという一言では説明しきれていないことがお分かりいただけたことと思う。
 言葉の説明の前に、子どもたちに実際の音楽に触れさせる大切さもお分かりいただけることだろう。

 ここで、世田谷区の教科書「日本語」高学年用にある漢詩をひとつ。

 子曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

 これが小学生の理解の範疇にあるとは思えない。しかし、早いうちに「学に志す」というフレーズを心に刻み込んでおかなければ「学に志す」という発想は生まれないだろう。同様に、四十、五十、六十の時にそれぞれの心境を理解できないことだろう。強烈なのは「心の欲する所に従えども、矩を踰(こ)えず」の一文。「思い通りに振舞っても道から外れることがない」というような意味だけれど、言葉では説明しきれない凄さがある。

 最後にもうひとつのエピソードを。
 私は中学生の時に読んだブルーバックスの「マックスウェルの悪魔」でエントロピーという概念を知り、以後、物理学に興味を持つようになった。
 実は、分からないことのほうが多かったのだが、それでも手当たり次第物理学の書物を読み漁った。そうこうしているうちに相対論がもっとも興味深く思われ、自動的に宇宙論が私のキーワードになった。
 2003年、ダークマターと斥力を持つ謎のエネルギー(ダークエネルギー)が宇宙の9割以上を占め、今まで宇宙の大部分を構成していると考えられてきたバリオンが4%しかないということが明らかになった時、人並みに驚くことができた(もちろん、驚いただけに過ぎない)。
 現代物理学に全く触れることなく過ごしてきた人が、今からチャンドラセカール限界だの、ボルツマン定数だの、Ia型超新星爆発だの、宇宙項の再導入だの、インフレーション理論(経済学ではなく、ビッグバン理論の一部としての)などをただの言葉から実感としての“概念”として捉えるのは大変なことだろう。
 断っておくけれど、私は物理学の素人であって、単なるファンに過ぎない。

 孔子の「論語」には次のような言葉もあると世田谷区の教科書は示している。

 子曰わく、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむものに如かず。

 子どもたちには分かろうと分かるまいと、優れたものを与えるべきだ。いや、子どもだけではない。全ての人がそうあるべきだ。
 


※4月から音楽コラムを下記URLに移転します。

http://tomlin.hatenablog.jp/
野村茎一作曲工房音楽コラム

 野村茎一作曲工房
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2012年01月12日

気まぐれ雑記帳 2012-01-12 地震雲はあるのか



 地震雲について知りたくて検索などでたどり着いた方には申し訳ありませんが、ここで扱うのは、その情報を受け止める人間側の問題です。地震雲についての新たな知見はありませんので、前もってご了承ください。

 「地震雲」という言葉を誰もが1度は聞いたことがあることでしょう。この概念の提唱者は鍵田忠三郎(かきた・ちゅうざぶろう:1922年7月25日 - 1994年10月26日)という奈良市町、および衆議院議員1期を務められた政治家の方です。1980年に「これが地震雲だ-雲はウソをつかない」という本を出版し、人々に知られるきっかけとなりました。
 その後、賛同者が現れ、地震雲のメカニズムについていくつかの仮説も立てられるようになりました。
 そのひとつを紹介すると、地震が起こる前には岩盤が押されて圧縮され、石英などが電荷を生じます。これは圧電効果(ピエゾ電荷)といって、ガスライターやガスコンロなどを点火する時のカチッという音と火花は、ロシェル塩を圧縮した時に生じる電荷を利用したものです。岩盤の圧縮は電磁波を生じ、その電磁波が気体分子をイオンに変え、そのイオンが空気中の水蒸気を凝結させて雲が生じるというものです。
 ここで書いておきますが、私は地震雲が存在するか・しないかと訊かれれば、存在する可能性のほうが高いと答えます。世界の様々な現象は少なからず影響を与え合っているし、論理学的に考えてもないことを証明するのは不可能に近いからです。しかし、「これが地震雲だ」と断言するのはまだ時期尚早であるという印象です。
 今の私に興味があるのは、地震雲の形態が明らかになって、それがどのように人々に伝わり、理解されていくのかということです。天動説も相対論も人々に浸透するまで紆余曲折がありました。しかし、天動説も相対論も実は人々に理解されないまま、浸透してしまった感があります。
 さて、民放テレビの夕方の天気予報番組で男性人気お天気キャスターが「地震雲はありません」と断言していました。その根拠として「気象学者は誰もあると言っていません」ということを挙げていました。これは厳密に言うと「気象学者で地震雲が存在すると考えている人はいない」ということであって、「地震雲の存在の有無」という事実については言及していないことになります(彼の中では、ないことになっていることでしょう)。
 気象学者の方で、地震雲について研究しておられる方はどのくらいいらっしゃるのでしょうか。雲を研究する視点が異なれば、観察上重要なポイントが変わってくるはずです。
 私は作曲家ですから音楽を例にお話しましょう。
 私はソナタ形式の認識についてしばしば言及します。作曲家、たとえばモーツァルトがソナタ形式について詳細に述べた事実を寡聞にして知りません。ソナタ形式について述べるのは作曲者以外のことが多いと思います(一部の作曲家は過去の大作曲家の作品をアナリーゼして、公開しています)。
 一般の解説では古典ソナタ形式について、その多くが「主題提示部(第1主題:主調)(第2主題:属調)(コデッタ)」「展開部(調性に決まりはない)」「再現部(第1主題:主調)(第2主題:主調)(コーダ)」という時系列構造で記述しています。
 これは間違ってはいません。しかし、これは一般に日本では朝食・昼食・夕食を食べます、と言っているようなもので、日本人が何を食べているかとい実態には全く触れていないのと同じです。
 ここでは詳しく書きませんが、モーツァルトの時代から優れた作曲家たちはソナタ形式で重要なことは、もっと別のところにあると考えていました(それについて過去の音楽コラムに書きましたが、どの記事であったかは今すぐわかりません)。
 かなり高名な音楽学者の方のアナリーゼでも聴く側の視点から分析が行われており、発想する側がなにをよりどころにしているか(何を重要であると考えているか)については、ほとんど触れられていません。
 私の作曲の師は常日頃「書物でわかるのは著者の限界だ。だから楽譜から学びなさい」と言っていました。これは厳しい言葉です。「作曲家と同じ視点に立ちなさい」ということと同義だからです。

 私は地震雲について気象学者に問うのはお門違いであると考えます。
 気象学者の中にも地震雲の検証をしようという人がいるかも知れません。そういう人は期待できます。気象学は固体地球物理学ではありませんから、専門外のことを学び直す必要があるかも知れません。それを実行しようという人です。
 逆に地震学者などの個体地球物理学の人も、地震雲を検証しようと思い立ったらやはり気象学や化学を学ぶ必要が出てくるかも知れません。新しい分野に挑戦するには過去の一般論から一度離れる必要があることでしょう。
 そして、最後は観察です。これはレオナルドが述べているように「事実から学べ」が誤らないための基本だからです。「事実は間違えない」のです。事実を見間違えなければ商売は繁盛するし、発明したものも期待どおりに動きます。物事は事実に従うからです。
 観察するということは、その背景の理論を見ることです。
 太陽が昇って、また沈むのを見ると地球のまわりを回っているように見えます。しかし、宇宙から地球を見ると、地球が自転しているためにそう見えることが分かります。また、地球が太陽のまわりを公転しているために四季の星空が変化することも分かります。それらを全て矛盾なく説明できるのが正しい理論ということになり、天動説が誤りであることが分かります。しかし昔の人々は宇宙に視点を移すことができませんでした。 ケプラーは惑星の運行を観察して惑星が日周運動とは逆に動くように見える逆行現象に着目しました。その逆行現象は惑星が惑星を追い越すことによっておこることに気づいたのも、両者がどちらも太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を公転しているという理論があったからこそです。理論が、厳密な観察によって得られた「信じるに足る多くの事実を矛盾なく説明」できれば、より強固なものになります。その積み重ねによって人類は徐々に自然や宇宙の真の姿に近づいてきました。

 地震雲の研究者がどれだけ現れるかは分かりません。地震研究にとって地震雲が最も重要であると考える人だけが、その研究者となるからです。どんな分野でも一朝一夕に答えが出るものではないでしょう。地震研究にはさまざまな手法があり、研究者はそれぞれ得意とする分野も方法論も異なるからです。
 ですから、地震雲は誰かによってその理論が解明されるかも知れないし、このまま疑似科学という認識のまま終わってしまう可能性もあるのです。誰かがその問題に全身全霊を傾けなければ、解明・証明できないというのは、過去の全ての科学上の業績と同じです。

 そして、これは音楽でも全く同じことなのです。


 野村茎一作曲工房

 
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2011年09月29日

気まぐれ雑記帳 2011-09-29 育ちの良さ


 私には、常日頃カミさんから注意を受け続けていることがある。
 
「ドアは静かに閉めてね」

 これがなかなか治らない。
 言い訳めいたことを書かせてもらうならば、私が幼稚園児であったころ、ドアでも引き戸でもきちんと閉めずにいると祖父から「のろまの三寸、大馬鹿の開けっぱなし」と注意を受けたことが尾を曳いているのかも知れない。
 カミさんは「人の育ちの良さは名家に生まれ育ったということではなく、動作の静かさにある」と主張する。
 そのとおりだ。考えれば考えるほど、そのとおりだ。反論の余地はない。
 動作が静かであるということは、それが動作するのに必要な最小の力を推し測って自分自身をコントロールできるということだ。そういう行動が身につけば物が壊れにくいだろうから、美しい暮らしになることだろう。
 待ち合わせ場所に早く到着してしまった時など、行き交う人々の歩みをぼんやりと眺めたりすることがあるが、静かに歩く人には目が行く。静かに歩くということが遅く歩くことを意味するわけではない。無駄な動作がないと言ったほうが正確だろう。そういう人は、動作も静かなのかも知れない。
 
 そういう意味では、音楽の演奏でも育ちの良さがあると言えるだろう。
 たとえば、内田光子さんのピアノはとても静かだ。音量のことではない。彼女のフォルテがもの足りないと思ったことなどない。
 しかし、どんなに強く弾いても、どんなに速く弾いても静かに思える。静謐な音楽だ。
 彼女のピアノを育ちが良いと喩えてもよいだろう。
(ただし、CDではそのクオリアが伝わりにくいと思う。おそらく不可能だろう)

 作曲ではどうだろう。バッハの3声シンフォニア第9番からフーガの技法に至る一連の対位法作品をはじめとして、パッヘルベルの「シャコンヌヘ短調」やマルタンの「小協奏交響曲」、あるいはヴォーン=ウィリアムズの「田園交響曲」などは音量にかかわらず「静謐な」音楽に聴こえる。
 ひとこと断っておかなければならないが、静謐な音楽でなければ名曲ではないなどと主張する気はさらさらない。喧騒の名曲も数多くある。レスピーギの「ローマの祭」などは、よくぞやってくれたという曲だし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、第2部の「祖先の儀式」のようなピアニッシモのところが最も心がざわついたりする。

 人だって、育ちの良さが一番重要というわけではないだろう。本当のことが分かり、事実を事実として受け止めて行動できる(つまり、為すべきことを為せる)人こそが偉大であって、動作の静かさだけで人生をカバーできるわけではない。世の中には色々な人がいて然るべきだ。
 しかし、いま一度「静かさ」について思いを巡らせてもよいのではないか。

 私もドアを、その質量に合った力で動かし、閉まる時に速度がゼロになるように心がけたいと思う。
 静謐な曲も書いてみたいと思う。静謐な演奏だってしてみたい。

 そうすれば“がさつ”な私でも少しは育ちがよく見えるようになるかも知れない。
 

 野村茎一作曲工房
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2011年09月17日

気まぐれ雑記帳 2011-09-17 小さな判断

 
 ここ一番という時の重要な判断を正しく下すことはなかなか難しい。
 そんな時でも常に正しい判断が下せる人こそ、人々の代表としての政治家であってほしいものだ。
 正しい判断とは何か、という問題に答えるのは易しいことではないが、次のように答えることはできるだろう。

 あなたは朝起きる。何時に起きるべきだろうか。他人は参考にならない。あなたと全く同じ生活をしている人はいないからだ。仮に朝7時に起きれば自分が思い描いたいたことをやるのに十分な時間が得られるとする。ならば7時に起きるべきだ。しかし、実行してみないと正しいかどうか分からない。あなたは、それを早速実行できたとしよう。実際には7時では10分ほど足りないことが分かったとする。あなたのライフスタイルでは、起床時刻は6時50分が正しかったことになる。
 ここで、あなたは小さいことではあるが、正しい判断を学んだことになる。
 朝食は食べたいが用意するのが面倒だ。そんな時、あなたは次のように考えて判断を下すとよい。面倒であるかどうかは考慮に入れずに、あなたの人生には朝食があったほうがよいかどうか。
 あったほうがよいと思ったなら朝食は取るべきだ。ここから先はあなたのライフスタイルに依存した朝食になる。面倒ならばシリアルと牛乳、バナナ1本、食後に缶、あるいは紙パックなどのコーヒーというような調理のいらない朝食にすればよい。もう少し朝食を楽しみたいのならば、ご飯だけ炊いておいて、スーパーやコンビニで手に入るようになったチルドのレディミールと味噌汁で「焼き魚と焼き海苔、漬物と味噌汁」など何種類もの朝食が10分ほどで食べられる。もちろん、自分で全て調理できる人はそれが一番良いだろう。出勤するのなら、道すがら朝食の外食でもよい。とにかく現代は選択肢が多くなったのだから、あなたに合う朝食スタイルが見つかるはずだ。
 判断したら実行する。実行すれば、その判断が正しかったかどうか分かる。間違っていたらすぐに修正する。それで、正しい判断を知ることができる。
 人には多かれ少なかれ実現したい将来があることだろう。今やっていること(たとえばゴロ寝や、見たいわけでもないのにテレビ画面を眺めているなど)が将来につながるかどうか判断すれば、何かが変わるだろう。
 自分が何を為すべきなのか分からないということもあるだろう。原因のひとつには学校教育が国民全員に「勉強しなさい」と言ってきたことがあげられる(決して間違ってはいない。全ては受け手の問題)。ここでいう“勉強”には枕詞として「学習指導要領に沿った教材で」が付く。だから「学習指導要領大明神」に権威を感じているひとは、お参りしないと後ろめたさを感じたりする。また、この大明神は非常に役に立つものの、この大明神から自分の将来を見出すことは稀有であろう。
 私達に必要なのは「読み・書き・計算と読解力(仕組みがわかること)」である。
 読書を習慣として、日記やブログを書き続け、さまざまなパズルを解くような人が大明神に出会うと、それほど苦もなく大明神をクリアできるかもしれない。
 そのようなレディネスなくして、いわゆる“勉強”をさせたところで成績は簡単には上がらないこともあるはずだ。
 少々脱線した。言いたかったのは、いわゆる“勉強”するということは自らの判断ではないということだ。
 自分が知るべきことがなにかに気づけば自分の判断で学ぶことができる。
 ここで元に戻ろう。
 じぶんが何をすればよいのかが分からない人は、何もしていない人だ。息を吸ったり吐いたりして、あとは他人(世の中の無言・有言の圧力)の指示で勉強してきた人だろう。
 さあ、まず小さな判断をしようではないか。朝、ベッドの中で判断留保のまま過ごすか、それとも人生にとって起きるほうが正しいと考えて起き上がるかだ。これはちょっとくらい勉強するよりも、あなたを変える。先ほど「何もしていない人だ」と書いたが、これであなたは「何かをした人」に変わる。これが続けば、あなたは自分がどのような未来を迎えたいのかが見えてくることだろう。
 小さな正しい判断の積み重ねは、大きな決断の時に正しい判断を下すための力になる。人の評価は、どのように判断し行動したかで決まる。
 
 「尊敬できる人」とは「為すべきことを為す人」である。「為すべきこと」は人によって異なるが「為すべきことを為している人」に私たちは苛立ったりするだろうか。
 自分自身が為すべきことを為していたら、自分自身を尊敬できることだろう。その状態を「誇りを持つ」とということだと言っても間違いではないだろう。
 自分がなすべきことを為せるようになれば、思い描く未来は実現することだろう。それも、全て小さな判断と実行の積み重ねがもたらす。


 野村茎一作曲工房
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2009年11月21日

気まぐれ雑記 2009-11-21 スピーチはなぜつまらないのか

 
 夕食後にカミさんが言った。

「小学校から高校までの12年間の間、校長先生の話をずっと聞いてきたけど何一つ覚えてないわ」

 その後には彼女の分析が続いたが、その頃には、もう私の頭の中ではその言葉に励起された思考エンジンがフル回転して彼女の話をトレースすることができなくなっていた。
 カミさんの名誉のために一言添えておくと、私とカミさんは高校時代を2年間同じ学校で過ごしているのだが、それはもう退屈なくらい真面目な女子生徒だった。学校長の話を聞き逃すことなど考えられないくらいの性格だ。
 195X年(だったか?)の全米SFコンベンション(だったか?)で、シオドア・スタージョン(だったか?)が、「SFの9割はクズであります」という言葉で始まる有名なスピーチを行なった。おそらく自虐ユーモアとして、大拍手で迎えられたことだろう。しかし、そのうち、この言葉の持つ真理と重みに気づいて感動に変わっていったに違いない。これはSFだけに言えることではなく、全ての場合に当てはまると考えられている法則のようなもので、実際そうであろうと思う。
 なぜ、このスピーチが有名になったのかと考えるに、それは聴衆が知りたかったことについて触れたこと、そして、それを印象づけるための教養あるユーモアに満ちていたからだろう。
 結婚式のスピーチも予定調和的な内容ばかりで、聴衆が真に欲している内容(もちろん、それはゴシップではない)が含まれることは稀である。少しのユーモアが含まれていれば、面白かったという記憶だけが残ることはあるだろうが、それだけである。
 アメリカの歴代大統領の中には聴衆を熱狂させたり涙させたりする名演説を行なった人物も少なくない。言葉はただの音波ではない。そのように考え、発言した人物の内面そのものであったりする。凡人は、自分の発想を言葉にすらできないが、すぐれた人物はそれをやり遂げる。つまり、真の内面に触れて、その崇高さに感動することはあり得るということだ。だから「人の心を動かすスピーチ集」などという本を買ってきて、それを代読しても「うまい」と思われて終わってしまう可能性が高い。
 私たちは常に真実を求めている。周囲に事実は溢れ返っているのに、私たちはそこから真実を読み取ることが難しい。だから誰もが気の利いた話をする必要はない。どんな人でも時折見つける真実について話せばよいだけのことだ。
 石油より水のほうがずっと貴重で価値があるのに、周囲の人々の思い込みやニュースを見聞きしているうちに目が曇ってしまって石油の方が高くて当たり前と思うようになってしまってはいないか。会社の人的ネットワークよりも居住地域のコミュニティのほうがずっと頼りになることも忘れてしまってはいないか。そういう人たちのスピーチに真実味がないのはある程度当然と言えるだろう。
 もし感動的なスピーチをしたければ(そして、それはスピーチにとどまらないのだが)、私たちはまず生き方をあらためなければならない。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月28日

気まぐれ雑記帳 2009-10-28 天才は事実に基づいて考える

 
 過去にも、このコラムで“天才の条件”や“天才の発想”について書いてきたが、1対1の対面形式によるレッスンでは伝わりやすいことでも、文章では伝わりにくいことが少なくない。特に“事実”の重要性とそれを捉える難しさについては、クオリアのような性質があるようなので、今回は別の角度から述べる。
 天才が教育では育たないと考えられることは以前に述べた。ところが天才は100パーセント生まれつきというわけでもない。天才を生まれてすぐに薄暗い低刺激の部屋に閉じこめておいたら能力は開花しないことだろう。ということは、天才も育つのである。
 天才を育てるのは自然(“ありのまま”というような意味)であり、彼らは野(人間社会と自然界など全て)に放てばよい。彼らの周囲の事実が天才を育てる。
 天才は事実を誤解したり勘違いしたりしない。もともと勘違いしないのではない。天才は事実を捉える難しさを知っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは徹底的に観察しないと本当のことは分からないと考え、人間界で最も事実を知り得るのは画家であると明言している。
 人々はしばしば「月は地球のまわりを回っている」という言い方をするが、ヨハネス・ケプラーはそのようには捉えていない。彼は地球と月の重力が釣り合う点をお互いが公転していると見抜いた。その重心点は地球の表面よりも深いところにあるので分かりにくいが、月の公転とともに地球もグルグル揺れている。ハンマー投げの選手を考えれば分かりやすいだろう。
 ニュートンが発見したのは「万有引力の法則」の法則だが、それがいつの間にか「物が落下するのは地球の重力のせい」になっていたりする。無視できるほど小さいと言えばそれまでだが、地球と物の互いが引き合う結果が落下である。
 誰かの言葉は、その本人の認識を表しているだけであり、事実であるかどうかは分からない。もちろん、このコラムも同様である。このように書くと、早速「他人の言葉は信用しないぞ」と早とちりする人もいるかも知れない。世の中の全ての事実を自分だけで確認するには人生は短すぎるばかりか、高い能力を要求される。だからレオナルドの「事実から学べ」という言葉には、事実から真実を学び取ることのできる人を見いだすことも考慮されていると考えてよいだろう。
 ベートーヴェンの能力の高さは、すでに少年時代にモーツァルトが何を重要であると考えていたかを捉えていたことである。モーツァルトが成し遂げたのは人の美的感覚を音で具体化したことだが、そのどこが美の具体化であるのかを最初に発見したのがベートーヴェンであるということだ。その後に続く天才作曲家たちも、ベートーヴェンが何に気づいていたのかを突き止めた。それが人間心理の事実に基づいていることを理解し、その“事実”の把握によって創作活動を行なった。だから、天才は他人の言葉からも事実を見いだす。そして誰が天才であるのかを見分ける。まさに「天才は天才を知る」の言葉のとおりだ。
 では、最初に戻ろう。
 天才たちの思考は全て事実に基づいている。事実に基づく構築だけが実現するのは言うまでもない。事実を捉えていない人の考えはただの戯れ言(ざれごと)に過ぎない。
 作曲の勉強と言うと、まずは和声学と対位法だが、それ自体は間違っていない。しかし、“和声学”も“対位法”も本質を理解しなければただの言葉、あるいは誰かが書いたテキストに過ぎない。ある人が「和声学も対位法も満点を取りました」と言ったとする。それだけで、その人は和声学や対位法の本質を理解したと言えるだろうか。誰かが作った課題に答えられただけではないのか。真の答えはそんなところにはない。もしあったとするならば、世界は作曲家で埋め尽くされてしまうことだろう。
 天才というのは、“事実”に対して非常に謙虚であるのかも知れない。凡人は名前を知っていれば、それについてひと通り知っているような気がしてしまう。
 「ひまわりっていう花知ってる?」
 この問いかけに対して凡人は「知っている」と答えるだろう。しかし、天才は「いや、ほとんど何も知らない」と(心の中で)答えるかも知れない。
 「天才の思考は事実に基づいているからこそ実現する」(もちろん、それだけではないが)ということをいま一度、考えてごらんになってはいかがか。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月07日

気まぐれ雑記帳 2009-10-06 やる気の正体


 何かをやり遂げようとする人は“意志が強い”とか“やる気がある”と思われがちだが、それは音楽を「音による時間芸術」と定義するようなもので、分かったような気がするものの実はその実像を言い表しきれてはいない。
 近所の宝くじ売り場を通りかかった時、今まさに次に売られるくじが1等賞の当たり券であることが判ったら、ほとんどの人が買おうと思うのではないか。この「買う気」というのはどうすればよいかが分かっている時に起こる動機である。もちろん、結果が分かっていると言い換えることもできる。
 どうすればよいのか分からない時には“やる気”は起こらない。また、結果がわかっていたとしても、それに価値や魅力を感じなければ“やる気”は起こらない。

 どうすればよいのかということが分かるためには「事実の把握」が第一歩であり、それはとりもなおさず“仕組み”を理解することである。ここで当コラムのアーカイヴを思い出していただきたい。「頭が良い」とか「すぐれている」ということは「本当のことが分かること」であり、事実が把握できることである。最初にそれを具体的に言葉にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチであった。彼が万能の天才のように見えたのは(見えただけではなく実態も伴っているが)、事実の把握を何よりも重要であると考え、そのとおりにしたからである。
 ちょうど、今がノーベル賞受賞者の発表時期なのだが、受賞者たちは誰もが“事実を明らかにした”功績によってその栄誉を受けているのではないか。
 養老孟司さんの提唱した“バカの壁”(言葉は悪いが言い得て妙なのでこのまま使う)は、事実が捉えられなくなる限界を指している。バカの壁が分かりやすいのが数学だろう。虚数でも微積分でも、あるいはテンソルのような概念でもかまわないが、そこから先は、いくら説明を聞いても頭に入ってこないというところがあることだろう(数学者だって、もっとずっと高いところまで行けば壁があるに違いない)。それが、その人の“バカの壁”であって、学校教育の場では、それを乗り越えないと落ちこぼれてしまうことがある。しかし、それを乗り越えなければいけないかというとそんなことはない。
 かつて教育課程審議会委員(後に文化庁長官)であった作家の三浦朱門氏は「二次方程式が解けなくて人生に困ったことはなかった」と主張、実際に中学数学のカリキュラムから二次方程式の解の公式は必修事項から外された。ということは、審議会にいたであろう数学者たちの誰もが「中学生には二次方程式の解の解法を知ることが必要である」ということをきちんと説明できなかったということになる。そもそも、そんなことは誰にも説明できない。だからカリキュラムとは盤石の根拠の上に成り立っているものではないし、その必要もない。
 私は三浦朱門氏に賛成しているのでも反対しているのでもない。学校教育におけるカリキュラムでさえ、誰かの思い込みで構成されているだけだと言いたいのだ。そこに権威が与えられると誰もが無批判に従うようになる。以前のことになるが、わが家の子どもたちが中学生くらいの時に、さかんに学習教材を売り込む営業電話がかかってきた。そこでの売り文句は、各社異口同音に「最新の学習指導要領に準拠しております」だった。学習指導要領の権威に頼るのは、学習指導要領について自分なりの理解と見解がない場合だろう。もし、自分の言葉でその価値を語ることができるのならば、それは他人を説得するに足るものとなることだろう。
 その理解が価値があると思えば(それを理解することの意味が分かっている。つまりやる気の条件)、バカの壁を克服すればよいし、そうでなければ“縁がなかった”と思って、自分が大事だと思うことを学べばよい。そもそも大多数の人が学習指導要領に頼っているのだから、学習指導要領にない分野を極めればスペシャリストになれる可能性が高いわけだ。
 学習塾は苦手の克服を目標に掲げることだろう。受験対策としては正解である。しかし、苦手の克服ほどやる気の出ないものもないだろう。音楽に限らず、芽を出そうと思ったら「得意なことの限りない追究」こそが本道である。本当のことが少しでも分かれば、その価値も理解して確信できる。その確信が“やる気”の原動力である。やる気が欲しければ、きっかけが必要ではあるが、何かの本当の姿を知ることが必要である。もちろん逆もある。本当の姿を知ったら壁の高さに驚いてやる気が失せる場合だ。いずれにせよ、私たちには事実を知ることが必要だ。
 自分に思い込ませようとしても駄目だ。事実は決して曲げることができない。本当のことだけが実現する。
 最後にひとつ付け加えておくと、事実は一つだが真実は一つとは限らない。たとえば紹興酒を飲んだ一人が「うまい」と感じ、別の一人は「まずい」と感じた時、紹興酒の味という事実はひとつだが、それぞれの感じた「うまさ」「まずさ」は2つの真実である。ただし、この二人が紹興酒について追究していくと、そのうち感じ方が変わって同じ結論に達する可能性もある。実は芸術の本質もそこにあるのだが、それは別の機会に。
 
 野村茎一作曲工房
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2009年10月06日

気まぐれ雑記帳 2009-10-05 タイプ分けの勘違い


 「絶対音感を持たない人は相対音感である」と思いがちだが、実際にはそうではない。
 絶対音感にもいろいろなレベルがあるので、ここでは固定ドのピッチ(音高)が変わらない人は誰でも絶対音感とする。相対音感とは移動ドのピッチが与えられれば残り11音が分かる人としよう。それでは厳しすぎるというなら音階上の幹音の残り6音が分かるだけでもよい。そう考えると絶対音感も相対音感も持たない人が多いのではないか。また、絶対音感と相対音感の両方を持っている人と、どちらか片方という人もいることだろう。つまり、絶対音感と相対音感は対立する概念ではないということだろう。
 それと同じように「理系 / 文系」という区別も考え直さなければならないのではないか。「理系でなければ文系」という論理は短絡的すぎるだろう。理詰め(屁理屈ではない)で相手に有無を言わせぬ力があれば理系であると言ってよい。それに対して情緒に訴えて言葉とイメージで相手を味方にすることができれば文系と言えるだろう。どちらかと言えば理系、あるいはどちらかと言えば文系という言い方も成り立つとは思うが、成り立つのは言い方だけで実態は伴わない可能性もある。つまり、訓練を受けてみたら文系だと思っていた人が実は理系だったとか、両方の力を合わせ持っているということもあるのではないか、ということだ。稀に、生まれつきそれらの力を持っている場合もあるが、多くの人は訓練がなければどちらの力もない。あるいは絶対音感や言語能力のように一定の年齢の時に訓練を受けることによって生じる力であるかも知れないが、それについて私は何の情報も持っていない。
 いずれにせよ、そもそもタイプ分けは意味がない。ステロタイプ的なタイプ分けなどしている暇があったら、自らをトレーニングしてみたらどうだろう。何も途方もないような高みを目指すということではない(もちろん、目指したい人は目指すべきだ)。そうしているうちに、自分の本当の姿が明らかになってくるに違いない。その姿は、それ以前に想像していた“タイプ”に当てはまるものだろうか。
 作曲家は文系か理系かと問われたら、それに答えることは易しくない。
 直接人々の心に訴えるという点では文系だが、音楽を表現するスコア(総譜)を書く作業は極めて論理的なものだ。徹底的に理詰めである。いわゆる“勉強”が嫌いだから音楽をやる、というような考え方は音楽を学び始めたらたちまち吹っ飛ぶ。少なからぬ人がエンハーモニック(異名同音)の段階で立ち往生してしまうかも知れない。嬰ハ(Cis)と変ニ(Des)は同じ音高(ピアノで言えば同じ鍵盤)であるが、楽譜に表記する時にはどちらかの音に決めなければならない。その判断は論理的に為されなければならないが、派生音(音階以外の音)であった時には裏付けを与えるのが難しい時がある。
 しかし、よくよく考えてみれば論理でなんとかなるのならば、それはあまり難しくないとも言える。本当に難しいのは理詰めではどうにもならない“インスピレーション”を得ることかも知れない。理詰めの時にも“閃(ひらめ)き”が必要であることが多く、それはインスピレーションに近いものだが、理詰めの時の“閃き”は正解であることが検証できるので、ここで言う“インスピレーション”とは少し異なる。音楽上のインスピレーションは“感じる”ことはできるが、万人を納得させる検証が不可能であることが多い。それは、バッハのインスピレーションが2世紀を経てようやく人々に理解されたことを考えれば分かるだろう。
 「天才は教育では育たない」という言葉も、ある意味において真理だろう。しかし、“自然”は天才を育む。天才は人の言葉によって育つのではなく、事実を読み解くことによって自らを鍛えているのではないか。レオナルド・ダ・ヴィンチが文系であったのか理系であったのか考えるのは意味があるだろうか。そんなことよりも彼がたどりついた境地について思いを巡らすほうがずっと役にたつことだろう。たとえて言うなら、地面に張りついて西に行くか東に行くかという考えしかない時に、空を見上げることを思いつくようなことである。

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2009年08月22日

気まぐれ雑記帳 2009-08-17 学校教育私見 その2

 前回は学校が果たすべき役割、および学校教育に対する社会の認識がどうあるべきかについての私見を述べた。
 そして、その上に立脚していよいよ本題に入る。
 ずっと昔のことになるが、ある人が「漢文が得意だった」と言った。それを聞いて気づいたことが、次のようなことである。
 その人が「漢文が得意であった」ことの意味は、他教科に比べて「漢文」のテストで得点することに長けていたということに他ならない。なぜなら彼は漢詩ひとつ作ったことはないばかりか、教科書に出てきたもの以外の漢詩をひとつも知らなかったからである。もちろん、授業が終わって漢詩とも縁が切れた。つまり、得意出会ったという割には、好きであったわけでもないということだ。
 そもそも、学校教育における成績というものは、学力考査の出題者の意識の中にある設問に対して答えた結果である。それも問題には出題しやすい(採点しやすい)ものとしにくいものがあり、どうしても出題しやすい問題に偏って学力が測られる。それで本来の学力が分かるとは限らない。それでもなんとかなるのは順位づけをすれば済む入試のような場面だけだろう。学校では学力を測りたいのであり、生徒達に順位をつけたいわけではないのは言うまでもない。
 非常にレベルの高い話をしてしまうと、優れた問題というのは難しい問題を指すのではない。また、難しい問題を解いた生徒・学生を優秀であると判断する根拠は、説明しようとすると意外に難しいはずだ。ここまで読んで、学力を測るための設問が非常に難しいことに、すでに気づかれた方もいらっしゃることだろう。
 息子の高校時代の試験問題を見せてもらったことがあるが、どの教科も概ね、授業を真面目に聞いて、言われたことを覚えたかどうかを確認するための問題が大部分を占めていた。もう、覚えてはいないが私の時もきっとそうであったのだろうと思う。
 習っていないことを出題したら問題になるだろうが、本来の考査は“習っていない問題”によって行われてもよいはずだ。
 海外留学した高校生が、歴史のテストは教科書も資料集も持ち込み可(おそらくカンニングさえ可)であることに驚いたと書き記していたのを読んだことがある。設問は歴史観を問うものであり、歴史学者になったつもりにならなければ答えられないようなものであり、勉強するということがどういうことであるのかその時悟ったというような内容だった。
 音楽で言うならば、難曲を演奏することもひとつの能力であるけれども、真に重要な力は音楽の理解である。私のところにはピアノ指導者の方々がレッスンにお見えになられている。音大で学んだにも関わらず、なぜ私のような無名の作曲家の門を叩く必要があるのか。それは、音大でさえ、小学校から連綿と連なる学校教育の範疇から外れておらず、ピアノが弾ければピアノ演奏の能力があると判断されてしまうことに気づいた人たちがいるからである。
 多くの企業は、おそらく大学における授業内容をあまり重視していないだろう。どの大学を卒業したかということではなく、どの大学に入学できたかということのほうが重要ななずだ。つまり、大学はどの人の学習能力を測るための装置といっても過言ではない。大学を卒業しても即戦力ではない。仕事は現場で覚えるのが現状だ。ただ、優秀な学生のほうがよく覚えるからそういう学生が欲しいだけだ。なぜ、そうなるかは、もちろん大学において必要な教育がなされていないからである。
 本当は、企業はマニュアルいらずで自分で判断できる学生が欲しい。いちいち細かい指示を与えなくとも「会社の業績を上げろ」と命じれば、本当にそのような結果を出す社員が欲しい。企業自身は気づいていないかも知れないが、その社員に会っただけで、その会社への信頼が増すような社員が欲しいはずだ。効果はどうあれ、そのために特殊な入社試験を行なう企業も現れてきている。
 すでに社会人の方であるならば、社会に出た時に学校教育で役立ったのはいわゆる「読み・書き・ソロバン」だけであったことを実感なさった方も少なくないことだろう。
 前述したように、学校教育における評価によって“得意である”と思い込んでいたことが勘違いであったことに気づいたり、逆に“苦手である”と感じていたことが、実はちょっとした視点の獲得によって見通しがよくなることに気づいたりしたのではないか。
 人生において最も力と希望のある若い時期に、教育の真実から遠く離れた“迷信”のような環境に若者たちを置いておくことが日本のためになるとは思えない。
 教育は国ごとに行なうものであるから、他国とかかわるあらゆる場面において差が出る。ビジネスシーンでも外交でも、人道援助でもどこでもだ。
 かつて日本のビジネスは“エコノミックアニマル”という言葉を生んだ。日本のビジネスマンたちが尊敬されていたとは思えない言葉である。外交もそうだ。外交は意見が正しいかどうかで決まるのではなく、発言者に対する尊敬の念の占める割合が大きい。これらの根源が教育にもあることは言を待たない。
 教育の最後の目標は、本当のことが分かる力を育てることである。そのためには、義務教育においては真の基礎教育を、その後の教育ではアフォーダンスから学ぶ力を育てることが最重要課題である。そうすればビジネス、政治、法律、教育、医療、芸術、スポーツなど、あらゆる分野に優れた人材が輩出するようになることだろう。


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2009年08月21日

気まぐれ雑記帳 2009-08-20 きちんと暮らすということ

 年長の知人が、定年退職後、何もせずに日々手持ちぶさたに暮らしているということを風の便りに聞いた。
 そんなことを話すとカミさんが言った。

「今も昔も忙しかったけど、今はひとつのことで忙しいの。昔はね、いろんなことで忙しかったのよ」

 意味がよく分からなかったのでポカンとしていると、彼女は続けた。

「毎日、薪を割って、井戸水を汲み上げないとお風呂にも入れなかったの。料理も洗濯も自分の手でやらなくちゃきちんと生きていけなかったの。だから、昔はきちんと暮らしていれば趣味なんかなくても“何もしない”なんて言われなかったのよ」

 ようやく呑み込めた。まさにカミさんの言うとおりだ。会社を辞めたらすることがないというのも当然と言えば当然だ。組織というのは分業があって初めて成立する。分業の一部を担う人は、組織を離れたら力を発揮できなくなる。
 高島野十郎という画家は、誰もが電気や水道、ガスなどのインフラを当たり前のように享受する時代に生きながら、それらを拒み、ひとり自給自足の生活を選択して創作活動を続けた。“きちんと暮らし”たかったのだ、と思った。
 晴耕雨読の“悠々自適の暮らし”というもの、まさに同じようなきちんとした暮らしだろう。決して何もしないわけではない。
 私自身は何の組織にも所属していないし一人で完結する仕事をしているのだから、きちんと暮らせるはずだ。おまけに家事全般の技術もカミさんから叩き込まれているではないか。
 私の中に、ちょっとしたパラダイムシフトがもたらされた夜の出来事だった。


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2009年08月15日

気まぐれ雑記帳 2009-08-15 学校教育私見 その1


 ※これは2009年6月18日に書いた未発表コラムを一部加筆修正したものです。

 学校教育には様々な問題があるけれども、問題を突き詰めていけば、解決しなければならないことは少ししかない。

1.真の基礎学力を育てる。
2.家庭教育には口出ししない。
3.リスクマネージメント教育を行なう

 この3つだけである。先に、2番目に挙げた「家庭教育に口出ししない」から説明したほうが分かりやすい。まず、当たり前のことだが虐待やネグレクトは教育ではなく犯罪なので、これには徹底的に関わって未然に防ぐ。もっとも発見しやすいのは隣人と学校だからである。しかし(給食の是非は別として)ベジタリアンの家庭に育ったり、宗教上の理由で肉食を拒否する子どもに給食の完食を強要してはならない。アレルギーの子どもには自前の弁当を認める。また、インドのビンディ(額の赤い化粧)のような意味合いの一種の身だしなみを一律に禁止したり、公平の名のもとに全員が同じでなければならないという考え方を押しつけてはならない。ピアスをしようが髪を染めようが、法律違反、もしくは迷惑行為(判断が難しいが)でなければなんでもありだ。ただし、ここで大切なことは、法律違反や明らかな迷惑行為に対しては、徹底、かつ厳格に対応しなければならない。それが教育機関というものである。今日は詳しくは述べないが、このような多様性を認めるという環境が整うだけで、かなりの割合の障害を持つ子どもたちが、ふつうに学校で学べるようになる。均一性を求めるからこそ傷害を持つ子どもたちが排除される。障害者と接する機会が減れば減るほど彼らに対する理解度が低くなり「健常者 対 障害者」のような無意味な図式が生まれる。健常者だって常に障害者となる可能性があるのだから、その程度の想像力もない健常者を育ててしまうのが今の社会であり、教育なのだ。これについて書き始めると長くなるし、中途半端になる可能性も高いので、機会をあらためることにして先を急ぐ。
 次いで基礎学力教育である。
 基礎学力というのは自ら学べる力のことである。
 自ら学べる力というのは、アフォーダンスを探索できる能力のことである。
 アフォーダンスというのは、それを観察したり調べることによってそこから情報を得られる総体のことであって、たとえば“どんぐり”について書かれた百科事典の一項目よりも、実際のどんぐりのアフォーダンスの方が遥かに多い(無限倍の?)情報量を含んでいる。この言葉(つまり概念)を私に教えてくださったのはレッスンに通ってくださっている高綱先生で、ひょっとしたら、私が彼女に教えを乞わなければならないのに、たまたま先に生まれてきたために先生づらをしているだけなのかも知れないことを彼女自身のアフォーダンスが私にそう告げている。
 だから“教科書で学ぶ”ことはあっても“教科書を学ぶ”意味はない。言い換えると、教師は“教科書で教える”べきであって“教科書を教え”てはならない。
 私がしばしば例に出すのが家庭科における調理実習の献立である。料理のレパートリーを増やすことは基礎学力にはならない。料理の基礎は「どこで火を止めるか」と「塩加減」の2つである。だから自身の水加減と火加減で「ご飯を炊く」「味噌汁を作る」という2つをきちんと体得すれば、その経験は他の料理すべてに応用が利く。この2つを押さえておけば、レパートリーが増えても常に一定水準の料理として仕上がることだろう。それがなければうまくいったりいかなかったりということになる。なぜなら、その原因を把握していないからである。国語も、数学も、理科全般も、歴史も、地理も、どれも同じことである。実技教科はクオリアが入り込んでくるので、必要なクオリアを持つ教師を養成することが先決である。
 年齢別一斉授業が行えるのは小学校低学年までだろう。そこから先は「進級・落第制度」ではなく、学習期間を自由にすることが必要だが、これについても別の機会に書く。
 3番目のリスクマネージメント教育というのは、犯罪に巻き込まれたり、事故に遭ったり、病気になったり、あるいは破産したりという危険を減らすための教育だが、詐欺師の手口を教えるというようなことではない。将来を考える力を育てることである。
 高度経済成長期には公務員は安月給の代名詞だった。民間の給与水準の推移に、公務員給与に関する条例が追いついていけなかったことが原因である。ところがバブル経済崩壊後には公務員を目指す人が増えた。これも公務員給与に関する条例が追いついていかないことが原因である。証券会社の社員といえば高給取りの代名詞であり、エリートたちの職場だった。ところが今では、そうとも言えなくなってきた。それどころか、かつては「結婚するならサラリーマン」という画一的な価値観の時代もあったし、女性は24歳までに結婚しないと「行き遅れる」(クリスマスケーキ説)という時代もあった。そんな時代に作られた厚生年金制度が時代に合わせて改革されることもなく続いてきたために、被扶養者である妻がパートに出ても年収を99万円以下に抑えて働くなどの馬鹿げた慣行がまかり通ったり、収めた年金の行方が分からなくなったり、ついには正しく計算された年金額であっても生活が成り立たない金額(生活保護給付以下)であったりすることになった。全てを他人任せにはできないということを歴史は指し示している。
 リスクマネージメントとは、大局的に見れば自らの将来を予測できることであり、実際には予測は外れるものなので、その都度、軌道修正できる力のことである。そのためには最終的には自分自身の揺るぎない価値観・人生観を持つことが最大のリスク・マネージメントということになるだろう。

 ここで述べた3点を学校教育の柱とすれば、学校の役割がどんどん膨張を続けている現在の状況も改善されることだろう。そもそも学校が家庭の役割を果たしてはならないし、果たせるわけがない。学校は教育の専門機関であり、家庭ではできないことを行なってこそ価値がある。また、家庭の教育機能も多少なりとも回復することだろう。

 その2へ続く


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2009年08月08日

気まぐれ雑記帳 2009-08-08 海も暮れきる


 ウラノメトリア第2巻アルファがようやく完成した。“ウラノメトリア”とは、もともとはドイツのヨハン・バイエルが1603年に刊行した世界初の全天恒星図の名称。恒星にアルファ、ベータ、ガンマという識別文字を与えたのもこの星図である。というわけで、作曲家のフェルディナント・バイエル(綴りは異なる)と、小宇宙を意味する「ミクロコスモス」(バルトーク)にあやかってピアノメソードをウラノメトリア」とした。
 アルファはメソードとしての性格が強く、ベータは練習曲集、もしガンマが作られるとしたら連弾曲集や補遺となることだろう。
 さて、今回刊行したアルファの第47番は「海も暮れきる」というタイトルである。これは俳人、尾崎放哉(1885-1926)の代表句のひとつ。このタイトルと意味について、小学校高学年から中学生くらいの子どもたちと話し合うと面白い。
 
 「海も暮れきる」と言った作者は、その時何をしていたか。もちろん、海を見ていた。
 では、その前には何をしていたか。やはり海を見ていたに違いない。ずっと暮れゆく海を見ていたのだろう。
 では、なぜ海を見ていたのか。暇だったからと答えた子どもは一人もいなかった。「夕焼けがきれいだったから」「感動したから」という答だけ。このあたりで、子どもたちから勝手に言葉が出てくる。
「こんな短い言葉なのに、いろんなことが分かっちゃうね。オザキホーサイっていう人はすごいね、せんせい」
「どうして海に来てたのかな。一人だったんだよね、きっと」
「最初、俳句だって言われても分かんなかったけど、やっぱり俳句。五七五の俳句よりすごいね。五七五なら誰だってそれらしいのが作れるけど、これは無理。無理だよ」
「海“も”だから、自分も暮れきっていたのかも。それとも空が暮れて、海も暮れきったのか・・・」
 7音6文字の中のさまざまな物語。

 その後、尾崎放哉の生涯をかいつまんで話す。「一高東大」という昔のエリートコースを歩んできた彼が社会に出てからその生活になじめず(酒癖が悪かったという)、家族も仕事も捨てて、最後は小豆島の荒れた寺の孤独な堂守として人生を終えるまで。

 優れた楽譜は音の数よりも多くを語る。単なるドレドレという音並びにさえ音楽美が隠れていて、それを読み解いた時の驚きは「海も暮れきる」と比較できる体験だろう。

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2009年07月10日

気まぐれ雑記帳 2009-07-10 KJ法-改-ふたたび

 
 気がついたら2カ月も音楽コラムをアップロードしていなかった。フォルダを確認すると、書き上げたものの推敲が終わっていない、あるいはまもなく書き上がる原稿がおよそ10本あった。ウラノメトリアが最優先事項として頭の中にあって、音楽コラムは優先順位が下がっていたのだろう。
 昨夜、川喜田二郎先生の訃報を知り、お目にかかる機会がなかったことを大変残念に思った。音楽コラムを始めた頃にKJ法について書いた気もするが、おそらく当時の説明はヘタクソで的確に要点を語れず訳の分からないものだったことだろう。それにコラム自体がアーカイブにも入っていないかも知れない。というわけで再びKJ法について書く。ただし、ここに書くのは野村式KJ法“改”であって、本来のKJ法についてではない。それについてお知りになりたければ他のサイトをあたるか、KJ法の講習会に行っていただきたい。ただし、20年くらい前だとは思うが(川喜田先生とは何の関係もないと思われる)ビジネス研修団体が主催するKJ法講習会には、参加費用が100万円などというものもあって驚いたものだ。おそらく会社の経営者やエグゼクティヴを対象としていて、KJ法のマスターは、そのくらい支払ってもペイすると考えられていたのだろう。今では数千円というリーズナブルな参加費で講習会が開かれている(はずである)。
 KJ法は情報を関連付けて整理するための便法である。やり方は簡単だが奥は深い。乱暴な書き方をすれば、カードに情報を書き込んでそこから関連するものを選び出していき、立体的な意味付けにまで到達すするというものだ。今の説明がどのくらい乱暴であるかというと「ピアノ演奏とは楽譜に記された音を指で弾いて音をだせばよい」と同じくらいだ。だから、こんな説明で分かった気になってもらっては困る。
 とは言うものの、KJ法を理解したものとして書くと(それこそ乱暴な話だが)、その手順に“あること”を加味すると、一変して「天才の思考の一部のスローモーな追体験」となる。スローモーであろうが何だろうが「天才を追体験」できるのだ。こんなすごいことはない。
 では、そのあることとは何か。一言で言うならば「事実の把握」である。これがなければ情報はゴミだらけとなる。例を挙げよう。サモスのアリスタルコス(紀元前310-230頃)の「太陽中心説(人類初の地動説)」到達までの道のりである。
 日食によって、太陽は月よりも遠くにあることが確認できる(第1の事実)。では、どのくらい遠いのだろうか(到達すべき事実)。そのために必要な情報は2つ。ひとつは半月の輝面は太陽の方向を向いている。半月は太陽-月-地球が為す角が90度、つまりその配置が直角三角形となった時のみ起こる現象である(第2の事実)。ここまで分かれば、第3の事実を確認すれば「到達すべき事実」が明らかとなる。それは、日没時における半月の実際の位置である。月の公転周期は地球の自転周期の整数倍ではないので、月が幾何学的に正しい半月を迎えた時に日没を迎える可能性は低く測定には誤差が出るが(実際の観測方法は分かっていない)、日没時の半月は太陽から87度離れていると結論した。このことから、アリスタルコスは太陽は月よりも少なくとも20倍遠くにあり、その大きさも20倍以上であると結論した。
 ここで行われているもっとも重要な行為(判断)は“情報の精選”である。KJ法“改”の要(かなめ)は、そこにある。
 もうひとつ例を挙げる。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」である。
 レオナルドが前提とした事実は大きなものが2つ。ひとつは「世界は神によって創造されたので、絵を描くということは神の行ないを描くことに等しい。よって誤りがあってはならない」。もうひとつは「神の行ないには正当な理由がある」。ここでいう正当な理由とは「人類の中でもっとも聡明な女性をイエスの母として選び、それを伝える使者としてもっともふさわしい天使にガブリエルを選んだ」というものである。
 彼は、誰も見たことのない受胎告知の場面を描くにあたってマリアを人工物(建築物)側に、ガブリエルを神の創造物たる自然を背景に描いて立場の違いを明確にした。レオナルドは、まず“神の行ない”を徹底的に観察した。近景を疑似長方形のフレームとして考えると、それを徐々に遠ざけていけば最後は点となって消失する。これが幾何学的遠近法(パースペクティヴ)の概要である。幾何学的遠近法理論の最初の確立者はレオナルドではないが、彼の果たした功績は絵画史上極めて大きい。さらに、彼は空気の不透明度による距離感の差を空気遠近法として表現した。幾何学的遠近法が適用できない遠景などの表現には不可欠な技法である。また影(shadow)と陰(shade)によるキアスクーロ技法によってマリアの書見台の台座の立体感をはじめ、さまざまな3次元的要素を明確に描き出した。ひとつめの大前提に基づく作画はこのようにして行なわれた。
 そして、実際に観察することが不可能な受胎告知の場面では、人に対して跪(ひざまず)くはずのない“跪く天使ガブリエル”を描き、マリアが自らが神の子を宿していることを直感し、運命を受け入れる様子を明確にしている。数多く描かれた受胎告知の中でも傑出した場面である。受胎告知が実際にあったことであるとはキリスト教徒以外には考えにくいが、もしあったとするならばこのようであったと受容できる。
 このような結果をもたらしたのは、レオナルドが選びだした前提が事実に基づくものだったからにほかならない。この時、レオナルドは20歳だった。
 天才とは事実の把握に長けることでもあるのだ。私はオリジナルのKJ法を熟知しているわけではないのだが、情報の精選におけるいくつかの厳しい条件、それはたとえ事実と齟齬がなかったとしても、ヒエラルキー(ディレクトリのような階層的順位)の最上位だけを選び抜き、その後、初めてそれに関連する下位のヒエラルキーにおける情報の取捨選択を行なうという順序を加えたものがKJ法-改-である。
 まさに、私はこの方法で作曲していると言って間違いない。
 しかし、なんの説明にもなっていないのだ。なぜなら作曲する上でのヒエラルキーの最上位に来るのは“ドレドレ感”だからである。これは、クオリアであって説明ができない。不思議なことに録音では伝わらない。いま、このコラムを読む作曲工房関係者には“ひしひしと”伝わっていることと思うのだが、ピアノでただのドレミファソラシドという音並びを弾くにあたっても“ドレドレ感”(ドレドレ感 < ペリオーデ ≠ フレーズ)なしでは話にならない。全く話にならないどころか、両者の間には音楽的共通点を見いだすことは難しいかも知れない。
 レオナルドやベルニーニ、モネやワイエスにも美術的な意味における“ドレドレ感”があって、誤りなく必要な情報を選択できたのだろう。
 
 野村茎一作曲工房
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2009年02月19日

気まぐれ雑記帳 2009-02-19 何度でも“インスピレーション”

 
 このコラムは、基本的には私のところにレッスンにおいでいただいている皆さんへの補助教材という意味合いが強いのだが、一般の方々にもお読みいただいているということを知って大変うれしく思っているということをお伝えし、心よりお礼申し上げます。
 しかしながら、このようなコラムだけでは足りずに、なぜ1対1の生身同士でレッスンを行なう必要があるかと言えば、まさにクオリアの伝達のためである。たとえるならば、このコラムでは食べたことのない果実についていくらでも説明はできるけれども食べていただくことはできない。ましてや、私のレッスンでは市販されていない果物ばかり扱っている。だからといってレッスンにおいでくださいとお誘いしているわけではない。1回のレッスンには大変なエネルギーが必要で、本当に私を必要としている少数の人にしか力をお貸しすることはできないからだ。だから、まさに自分がそうだと思われた人が(募集もしていないにもかかわらず)、訪ねてきてくださる。これも感謝に尽きるとしか言いようがない。
 さて、クオリアは色や匂いなど、体験しなければ知ることのできない感覚による理解である。なかでもとびきり体験困難なクオリアが“インスピレーション”だろう。
 私たちが絵画を見たいと思ったり、音楽を聴きたいと思ったり、小説を読みたいと思ったりする根本的な原因は“インスピレーションに触れたい”ということではないかと考えている。
 今までにずっと書き続けてきたように、インスピレーションは、作品、あるいはインスタレーションやイベントとして実現されるべきものなので事実に即していなければならない。想像力ということばが、まるで“足が地についていないような突飛な考え”を生み出す力だと思われがちだが、それは誤りである。たとえばUFOイコール“エイリアン・クラフト”というのは想像力の欠如どころか思考停止としか言いようがないのと似ている。一度聞き及んでしまった考えから外に出られないという意味である。
 遥か昔、宇宙人という存在を思いついた人には確かにインスピレーションがあった。人類と同等、あるいはそれ以上の知性を持った宇宙人もいると考えた天文学者フランク・ドレイクは宇宙(くじら座τ星)に向けて電波信号を発信した。ここにもインスピレーションが介在している。
 簡単な例を挙げよう。図形パズルのような問題を解く時、その“仕組み(図形の全体像)”を捉えた時に解答にたどりつくのではないだろうか。それが、そのパズルにおける“事実”である。
 レオナルドは「事実から学ぶ」という態度を終生貫き通したが、これは簡単そうでなかなか難しい。私のところに初めてお見えになられた方で、すぐにレッスンを始められる人はごく少数である。私もそうであったのだが、生まれてこのかた“考えたことがない”のだ。大げさに聞こえるかも知れないが、失礼ながら、ほとんどの人は“知っている”か“知らない”かのどちらかで生きてきたように思われる。だから分からないことは教えてもらうものだと思い込んでいる。

「ならば、どうすればよいのですか? 教えてください」

 人間が決めたルールならばいくらでも説明しよう。

「これは100円硬貨というもので、(双方が同意すれば)100円までの価格が付与されたものと交換できる」

 ただし、人が定めた価格(人が付与する)は説明できても価値(そのものに内在し、人が気づかなければ無いに等しい)は説明できない(ミクロ経済学の専門家のかたには異論もおありとは思うが)。価格と価値は等価ではないのはもちろんのこと、意味が全く異なる。

 音楽は高度に抽象的であるので、事実から学ぶということ自体が分かりにくい。“事実から”ではなく“事実を学んで”終わってしまうこともある。以下の文章について論評していただきたい。

「白熱電球を発明したのはイギリスのスワンだが、発電所を建設して電力供給を行ない、電球を実用化したのはエジソンである」

 ここから読み取れることは驚くほど多い。それぞれ視点が異なるために、その内容も多様である。
 少なからぬ人々が白熱電球の発明者をエジソンだと信じているのはなぜか。そもそも、スワンとは何者か。電球というのは単体では役に立たない。まるでガソリンスタンドのない世界のガソリン車のようなものだ。実用化というのは電球を長寿命化したことを指すのではないのか。発電所よりも電球が先に発明されたことが納得できない。
 しかし、クリエイターは上記のようなことは読み取らない。

「せんせい、もし私が都市計画をやせてもらえるなら、道路を幾何学的や、あるいは街にふさわしいシンボリックな形状にして、夜になって街路灯が点灯されると上空の飛行機から見てすぐにどの街であるか分かって、おまけに幻想的で美しい景色にします」

 これは政治的・財政的な問題を別にすれば実現可能なアイディアであり、まさにインスピレーションの典型だろう。
 作曲する、あるいは演奏するということはインスピレーションを具現化することであり、それはまさに事実に即しているばかりか、発想した本人にとって真に実現する価値がなければならない。

 ところで、南の魚座の主星である“フォーマルハウト”は私の持ち物である。「フォーマルハウトについて」という拙作を聴いたおちびさんのインスピレーションによってプレゼントされたからである。もし、フォーマルハウトに行く時には私の承認が必要となるのでご注意願いたい。

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2009年02月13日

気まぐれ雑記帳 09-02-13 挫折の構図

 
 ゴットリープ・ダイムラーが現代のクルマの原型を完成させた時、クルマが地球の大気をこれほどまでに汚染し、地球温暖化の一因となるとは思いもよらなかったことだろう。あるいは、ロバート・ゴダードがロケットを打ち上げるために力を尽くしていた時、スペース・デブリ(宇宙ゴミ)が宇宙開発にブレーキをかける可能性には思い至らなかったことだろう。
 それと同様に、私たちが自らの将来を思い描く時にも数多くの盲点が待ち受けている。
 何度か書いてきたように、しばしば「あなたは将来何をやりたいのか?」というような問いで進路が問われる。実際のところ、人には永続的に「やりたいこと」などないのだが、それはひとまず置いて、何をやりたいのかなどと問われて答えるのはかなり難しい。なぜならやりたいことをやっても「なりたい自分になれない」からである。
 日頃の生活を考えてみればよい。やりたいことだけやっていたら生活が成り立たない場合が多いだろう。生活が成り立つためには身の回りの家事や生計を立てるなどの「為すべきことが為される」ことが基本条件である。
 人生設計も同じで「何をやりたいか」ではなく「何を為すべきか」という問題から構築しなければならない。
 モーツァルトやベートーヴェンが「やりたいから」というようなあやふやな理由で困難な作曲に立ち向かっていたとは思えない。彼らには確固たる使命感があったに違いない。しばしば、天才だから楽に作曲できたという思い込みがあるが、天才だろうが凡人だろうが全力を尽くす困難さは変わらない。変わるのは結果だけだ。その結果でさえ“入れ込み方”次第で変わる事もあるだろう。
 このコラムでは「志と覚悟」が人を形成する基本的な要素であるというスタンスをとっている。しばしば誤解されるのだが、これは“強い意思”と同義ではない。むしろ真逆の場合もある。精神力と体力は極めてよく似ている。人は多少きつい労働をしても、必要な食事をとって充分な休息をとれば体力は回復し、再び働くことができる。むしろ体力のある人は、自らを過信して無理をすることもあるのではないか。その結果、体力に自信のない人のほうが仕事量が多いということもあるだろう。
 ここで言う「志」には、何より事実と齟齬がないことが重要であり、必須である。仮に「ゾウリムシと会話をする」という志を立てたとしよう。そもそもゾウリムシに言語がなければどれだけ科学や技術が進歩しようと不可能であるから、ここには事実との大きな齟齬があると言えるだろう。しかし、ゾウリムシとて意思はあるかも知れないので「テレパシーで意思の疎通を図る」というのもあるが、時期尚早である。なぜなら、テレパシーの理論と技術が確立される見込みがたった時点で、初めて「その技術でゾウリムシと・・・」なるべきだからだ。言い換えるならば、人類が月に立つことは可能であるが、基礎技術さえ確立されていなかった江戸時代では不可能であるということと似ている。人の一生には限りがあるのだ。
 少なからざる人が現実と乖離した“志”によって、あるいは為すべきことを見極めることができなかったことによって、さらには“強い意志”と“ブレない意思”の差に気づかなかったことによって挫折しているのではないだろうか。

 野村茎一作曲工房
 

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2009年02月09日

気まぐれ雑記帳 2009-02-09 文系・理系、あるいは絶対音感・相対音感

   
 
 理系と文系という分け方がある。これは、明治時代に現在の学校教育の基となった制度がスタートした頃に文科・理科という分け方をしたことが始まりだろう。
 今日は、それらの細かい定義について書きたいのではない。「数学が苦手だから文系だ」という考え方に警鐘を鳴らしたいのだ。ならば「文章が苦手な人は理系」という考え方も成り立って然りだと思うがどうか。
 「絶対音感ではないから相対音感」という考え方も似ている。どちらも訓練(始めた年齢によって結果が異なる)が必要で、実際には絶対音感も相対音感も持ち合わせていない人が大部分だろう。
 「理系でなければ文系」という短絡的な考え方が浸透してしまったことによる人生の損失は少なくないのではないか。
 おおまかに言うと、文系は人について、理系は自然について研究する分野であるということだろうが、現在の学問は専門化すればするほど他の分野と関わってくるという状況になっている。経済学は、突き詰めるならば人の心理と行動を記述する学問であるが、現在は数学がその手法の最も大きな柱になっている。建築学科は、芸術系の大学にも工学系の大学にも設置されており、文系でも理系でもあると言える。
 文系・理系に共通するのは「発想」である。勉強すれば数学の問題が解けるようになるというのは、実は幻想に過ぎない。習った解法を当てはめることができるようになるだけである。数学的発想にたどりついた人だけが数学の問題を解くことができる。国語をどんなに勉強しても、文学的発想にたどりつかなければ架空の人物にリアリティを与えて動かし、読者に人生を考えさせるような物語を書くことはできないだろう。
 しばしば「オレだってやればできる」という考え方に出会うが、これも幻想に過ぎない。人が何かをやるのは発想(インスピレーション)があるからであって、それのない努力では正しい方向性を見いだすことが難しい。そのようなほとんどの努力は徒労に終わると言ってよいだろう。少なくとも、私はインスピレーションなしに努力している人(何をしたらよいか分からないから取りあえず努力だけしている人)に負けない絶対の自信がある(努力を軽んじているわけではないので念のため)。
 文系・理系などという分類にこだわる以前に、発想できるところまで自らを開発したかどうかを考えるべきだ。発想というのは解決への道筋へのヒントである。それは、常に事実と結びついている。事実と結びついていない考えを「荒唐無稽」という。このように書くと、私が世の中には不思議なことなど何もないと考えているプラグマティスト(合理主義者)であるように思われるかも知れないが、事実は目に見えていることばかりではない。事実こそ不思議(つまり、思い込みとは異なる姿をしている)のかたまりであり、事実をありのままに見ることこそが、私たちをファンタスティックに変貌させる。地動説(太陽中心説)を提唱した、かのコペルニクスでさえ惑星は真円運動するという考えに囚われて事実を掴みきれずに、その理論は天動説論者の反証に対抗できない要素があった。現代宇宙論の開拓者であるアインシュタインでさえ、ハッブルによってその証拠をつきつけられるまで宇宙膨張(アインシュタイン方程式のフリードマンによる解)を受け入れることができなかった。事実を受け入れるということこそが才能であると定義したいほどだ。
 レオナルド(ダ・ヴィンチ)が看破したように、私たちの世界観は観察による事実の把握によって形作られなければならない。何度も書いてきたように、ピアノ弾きがピアノ鍵盤の図を描けないことなど当たり前という状況である。少なからぬ人が黒鍵を白鍵の中央に描く。しかし、それはGis(As)だけであり、Fis(Ges)とAis(B)は約80パーセント左右にオフセットされ、Cis(Des)とDis(Es)は約70パーセントオフセットされている。だからCis-Disのトリルは幅が広く、Fis-Gisのトリルは幅が狭い。観察というのは目で見るだけではない、音も、匂いも、温度も、感触も全てが観察の対象である。平均律を理解している人もどれだけいるのだろうか。調律師は調律曲線に沿った平均律に調律する方法は知っているものの、音律とは何かということになると詳しく理解していない人もいることだろう。
 事実の把握の曖昧さの隙を突いて、疑似科学が私たちを騙そうとする。実際には、それらを主張する本人が信じていたりするので、疑似科学というよりは単に「誤った事実認識」と言ったほうがよい場合もある。それをまた他人に「本当なんですかウソなんですか?」と訊ねたりするのは愚の骨頂というものである(納得いくまで自分で調べることは別)。
 理系・文系というのは学問分野の分類であり、人の分類ではない。
 教科書をひととおり勉強したら、身の回り(自分の関心に深く関わるもの)がどうなっているのか、五感を研ぎ澄まして感じ取ることだ。何もないところからインスピレーションはやってこない。

 画家にとって真白いキャンバスなどあり得ない。(岩波「哲学講座第11巻」より)
 

 野村茎一作曲工房

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2009年02月01日

気まぐれ雑記帳 2009-02-01 天才と凡人のはざまで

 
 時折このコラムで扱う、評論家柳田邦男氏が定義した意識レベルの概念「フェイズ0〜3」(0は眠っている時、1はボーッとしている時、2は日常生活をこなしている時、3は集中している時)で言うならば、私たちは毎日0〜3までのレベルを行き来していることになる。
 有能な人というのは、いつフェイズ3という状態になるべきかを知っている人なのではないか。たとえ記憶力や計算能力が高くとも、肝心な時に気づかなければ宝(能力)の持ち腐れというものだろう。
 ところが、天才というのは時として、定義外の“フェイズ4”がやってくる。アインシュタインも天才であることは間違いないが、天才としてのデッドエンドにいると考えられるひとりであるインドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)はフェイズ4を知るきっかけを与えてくれる。答えに至った理由を尋ねられたときの「全ては女神さま(ナマギーリ女神)が教えてくれた」という彼の言葉は、自分でも解法が判らないということなのではないか。それほど一瞬にして解答がやってきた、つまり途中の演算を飛ばしていきなり正解にたどりついたということだろう。これは、ラマヌジャンの意識の中で、いくつもの事実の“意味ある相関関係”が一瞬にして明らかなったということではないだろうか。
 “集中する”という言葉(概念)を説明することは意外と難しい。心理学などにおける定義は厳密になされていると思うが、作曲工房的に言えば「事実を確認する力」である。
 バッターボックスに立った打者は、ボールの速度と軌跡の事実を確かめ、また自らの動きがそれに合致するかどうか確認するために集中する。綱渡りする曲芸師は、綱の上に自分自身の重心があるかどうかを逐一確認するために集中する。重心が外れればすぐにカウンタウェイトをかけるために、また集中する。数学のテストに解答中の受験生も、自分の計算や推論が事実と食い違っていないかどうか(論理にかなっているか)を確認するために集中する。刺繍する人も、絵を描く人も限りなく正確な位置に糸や絵の具を置くために集中する。正確さや速度のレベルが上がれば上がるほど集中力は累乗倍(感覚値だが)されて強い精神力が必要となる。しかし、どんなに集中しても、それだけはフェイズ3から一歩も進むことはできない。
 私観ではあるが、天才が到達するフェイズ4という状態は、集中しているけれども緊張していない時に訪れるような気がしている。
 それは、複数の事実から関連性を見いだすというようなことだ。簡単なところでは、階段の上下にある照明のスイッチの仕組みはどうだろう。どちらのスイッチを動かしても点灯・消灯できる回路である。スイッチ2つまでなら、少し考えれば大抵の人が回路図(正式な回路図である必要はない)を書けることだろう。しかし3つ以上になると急に難しくなる(もちろん、その回路を知らない人にとっての話)。この答えを出すには知識よりもインスピレーションが必要と言っても過言ではない。もはや発明に近いからである。インスピレーションというのは事実と事実の関連性を見いだす力(センス)のことであり、決して超能力ではない(もちろん、超能力としか呼べないようなインスピレーションもある)。想像力の本質が「何もないところから荒唐無稽な考えに辿りつく」ことではなく、事実の延長線上に考えを広げることであるように、インスピレーションも事実の把握なしでは成り立たない。やはり、ここでも事実から学べるかどうかが分かれ目になる。ちなみに3つ以上は何個のスイッチがあってもそれ以上複雑化しない。
 平々凡々とした私ではあるが、“優れる”とはどういうことかということを考え続けた結果、多少それらしい答えに近づいてきた印象がある。「天才は教育では育たない」と言われるように、勉強したところで到達点は限られているように思われる。しかし、注意深く周囲を観察して事実を読み取り、自分の認識と“事実”が一致したとき、人が高みへの階段を一段昇ったことになることは間違いないだろう。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年01月30日

気まぐれ雑記帳 2009-01-30 学習強迫観念と幻想

 
 カルチャースクール、あるいは資格講座のようなものが数多く開講されている。「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」という心理によるものであるとしたら、それは実に皮肉なことである。
 「もっと勉強しておけばよかった」という結論は「それが今の自分の人生とは異なる結果を生んだに違いない」という推論から導き出されたものであることはほぼ間違いないだろう。
 では、過去に猛勉強したと仮定する。それは教科書を丸暗記してしまうほどの徹底ぶりであった。そのかわり、代償として他の体験や経験を失うことになる。教科書から得た知識がどれだけ人の人生や人格を変えるだろうか。良いほうに変えるとはとても思えないが、どうか。
 勉強しなくてよいと言っているのではない。幻想ではなく、事実を把握すべきだと言いたいのだ。
 資格マニアのような人がいる。いくつもの講座に通って、次々と資格を取得する。それが、資格取得にのみ喜びを感じる本物の“資格マニア”であるならば正しい生き方だろう。しかし、人生を変えたい、あるいは、より高みを目指したいと考えているのならば、資格取得は目的ではないはずだ。自動車運転免許は国家資格であるが、30年間毎日運転しているからと言って“スーパードライバー”になれるとは限らない。勉強というのはパソコンソフトのチュートリアルのようなものに過ぎない。
 私の許には音大を卒業した人も、一般大学卒業の人もレッスンに通ってくださっているが、一般大学卒の人たちには「音大コンプレックス」があり、音大卒の人たちには「勉強が足りなかった」という強迫観念がある(全ての人に当てはまるわけではない)。どちらも幻想に過ぎないのだが、それに気づくには洞察力が必要である。
 卑近な例で恐縮だが、たまたま、いま手許に昨年暮に出版されたばかりの「岩波講座 哲学07 芸術/創造性の哲学」という書物がある。まだ読み始めてもいないのでランダムに一部を抜粋・引用する。
 たまたま開いたのは大塚直子さんという方の「メディアとジャンルの越境と横断」という章である。

  ***

 目の前に一枚のカンヴァスがあるとしよう。描かれているのは等身大のふたりの女性。一瞥して判るのはそれだけである。
 毎日テレビ映像に浸り、イメージを注意深く読むことを忘れた眼差しにとって、これは、それだけのイメージに終わるだろう。美術史の知識を持つ者であれば、彼女たちの姿や背景が、ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》に酷似していることに気づくかも知れない。
 
 ***

 端正で美しい文章であり、文法的に難解な点は見当たらない。しかし、“いわゆる”勉強にどれだけ励もうと、この文章の真意にたどりつくのは容易くない。引用が短すぎて、筆者の主張を伝えるに至っていないことも問題であるならば、興味を持たれた方は図書館などで続きをお読みいただきたい。私自身「ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》」というものを知らないのだが、理解のための真の問題はそこにあるのではない。おそらく、私たちが美術作品と心から対峙することによってのみ得られるレディネスが必要なのだ。
 それはもはや知識ではない。
 学生時代の私は、分からないことがあるとすぐに答えを知りたがった。もちろん、辞書や書物からは得られそうにない答えである。そういう時は作曲を師事していた土肥 泰(どい・ゆたか)先生が頼みの綱だった。彼は「答えを知っても分かるわけではないが」と前置きして的確に答えてくれたが、いつでも本当に分かるのはずっと後になってからだった。
 分かりやすい例を挙げるならば「モーツァルトは天才ですか?」というような問いの場合、答えを聞いてもまるで意味がないのと同じだ。モーツァルトが天才であるかどうかは、自らたどりつくしかない。そのために費やす時間と精神力は計り知れないものがあるが、それは人生にとって極めて意味ある行為となることだろう。
 ピアノを習うことにどのような意味があるだろうか。毎日練習してだんだん上手に弾けるようになっていくのも楽しいことだろうが、それは言い換えれば個人の楽しみに過ぎない。しかし、ピアノを通じて音楽そのものに出会えるような向き合い方をしたらどうだろうか。レッスン曲に「合格」とか「花まる」がないような世界である。
 人類は音楽を生み出し、音楽は人類に高い精神性を求め、高い精神性は音楽を洗練し、洗練された音楽は、人類をさらに高みに押し上げてきた。バッハやベートーヴェンは“音楽”という美の哲学によって限りなく高められた精神である。ところが、(悪名高き)バイエルやツェルニー、あるいは初心者用のソナチネでさえ、凡人を寄せつけぬ高い精神性が潜んでいる。それに気づくとピアノを弾くことの意味がガラリと変わる。易しいと思われているバイエル序盤の練習曲でさえ(むしろ序盤こそ)、いくら弾いても完成の域に達しないのだ。その時、向かい合う相手はすでにバイエルではなく、自らの美的精神(の低さ)となる。絵画に対する理解も同様だ。眺めれば眺めるほど細部と全体が見えてきて、ついには画家の精神性に追いつかない自分自身との対峙となる。優れた画家は自然界の真理が奥行き深く見えてきて、神にひれ伏す。たとえばレオナルドの「受胎告知」はどうだろう。鑑賞者たる我々は、いつしか、そこに描かれたマリアの崇高さ( = そこに到達したレオナルドの精神性)に気づく。すると、なんとかそこに辿りつこうとして、眺めては考え込み、考え込んでは、また眺めるということの繰り返しが続く。そのように過ごすうちに、私たちの精神性も徐々に高まっていく。これは、ただ単に解答欄に答えを埋めるために勉強する(無批判に知識を受け入れる)という手順では決して得られぬ経験だろう。
 それでも、まだチュートリアルや資格取得(資格取得後に本格的な探求が始まるとすれば全く別の話だ)に情熱を注ぎ込みたいだろうか。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年01月02日

気まぐれ雑記帳 2009-01-02 美味しいとはどういうことか

 「美味しいものは何か」と問われたら、それは酒の肴(さかな)であると答えるだろう。ただし条件がある。
 その条件とは日頃の食生活にある。
 日常の食事は、皇室で天皇家の御料理番が作っているような質素で清廉なものでなければならない。メニューそのものは戦前の日本の家庭料理を基本としたようなもので、特別な献立ではない。庶民の料理との違いは、魚であれば骨を全て抜き、根菜類を煮付ける時には全て面取りをするという手間がかかっていることくらいで、豪華などは微塵も感じさせないケ(ハレに対する)の料理である。日常の食事がケの料理であるということは重要で、そうでないとハレとケのコントラストがなくなってしまう。自分で料理をしなければならない私たちが、魚の骨を全て抜くなどという手間をかける必要はないが、食卓にハレとケの区別のつかない料理を並べるような暮らしはしたくない。大根なら大根、芋なら芋、豚なら豚を美味しいと思って食べられるような食事こそが望ましい。毎日の料理に特別なアイディアはいらない。自然界は飽きない味をきちんと用意してくれているからだ。毎日、季節に応じて多少食材が変化していくだけでも私たちは充分においしい食事をすることができる。
 スーパーマーケットなどに並ぶ“ひと手間加えればすぐできる”という類いの半加工献立メニューは、その多くがハレの料理から発想されたものが多い。それは、まさに今の日本人の食に対する意識の低さを物語っていて、毎日の食事のアイディアに苦労しているにも関わらずあまり報われないばかりか、栄養学的にもいびつで、そして食に対する鋭敏な感覚をも失わせる構図を表している。そこには、どうすればよいか分からないという迷いが表現されている。
 対して酒の肴はハレの料理である。酒の肴にはインスピレーションが必要で、それが人の心を浮き立たせる。日本酒だったら、ちょっとあぶってねっとりとしたカラスミなどはシンプルさの極みだが、手を加えた肴はイマジネーションを加速する。酒の肴は、実は高度な概念であり、もしカミさんに望みどおりの肴を用意してもらおうと思ったら数年間は、その伝達のために忍耐の時を過ごす必要があるだろう。それが嫌なら自分で料理するほうがてっとり早い。逆に肴に対する鋭い感性を持ったカミさんを見つけた人は、それだけで人生の成功者と言えるかも知れない。
 洋酒の肴は各民族の文化を反映していて興味深い。ビールなどはザワクラウトとソーセージという定番があるが、バーボンとスコッチでは同じウィスキーでも全く異なる肴が合う。変わったところでは、普通はカクテルベースにするものの、ストレート・ラムをビターチョコレートで呑むのは格別の体験だ。
 さて、実は本コラムにおいて酒の肴が本題なのではない。
 高価な暮らしと高級な暮らしが異なる実態を表すように、高級な暮らしと上質な暮らしも異なる概念と捉えてよいだろう。
 落語に出てくる江戸の貧乏長屋で八ッつぁんが「スルメをね、こうちょっと炙って、冷や酒をキューっと一杯やるとね、ああ、オレは何て幸せ者なんだって思うんでさ」とつくづく言う。これは間違いなく上質な暮らしと言えるだろう。己の人生を知っている者にしか言えないセリフである。
 霧に包まれた人生観(単に考える機会が与えられなかっただけかも知れない)で生きていると、実に単純な判断さえできずに迷ってばかりということになる。
 作曲する、絵を描く、あるいは小説を書く、スポーツをする、料理をするなど、ありとあらゆる創作においては、そこにその人の全てが表れる。ゆえに、そのための訓練だけをしていても上質な結果が得られるとは限らないだろう。花屋の店先の人工的な栽培品種の花にしか目が向かず、路傍の花(まさに自然が必要として生み出した)に気づかぬような人が大成するとは、私には、とても思えない。

※ 念のために書き添えておくと、私は酒も肴も大好きだけれど飲むと作曲できなくなるので、今は晩酌はほとんどしません。

 野村茎一作曲工房

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2008年12月29日

気まぐれ雑記帳 2008-12-29 “優れる”ための覚え書き

 
 まず最初に明らかにしておかなければならないことが「優れている」という言葉の定義である。ここでは「真実への到達度が高い状態」とする。「ここでは」というのは「私が語る時には」と読み替えていただいてかまわない。
 「優れる」というのは「優れた状態に向かう過程」ということになる。

 日本では多くの子どもたちが学校に通ったり、塾に通ったりして勉強している(?)が、そのことによって誰もが優れていっているだろうか。年齢とともに経験値が増して、社会性などは身についてくるとは思うが、勉強によって人が優れるかどうかは私には判断がつきかねる。
 念のために断っておくが、私は学校教育や勉強を否定するつもりは一切ない。むしろ、もっともっと勉強すべきだと考えている。
 少し前のコラムで「ニュース脳」という言葉を出した。それは知識や情報を無批判に受け入れてしまう傾向が強いことを指す。何度も繰り返してきた言い方で説明すると「(天文学としての)天動説を習えば、そのテストで良い成績をあげてしまうのが性能のよいニュース脳の持ち主であり、その矛盾に気づいて地動説にたどりつけば“すぐれている”ことになる」ということだ。
 優れた人は、(ごく少数の例外的な天才を除けば)最初からすぐれていたわけではない。“優れてあろう”と志さない限り、真に優れることはできない。それに比して、成績を上げようなどという志は極めて低いと言わざるを得ない(それが楽だとは言っていない)。成績を上げるには、すでに用意された解答への道筋をたどるのに対し、優れるためには道を模索しなければならないからだ。つまり、優れようと志した段階で、すでにその人は優れていると言えるのかも知れない。
 優れようとした人が勉強に向き合うと、そうでない人(よい成績を望む人)との間に顕著な差が生じることだろう。
 優れているということの意味を理解しているが作成したテストは、ニュース脳教師が作成したテストとは大きく異なるものになる。テスト問題を見れば、その出題者のレベル(問題の難しさのレベルではない)が分かる。以前、長男の高校時代の音楽のテストの問題用紙を見て、その無意味さに言葉を失ったことがある。なんとか成績を出さなければならない教師側の意味のない論理がさらけだされていた。駄目なテストは授業内容を問い、すぐれたテストは真実を問う。
 優れようとした人は真実を学ぼうとし、成績を上げたい人は授業を学ぶ。
 誰もがすぐれた教師に学べるわけではないが、ガリレオ・ガリレイは自分が学び、そして自分が大学で講義していた天動説のほころびに気づくことによって地動説への扉を開いた(ガリレオが地動説を最初に唱えたのではない。これについては過去のコラム参照)。つまり、真に優れた人は誤ったことを習っても、そこから真実にたどりつく。
 “優れる”ことを志すのは、優れた存在を知ることがきっかけになるのではないか。
 私自身の例を挙げるならば、初めてバッハの偉業(フーガの技法)の一端に触れた(部分的な理解)時、一瞬にして体温が数度上がったような錯覚にとらわれた。今まで自分自身が何をしていたのだろうという無自覚さへの気づきと後悔と焦りと懺悔が一度に襲ってきた。この時、音楽は趣味ではどうにもならないないことを悟り、一生を賭ける決心をした。大学生の時だった。これと同じようなことは、アリスタルコスが半月が太陽の方向を向いているということに気づいて、太陽-地球-月のなす直角三角形だけから太陽と月との距離の比を導き出し、論理的に地動説にたどりついたことを知った時にも起こった。
 優れたいと思った。優れなくてはならないと思った。そう思ってから、初めて優れることの難しさを知った。
 小学校の時から子どもを有名進学塾に通わせたとしても、人生の途中で“優れたい”と心底、志を立てた人には全く敵わないことだろう。
 優れるためには、本当に大切な事柄では正確でなければならない。大雑把でよいところと微小な差を見分けなければならないところが分からなければならない。人の言葉は真実であるとは限らず、その人のことを表しているだけかも知れない。真実に到達した人だけが思ったことが実現する。
 レッスン(教育)とは、知識を教示したり技術の単なる伝達ではなく、優れたいと志すことの“威力”が全てに勝ることを伝えることが第一義であると考えている。
 老婆心ながらつけ加えておくと、いわゆる“強い意志”というのは、しばしば優れるための障害になることがある。アマチュア・ランナーが日課であるランニングを“強い意志で”休むことなく続けようとして心不全などで事故死したというニュースを聞くのはそういう例のひとつである。強い意思は、正しい判断の基準をいとも簡単に狂わせる(無判断の誘導、判断の停止)。毎日欠かさず(言い換えれば、思うところがなくとも)ピアノの練習をしている人は、そのうちインスピレーションをも失うことになるかも知れない。
 いつか優れて真実に到達したい。
 論語にあるように「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」の心境である。


 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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