2007年12月13日

2007-12-13 才能と業績

 ここでは“才能”と“能力”をほぼ同義として扱う。ニュアンスとしては「持って生まれた部分の多いものを“才能”」、「訓練で身につけた部分が多ければ“能力”」というような気もするが、他者から見れば区別がつきにくいので、何かを為す力としてほぼ同義であるとして扱う。
 数学と物理学に長けた人物がいるとしよう。仮に数学の頭文字をとってM氏とする。M氏は一流大学の物理学科を首席で卒業。記憶力、演算力など、彼の持つ高い能力は他の追随を許さない。しかし、彼は自分の力を何に使えばよいのか分からなかった。
 何を為すべきかを確信することを“志”という。そしてそれを成し遂げようと決意することを“覚悟”という。志と覚悟なくして何かを成し遂げることは難しい。私が師から学んだことをまとめるならば「観察と洞察にとって事実にたどり着くこと」と「志と覚悟を持つこと」の2点に凝縮することができる。
 目の前にあること全てが事実とは限らない。ひとつのものごとでも多くの解釈が成り立ち、他の事物の解釈との整合性のあるものだけが事実だからである。
 ピアノの調律を例にとる。音律とは実に不思議なもので、直感的には完全5度を12回重ねると7オクターブになるはずだが、実際にはならない。7オクターブと24セント(100セントで平均律における半音)となる。だから純正5度と純正4度で狂いなく調律していくと、一カ所だけ妙な半音ができる。これがピタゴラス音階である。ピタゴラス音階は派生音が使えないので自由な転調ができない。純正音程で構成されるピタゴラス音階や、それを改良して考案されたさまざまな古典調律に慣れた人々にとって平均律は、まるで合っていない音律に聴こえたのかも知れない。ピタゴラス音階から平均律までの道のりは千数百年以上と長い。
 1オクターブを平均化して半音ずつ割り振ったものが“平均律”であるが、そうすると当然のことながらオクターブと各弦のユニゾン以外は何一つ合っていない(うなりがない)という音律になる。とくに長3度の広さ(高さ)は半音の1割を超え、一度聴こえてしまうとビヨヨヨヨヨヨヨヨという“うなり”が気になって仕方がない。しかし、これを逆手にとって、平均律は各音程によって微妙に異なる唸りの速度で調律していく。また、ピアノの弦は低音部を除けば1鍵盤あたり3弦が張られており、それらは当然同じ振動数でなければならない。同じ振動数ならば唸らないので、数秒に1回以内のうなり程度ならばどれも合っているように聴こえる。ここから先は、うなりではなく音色を聴き分けながら調律していく。アナログシンセサイザーで言うならば、レゾナンス調整のような感じで音色が変わる。
 ピアノの音色はなかなか聴こえてこないものだが、私のレッスン用ピアノの音色に気づいた人が「このピアノはいいピアノですね」と言ってくださる。しかし、その言い方は正しくない。“極めてよい状態に保たれたピアノ”なのだ。森田裕之父子によって整調・整音・アクションの微調整が行なわれ、とくに初めて森田裕之氏の平均律に接した時に、驚きとともに多くを学んだ。1年後、彼が再来宅したときにピアノに触れて「たいしたもんだね。全然狂ってない。室温や湿度を一定に保っていれば狂わないんだね」と仰ったのだが、実はしばしば調律の微調整を繰り返して“森田平均律”を保ち続けたのだった(自分で調律していることは言えなかった)。実際、少々乱暴なピアニストが来て弾けば、“森田平均律”はたちまち崩れてしまう。
 もし、あなたがチューニングハンマーと精密な音叉、ロングフェルト、フェルトウェッジを手に入れれば調律は始められる。しかし、観察(この場合は音を聴くこと)から平均律の事実にたどりつくことは容易ではないだろう。12音全ての整合性が図られなければ成り立たないからである。少なからぬ人がくじけてしまうかも知れない。ひ弱な志では真の覚悟は生まれないからである。覚悟があれば、音(うなり)を聴き取る能力は自然と身につくことだろう。うなりはひとつではない。倍音ごとに幾重にも重なって聴こえてくる。子どもの頃はピアノの音の何を聴いていたのだろうか、と不思議になるくらいである。
 余計なことに紙数を費やしすぎた。事実にたどりつくことについては、後日あらためて書くことにする。
 さて、先ほどのM氏は、その高い能力を何に使えばよいだろうか。志はどのようにして生まれるのだろうか。答えは簡単で。“何が重要であるか”が分かることである。ただし、たどりつくのは難しい。
 過去に何度となく書いてきたが、音楽に詳しいと言った時、それは知識が豊富であることを指すのではなく重要さが分かることである。すぐれた作曲家は誰なのか、すぐれたな楽曲や演奏とはどういうものであるのかが分かることである。
 全ての分野において共通するのは、“正しい未来を指し示した”人物こそが重要であり、そしてそれこそがすぐれた業績である。
 物理学の分野では、古代ギリシャの時代に、半月の観察によって地球と月・太陽との距離を理解し、深い洞察によって地動説(太陽中心説)にたどりついたアリスタルコスや、夏至のときの土地ごとの太陽高度の差から地球の全周を導き出したエラトステネスなどはその最たる例だろう。
 では、我々音楽を志す者は何をすべきか?
 ヒントは過去の大作曲家たちが何を重要であるかと考えていたかにある。それは作品に表れている。ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、モンテヴェルディ、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、シェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーらの作品から読み取ることができるだろう。作品を学ぶのではない。作品から学ぶのだ。これは言葉遊びではない。
 私たちはトレーニングによって能力を高めることだけに腐心していてはならない。才能だけでは大した事はできないということを深く認識しなければ真に成し遂げたいことは為しえない。どんなに明るい照明でも、光っているだけでは意味がない。必要なものを照らして初めて役に立つ。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | mixi-雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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