私自身の大学時代以前を棚に上げて語るならば、基本的教養とは自分自身がどこに位置しているかを理解していることである。
地理的な教養で言うならば自分の居場所を緯度と経度で知っていることよりも、極地方と赤道地方のような自然環境、それに則した暮らしがあるということを理解することがより重要である。それによってはじめて自分の居場所が分かることになる。
同様に文化的教養も科学的な教養も、その地平線を知ることによって自分の位置を確かめることこそが根幹であり、それ以外は努力目標と言ってもよいだろう。
一昨日8月16日には音大受験を控えた高校生のレッスンがあった。ためしに彼女の知る音楽史世界を問うてみると、果たして霧の中であった。これは彼女のせいではなく、彼女の指導にあたっている私を含めた周囲の指導者たちの問題である。彼女は高校でも音楽を学んでいるため、こちらも油断していた。
中学生以上のレッスンでは、なぜ音楽が今の形(つまり、現在の音楽に対する人々の認識)となり得たのか、新しい音楽に気づいていったのは誰であったのかを話してきた。美術史もしかり。なぜレオナルドはかくも重要視されるのか、モーツァルトは天才であったが、彼は何を為し得たのか。地球が球形であることに気づいたきっかけは何であったのか、最初に地球の大きさを計ろうとしたのは誰なのか、なぜ計れると思ったのか。なぜ宇宙に行かずとも宇宙が真空であると予想できたのか。
挙げていけばキリがないが、これらの基本的教養は我々に判断の基準を与えてくれる。 そういえば、深夜のテレビ番組「コマネチ大学数学科」の今週の問題は与えられた条件からビキニ姿の女の子の数を数えるという数理論理学だった。語彙的教養と論理学も武器となる。
「学ぶ」とはどういう意味なのか。「音楽」とは何か。明確な定義と論理があってはじめて我々は正解への道筋をたどることができる。これを「考える」という。
これなくして音楽を学ぶことは難しい。ピアノのレッスンだけしていて、音楽が理解できたら奇跡といえるだろう(ピアノを弾くという行為から全てを導き出したショパンのような奇跡は実在する)。奇跡はそう簡単には起こらないが、順を追って物事を理解していけば我々はかなりのところまで到達できるのではないか。
来週のレッスンからは彼女に知識としてではなく、方法論としての基本的教養を伝えていかなければならないだろう。
<ピアノを分かりやすく楽しく手ほどきいたします>という魅力的なコピーで語られる教室からは、およそかけ離れているのが作曲工房である。だからといって決して無理難題を吹っかけたりはしない。そんなことは無意味である。本人が本当のことに到達することだけを目標としている以上、無理などがあったらぶち壊しである。心してかかる必要もない。気づけば心してしまうからだ。
これをお読みの方に問題を2つ出題しよう。何を調べても、誰の言葉を引用してもかまわない。次の2語、あるいはどちらか片方だけでも説明していただきたい。自分自身に説明できればそれでよいのだが、あまりにすばらしい解答にたどりついたので、ぜひ他の読者にも知らせしたいという場合にはコメント欄に、私にだけ知らせたいという場合には下記サイトのメールフォームからどうぞ。1年、あるいはそれ以上かかる場合も考えられるので、ポイントは能力の高さや才能ではなく、到達したいという意思、つまり志(こころざし)となる。まず、到達できるだけの力を備えた自分自身にならなければならないし(答えを得るということは自分自身が変わることと同義)、長期間にわたって問題に取り組む覚悟も必要となる。この問題に取り組むことがどれだけその後の人生にとって重要であるかという認識が持てなければ、それらは生じない。
問題1.「水」
問題2.「土」
野村茎一作曲工房
2007年08月23日
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