2007年08月23日

レッスン日記2007-08-17

 一昨日、ナオコーラさんから「せんせいは論語を読まれるんですか」と訊かれた。彼女はネット生活を送っていないので、作曲工房サイトの「音楽コラム」は読んでいない。そんな彼女にどう答えればよいか少々迷った。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず(70歳になると思うがままに振るまっても道から外れることがなくなった)という意味を理解できたと思っている」と言ってから、つけ加えた。
「全ての論語を暗唱するよりも、ひとつでも真に理解できたならば、すべての論語が読み解けるのではないか」
 偶然ながら彼女は、最初の「三十にして立つ」を理解できたと思いますと言った。
 すばらしい。30歳までに自分の考えを持つ、あるいは自分で判断するということだ。彼女の言動から本当に理解していることが伺える。30歳が近い人は、これを目標としないと三十にして立てない。
 これは論語にのみ言えることではない。バイエルを1曲、真に理解したならばショパンも理解できるかも知れない。しかし、バイエルを理解できない人がショパンを理解できるとは到底思えない。

 さて、今日の午前中は川口市内で高綱ピアノ教室を開いているroppy先生のレッスンだった。年齢もほかの先生よりも少し上だが、志の高さも一段上である。先日、3人の生徒さんを連れてレッスンに見えられた。そのおちびさんたちが書いてくれた私宛の手紙を受け取った。小学校1年生ばかりだから内容は簡単なものだが、実にうれしい。みんなピアノが大好きになったと書かれてあった。
 さて、今日の最初の教材はプーランクの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 第3楽章」。以前のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のアナリーゼでは、レッスン後にさっそくオーケストラスコアを買って勉強したくらいの人なので、レッスンはいつも少しレベルの高いところに合わせがちになる。
 古典派とかロマン派、新古典派、印象派などの分類方法があるが、それは不協和音の種類と割合で決まるものではない。私が子どものころ、音楽室に貼られていた音楽史年表には作曲家の存命期間が数直線で表されて、上部には古典派とかロマン派とか記されていた。それによるとブラームスは新古典派であって、ドヴォルザークは国民楽派、ドビュッシーとラヴェルは印象派だった。私はブラームスこそシューマンとともにドイツロマン派の中心をなす人物であり、古典派から抜け出せない部分を持っていたのはメンデルスゾーンなのではないかと考えている。ラヴェルが印象派というのは、いま考えるとどうにもおかしい。響きだけで判断していたのだろうか。そして、当時読んだLPジャケットの解説にはラフマニノフが後期ロマン派として紹介されていた。ラヴェルは新古典主義の旗手である。ラフマニノフはロマン派の衣をまとってはいるものの、私の中では新古典主義の模範である。ところがプーランクは新古典主義の衣をまとっているものの、その精神はモダニズムであった。まあ、そのようなことはどうでもよい。重要なのは言葉ではなく、音楽で理解することである。
 一緒に前述したプーランクの第3楽章を最後まで聴く。次々と新しいメロディーが現れては消えて行くというめくるめく音楽。その発想の豊かさ、カラフルさには脱帽するしかない。それからラヴェルの弦楽四重奏曲の第1楽章を第1主題の再現まで聴いた。こちらは「統一・変化・持続」というソナタの精神をそのまま具現化したような色調の整った音楽である。ここまでかけ離れていると誰でも違いが分かる。だが、本当に理解しなければならないのは形式や和声による違いではない。それが分からければ「音楽史上重要な作曲家は誰か」というような問いには答えられない。
 roppy先生には訊くまでもなかった。今日は彼女の中で“音楽史”の姿が少し明解になったことだろう。うかうかしていると、私の方が教えを乞う立場にだってなりかねない。
 レッスン後半はル・クーペのラジリテのレッスン、および、さまざまなレッスン用エチュードの扱いについての質問に答えた。
 少々話はそれるが、子どもを寝つかせる時などに適当な作り話をおもしろおかしく語る親もいることだろう。ところが、それを文章として文字に置き換えようとすると難しさは何十倍にもなる。ひょっとすると百倍を超えるかも知れない。これがピアノのレッスンとレッスン曲の校訂版執筆との差と同じことなのである。ピアノのレッスンを行なうということは、レスナーなりのレッスン曲の理解というものがあるはずである。だから全てのレスナーに校訂版を書かせると、なかには化けの皮がはがれてしまう人もいるかも知れないのだ。ピアノレスナーに対する私のレッスン目標は、校訂版が書けるほどしっかりとした考えを持てるようになることである。
 ツェルニー100番、あるいはそれに類する練習曲集はエチュード集ではあるがメソードではない。しかし、それらのエチュードをしっかりとした考えと視点のもとに配列すればメソードとなる。
 ピアノレスナーに第一に求められるのがレッスン曲の理解、つまり徹底した教材研究である。レッスンに求められる教材研究は学究的な調査・解明ではない。要するに“分かること”である。美の理解なくして生徒に練習を命じることは、たとえ指練習であったとしても馬鹿げている。
 ツェルニー100番練習曲は、バイエルがハマりまくって「バイエル教則本」の礎となったと考えられる優れたエチュード集である。しかし、100曲全部をレッスンしていたら時間がかかりすぎるばかりか、全ての曲が全ての生徒に必要であるとも思えない。ツェルニーには他にも技術的に同レベルのすぐれたエチュード集が少なからずあり、ピアノレスナーはそれらの中から生徒に必要な曲をピックアップできるだけの技量と知識が必要である。ツェルニーだけではない。グルリットのような初心者向けエチュードから邦人によるエチュード集まで教材の発掘には熱心でなければならない。しかし、何を以てすぐれているとするのか。
 校訂版を書いてみればすぐに分かる。いま、じゅにあ氏が「バイエル校訂版」を執筆中である。彼は“分かる”ということが分かってきたところだ。無理やり分かろうとしてもそれはこじつけになるだけだ。自らが“分かる”まで高まるしかない。roppyさんは、ラジリテ、もしくはその前段階としてバイエルとラジリテをつなぐピックアップ・エチュード集を手がけることになる可能性もある。この2人がそれぞれ音大卒ではないところが音大の現状の一部を表しているのかも知れない。
   
 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:15| Comment(0) | TrackBack(1) | mixi-レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Excerpt: 印象派印象派(いんしょうは、仏:Impressionnistes)または印象主義(いんしょうしゅぎ、仏:Impressionnisme)は、19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず..
Weblog: クラッシックの世界
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