2009年03月12日

2009-03-12 私が学んできた曲-番外編-音楽史を学ぶ-01   古典派の果たした役割

 
 音楽大学で音楽史を学んだからといって、人前で音楽史について語れるとは限らない。それは、高校で世界史や物理の単位を取得したからといって、それらをマスターしたわけではないのと似ている。
 そこで一念発起して音楽史を学ぼうと志を立て関連書物をひも解いても、いまいち身体に染み込んでこない。というようなことを経験したかたもあることだろう。そんな時に役立つ音楽史理解のヒントを数回に分けて不定期連載したいと考えているが、気まぐれな性格ゆえ、次回がいつになるか当てにならないので気長にお待ちいただければ幸いである。なお、私とは意見を異にする音楽史家の方も少なくないと思われるので、他の音楽史も併読することをお薦めします。

 初回は古典派の理解である。
 西洋音楽の歴史を通じて、古典派ほど特異で、かつ影響力の強い時代はなかったと言える。それは次の4点に集約される。

 1.演奏形態の規格化
 2.楽式の規格化
 3.音楽の前衛化
 4.演奏水準の平均化

1.演奏形態の規格化
 ハイドンは数ある弦楽アンサンブルの中から「弦楽四重奏」という演奏形態を重視し、そのバランスのよさを示すお手本のような弦楽四重奏曲を数多く作曲した。それに触発された作曲家たちが、インスピレーションを得て、次々と弦楽四重奏曲の名曲を書くようになり、現在では室内楽の主要ジャンルのひとつとなっている。
 オーケストラの規格化も同様にして起こった。一部の前古典派を含めて、バロック時代までは各宮廷ごとにさまざまな音楽家が集い、その時々の編成によるオーダーメイドでエクスクルーシヴ(専用の、唯一の、排他的な)な音楽作品が書かれていた。そのような中、前古典派の優れた音楽家たちが集められたマンハイム宮廷のオーケストラは大規模なものであり、早い時期にクラリネットを導入し、まさに現在言うところの「2管編成」となっていた。モーツァルトも、マンハイム宮廷のオーケストラサウンドに興奮し「交響曲第31番“パリ”」を書いたと考えられる。大編成のオーケストラはクレッシェンドひとつとっても演奏効果は絶大で、当時の作曲家たちを虜にしたことは想像に難くない。大編成オーケストラは当時は前衛的・先進的な試みであったと言えるだろう。なぜなら、その表現力は作曲家たちの求めていたものであり、それ以後のオーケストラ編成がエクスクルーシブなものではなく、ユニバーサルな編成へと統一されていったからである。

 2.楽式の規格化

 しばしばバロック時代はポリフォニーで古典派はホモフォニーという言い方がなされるが、実際にさまざまな曲を聴いてみると、その印象は薄れてくる。ヴィヴァルディは一部対位法的な声部処理を行なうことはあっても、一貫してホモフォニーな作曲家であるように、他のバロック期の作曲家たちも主としてポリフォニーを書いていたという例のほうが少ないように感じる。逆に、古典派の作曲家たちがポリフォニーを取り入れる例も目立つ。
 古典派の最大の特徴は、ソナタ形式を初めとする楽式の定型化である。
 マンハイム楽派の作曲家たちは2つの対立する主題のコントラストによる楽式であるソナタ形式の概念を推し進めていた。感情過多な印象のある優雅なバロック音楽は、力強く迷いのない古典派音楽の前に古色蒼然たるものとなった。ヨハン、およびカール・シュターミッツ父子やクリスチャン・バッハ作り上げたシンフォニーなど、最新の音楽の前にバロック音楽は舞台を去るしかなかった。そして、さらに当時の最前衛に位置することになったハイドンの作品群は、それらさえ駆逐してしまった。ソナタ形式を考案したのは前述したようにハイドンではない。しかし、ハイドンのそれは際立っていた。
 楽式構造としてのソナタ形式のほかに、組曲としての「ソナタ」もハイドンによって整備された。3楽章形式で書かれることが多かった交響曲の第3楽章に「メヌエット」を置いて4楽章スタイルを定着させた。バロック時代に多かった「緩-急-緩-急」配置が、ソナタ形式の楽章を含む「急-緩-中-急」となったのである。協奏曲においては、提示部を反復する際に独奏楽器が加わる「協奏ソナタ形式」となって3楽章制が定着し、ピアノソナタなどは、そのひな形のようなスタイルをとるようになった。弦楽四重奏曲も交響曲に準ずる体裁を整え、ここに古典派の楽式スタイルが完成した。それは21世紀の今日にまで影響しており、ドビュッシーらの抵抗も空しく、現代でも作曲家たちにとって交響曲やソナタ、弦楽四重奏曲などは重要なレパートリーのひとつとなっている。

 3.音楽の前衛化

 バロック時代までは、作曲家は自らが仕える宮廷内での演奏を目的とした曲を書いていた。よって、とりたてて個性的であろうとか先進的であろうと考えることは少なかったように思われる。現代もその作品が取り上げられるバロック作曲家たちの多くは、それをよしとしなかった少数の人たちであり、大多数はそうではなかったはずである。なぜなら、現代においても、メディアからレストランに至るまで、実用の場においてはコピーされた同じような音楽で満ちあふれており、誰もが他と異なる音楽を必要としているとは限らないからである。
 ところが、次の節で扱うように、音楽家の活躍の場が宮廷内だけにとどまらなくなると、他との差異が必要になってくる。これが「音楽の個性化」である。さらに、前古典派の時代に起こった「音楽のパラダイムシフト(枠組みの転換)」は、音楽に「進歩」という宿命を課すことになった。ハイドンはその先鋭であったが、モーツァルトの登場は、一部の作曲家たちにとってさらに衝撃的だった。モーツァルトは、ハイドンが行なったような音楽上の改革はほとんど何もしていない。しかし、何もかもが違っていた。音楽の有機的な構成を可能にするためにシュターミッツらが実現しようとしていた「主題労作」を、それこそ完璧な形で実現し、メロディーや和声は洗練の極みにあった。モーツァルト作品に出会った後のハイドンは、明らかに作品の質が向上している。
 その2人の洗礼を受けたのがベートーヴェンである。彼は、先人たちの作品から学びながらも、決して倣うことはなかった。過去から学んでいても、常に未来を見据えていたのである。19世紀以後、音楽は急速にその姿を変えていくが、その転換点はハイドンというよりもベートーヴェンであったと見るほうが妥当だろう。ベートーヴェンはスタイルはハイドンから、音楽的内容はモーツァルトから影響を受けて出発したが、間もなく誰でもない、まさしくベートーヴェンとなった。ベートーヴェンの後には数多くの作曲家たちが列をなして続くことになる。

 4.演奏水準の平均化

 古典派も半ばを過ぎる時代になると、ヨーロッパ中を演奏旅行する音楽家たちが現れる。それまでも放浪の吟遊詩人たちが一夜の宿と報償を求めて宮廷を回ってはいたが、古典派の時代では事情が異なった。高い技術を持った演奏家たちが各都市で演奏会を開くようになったのである。それによって、人々の意識は演奏水準の高い側へと移っていった。それ以前の時代には、大きな宮廷は別としても、標準的な貴族の館では、音楽家とはいっても、普段は小間使いとして働くような環境のなかで、主人の食事や来客の際に演奏していた程度のものだった。
 高いレベルにおいての演奏水準の平均化は、その後の音楽の進歩に拍車をかけることになる。

 駆け足ではあったが、以上が音楽史における古典派という時代の果たした役割である。


 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 私が学んできた曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。