人の身体には、自然治癒力や免疫などの力が備わっている。もちろん、そのような能力があるからこそ今まで生き延びてくることができたにちがいない。
ところが人に生まれつき備わった力だけでは足りない時もある。そういう時には、驚くべきことに山野に薬草が用意されている(当然のことながら医学の発達も必要である)。
それこそが神の行ないであると主張する人もいることだろう。率直に言うなら、その意見に全面的に賛同することに吝(やぶさ)かではない。
ガイア仮説的に考えると、全ての生命は生態系によって生かされている。また、生態系は生命活動によって環境を保っている。免疫などの力は個体ごとに持っていたほうが有利だが、珍しい病気など、全ての病気に備えるのは身体に必要とは言えない機能まで持たせることになるので効果的ではない。それで、自然界に薬草を共有するようになったという考え方はどうだろうか。
漢方薬は、その多くが薬草である(動物性のものもある)。薬草には医薬品と違って効能が表示されていない。動物が食べているのを見たり、長年の経験で効能を発見したりして徐々に蓄積された知識が薬草を実用的なものにしてきた。
宇宙船や粒子加速器は工場で作られているような気がするが、その材料は元をただせば、全て地球が原料である。アフォーダンスとしての地球を探索することによって、いろいろな事が分かる。それが科学である。そして、目的を達成するために知識を武器に物に対して働きかけるのが技術である。薬草と同じように、地球には工夫次第でいろいろなことを可能にする資源がある。
ここで最初に戻る。
生命は生態系によって生かされている。しかし、行きすぎた資源開発と生態系を無視した技術開発やその行使は環境を危うくする。
薬草に効能が表示されていないように、資源にも注意書きがない。人類は持続可能なライフスタイルを大至急確立する必要があるだろう。
そのために必要なのは“知ること”である。その根本は、生態系が破壊されたら、生態系はバランスを取る形で回復しようとするだろう。しかし、その変化した環境が人類の生存に適しているとは限らない。
もし、人類の幸福とは何かと問われたら、川の水が飲用可能であることと答えるだろう(ただし、水棲寄生虫も生態系の一部なので完全な排除は不可能だが、それでもよい)。水がきれいであることほど文明のスコアの高さを表す指標はないだろう。
そのためには、よくよく考えれば必要のない物を、魅力的であると思わせて買わせようとする経済圧力に動じなければよい。私たちは自らの真の望みについてもっともっと詳しくなる必要がある。
環境保護を訴える時に悪者にされるのが科学と技術であるが、科学も技術も真の悪者ではない。人間の誤った欲望こそが悪者だろう。むしろ、人類はもっともっと地球を探索して真実に到達しなければならない。人が本当の望みに到達した時、それは生態系を破壊するような圧力を持たないはずであると信じている。
野村茎一作曲工房
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