2008年10月06日

気まぐれ雑記帳 2008-10-06 歴史に限らず

  
 もうかなり前、音楽コラムをスタートして間もない頃だったろうか、“かぎろひ”について書いたことがあった。
 
 東(ひんがし)の野に かぎろひの立つみえて かへりみすれば 月かたぶきぬ

 という、万葉歌人、柿本人麻呂(かきのものとの ひとまろ)の和歌に詠み込まれている言葉である。
 高校時代、授業でも参考書でも「かげろう」と解釈して習っていた。寒い冬の明け方にかげろうが立つわけがなく全く腑に落ちない話だったが、とある天文学者が「“かぎろひ”とは黄道光のことではないか」とエッセイに書いているのを読んでストンと腑に落ちた。今、思い返すと「そうか、黄道光なのか」と思ったというよりは、科学的態度・科学的視点とはこういうものかというものに対してのほうが大きかったかも知れない。
 黄道光とは、日没後、あるいは日の出前に黄道に沿って淡く舌状に光る現象である。
 後年、この話をすると「文学者に天文学の知識を求めても仕方がない」と返してきた人もいた。これは私が話すべき相手を間違えただけのことだ。人麻呂だって天文学に精通していたわけではないが目の前にあるものは見える。私が前提としているのは、彼がすぐれた歌人であり、すぐれた歌人は観察力にもすぐれていると考られるということである(“すぐれている”の第一義は事実の把握にある)。彼がすぐれた歌人であると断じるためには、彼の作品を熟読し、自らの中に万葉の世界観が構築されてきたら、時をおいて再び熟読するということを繰り返さなければならないかも知れない。その上で本当のことを知りたければ人麻呂と同じ時期・時刻・条件下でその場所に立てばよい(残念ながら私は、未だ立っていない)。
 人麻呂が“かぎろひ”を見て歌を詠んだとされる「奈良県宇陀市かぎろひの丘万葉公園」では毎年「かぎろひを観る会」というのが催されており、(陽炎説が腑に落ちない?)人々が実際にその目で確かめるために集まる。大宇陀観光協会では“かぎろひ”の定義を「厳寒の良く晴れた早朝に、太陽が地平線上に出る約1時間前、太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光」としているものの「太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光」のくだりが妙である。まるでスペクトルという光が存在しているかのような印象だけれども、太陽光を波長順に分解して並べた結果をスペクトルと呼ぶので、この定義は曖昧というしかない。夜明け前の薄明の始まりはほとんど水平に始まり、光(かなり眩しい)が立つのは日の出近くなってからである。少年時代から数年前まで“夜明け評論家”を自認する私は、薄明説には同意できない。
 「かぎろひを観る会」のホームページを見ると、大きな焚き火やコンサートなどのイベントが行なわれているようで、これでは黄道光は見えないかも知れない。
 黄道光説のポイントは、人麻呂の観察力を信じるならば「かぎろひの立つみえて」にある。まさに黄道光は地平線上に立ち昇るのである。しかし、その光は淡く、人工光が氾濫する現在、本州で黄道光が見られる場所は極めて限られていると観測者たちが語っている。実は、私も何度か黄道光の眼視確認に挑戦したものの実現していない。「かぎろひを観る会」の事実を確かめようという姿勢は素晴らしいが、イベントで人を集めるのではなく、高い志で向きあわなければ真実にはたどり着けない可能性が高い。
 11月初旬の明け方に黄道光を撮影した画像を見つけたので下にリンク。

のぼるしし座と黄道光

 と、ここまで書いてから言うのも変だが、私は「かぎろひ=黄道光説」を絶対だと思っているわけではない。より納得できる解釈や発想が現れたら、あっさりと宗旨替えすることだろう。

 “かぎろひ”という言葉ひとつをとっても、真実にたどりつくのは大きな困難が伴う(世界の把握による“事実に基づくインスピレーション”があれば、別の展開もあり得る)のだから、世界の歴史を把握しようと試みると大変なことになる。「コロンブスによるアメリカ大陸発見」などという言葉がいまだに堂々とまかりとおっている「歴史のごった煮情報(歴史学者や、人々の思い込み)」から真実をさぐっていかなければならないのだ。アメリカ先住民は人間ではないという考え方でなければ“アメリカ大陸発見”という言葉は出てこない。アメリカ先住民はヨーロッパ人よりも何万年も先んじていたのだが(それはもちろん地理的に有利だったから)、ヨーロッパ人の歴史観にそれはない。
 侵略側と被侵略側の描く歴史は全く異なったものになるだろう。そして、それが一致する日が来るとも思えない。
 このコラムを含めて、そこに書かれているのは筆者の思い込みの世界に過ぎない。私たちには、たとえば国立博物館に展示されている「火焔土器」をレオナルドの目で“見て”、そこから真実を読み取るような方法しか残されていない。
 世界は“ごった煮情報”に満ちており、何十年もピアノを弾いていながら、そのピアノの音にすら一度も気づくことなく生涯を終えてもなんら不思議はないのだ。ショパンが言う“厳密な意味における音楽”に気づいた人ならば、バイエルやツェルニーを「つまらない」と感じる人たちの演奏が、ありありと浮かぶことだろう。
 太陽系を鳥瞰する視点を獲得したコペルニクスやケプラーは喜びに打ち震えたかも知れない。真実に到達することは“難しい”と感じる前に、私には“喜び”のほうが大きい。そのための苦労は、全く苦労などではない。
 おいしい料理を作るためには、何かを足すよりも雑味をなくすことが先だ。スポーツもピアノも、余計なこと(たとえば不必要な動作、不必要な力み)をなくすことが基本である。そうでなければ何が足りないのか分からない。
 勉強しようと思ったら余計なことをしてはいけない。考えるということは正解への道筋をたどることであり、それは袋小路を消していくことと同義である。可能な限り根本(こんぽん)まで降りていかなければならない。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 12:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by ホテルマン at 2008年10月06日 14:31
ホテルマンさん、コメントをありがとうございます。このブログをリンクしてくださるのはご自由ですが、当ブログでは相互リンクは考えておりません。申し訳ありません。しかし、これも何かのご縁でしょうから、あなたのブログは時々訪ねさせていただきます。
Posted by tomlin at 2008年10月06日 15:29
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