タイトルについては、誤解を招く表現ではないかとかなり悩んだ。
しかし、物理学でも核力を「強い力」「弱い力」と表現しているので、正確に分かりやすく説明すれば理解していただけると思い「強いメロディー」というタイトルとした。
では、あらためて「強いメロディー」とはなにか。
それはアクが強いとか、押しが強いとか、いわゆる“キャッチーな”というものではない。
そのひとつに「忘れられないメロディー」であることを挙げたい。
ドヴォルザークの「母さんが教えてくれた歌(古くは「わが母の教え給いし歌」という訳もあった)」などは、私にとってはその1曲。
もうひとつは比較的シンプルであること。モーツァルトのアイネ・クライネの第1楽章序奏部などはどうだろう。冒頭2小節の動機にはGDHの3音だけしか使われていないのに、「モーツァルトの個性」「曲の個性」が見事に表現されていて、一度聞いただけで覚えてしまうシンプルさ。
さらに「他に類例のない際立った個性」も挙げられる。上記の2例にも当てはまっているが、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」にある「金平糖の踊り」は、似た曲を探すのが難しくはないだろうか。ほかにはショパンの「幻想即興曲」に登場する主要な3つのメロディーは全て際立った個性(特に曲独自の個性)を感じはしないだろうか。
アクの強いメロディーはいずれ飽きるが、ここでいう「強いメロディー」は劣化にも強い。長く聴いても、時代が変化しても変わらず魅力を発揮し続ける。
ビゼーの旋律には時代を感じさせないものが数多くある。「ハバネラ」や「美しいパースの娘」から編曲された「小さな木の実」などは作曲年代を言い当てることが難しいのではないだろうか。
では、次に「弱いメロディー」である。これは枚挙に暇(いとま)がなく、逆に何を挙げるか悩むのだが、演奏会で聴いて数日後にはひとつとしてメロディーを思い出すことができない曲を数えていく。
その代表はハイドンの「オラトリオ“四季”」。聴いている時には気持ちがよかったのだが、数日後には覚えているのは雰囲気だけで、正確に再現できるメロディーがひとつもなかった。決して駄作などではないだろう。しかし、メロディーが弱くて心にスタンプされなかった。
よくよく考えてみると、初期古典派の交響曲も後期ロマン派になってからの交響曲も、主題は強烈でも全ての部分が強いわけではない。それどころか大部分は弱いメロディーが主題の間を埋めていたりする。優れた作曲家たちは、その部分に「強い主題」に関連付けられた旋律(部分動機作法やリズム借用旋律など)を持ってくるので弱さを感じさせないだけである。
しかし、ひとつでも強い主題がないと私たちはその曲を思い出す機会が減ることは確かだろう。
調性音楽では、楽譜で見るかぎり、強いメロディーも弱いそれももそれほどの差がない。無調音楽では楽譜が大きく異なっていても、さらに差が小さい。
強いメロディーには作曲者と、その曲固有の個性が明確に打ち出される。くり返し念を押すけれどもアクやクセ(どちらかというとマイナスイメージとしての)が強いというわけではない(そういう時もある)。
ショパンのワルツやノクターンは1曲1曲がどれもはっきりと区別できるのではないだろうか。それらはどれもアクやクセが強いだろうか。
作曲家として人々の印象に残る作品を書こうと思ったら、少なくとも数曲は、人々にすぐに思い出してもらえる、あるいはついつい口ずさんでしまう“強いメロディー”を持つ必要があるだろう。私は、もう何十年もそればかりの考えてきた。
作曲の師である土肥先生は「旋律作法を学ぶことが最も難しい」と語っていた。それは作曲技術だけ「では解決できない側面を持つからだ。しかし、学ぶことが不可能なわけではない。
先生は、またこのようなことも言っていたからだ。
「旋律作法に優れているのはモーツァルト、ビゼー、チャイコフスキー」
この3人のメロディーのヒミツを探ることはきっと何かのヒントになることだろう。
野村茎一作曲工房