2011年09月29日

気まぐれ雑記帳 2011-09-29 育ちの良さ


 私には、常日頃カミさんから注意を受け続けていることがある。
 
「ドアは静かに閉めてね」

 これがなかなか治らない。
 言い訳めいたことを書かせてもらうならば、私が幼稚園児であったころ、ドアでも引き戸でもきちんと閉めずにいると祖父から「のろまの三寸、大馬鹿の開けっぱなし」と注意を受けたことが尾を曳いているのかも知れない。
 カミさんは「人の育ちの良さは名家に生まれ育ったということではなく、動作の静かさにある」と主張する。
 そのとおりだ。考えれば考えるほど、そのとおりだ。反論の余地はない。
 動作が静かであるということは、それが動作するのに必要な最小の力を推し測って自分自身をコントロールできるということだ。そういう行動が身につけば物が壊れにくいだろうから、美しい暮らしになることだろう。
 待ち合わせ場所に早く到着してしまった時など、行き交う人々の歩みをぼんやりと眺めたりすることがあるが、静かに歩く人には目が行く。静かに歩くということが遅く歩くことを意味するわけではない。無駄な動作がないと言ったほうが正確だろう。そういう人は、動作も静かなのかも知れない。
 
 そういう意味では、音楽の演奏でも育ちの良さがあると言えるだろう。
 たとえば、内田光子さんのピアノはとても静かだ。音量のことではない。彼女のフォルテがもの足りないと思ったことなどない。
 しかし、どんなに強く弾いても、どんなに速く弾いても静かに思える。静謐な音楽だ。
 彼女のピアノを育ちが良いと喩えてもよいだろう。
(ただし、CDではそのクオリアが伝わりにくいと思う。おそらく不可能だろう)

 作曲ではどうだろう。バッハの3声シンフォニア第9番からフーガの技法に至る一連の対位法作品をはじめとして、パッヘルベルの「シャコンヌヘ短調」やマルタンの「小協奏交響曲」、あるいはヴォーン=ウィリアムズの「田園交響曲」などは音量にかかわらず「静謐な」音楽に聴こえる。
 ひとこと断っておかなければならないが、静謐な音楽でなければ名曲ではないなどと主張する気はさらさらない。喧騒の名曲も数多くある。レスピーギの「ローマの祭」などは、よくぞやってくれたという曲だし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、第2部の「祖先の儀式」のようなピアニッシモのところが最も心がざわついたりする。

 人だって、育ちの良さが一番重要というわけではないだろう。本当のことが分かり、事実を事実として受け止めて行動できる(つまり、為すべきことを為せる)人こそが偉大であって、動作の静かさだけで人生をカバーできるわけではない。世の中には色々な人がいて然るべきだ。
 しかし、いま一度「静かさ」について思いを巡らせてもよいのではないか。

 私もドアを、その質量に合った力で動かし、閉まる時に速度がゼロになるように心がけたいと思う。
 静謐な曲も書いてみたいと思う。静謐な演奏だってしてみたい。

 そうすれば“がさつ”な私でも少しは育ちがよく見えるようになるかも知れない。
 

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

気まぐれ雑記帳 2011-09-17 小さな判断

 
 ここ一番という時の重要な判断を正しく下すことはなかなか難しい。
 そんな時でも常に正しい判断が下せる人こそ、人々の代表としての政治家であってほしいものだ。
 正しい判断とは何か、という問題に答えるのは易しいことではないが、次のように答えることはできるだろう。

 あなたは朝起きる。何時に起きるべきだろうか。他人は参考にならない。あなたと全く同じ生活をしている人はいないからだ。仮に朝7時に起きれば自分が思い描いたいたことをやるのに十分な時間が得られるとする。ならば7時に起きるべきだ。しかし、実行してみないと正しいかどうか分からない。あなたは、それを早速実行できたとしよう。実際には7時では10分ほど足りないことが分かったとする。あなたのライフスタイルでは、起床時刻は6時50分が正しかったことになる。
 ここで、あなたは小さいことではあるが、正しい判断を学んだことになる。
 朝食は食べたいが用意するのが面倒だ。そんな時、あなたは次のように考えて判断を下すとよい。面倒であるかどうかは考慮に入れずに、あなたの人生には朝食があったほうがよいかどうか。
 あったほうがよいと思ったなら朝食は取るべきだ。ここから先はあなたのライフスタイルに依存した朝食になる。面倒ならばシリアルと牛乳、バナナ1本、食後に缶、あるいは紙パックなどのコーヒーというような調理のいらない朝食にすればよい。もう少し朝食を楽しみたいのならば、ご飯だけ炊いておいて、スーパーやコンビニで手に入るようになったチルドのレディミールと味噌汁で「焼き魚と焼き海苔、漬物と味噌汁」など何種類もの朝食が10分ほどで食べられる。もちろん、自分で全て調理できる人はそれが一番良いだろう。出勤するのなら、道すがら朝食の外食でもよい。とにかく現代は選択肢が多くなったのだから、あなたに合う朝食スタイルが見つかるはずだ。
 判断したら実行する。実行すれば、その判断が正しかったかどうか分かる。間違っていたらすぐに修正する。それで、正しい判断を知ることができる。
 人には多かれ少なかれ実現したい将来があることだろう。今やっていること(たとえばゴロ寝や、見たいわけでもないのにテレビ画面を眺めているなど)が将来につながるかどうか判断すれば、何かが変わるだろう。
 自分が何を為すべきなのか分からないということもあるだろう。原因のひとつには学校教育が国民全員に「勉強しなさい」と言ってきたことがあげられる(決して間違ってはいない。全ては受け手の問題)。ここでいう“勉強”には枕詞として「学習指導要領に沿った教材で」が付く。だから「学習指導要領大明神」に権威を感じているひとは、お参りしないと後ろめたさを感じたりする。また、この大明神は非常に役に立つものの、この大明神から自分の将来を見出すことは稀有であろう。
 私達に必要なのは「読み・書き・計算と読解力(仕組みがわかること)」である。
 読書を習慣として、日記やブログを書き続け、さまざまなパズルを解くような人が大明神に出会うと、それほど苦もなく大明神をクリアできるかもしれない。
 そのようなレディネスなくして、いわゆる“勉強”をさせたところで成績は簡単には上がらないこともあるはずだ。
 少々脱線した。言いたかったのは、いわゆる“勉強”するということは自らの判断ではないということだ。
 自分が知るべきことがなにかに気づけば自分の判断で学ぶことができる。
 ここで元に戻ろう。
 じぶんが何をすればよいのかが分からない人は、何もしていない人だ。息を吸ったり吐いたりして、あとは他人(世の中の無言・有言の圧力)の指示で勉強してきた人だろう。
 さあ、まず小さな判断をしようではないか。朝、ベッドの中で判断留保のまま過ごすか、それとも人生にとって起きるほうが正しいと考えて起き上がるかだ。これはちょっとくらい勉強するよりも、あなたを変える。先ほど「何もしていない人だ」と書いたが、これであなたは「何かをした人」に変わる。これが続けば、あなたは自分がどのような未来を迎えたいのかが見えてくることだろう。
 小さな正しい判断の積み重ねは、大きな決断の時に正しい判断を下すための力になる。人の評価は、どのように判断し行動したかで決まる。
 
 「尊敬できる人」とは「為すべきことを為す人」である。「為すべきこと」は人によって異なるが「為すべきことを為している人」に私たちは苛立ったりするだろうか。
 自分自身が為すべきことを為していたら、自分自身を尊敬できることだろう。その状態を「誇りを持つ」とということだと言っても間違いではないだろう。
 自分がなすべきことを為せるようになれば、思い描く未来は実現することだろう。それも、全て小さな判断と実行の積み重ねがもたらす。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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