2011年02月21日

音楽コラム 2011-02-21 しぶとく「どのように作曲するのですか」という質問に答えて


 「どのようにして作曲するのですか」という問いは、作曲家ならば数限りなく繰り返される儀礼のようなものだろう。
 作曲を志す以外の人がそれを尋ねる時、本当は作曲の方法など知りたいわけではなく「自分にできないことをあなたはやっている」という賛辞の別表現なのかも知れない、と思うものの、やはり答える義務があるような気がしていつも困惑してしまう。
 今までにも、当コラムにおいて幾度となく書いてきたのだが、今回は別の角度からお答えしたいと思う。

 あなたが、今までに見たこともないような美しい夕焼けを見て感動したとしよう。
 すっかり日が暮れた夕食時に、あなたは家族にそれを伝える。

「今日の夕焼けすっごくきれいだったんだよ」
「へえ」

 どうも伝わらなかったようだ。ここであなたは、実際には美の本質をほとんど伝えることのできない「きれい」という言葉の無力さに気づいた。
 後日ふたたび、きれいな夕焼けに出会う機会を得た。あなたはすぐに愛用の携帯電話のカメラ機能で夕焼けを撮影する。そして夕食時。

「ほら、今日の夕焼けこんなにきれいだったんだよ」
「ふ〜ん、きれいだね」

 小さな液晶画面にはオレンジ色に輝く雲が写っている。
 しかし、それはあなたの見た色とは微妙に異なるばかりか、視界を覆い尽くす雄大な光のパノラマと、強烈なコントラストを放つ直上の紺碧の空の深さが伝わらない。

 美というものは、本当に伝わりにくいものだ。だからクオリア(感覚だけが捉えることのできる質感)なのだけれど、別のクオリアに置き換えることができる場合がある。
 それを言葉に置き換えて表現できる人を詩人、平面作品に置き換えて表現できる人を画家、あるいは美術家といい、写真なら写真家というなことになる。
 写真なら誰でも伝えられるだろうと思う方もいらっしゃるかも知れないが、撮影会でプロと自分が同じ被写体を撮影した写真を見たら愕然とするに違いない。
 たとえば旅行先でスナップ写真を撮る時、史跡などの前に人を立たせ、写し手側の都合でシャッターを切る(写される側は、たいてい何秒間も笑顔のまま待たされる)。
 しかし、プロカメラマンは違う。人の表情は常に変化しており同じではない。だから、シャッターは自分の都合ではなく、相手の表情を先読みしながらジャストタイムでシャッターを切る。
 さらに、人の目は明るさも色温度も、露出も、さらにはラチチュード(細かい説明は省かせてください)まで気づかぬうちに脳内補正してしまうという優れた能力がある。それを知らないと、写真を撮れば夕焼だって自分の見た目のように写ると思ってしまうが、実際にはそうではない。それに、肉眼で実際に見た景色はフレーミングされていない。見える範囲というものはあるが、ピントがあっているのは中央部のわずかな領域だけで、視点中央から離れればはなれるほど視界はぼやけていく。
 思いどおりの写真を撮影するために、ここで数多くの写真撮影の技術が登場する。
 フィルムカメラの時代には、私たちは色温度を補正するための何種類ものレンズ・フィルターを持ち歩いたものだが、デジタルカメラになってからは、ホワイトバランス(色温度にほぼ等しい)を調節できるようになった(通常の使用ならばオートホワイトバランスでもかまわない)。
 しかし、夕焼けの微妙な色にまで気づいてしまった人にとっては、その再現が何より大切になってくる。ホワイトバランスの調節にも限界があることに気づくと、露出補正やレンズフィルターにも詳しくなっていく・・、とまあ、このような過程を経るに違いないと想像できる。

 では、作曲家は何をするか。

 私たち作曲家は、自らの内に美しい音楽を聴いてしまうことがある。すると、美しい夕焼けと一緒で、誰かに伝えたくなる。
 ベートーヴェンも言っている。

「私の中にあるもの(音楽)は外に出さなければならない」( )内、筆者。

 だから、作曲家の力には2つの種類があることになる。
 ひとつは「自らの内部にどれだけ美しい音楽を聴いたか」、もうひとつは「それを伝達する技術を持っているか」。

 現存する有名な作曲家のうち、おそらく10人のうちの9人までが後者の達人であり、音楽史に名を残す(その死後も演奏され、聴かれ続けている)作曲家の10人に9人は前者の達人ではないかと私は密かに考えている。

 「自らの内部に美しい音楽を聴く」というのは、以前にも書いた次のような例で説明できることだろう。

 仲間と、あるいは家族などと海に行ってその風景をみんなで眺めたとしよう。帰りの電車やクルマの中で、いま見てきた風景の話になったとする。

「水平線と空の境目がきれいだったな」
「防風林に咲いていた花がきれいだったねえ」
「磯のところで魚が海面から跳ねていて、それが良かったなあ」
「大きな貨物船がゆっくりと水平線のかなたを移動していて、ずっと目で追っちゃったよ」
「あたし、寒くて早く帰りたかったわ」

 一口に海の風景と言っても、その情報量は膨大で全てを見ることは一生をかけても難しい。100人いれば、100人とも異なる風景を見ていることは間違いない。同じ風景を描き続ける画家が存在するのも頷ける。彼(彼女)は、昨日とは違う風景を見いだしているに違いない。

 音楽を聴くのも全く同じであって、メロディーラインだけを追っている人がいるかと思えば、同時にオブリガート(対旋律)を楽しんでいる人もいる。さらに、複数の動機を聴き分けて、それらが曲全体の構成にどのように関わっているかを聴き取って感動する人もいることだろう。更には楽器の音色や、異なる楽器のユニゾンによる音色や強弱の変化、もっと深く考えれば、その楽曲で鳴り響いている音以外の、作曲家が表現し得なかった音まで聴いている人もいるに違いない。
 過去の大作曲家たちの作品から、彼らの美的内面のどこまで聴き取ることができたかが、いま作曲している作曲家たちの「自分の内に響く音楽」の質を決定的なものにする。
 つまり「何を聴きとったか」が作曲家の資質を決定する大きな要素のひとつであるということだ。
 表現技術を過去の作曲家たちの作品から聴き取ることも可能だが、優れた作曲家は楽器や演奏家(声楽家を含む)から直接学びとるもののほうが多いことだろう。
 今までずっと書き続けてきたように、音楽美は「作曲者の“音楽性”魅力」「演奏者の“音楽性”の魅力」「楽器、あるいは声の持つ魅力」の3つから構成されている。
 そして、すぐれた音楽とは「地上に生まれ育った私たちが自然から学んだ美」と乖離(かいり)することがなく、高く打ち上げられた野球のフライをキャッチできるように、その軌跡を予想することができるような表現で(これも、私たちは地球上の自然な物の動きから学んでいる)、さらに「望んでいたのだけれど、自らは到達することができなかった美的世界」を実現したものを指す。
 
 作曲するとは、そういうものを目指す営みです。

 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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