2.音楽の本質は学べるが習えない
2-1 才能とは何か
芸術にかかわる才能の本質は“何を好むか”という問題に集約することができる。
なぜなら、人々は、自ら好むもの範疇からのみ素晴らしさを感じるのであり、それなしでは“才能”は見いだされないからだ。
だから、好むものが誰とも重ならなければエキセントリックな才能とみなされ、人々の注目を集めることは難しいだろう。だからと言って、人々に迎合しようとしても無理だ。迎合で力は発揮できない。人が本当に力を発揮できるのは真の自分自身を表現できるフィールドのみである。
さて、その発揮された力は何によって計られるかというと、次の4つの要素であると思う。
1.独創的であること(亜流ではなく、源流であること)。
2.時代を超えて通用すること(価値が変わらないこと)。
3.通俗的ではないこと(飽きられないこと)。
4.芸術性と娯楽性が両立していること(気高さと魅力を兼ね備えていること)。
1.過去の伝統から外れた独創による作品が理解されるのは、受け手のレディネスがないので非常に難しい。だから、優れた芸術家は伝統に則った“正統”という感覚を育てて人々と美を共有する道を選ぶ。また、そのようにしないと音楽的伝統は洗練されていない。伝統は守れば良いというものではなく、常に洗練という圧力にさらされて、アップデートされ続けなければならない。そのアップデート分が“独創的”と判断される部分なのだが、正統という感覚なしに洗練はなされない。人がまだやっていないことをやるのではなく、為されてしかるべきなのに未だ為されていないことを行なうことが正しい。
2.時代を超えて通用するというのは分かりにくいようだが、伝統に則った“正統”という普遍的なセンスを持つことが全てを解決する。その確認について土肥先生は「25年経てばわかる」と言った。当時高校生だった私には永遠にやってこない未来のような気がしていたが、25年過ぎてみると、それは物事がもっとも古びて見える年月のことだった。それを更に過ぎると、今度はレトロな印象になって再び受け入れられるものも出てくる。
シェーンベルクは、弟子たちに徹底して古典を学ばせた。そうでなければ12音技法は伝統を受け継ぐ正統な音楽とならない可能性があることを知っていたのだろう。
ドビュッシーは過去の音楽と断絶しているように見えるけれども、バッハと前後して演奏されても違和感はない。これこそが、似ているかどうかではなく、正統な音楽であるかどうかこそが重要である証左だろう。
20世紀後半に書かれた“いわゆる現代音楽”を今になって聴くと、優れた作品とそうでない作品の区別がよく分かることだろう。作曲者自身が分からずに書いた「不協和音があれば現代風(しかし音楽語法は昔のまま)」というデタラメ音楽は、聴いた途端に恥ずかしく可笑しくて、思わず吹き出してしまいそうだ。そうかと思うと、当時は分からなかったけれどもこんなに素晴らしい作品だったのかと感嘆させられる作品もある。時代の波に洗われるというのは、作品の優劣などが顕著になってくるということなのだろう。
3と4.芸術と娯楽は相反する概念ではないが、芸術と通俗は対立する。ゆえに通俗を好む人は、その一点によって芸術とは一線を画した道を進むことになる。通俗とはその時代にしか通用しなかったり、最初はいいと思ってもいずれ飽きてしまう、あるいは後で恥ずかしさのような感覚がやってくるセンスである。過去のすぐれた作品に深く触れることによって通俗性からは離れることができるはずだが、それすら難しい人々がいることは事実である。
娯楽性は、楽しさ、期待感、躍動感、分かりやすさ(晦渋ではないこと)などの要素からなる概念で、芸術性に対して決して劣る概念ではない。もし、ショパンやベートーヴェン作品から娯楽性が消え去ったら、その魅力はすっかり失せてしまうのではないだろうか。“いわゆる現代音楽”が人々に受け入れられ難かった最大の理由は不協和音への無分別な“忌避音(avoid)”の使用であったと考えているが、娯楽性への不寛容も挙げられるのではないか。
※忌避音について
本来、不協和音は魅力的なものである。機能和声学上の和音を色にたとえると、3原色の単色が完全協和音、2色の混色が不完全協和音(ドミソなど)、そして3色混色が不協和音(7以上の和音)ということもできるだろう。巧みな3色混色はパステルカラーのような色合いを生むが、デタラメな混色はどれもグレーのような色になる。色から色相を奪ってしまう絵の具に相当するのが忌避音である。どれが忌避音であるかは、前後の文脈によって変わってくるので一概には言えないが、次のように考えると分かりやすいのではないか。
13の和音には音階上の7音すべてが登場する。もし、I 度からVII度まで全ての和音を13の和音にしたら、全ての和音が同じ構成音で配置だけが異なることになる。つまり、全て同じ和音に聴こえてしまう。ここから忌避音を除いていけば音楽的な意味が見えてくることだろう。忌避音がそれで全て説明できるわけではないが、限られた文字数で言うとそのようなこととご理解いただきたい。
さて、上記の文章が正しいとは限らない。あるいはあなたの同意を得られるとも限らない。実は、それはどうでもよい。事実から学ぶ力がなければ、その人はたったひとつの真実に到達することもないからである。この文章を読んで、何か変だと感じてもそれだけではどちらが正しく、また間違っているのかは判断できない。事実と照らし合わせて確信できなければ意味がない。しかし、自らの考えを確認するよいきっかけにはなることだろう。
その3へ続く
野村茎一作曲工房