2010年07月20日

音楽コラム 2010-07-20 音楽コラムまとめ その2

 
2.音楽の本質は学べるが習えない

2-1 才能とは何か

 芸術にかかわる才能の本質は“何を好むか”という問題に集約することができる。
なぜなら、人々は、自ら好むもの範疇からのみ素晴らしさを感じるのであり、それなしでは“才能”は見いだされないからだ。
 だから、好むものが誰とも重ならなければエキセントリックな才能とみなされ、人々の注目を集めることは難しいだろう。だからと言って、人々に迎合しようとしても無理だ。迎合で力は発揮できない。人が本当に力を発揮できるのは真の自分自身を表現できるフィールドのみである。
 さて、その発揮された力は何によって計られるかというと、次の4つの要素であると思う。

1.独創的であること(亜流ではなく、源流であること)。
2.時代を超えて通用すること(価値が変わらないこと)。
3.通俗的ではないこと(飽きられないこと)。
4.芸術性と娯楽性が両立していること(気高さと魅力を兼ね備えていること)。

1.過去の伝統から外れた独創による作品が理解されるのは、受け手のレディネスがないので非常に難しい。だから、優れた芸術家は伝統に則った“正統”という感覚を育てて人々と美を共有する道を選ぶ。また、そのようにしないと音楽的伝統は洗練されていない。伝統は守れば良いというものではなく、常に洗練という圧力にさらされて、アップデートされ続けなければならない。そのアップデート分が“独創的”と判断される部分なのだが、正統という感覚なしに洗練はなされない。人がまだやっていないことをやるのではなく、為されてしかるべきなのに未だ為されていないことを行なうことが正しい。

2.時代を超えて通用するというのは分かりにくいようだが、伝統に則った“正統”という普遍的なセンスを持つことが全てを解決する。その確認について土肥先生は「25年経てばわかる」と言った。当時高校生だった私には永遠にやってこない未来のような気がしていたが、25年過ぎてみると、それは物事がもっとも古びて見える年月のことだった。それを更に過ぎると、今度はレトロな印象になって再び受け入れられるものも出てくる。
 シェーンベルクは、弟子たちに徹底して古典を学ばせた。そうでなければ12音技法は伝統を受け継ぐ正統な音楽とならない可能性があることを知っていたのだろう。
 ドビュッシーは過去の音楽と断絶しているように見えるけれども、バッハと前後して演奏されても違和感はない。これこそが、似ているかどうかではなく、正統な音楽であるかどうかこそが重要である証左だろう。
 20世紀後半に書かれた“いわゆる現代音楽”を今になって聴くと、優れた作品とそうでない作品の区別がよく分かることだろう。作曲者自身が分からずに書いた「不協和音があれば現代風(しかし音楽語法は昔のまま)」というデタラメ音楽は、聴いた途端に恥ずかしく可笑しくて、思わず吹き出してしまいそうだ。そうかと思うと、当時は分からなかったけれどもこんなに素晴らしい作品だったのかと感嘆させられる作品もある。時代の波に洗われるというのは、作品の優劣などが顕著になってくるということなのだろう。

3と4.芸術と娯楽は相反する概念ではないが、芸術と通俗は対立する。ゆえに通俗を好む人は、その一点によって芸術とは一線を画した道を進むことになる。通俗とはその時代にしか通用しなかったり、最初はいいと思ってもいずれ飽きてしまう、あるいは後で恥ずかしさのような感覚がやってくるセンスである。過去のすぐれた作品に深く触れることによって通俗性からは離れることができるはずだが、それすら難しい人々がいることは事実である。
 娯楽性は、楽しさ、期待感、躍動感、分かりやすさ(晦渋ではないこと)などの要素からなる概念で、芸術性に対して決して劣る概念ではない。もし、ショパンやベートーヴェン作品から娯楽性が消え去ったら、その魅力はすっかり失せてしまうのではないだろうか。“いわゆる現代音楽”が人々に受け入れられ難かった最大の理由は不協和音への無分別な“忌避音(avoid)”の使用であったと考えているが、娯楽性への不寛容も挙げられるのではないか。

※忌避音について
 本来、不協和音は魅力的なものである。機能和声学上の和音を色にたとえると、3原色の単色が完全協和音、2色の混色が不完全協和音(ドミソなど)、そして3色混色が不協和音(7以上の和音)ということもできるだろう。巧みな3色混色はパステルカラーのような色合いを生むが、デタラメな混色はどれもグレーのような色になる。色から色相を奪ってしまう絵の具に相当するのが忌避音である。どれが忌避音であるかは、前後の文脈によって変わってくるので一概には言えないが、次のように考えると分かりやすいのではないか。
 13の和音には音階上の7音すべてが登場する。もし、I 度からVII度まで全ての和音を13の和音にしたら、全ての和音が同じ構成音で配置だけが異なることになる。つまり、全て同じ和音に聴こえてしまう。ここから忌避音を除いていけば音楽的な意味が見えてくることだろう。忌避音がそれで全て説明できるわけではないが、限られた文字数で言うとそのようなこととご理解いただきたい。

 さて、上記の文章が正しいとは限らない。あるいはあなたの同意を得られるとも限らない。実は、それはどうでもよい。事実から学ぶ力がなければ、その人はたったひとつの真実に到達することもないからである。この文章を読んで、何か変だと感じてもそれだけではどちらが正しく、また間違っているのかは判断できない。事実と照らし合わせて確信できなければ意味がない。しかし、自らの考えを確認するよいきっかけにはなることだろう。

その3へ続く


 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

音楽コラム 2010-07-17 音楽コラムまとめ その1


 音楽コラムもバックナンバーが増え、新たに作曲工房サイトにたどり着いた方が全てを読み返すのは現実的ではなくなってきた。
 そこで、音楽コラムを要約すべきと思い立った。
 
1.考えるとはどういうことか

 私は作曲の師である土肥 泰(どい・ゆたか;1925-1998)先生に出会うまで、自分がかつて一度も考えたことがなかったなどということには思い至ることがなかった。
 それまでの私は、質問されれば“思いついた”答えを答えていたにすぎなかった。
 私は彼のところに音楽を学びに行ったつもりだったが、2つの大きな勘違いをしていた。ひとつは知識と理解の違いに気づいていなかったこと、もうひとつは音楽そのものは“習えない”ことに気づいていなかったことである。
 知識と理解に関しては、次のような例を挙げることができる。

「モーツァルトは天才か?」「そうだ」

 これで、あなたはモーツァルトが天才であることを心の底から納得できるだろうか。
 仮にさらに詳細な説明を受けたとしよう。モーツァルトイヤーであった2006年にはモーツァルトを特集したテレビ番組が数多く報道されたけれど、天才の理由についてモーツァルトのソルフェージュ能力について多くの時間を割いていた。ソルフェージュ能力だけについて言うならば、サヴァン(賢人)症候群と呼ばれる一部の人々が我々を驚嘆させる能力を発揮している。高いソルフェージュ能力も天才の証のひとつかも知れないが、それだけで天才を説明するには無理がある。
 天才を測るには次のような説もある。

1.極めて早熟であること
2.並外れて高い技術を持っていること
3.発想が全く独自であったり、かけ離れていること
4.問題から直接答えに到達すること
5.時代に先駆けていること

 上記5つの条件に3つ以上当てはまることが天才の最低条件とするものである。
 ところが、ここにも問題がある。どれひとつをとっても客観的な尺度がない。(1)早熟と言っても達成した年齢を指すのか、あるいは内容を指すのか。モーツァルトの交響曲第1番が8歳の時に書かれたことが話題にのぼるが、本当に話題とすべきは、それが子どもの作品としてではなく、コンサートレパートリーとして現代のオーケストラによって演奏会で普通に取り上げられていることだ。なぜ人々に愛されているのかは、私たち自身が、交響曲第1番変ホ長調を深く理解する以外知る方法はなく、それは習うことができない。
(2)また、モーツァルトは作曲技法に関する非常に高い技術を持っていた。特にポリフォニーに関しては、バッハ作品に出会ってから極めて短期間にその音楽的重要性を理解し、たちまち優れた作品を書き上げた。しかし、私たちはそれがなぜ重要であり、優れているのか説明できるだろうか。これもいくら説明を聞いたところで自らが到達する以外ない。
(3)発想が全く独自であったか、という問題に答えるのは凡人たる私には荷が重すぎる。何か言えることがあるとすれば、それは彼が自らが出会った作曲家や作品からたちまち学んでしまうという能力があることだろう。さらに、それに沿ってオリジナルよりもすぐれた作品を書いてしまう。初期の交響曲はクリスチャン・バッハの作品と区別できないようなものがあり、その後にはシュターミッツの影響を受けた交響曲、またさらにハイドンとお互い影響しあっているように思われる。単なる真似でないことだけは確かだが、彼の発想が独自であったかどうかも我々自身が自ら結論に到達しなければならない。
(4)問題から直接答えに到達することもモーツァルトにはあった。たとえば、K.545第1楽章のソナタ形式の部分動機作法に関しては、モーツァルト自身気づかぬうちに書いていたようにさえ思える。ベートーヴェンは、モーツァルト作品のその点に着目してソナタ形式を単なる時系列構造で表せない有機的構造を構築した。しかし、それが本当にそうなのかどうかも、私たちが真に納得できるまで追究しなければならない。
(5)モーツァルトが時代に先駆けていたかということは判断が難しいが、ベートーヴェンが英雄交響曲で行なったような、後につづく作曲家たちの意識改革のようなことはなかったように思える。これとて、確信できるまで考え続ける必要がある。
 このように書いても、全ての読み手がモーツァルトの天才に到達できるかどうかは分からない。分かった気がしたのか分かったのかは次のようなテストで少しは判断できるだろう。
 一例として「魔笛」のスコアを示されて「いくら時間がかかってもかまわないからモーツァルトの天才を確認できる優れた点を明示して欲しい」と言われたら答えられるだろうか。もちろん、答えられる人もいることだろうし、答えられない人もいることだろう。その両者の差は、考えられるかどうかの違いだけである(ただし、天才はこの限りではない)。

 考える第一歩は、考えの基となる“概念”(イコール言葉)が明確であることだ。
 “学ぶ”という言葉は「知る前と知った後、あるいは理解する前と後とで行動が変わること」である。だから、私が“学ぶ”と書いたら厳密にその意味で使っている。
 “愛する”という言葉は「その価値が分かること」である。だから「自然を愛する」と言ったら「自然の重要性、価値を理解し認めていること」になり、自然破壊が起こると猛然と反対して行動に出たりする。「家族を愛する」も「音楽を愛する」も同じ意味である。愛することは全て自己基準であり、他人は関係ない。だから、かなり何かを愛せる人は自ら考える優れた人であると言えるだろう。
 「成績が良い」と「頭が良い」ことの違いは次のように説明できる。成績がよい人は知識を無批判に受け入れて、たとえば天動説のテストで100点を取る。それに対して頭が良い人は天動説の矛盾を見いだして地動説にたどり着く。天動説にも地動説にも多くの学説があるので、アバウトな例ではあるのだが、説明としては事足りると思う。
 さて“考える”とはどういうことだろうか。それは「思考が正解への道筋をたどること」である。だから誤った答えに向かった場合、それは考えていなかったことになる。「下手の考え休むに似たり」である。考えるためには、論理の構築に使った用語(概念)が明確であり、誤りがないことが前提である。

 初歩の数学(算数)では使われる数字や記号の定義が明確であるがゆえに、答えが厳密に決まるのはそのような理由からである。
 サモスのアリスタルコスは、太陽と月の距離について考えた。太陽のほうが遠いのは日食によって明らかである。太陽は自ら輝いているが、月は太陽の光を受けて光るために満ち欠けをする。ということは、半月の輝面は太陽を向いていることになる。つまり、太陽-月-地球の作る角が直角になった時(それぞれの星を頂点とした直角三角形になる時)に地球から半月を見る事ができることになる。それで、アリスタルコスは半月時の月と太陽の位置を観察した。しかし、予想に反して太陽-地球-月の為す角も直角のように思えたのである。それがあり得るのは太陽がとてつもなく遠くにある時だけだ。アリスタルコスは「少なくとも太陽は月よりも20倍以上遠い」と記している。にもかかわらず月と同じ大きさに見えるということは、事実は太陽が非常に巨大な天体である可能性を示していることになる。
 それで、アリスタルコスはそのような遠方にあり、かつ巨大な太陽が一日で地球の回りを公転することの不自然さに思い至り、人類史上初の地動説(太陽中心説)に到達した。今から2000年以上も前のことである。
 これが「考える」ということの一例である。

その2へつづく

 野村茎一作曲工房
ラベル:お薦め記事
posted by tomlin at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。