2010年06月30日

音楽コラム 2010-06-30 ソナタを書く


 器楽曲としてのソナタの定義は時代によって異なり、研究者たちはそれらを詳細に調べあげて「ソナタ」について説明しようとすることだろう。
 しかし、現代の作曲家がソナタを書こうとする時、研究者とは全く異なる視点からソナタを捉えようとするはずである。
 私にとってソナタとは「組織だった音楽を追究する」という宣言である。だから、たとえば多楽章であるか単楽章であるかという問題などは大きな要素ではなくなってしまう。それは全ての楽章に同じDNAから構成される主題を用いれば(組織だった構成をしようとするとしばしば行われる作法)、その時系列構造は第1楽章が提示部、最終楽章が再現部となって、単楽章にも多楽章にも聴こえてしまうからである。記譜がどのような形であれ、問題はどのように聴こえるかのほうが優先する。
 まず、なぜソナタが「組織だった音楽」であると主張するのかということから説明すると、私が優れていると感じた音楽史上の「ソナタ」が、どれも組織立った構成をとっているからである。そうでない作品も数多くあるが(むしろ、組織立っていないソナタのほうが多、多数決ならば「ソナタは決して組織立っているわけではない」ということになる)、それは作曲者の指向や能力の問題であって、そういう曲から学ぼうとは思わない。
 そして、ソナタには最低1つはいわゆる「ソナタ形式」の楽章が必要である。なぜならソナタ形式こそ「組織だった」音楽を追究するために生まれ、発展してきたツールだからだ。
 次に「組織だった」という意味について書く。もっとも組織立っている例が生き物である。「心臓は邪魔だからいらない」というような人がいないように、生物はさまざまな要素が全てお互いに必要な機能を持って働いて初めて命を宿す。さらに全ての細胞が同じDNAで設計されており、猫には猫の耳や尻尾があり、馬には馬のパーツが備わっている。
 だから真に組織だった音楽は「生きている」かのように感じられることだろう。本来は全ての音楽がそうあるべきなのだろうが、それを実現しやすい形式が、今のところソナタ形式であると感じている。
 ソナタを追究する時、書物をあてにしてはならない。多くの場合、そこには著者の勘違いと能力の限界が記されているに過ぎないからである。仮に、ベートーヴェンが自作ソナタの解説書を書き残していたとしても、その説明よりも実際の楽譜のほうが遥かに多くを語っていることだろう。モーツァルトに至っては、ひょっとしたら自分がどんなに偉大なことを成し遂げたのか気づいていない可能性すらあるのではないか。なぜなら、彼には音楽美的な駄作はないと言えるかも知れないが、構造的な傑作と駄作が混在しているからである(構造的傑作例 K.545 構造的駄作例 K.333 ただし、一般的にはどちらも名曲)。彼が組織だった音楽を確信していたとしたらそのようなことは起こらないだろう。ベートーヴェンは、歳を経るにしたがって構造が緻密になる。ここでいう緻密とは「密度が上がって精密さが増す」という意味ではない。一筆書きのような、あるいは雪舟が涙で描いた鼠のような、簡単な構造をも含んでいる。つまり、簡単なことをやっても緻密に感じるということだ(弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調を始めとする後期弦楽四重奏曲など)。

 時系列構造は決して軽んじるべきではないが、おおかたの書物がソナタ形式を時系列構造で論じている。つまり1次元(線)的な視点である。
 しかし、ソナタ形式の本質はそこから先にある。
 部分動機作法によってソナタの全主題(コーダを含む)のDNAが統一されれば音楽は2次元(面)的な広がりを持つことになる(ラヴェル「弦楽四重奏曲 ヘ長調」などに顕著な例を見る事ができる)。ただし、各主題は変化してコントラストを持たなければ意味がない。統一(共通性)と変化(コントラスト)は、そもそも同時には成り立ちにくい概念ではあるけれど、過去の大作曲家たちは果敢にもそれに挑戦してきた。そして、それらの共通性がありながらもコントラストを持つ複数の主題が対位法的に同時に提示されたら、それはもう3次元(立体)的な構造と言えるだろう。
 ここで少し音楽的パースペクティヴ(遠近法)について説明しておく。
乗り物に乗って移動すると(歩いても変化が遅いだけで同じだが)、近景は素早く動くのに遠景はゆっくりとしか動かない。アニメーションなどでもその手法で距離感を表現するが、音楽も同様である。バッハの「フーガの技法」にある「2(3)種類の時価による反行フーガ」や「新主題と原形主題による4声の2重フーガ」は立体感たっぷりに聴こえる。時代が下るとそのような作品は数多く書かれるようになるが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第1楽章の再現部などが良く知られる例だろう。ちなみに、ピアノが弾く第1主題の対旋律は第2主題の部分動機の発展形で、展開部で周到に準備されている。
 最後にひとつだけ付け加えておくと、循環形式(複数の楽章に渡って同じ主題が用いられる形式)と部分動機作法、あるいは細胞音形による主題労作は似ているようで全く異なる。循環形式は変奏曲の一形態であり、部分動機作法は変奏曲にならないための技法だからだ。ゆえに、両者は矛盾なくひとつの楽曲の中に収めることもできる。

 こんな大口を叩いてしまったのだから今更言い訳をする気などない。誰が何と言おうと作曲家は作品で勝負しなければならない。形式や構造がどんなに緻密であっても音楽そのものが美しく魅力的でなければ意味がない。それは常日頃主張しているように、音楽を後世に伝えるのは「(時代を超えて)その曲を演奏したいという演奏者の強い動機と聴きたいという聴衆の欲求」だけだからだ。
 だから、作曲家の才能と言った時、それはソルフェージュ能力でも記憶力でもなく、どのような音楽を好むかを指す。
 
私のソナタ形式の楽章を含む主な作品リスト
・ソナチネアルバム(未刊)全10曲(1983-2010)
・ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ(1996)
・オーボエとピアノのためのソナタ(1999)
・アルトサクソフォーンとピアノのためのソナタ(2000)
・4手のためのピアノソナタ(2004)
・フルートとピアノのためのソナタ(2007)
・2台のピアノのためのソナタ(4手ソナタの改稿/2010)

上記リストのほかに「ウラノメトリア・シリーズ」第3巻アルファに「初めてのピアノソナタ」、第3巻ガンマには「一楽章のソナチネ(連弾)」が収録されています。

追記:今年(2010年)9月には「フルートソナタ」が、11月には「2台ピアノのためのソナタ」が演奏されます。詳細が分かり次第、野村茎一作曲工房HP(エントランスのお知らせ掲示板)で告知します。
 

 野村茎一作曲工房
ラベル:作曲
posted by tomlin at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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