過去にも、このコラムで“天才の条件”や“天才の発想”について書いてきたが、1対1の対面形式によるレッスンでは伝わりやすいことでも、文章では伝わりにくいことが少なくない。特に“事実”の重要性とそれを捉える難しさについては、クオリアのような性質があるようなので、今回は別の角度から述べる。
天才が教育では育たないと考えられることは以前に述べた。ところが天才は100パーセント生まれつきというわけでもない。天才を生まれてすぐに薄暗い低刺激の部屋に閉じこめておいたら能力は開花しないことだろう。ということは、天才も育つのである。
天才を育てるのは自然(“ありのまま”というような意味)であり、彼らは野(人間社会と自然界など全て)に放てばよい。彼らの周囲の事実が天才を育てる。
天才は事実を誤解したり勘違いしたりしない。もともと勘違いしないのではない。天才は事実を捉える難しさを知っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは徹底的に観察しないと本当のことは分からないと考え、人間界で最も事実を知り得るのは画家であると明言している。
人々はしばしば「月は地球のまわりを回っている」という言い方をするが、ヨハネス・ケプラーはそのようには捉えていない。彼は地球と月の重力が釣り合う点をお互いが公転していると見抜いた。その重心点は地球の表面よりも深いところにあるので分かりにくいが、月の公転とともに地球もグルグル揺れている。ハンマー投げの選手を考えれば分かりやすいだろう。
ニュートンが発見したのは「万有引力の法則」の法則だが、それがいつの間にか「物が落下するのは地球の重力のせい」になっていたりする。無視できるほど小さいと言えばそれまでだが、地球と物の互いが引き合う結果が落下である。
誰かの言葉は、その本人の認識を表しているだけであり、事実であるかどうかは分からない。もちろん、このコラムも同様である。このように書くと、早速「他人の言葉は信用しないぞ」と早とちりする人もいるかも知れない。世の中の全ての事実を自分だけで確認するには人生は短すぎるばかりか、高い能力を要求される。だからレオナルドの「事実から学べ」という言葉には、事実から真実を学び取ることのできる人を見いだすことも考慮されていると考えてよいだろう。
ベートーヴェンの能力の高さは、すでに少年時代にモーツァルトが何を重要であると考えていたかを捉えていたことである。モーツァルトが成し遂げたのは人の美的感覚を音で具体化したことだが、そのどこが美の具体化であるのかを最初に発見したのがベートーヴェンであるということだ。その後に続く天才作曲家たちも、ベートーヴェンが何に気づいていたのかを突き止めた。それが人間心理の事実に基づいていることを理解し、その“事実”の把握によって創作活動を行なった。だから、天才は他人の言葉からも事実を見いだす。そして誰が天才であるのかを見分ける。まさに「天才は天才を知る」の言葉のとおりだ。
では、最初に戻ろう。
天才たちの思考は全て事実に基づいている。事実に基づく構築だけが実現するのは言うまでもない。事実を捉えていない人の考えはただの戯れ言(ざれごと)に過ぎない。
作曲の勉強と言うと、まずは和声学と対位法だが、それ自体は間違っていない。しかし、“和声学”も“対位法”も本質を理解しなければただの言葉、あるいは誰かが書いたテキストに過ぎない。ある人が「和声学も対位法も満点を取りました」と言ったとする。それだけで、その人は和声学や対位法の本質を理解したと言えるだろうか。誰かが作った課題に答えられただけではないのか。真の答えはそんなところにはない。もしあったとするならば、世界は作曲家で埋め尽くされてしまうことだろう。
天才というのは、“事実”に対して非常に謙虚であるのかも知れない。凡人は名前を知っていれば、それについてひと通り知っているような気がしてしまう。
「ひまわりっていう花知ってる?」
この問いかけに対して凡人は「知っている」と答えるだろう。しかし、天才は「いや、ほとんど何も知らない」と(心の中で)答えるかも知れない。
「天才の思考は事実に基づいているからこそ実現する」(もちろん、それだけではないが)ということをいま一度、考えてごらんになってはいかがか。
野村茎一作曲工房