2009年10月28日

気まぐれ雑記帳 2009-10-28 天才は事実に基づいて考える

 
 過去にも、このコラムで“天才の条件”や“天才の発想”について書いてきたが、1対1の対面形式によるレッスンでは伝わりやすいことでも、文章では伝わりにくいことが少なくない。特に“事実”の重要性とそれを捉える難しさについては、クオリアのような性質があるようなので、今回は別の角度から述べる。
 天才が教育では育たないと考えられることは以前に述べた。ところが天才は100パーセント生まれつきというわけでもない。天才を生まれてすぐに薄暗い低刺激の部屋に閉じこめておいたら能力は開花しないことだろう。ということは、天才も育つのである。
 天才を育てるのは自然(“ありのまま”というような意味)であり、彼らは野(人間社会と自然界など全て)に放てばよい。彼らの周囲の事実が天才を育てる。
 天才は事実を誤解したり勘違いしたりしない。もともと勘違いしないのではない。天才は事実を捉える難しさを知っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは徹底的に観察しないと本当のことは分からないと考え、人間界で最も事実を知り得るのは画家であると明言している。
 人々はしばしば「月は地球のまわりを回っている」という言い方をするが、ヨハネス・ケプラーはそのようには捉えていない。彼は地球と月の重力が釣り合う点をお互いが公転していると見抜いた。その重心点は地球の表面よりも深いところにあるので分かりにくいが、月の公転とともに地球もグルグル揺れている。ハンマー投げの選手を考えれば分かりやすいだろう。
 ニュートンが発見したのは「万有引力の法則」の法則だが、それがいつの間にか「物が落下するのは地球の重力のせい」になっていたりする。無視できるほど小さいと言えばそれまでだが、地球と物の互いが引き合う結果が落下である。
 誰かの言葉は、その本人の認識を表しているだけであり、事実であるかどうかは分からない。もちろん、このコラムも同様である。このように書くと、早速「他人の言葉は信用しないぞ」と早とちりする人もいるかも知れない。世の中の全ての事実を自分だけで確認するには人生は短すぎるばかりか、高い能力を要求される。だからレオナルドの「事実から学べ」という言葉には、事実から真実を学び取ることのできる人を見いだすことも考慮されていると考えてよいだろう。
 ベートーヴェンの能力の高さは、すでに少年時代にモーツァルトが何を重要であると考えていたかを捉えていたことである。モーツァルトが成し遂げたのは人の美的感覚を音で具体化したことだが、そのどこが美の具体化であるのかを最初に発見したのがベートーヴェンであるということだ。その後に続く天才作曲家たちも、ベートーヴェンが何に気づいていたのかを突き止めた。それが人間心理の事実に基づいていることを理解し、その“事実”の把握によって創作活動を行なった。だから、天才は他人の言葉からも事実を見いだす。そして誰が天才であるのかを見分ける。まさに「天才は天才を知る」の言葉のとおりだ。
 では、最初に戻ろう。
 天才たちの思考は全て事実に基づいている。事実に基づく構築だけが実現するのは言うまでもない。事実を捉えていない人の考えはただの戯れ言(ざれごと)に過ぎない。
 作曲の勉強と言うと、まずは和声学と対位法だが、それ自体は間違っていない。しかし、“和声学”も“対位法”も本質を理解しなければただの言葉、あるいは誰かが書いたテキストに過ぎない。ある人が「和声学も対位法も満点を取りました」と言ったとする。それだけで、その人は和声学や対位法の本質を理解したと言えるだろうか。誰かが作った課題に答えられただけではないのか。真の答えはそんなところにはない。もしあったとするならば、世界は作曲家で埋め尽くされてしまうことだろう。
 天才というのは、“事実”に対して非常に謙虚であるのかも知れない。凡人は名前を知っていれば、それについてひと通り知っているような気がしてしまう。
 「ひまわりっていう花知ってる?」
 この問いかけに対して凡人は「知っている」と答えるだろう。しかし、天才は「いや、ほとんど何も知らない」と(心の中で)答えるかも知れない。
 「天才の思考は事実に基づいているからこそ実現する」(もちろん、それだけではないが)ということをいま一度、考えてごらんになってはいかがか。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月24日

音楽コラム 2009-10-23 サプリメントにたとえると

  
 生命活動が継続できる理由は、その仕組みと栄養、環境の3つにまとめることができる。昔、少しだけ栄養学をかじったことがあるのだが、生命を維持している物質、つまり“栄養”については分かっていないことがまだまだたくさんあるということを知った。他の科学と同じように栄養学も前途に茫洋たる謎の海が広がっているということだ。
 我々は塩など一部の無機塩類を除けば、生命を食べて生きている。考えてみれば、それは極めて当然のことであり、まさに自然の摂理であることがわかる。生きている生き物は、その体内に生命活動に必要な全ての栄養素をもっており、それを食べた生き物は必要な栄養素を摂取できるからである。中にはユーカリしか食べないコアラ、笹ばかり食べているパンダのような動物もいるが、彼らはそれを材料に体内で必要な栄養素を生成する能力を持っている。だから、笹しか食べないパンダを食べても笹を食べたことにはならない。
 栄養学が謎を解明しようがしまいが、私たちが新鮮な動植物を“過不足”なく食べていれば命は維持できる。しかし、実際には社会の進歩(実は退化?)とともに、人々は保存食品や加工食品に頼る割合が飛躍的に増えた。取れたて野菜と遠くの産地から運ばれてきた野菜の差は含まれる栄養素にある。栄養素(特にビタミン類)は種類によって壊れる速さが異なるので、人々は壊れやすいビタミン類を摂りにくくなった。加工食品も同様で、加工するとすぐに壊れてしまう栄養素は摂りにくい。
 おそらく、そこで登場したのが栄養を補助するサプリメントなのだろう。
 ところがここには大きな問題がある。サプリメントには人類が知っている限られた特定の栄養素しか入っていないのである。そして、摂るべき量は目安はあっても実は誰も知らない。
 誰でも、常に新鮮な食材による食事を続けることは容易くない。特に現代においては、その傾向が著しいことだろう。だから、緊急避難としてサプリメントを使うということは充分あり得ることで、サプリメントは生活の“お助けアイテム”とも言える。しかし、深く考えることもなく毎日習慣として(漫然と)サプリメントを常用している人は、いずれ栄養バランスの悪さが引き起こすなんらかの悪影響を受けることがあるかも知れない。
 これを音楽に置き換えるのは無謀なようにも思えるが、浮き彫りになってくる問題もある。
 自然の食材を実際の楽曲、サプリメントをテキストや理論であるとすると栄養学と似たような構図になる。
 以前も書いたが、ソナタ形式について説明している楽式論のテキストは、その多くが時系列構造に重きを置いている。それは、著者が実際の楽曲からソナタ形式をそのように読み取ったから、あるいはそのように習ってきたという“負の連鎖”によるものかも知れない。時系列構造の次には主題労作に代表されるような部分動機作法が扱われる。ところが、そこでは「この曲ではこのようになっている」というアナリーゼに終始している場合が多く、なぜそのように使われたのかという核心に触れる記述は、私が読んだ限りではほとんどない。唯一、明確に理由を述べているのは、これも以前述べたルードルフ・レティの「ベートーヴェン・ピアノソナタの構築と分析」(音楽之友社)だけである。しかし、この書を持ってしてもベートーヴェンのピアノソナタを語り尽くすのは不可能である。
 結局、テキスト(サプリメント)だけでは楽式の本質を理解して身につけることはできない。秘密は実際の楽曲の中にだけある。ベートーヴェンを知るためにはモーツァルトの楽曲が必要になる。なぜなら、ベートーヴェンはすでに少年時代にモーツァルトの楽曲から秘密を探り当てているからだ。彼らの曲を漠然とアナリーゼしても何も見えてこないことだろう。しかし焦点を共通する点に絞って見ていけばいろいろなことが見えてくる。ベートーヴェンの凄さはモーツァルトが何を重要であると考えていたかを見抜いたことである。まさに“天才は天才を知る”とはこのことだ。もし、2人の共通点が見つからなければ(たいてい見つからないのだが)、グリーグやラフマニノフのピアノコンチェルトやラヴェルの弦楽四重奏曲、ドヴォルザークの後期の交響曲などを参考資料としてもよい(問題はどこを参考資料とすべきかである)。ここに挙げたのは非常に分かりやすい例であるが、彼らもそれに気づいており、ここでも私たちはベートーヴェン、モーツァルトとの共通点を探すことに絞り込んで力を注けばよい(モーツァルトやベートーヴェンに対する聴き込みが足りないのは論外なので念のため)。
 それでも分からなければ聴き込みが足りないか、あるいはあなたに音楽家としての基礎的な訓練が不足しているかのどちらかだろう。
 ここで基礎的な訓練の内容について書く余裕はないが、初めて聴いた曲のおおよその時代様式が分かったり、あるいは主要主題がどれとどれであるのかが分かるというようなことである。重要な部分動機の区別がつくようになればなおよい。
 これらが食事で言えば主食と副食であり、テキストがサプリメントだろうか。実際の楽曲をあたると、構造以外の要素まで全てを学ぶことができる。そもそも楽曲は構造だけで存在することはできない。
 私は作曲のレッスンでテキストを使うことは稀である。多くの場合、実際の楽曲を使い、どこを見てどこを聴くべきかということをピンポイントで提示する。すると、少なからぬ人が自分でも実際の楽曲から学ぶことの意味と方法論を見いだす。
 これが最大限に生かされるのが管弦楽法だろう。テキストが役立つのは各楽器の音域と、演奏不可能なトリルや反復音を知ることくらいであって、それ以外のことはどうでもよい。各楽器について知るためには、その楽器のエチュードがよい。各楽器にはピアノのハノンに相当する技術練習曲が用意されており、それは楽器を知る上で非常に役に立つ。
 しかし実際の楽器の魅力を知ることができるのは、すぐれた作曲家の実作品だけである。
 ここで気をつけなければならないのは、その曲を作曲した作曲家について学ぶのではないということだ。そうでないとあなたはその作曲家の亜流になってしまうかも知れない。天才作曲家というのは“何が重要であるのか”を知っている作曲家のことである。学ぶ側の私たちにとっても、まさにそれが知りたくて彼らの曲から学ぼうとするのだ。簡単なようだが、その区別は難しい。それができれば作曲は独学でもなんとかなるかも知れないが、これはかなりクオリアの要素を持っているので、人によっては非常に難しいかも知れない。
 芸術において最大の要素となる“インスピレーション”は、この“重要なこと”から生まれる。事実に基づかなければ実現しないのは自明の理であり、どうすればよいのかが分かることが“インスピレーション”の正体である。
 このように書いてくると音楽理論軽視のように思われてしまうかも知れないが、音楽理論は習得済みであることが前提である。音楽理論も奥が深く、追究をはじめるときりがないのだが、本当に重要なことが何であるかが分かれば、理論で足踏みすることはない。
 それについては、別のタイトルを設けて述べることもあるだろう。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月21日

音楽コラム 2009-10-14 “音楽”には聴こえる

 
 タイトルは、前述したように、作品を持って師を訪ねた私が最初に言われた言葉。
 高校生だった当時は意味を測りかねたが、今は心底分かる。身体で分かる。そしてそれが分かるようになったことが私の成長の全てである。
 新進気鋭の美術家の展覧会に行くと、その中の少なからぬ作品(つまり作家)が、ありふれた日常のなかの美にさえ気づいていないことが分かる。
 私たちの身の回りには美的センスがあふれている。まるで鑑賞の対象になど考えもしないような箸や茶碗、障子、畳に至るまで長い伝統を持つものは洗練された美しさを持っている。大量生産の工業製品にさえ見事な美意識が息づいていたりする。
 芸術家は、まずこれらの美に誰よりも先に気づき、時の流れが美を洗練する力を畏怖し、それを乗り越えて消化すべきだろう。
 その基盤の上に立って(真似をするという意味ではない。そういう美しさを身体で覚えている人が鑑賞者の中に少なからず存在することを肝に銘じて)、創作物を発想しなければならない。
 仮に高い技術を駆使して写真のようにリアルな描写で絵画を仕上げても、安っぽい印象があったら人々は称賛を送ることはないだろう(真に高い技術は、それ自体称賛の対象であるが)。私たちが求めている美は、限りなく洗練されたセンスによって生み出された発想によるものであって、ちょっとした思いつきや小綺麗といったものではない。
 音楽に置き換えてみよう。「たこたこ上がれ」のようなわらべ歌でさえ真剣に取り組むと、その凄さのあまり、到底到達できない高みをそこに見てしまう。「これと並ばなければならないのか」と、思わず戦意喪失しそうになるほどだ。
 高校生の頃の私は、そのようなことに全く気づいていなかった。気づいていないどころか、美を勘違いしていた。だから怖いものなどなく、平気で曲を書くことができた。
 平気で曲を書くということは、崖っぷちで写真を撮っていて、ファインダーを覗くのに夢中で崖っぷちの存在を忘れているようなものだ。まわりはヒヤヒヤものだろう。
 作曲を習い始めてからも、私の書いた曲はずっと「“音楽”には聴こえる」というレベルのものだった。音楽理論を学んで、それらをある程度自由自在に使えるようになっても、なお音楽的向上はなかったに等しい。
 しばしば「天才は教育では育たない」と言われる。しかし、天才は生まれつきと断言することもできない。極端な例だが、仮にモーツァルトを生まれてからずっと外界からの刺激の少ない薄暗い部屋から出さずに過ごさせても、我々の知っているモーツァルトになったろうか。それはなさそうな気がする。天才と言えども後天的に獲得する能力は少なくないはずだ。
 天才を育てるのは自然と人間社会そのものなのではないか。だから、天才は野に放てば育つ。自然の美しさ、人間が時間の経過とともに生み出してきた伝統美。天才はそれらに気づき、それらから学んで天才になっていく。つまり、事実が天才の師でありテキストである。
 優れた凡人は伝統を継承する。しかし、天才は伝統の未来を照らしだす。駄目な凡人は伝統から外れた道に迷い込んで、そこから出られなくなる。
 人間社会に継承されてきた伝統美は、おそらく自然界の美のルールに従っている。だから全く文化的交流がなかった他の国でも通用したりするのだろう。
 “好み”の問題を持ち出す人もいるが、その“好み”の正体の多くはレベルの高低をそのまま表していたりする。

 野村茎一作曲工房
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2009年10月13日

音楽コラム 2009-10-13 真の“オリジナリティ”にたどりつくために

 
 今までに何度も述べてきたオリジナリティだが、今日は今までよりももう少し上手に伝えることができるかも知れない。
 作曲にしても演奏にしてもクリエイティヴな仕事に携わる人は、遅かれ早かれ「オリジナリティの確立」の問題に突き当たることだろう。
 そこで自らのアイデンティティやオリジナリティを確立しようと努力する。しかし、ややもすると“オリジナリティまでをも創作”しようとはしていないだろうか。つまり「これがオレのオリジナリティだ。決めた。今からそう決めたぞ」というような乱暴な決断が伴ったりする行為だ。そんなトラップにハマりこまないためにも次のようなことを考えてみていただきたい。
 人は生まれながらにして他人とは異なる顔、声、風貌、物腰、話し方、雰囲気などを持っている。つまり、すでに個性的なのである。顔だけなら似ている人もいるだろうが、上記の要素のほか、好きな食べ物、特技、趣味などまで全てが一致する人は極めて少ないことだろう。つまり、すでに私たちは誰もがオリジナリティを確立していると言えるのではないか。
 音楽で言えば、後は“心の耳”に従って自分自身を正確、かつ精密にデッサンしていくだけで自らのオリジナリティが浮かび上がってくることだろう。心の中にあるイメージを音にすることは非常に難しい。私たちの周囲にも、なんと内側にも雑音が充ち満ちているからだ。それらの雑音を排除できるのは“心の耳”だけだ。逆に“心の耳とは何か?”と問われれば、自らが真に望む音楽が聴こえる力であると答えよう。ベートーヴェンもショパンもドビュッシーも“心の耳”を持っていた。私は、それがトレーニングによって得ることができる力であると考えている。
 仮に“心の耳”によってあなた自身のオリジナリティが浮かび上がったとしよう。それが、なんとも落胆するような貧相なものだったらどうしよう。オリジナリティの真実は動かせない。
 しかし、同じ顔でもその人の生き方によって表情は変化する。話し方も行動パターンも、経験や志、覚悟によって大きく変わる。だからその時点におけるオリジナリティは如何ともしがたいが、将来のオリジナリティは変えることができるはずだ。そのためのトレーニングこそが本物である。もし、自らのオリジナリティに落胆したならば、自分が、いかにつまらないものに入れ込んできたのか、あるいは何を重要であると考えてくるべきだったということに気づくことだろう。逆に、自らのオリジナリティの凄さに気づくこともあるだろう。その時にはまっしぐらに進んでよいことになる。
 ピアニストは、毎日ピアノを弾いたからといって向上するとは限らない。作曲家も毎日作曲したからといって向上するわけではない。為すべきことを為した者だけが向上できる。それが分かるのは、心の耳で自らのオリジナリティの真実の姿を見いだした時だけであるのは間違いない。
 
 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月08日

音楽コラム 2009-10-06 師の言葉


 私が音楽に限らず人生全般の教えを受けたのは、土肥 泰(どい・ゆたか)先生という作曲家だった。
 師との出会いというものは、まさに“縁”や“運”というものであり、探して見つかるというものではないと感じている。高校時代の恩師に作曲の勉強をするためにたまたま紹介していただいたのが土肥先生と出会うきっかけだった。
 人生における私の成長は、ほとんど全て土肥先生から薫陶を受けた期間に果たされたと言っても過言ではない。
 それは私が高校一年生(16歳)の1971年6月から、先生が倒れられた3日前の1998年1月4日まで、途中の中断(就職時の多忙などによる)を除いても20年を超える歳月だった。
 先生が私に向かって一度たりとも馬鹿だと言ったり、私を軽んじるような態度をとったことはないが、それらの日々は私がいかに馬鹿で愚か者であるかを知らしめるに充分だった。
 ずっと以前の音楽コラムにも師の言葉について記したことがあるが、今回は特に重要と思われることだけを再記する。

 自作曲を持って初めて先生のもとを訪れた時、彼が楽譜をしばらくじっと見つめた後最初に発した言葉が「音楽には聴こえる」だった。

1.音楽には聴こえる。

 “音楽そのものへの理解”がなされなければ、この言葉は理解できない。私自身は何年もかかって、ようやく理解の糸口にたどりついた。そして、いまだ理解の途上にある。
 後年、先生は「作曲するということは新しい音楽美学について語るということだ」と言い、音楽美が単なる音並びから生まれないことを示唆してくださった。シェーンベルクもインスピレーションのない作曲行為の無意味さについて語っているが、先生も音並びによる曲作りには否定的であったと思う。実際に言葉では述べなかったものの、彼にとっては歴史に残る作曲家であっても、その多くが落第であったことだろう。私自身は、曲を褒められたことは一度しかない(ソプラノサクソフォーンとピアノのためのソナタ-1996)という不肖の弟子であった。

2.言われて分かることは言われなくてもたどりつける。

 それも当然のことで、今にして思えば私がレッスンに書いていった曲は、ことごとく未熟なものだった。直すべきところが多すぎるというというか、直すどころか根本的に曲として成り立っていないというようなひどい状態であったと思う。たとえば「この曲は始まっていない」と言って、先生が即興で大楽節をひとつ弾いてから私の曲を弾き始めると、見事に曲が成立する。即座に先生の言葉の意味が分かった。その私の表情を読み取って彼は「言われて分かることは言われなくてもたどりつける」と仰った。

 言われても分からないことは自らたどりつくことはできないが、言われて分かるということは、すでに判断の基準を持っているということだからただ単に詰めが甘かったということになる。作曲をするということは自分にできることを全てやり尽くすということであり、作曲するという行為はそれ以外のなにものでもない。

3.生涯に、君の曲をこのひとつしか聴くことがない人がいても悔いはないか。

 これは厳しい。
 ベートーヴェンやショパンなら、この言葉こそを待っていたことだろう。彼らは、この問いに対して控えめに、しかし、おもむろに頷くに違いない。しかし、いまだ私は頷くことができない。全力で書き尽くした曲を挙げることができないからである。この言葉の精神で曲を書く志を忘れてはならない。

4.聴く人の想像力の及ばぬところで仕事をしなければならない。

 作曲依頼を受けて、完成した作品を披露した時「まさに、こういう曲を期待していました」と喜んでもらえばよいのだろうか。クライアントが想像して期待できる範囲の曲ならば、その曲を書ける人は他にもいるかも知れない。だから真の作曲行為は「まさか、このような曲が生まれるとは想像できなかった」と感じさせるような作品を生み出すことである。毎日のように膨大な音楽作品が生まれる中、生き残るのは平均値から突出したものだけだろう。これは、本当に大変なことだ。

5.音楽を残し後世に伝えるのは出版社でも評論家でもなく、演奏したいと思う演奏家と聴きたいと思う聴衆だ。

 これも真の理解が難しい。難解な曲は聴いてもらえないからと聴衆に迎合するような曲を書いても、結局は忘れ去られてしまうことだろう。分かりやすさは重要だ。常にもっとも分かりやすい形で書くべきだろう。先鋭的で高度な曲は分かりやすく書いても難解になってくる傾向にあるが、真に適正な表現が行われているならば、それはいつか理解され評価されることだろう。易しい曲ならば、深い表現が可能であるように書くべきだろう。“子ども騙し”は芸術の世界では通用しない。調性音楽でも無調でも、技法やスタイルは問題ではない。それが演奏家や聴衆に響いて「演奏したい」「聴きたい」という強い心の希求を引き起こせば、その曲は時代を超えて愛されることだろう。つまり、本物でなければならないということだ。本物はオリジナリティに溢れており、オリジナリティの本質は過去に例がないということだ。過去に例がないからこそ人々の耳に留まる。しかし、それは“新しさ”という言葉だけでは言い表せない。
 本物の音楽は、演奏者も楽器も聴衆も全てを最大限に生かすことができる。ピアノのために書くならば、“ピアノ”という存在が最大限いかされ、演奏者の力も存分に発揮でき、聴衆の聴く力も存分に刺激するものでなければならない。パラドックスのように聞こえるかも知れないが、技術的に可能な限りやさしく書けば、とてつもない難曲も成立する。それができなければ、それほど難しくない曲でもピアニストは苦労して弾かなければならない。その結果、表現もおろそかになることだろう。その時重要なのは、その曲の内容がその技巧を真に必要とするかどうかである。ショパンは意味のない難しさや技巧を「新種のアクロバットに過ぎない」と言っている。

6.決定稿を書きなさい。

 先生は楽譜に熟達するよう仰った。
「演奏者にとって楽譜は絶対なのだから誤りがあってはならない」という言葉は何度も繰り返し聞くことになったのだが、誤りがないということさえ未だに実行できていない。これも未熟の証なのだろうが、決定稿を書くことはさらに敷き居が高い。
 楽譜を発表して作品が世に出たら、もう作曲家は手の出しようがない。どのように誤解されて演奏されても、知らないところで知らないうちに演奏されることが大部分だからどうにもならない。なるとしたら、楽譜を限りなく正しく書き上げることだけだ。先生は決定稿の水準のひとつの例としてドビュッシーの「前奏曲集第一巻」を示してくださった。
 
 ここに記した言葉は先生の言葉ではあるけれど、レッスンの時のものだけではない。正月などに遊びに行った時などの楽しい門下の語らいのなかで「作曲するっていうことは、言い換えれば新しい音楽美学について語るっていうことだからねえ、まあ一筋縄ではいかないよ」というようなちょっとした発言であったりもする。
 そういう言葉の重要性を直感して心に留めたことは誇りたい。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年10月07日

気まぐれ雑記帳 2009-10-06 やる気の正体


 何かをやり遂げようとする人は“意志が強い”とか“やる気がある”と思われがちだが、それは音楽を「音による時間芸術」と定義するようなもので、分かったような気がするものの実はその実像を言い表しきれてはいない。
 近所の宝くじ売り場を通りかかった時、今まさに次に売られるくじが1等賞の当たり券であることが判ったら、ほとんどの人が買おうと思うのではないか。この「買う気」というのはどうすればよいかが分かっている時に起こる動機である。もちろん、結果が分かっていると言い換えることもできる。
 どうすればよいのか分からない時には“やる気”は起こらない。また、結果がわかっていたとしても、それに価値や魅力を感じなければ“やる気”は起こらない。

 どうすればよいのかということが分かるためには「事実の把握」が第一歩であり、それはとりもなおさず“仕組み”を理解することである。ここで当コラムのアーカイヴを思い出していただきたい。「頭が良い」とか「すぐれている」ということは「本当のことが分かること」であり、事実が把握できることである。最初にそれを具体的に言葉にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチであった。彼が万能の天才のように見えたのは(見えただけではなく実態も伴っているが)、事実の把握を何よりも重要であると考え、そのとおりにしたからである。
 ちょうど、今がノーベル賞受賞者の発表時期なのだが、受賞者たちは誰もが“事実を明らかにした”功績によってその栄誉を受けているのではないか。
 養老孟司さんの提唱した“バカの壁”(言葉は悪いが言い得て妙なのでこのまま使う)は、事実が捉えられなくなる限界を指している。バカの壁が分かりやすいのが数学だろう。虚数でも微積分でも、あるいはテンソルのような概念でもかまわないが、そこから先は、いくら説明を聞いても頭に入ってこないというところがあることだろう(数学者だって、もっとずっと高いところまで行けば壁があるに違いない)。それが、その人の“バカの壁”であって、学校教育の場では、それを乗り越えないと落ちこぼれてしまうことがある。しかし、それを乗り越えなければいけないかというとそんなことはない。
 かつて教育課程審議会委員(後に文化庁長官)であった作家の三浦朱門氏は「二次方程式が解けなくて人生に困ったことはなかった」と主張、実際に中学数学のカリキュラムから二次方程式の解の公式は必修事項から外された。ということは、審議会にいたであろう数学者たちの誰もが「中学生には二次方程式の解の解法を知ることが必要である」ということをきちんと説明できなかったということになる。そもそも、そんなことは誰にも説明できない。だからカリキュラムとは盤石の根拠の上に成り立っているものではないし、その必要もない。
 私は三浦朱門氏に賛成しているのでも反対しているのでもない。学校教育におけるカリキュラムでさえ、誰かの思い込みで構成されているだけだと言いたいのだ。そこに権威が与えられると誰もが無批判に従うようになる。以前のことになるが、わが家の子どもたちが中学生くらいの時に、さかんに学習教材を売り込む営業電話がかかってきた。そこでの売り文句は、各社異口同音に「最新の学習指導要領に準拠しております」だった。学習指導要領の権威に頼るのは、学習指導要領について自分なりの理解と見解がない場合だろう。もし、自分の言葉でその価値を語ることができるのならば、それは他人を説得するに足るものとなることだろう。
 その理解が価値があると思えば(それを理解することの意味が分かっている。つまりやる気の条件)、バカの壁を克服すればよいし、そうでなければ“縁がなかった”と思って、自分が大事だと思うことを学べばよい。そもそも大多数の人が学習指導要領に頼っているのだから、学習指導要領にない分野を極めればスペシャリストになれる可能性が高いわけだ。
 学習塾は苦手の克服を目標に掲げることだろう。受験対策としては正解である。しかし、苦手の克服ほどやる気の出ないものもないだろう。音楽に限らず、芽を出そうと思ったら「得意なことの限りない追究」こそが本道である。本当のことが少しでも分かれば、その価値も理解して確信できる。その確信が“やる気”の原動力である。やる気が欲しければ、きっかけが必要ではあるが、何かの本当の姿を知ることが必要である。もちろん逆もある。本当の姿を知ったら壁の高さに驚いてやる気が失せる場合だ。いずれにせよ、私たちには事実を知ることが必要だ。
 自分に思い込ませようとしても駄目だ。事実は決して曲げることができない。本当のことだけが実現する。
 最後にひとつ付け加えておくと、事実は一つだが真実は一つとは限らない。たとえば紹興酒を飲んだ一人が「うまい」と感じ、別の一人は「まずい」と感じた時、紹興酒の味という事実はひとつだが、それぞれの感じた「うまさ」「まずさ」は2つの真実である。ただし、この二人が紹興酒について追究していくと、そのうち感じ方が変わって同じ結論に達する可能性もある。実は芸術の本質もそこにあるのだが、それは別の機会に。
 
 野村茎一作曲工房
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2009年10月06日

気まぐれ雑記帳 2009-10-05 タイプ分けの勘違い


 「絶対音感を持たない人は相対音感である」と思いがちだが、実際にはそうではない。
 絶対音感にもいろいろなレベルがあるので、ここでは固定ドのピッチ(音高)が変わらない人は誰でも絶対音感とする。相対音感とは移動ドのピッチが与えられれば残り11音が分かる人としよう。それでは厳しすぎるというなら音階上の幹音の残り6音が分かるだけでもよい。そう考えると絶対音感も相対音感も持たない人が多いのではないか。また、絶対音感と相対音感の両方を持っている人と、どちらか片方という人もいることだろう。つまり、絶対音感と相対音感は対立する概念ではないということだろう。
 それと同じように「理系 / 文系」という区別も考え直さなければならないのではないか。「理系でなければ文系」という論理は短絡的すぎるだろう。理詰め(屁理屈ではない)で相手に有無を言わせぬ力があれば理系であると言ってよい。それに対して情緒に訴えて言葉とイメージで相手を味方にすることができれば文系と言えるだろう。どちらかと言えば理系、あるいはどちらかと言えば文系という言い方も成り立つとは思うが、成り立つのは言い方だけで実態は伴わない可能性もある。つまり、訓練を受けてみたら文系だと思っていた人が実は理系だったとか、両方の力を合わせ持っているということもあるのではないか、ということだ。稀に、生まれつきそれらの力を持っている場合もあるが、多くの人は訓練がなければどちらの力もない。あるいは絶対音感や言語能力のように一定の年齢の時に訓練を受けることによって生じる力であるかも知れないが、それについて私は何の情報も持っていない。
 いずれにせよ、そもそもタイプ分けは意味がない。ステロタイプ的なタイプ分けなどしている暇があったら、自らをトレーニングしてみたらどうだろう。何も途方もないような高みを目指すということではない(もちろん、目指したい人は目指すべきだ)。そうしているうちに、自分の本当の姿が明らかになってくるに違いない。その姿は、それ以前に想像していた“タイプ”に当てはまるものだろうか。
 作曲家は文系か理系かと問われたら、それに答えることは易しくない。
 直接人々の心に訴えるという点では文系だが、音楽を表現するスコア(総譜)を書く作業は極めて論理的なものだ。徹底的に理詰めである。いわゆる“勉強”が嫌いだから音楽をやる、というような考え方は音楽を学び始めたらたちまち吹っ飛ぶ。少なからぬ人がエンハーモニック(異名同音)の段階で立ち往生してしまうかも知れない。嬰ハ(Cis)と変ニ(Des)は同じ音高(ピアノで言えば同じ鍵盤)であるが、楽譜に表記する時にはどちらかの音に決めなければならない。その判断は論理的に為されなければならないが、派生音(音階以外の音)であった時には裏付けを与えるのが難しい時がある。
 しかし、よくよく考えてみれば論理でなんとかなるのならば、それはあまり難しくないとも言える。本当に難しいのは理詰めではどうにもならない“インスピレーション”を得ることかも知れない。理詰めの時にも“閃(ひらめ)き”が必要であることが多く、それはインスピレーションに近いものだが、理詰めの時の“閃き”は正解であることが検証できるので、ここで言う“インスピレーション”とは少し異なる。音楽上のインスピレーションは“感じる”ことはできるが、万人を納得させる検証が不可能であることが多い。それは、バッハのインスピレーションが2世紀を経てようやく人々に理解されたことを考えれば分かるだろう。
 「天才は教育では育たない」という言葉も、ある意味において真理だろう。しかし、“自然”は天才を育む。天才は人の言葉によって育つのではなく、事実を読み解くことによって自らを鍛えているのではないか。レオナルド・ダ・ヴィンチが文系であったのか理系であったのか考えるのは意味があるだろうか。そんなことよりも彼がたどりついた境地について思いを巡らすほうがずっと役にたつことだろう。たとえて言うなら、地面に張りついて西に行くか東に行くかという考えしかない時に、空を見上げることを思いつくようなことである。

 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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