2009年09月17日

音楽コラム 2009-09-17 多声部を聴き取ると


 私を含め、無理解と勘違いが服を着て(たまに裸かも知れないが)生活しているのが人間なので、人は事実に触れるたびに驚いたり学んだりする。
 ここで言う“驚く”とは、事実が予想とは異なっていたことに直面した時の感情である。
 作曲家は、多くの場合ピアノが弾ける(形だけでも)ので、大部分の人がピアノ曲を書ける。右手の単旋律に左手の和声伴奏が付けば形の上ではピアノ曲になる。スカスカでも音楽には聴こえる。それを延々30分を要する曲として仕上げても、“長い曲”ではあっても大曲とは言わないだろう(ただし、サティのような特殊な才能があれば、楽譜上はスカスカでも音楽的には緻密なものが書けることは考慮しなければならない)。
 曲が長いだけでなく、楽器編成が大きくなれば大曲だろうか。確かに大編成のオーケストラによる長大な作品は無条件に大曲と呼んでしまいそうである。ここでは、その問題について作曲する側からの考察を記す。
 作曲のレッスンをしていて、学習中の誰もがぶつかる難題のひとつが多声部化の壁である。素晴らしい着想を持つ人でも、声部がひとつ増えただけで力が発揮できなくなることがある。歌は少し違う要素があるのでここでは除くが、独奏楽器とピアノによる曲を書くとピアノが単なる和声付けのための伴奏になってしまい、本来の多声部化が実現しないことがある。対位法を駆使しなさいということではない。音楽的に対等であるべきということだ。
 ピアノと最も相性(表現力が互角と言う意味で)が良い楽器はヴァイオリンではないかと常々思っているのだが、両者が対等の関係で音楽を構築していくことが最低限(最低限ですぞ)の条件だ。
 ここで話を一度ピアノ独奏曲に戻そう。ショパンやドビュッシーはアルベルティバス(ドソミソ音形)を使わない。人は右手と左手が分離しているので、ついつい伴奏とメロディーというような関係に扱いがちではあるけれど、前述した2人は右手と左手の協調性を重視して、10本指のためのピアノ曲を書こうとしている。
 そのまま自然に独奏楽器が加われば、たとえば「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」と呼ぶのにふさわしい曲となる。ヴァイオリンが明らかに主役ならば、「ピアノ伴奏付きヴァイオリンソナタ」だろう。
 これがなかなか難しい。フランクやブラームスのヴァイオリンソナタは、この点において良い手本となる。ヴァイオリンもピアノも非常に豊かな表現力を持っているので(弾き手の表現力も重要だ)、音楽史上の一流の作曲家の作品でさえ、その表現力には届かない音楽作品が少なからず存在する。
 しかし、まあ無事に独奏楽器とピアノが対等に響く曲を書くことができるようになったとしよう。次にはもっと高い壁がそびえ立つ。それは、2つの独奏楽器とピアノのための曲だ。いわゆる「ピアノ三重奏曲」である。
 少なからぬ曲について言えることは、本当に3人の奏者が必要なのかということだ。バロック時代の通奏低音付きソナタとは全く異なる概念の話である。曲を発想した時点で、それが3声部を必要とするものでなければ、3声部で書けるはずがない。また、一人たりともオマケの奏者を作ってはならない。そのためには、まず先ほどの「独奏楽器とピアノ」のための作曲を極める必要があるだろう。
 次なる課題は「弦楽四重奏曲」である。ここから先は少し話が異なってくる。ピアノを含む曲とは違って、各楽器はもともと対等ではない。バッハの「フーガの技法」のように完全に対等である曲も存在するが、各楽器のテリトリーがはっきりしてきて役割分担が生じてくる。ここからはオーケストレーション(管弦楽法)の世界に入る。弦楽四重奏が扱えるようになったら、もう管弦楽法について学ぶ時期が来たといってよい。
 もちろん、オーケストラ曲であるべき発想を持っているという前提での話である。
 管弦楽法など知らなくても、各楽器の音域さえ守れば誰でもオーケストラのスコアを書くことはできる。オケを鳴らすだけなら難しいことは何もないと言っても過言ではない。
 ところが、これまでの手順を踏まずにいきなりオーケストラを扱うと、ベルリオーズの「幻想交響曲」のようになってしまうかも知れない。幻想交響曲は、多声部化に成功していないにも関わらず音楽的に成功した交響曲のひとつと言えるだろう。ヴォーン=ウィリアムズの「交響曲第3番」やショスタコーヴィチの「交響曲第5番」を聴き込んでから「幻想交響曲」を聴くと声部の扱いの単純さに気づくかも知れない。だからと言って幻想交響曲が駄作であるとか失敗作であるということではない。これが芸術音楽の妙とも言える面白いところなのだが、発想の秀逸さが全てをカバーしてしまうこともあるのだ。ヴォーン=ウィリアムズの第3番がどんなに見事に多声化を実現していたとしても、幻想交響曲以上にファンを集めることはないだろう。幻想交響曲のほうがはるかに分かりやすいからだ。ヴォーン=ウィリアムズとショスタコーヴィチに共通していることは、オーケストラでありながら、いたるところに綿密な室内楽的アンサンブルがちりばめられているところだ。
 冒頭に“驚く”という言葉について書いた。オーケストラ作品をメロディーだけ追って聴いていた人が、作曲者の管弦楽法に対する見識と矜持に気づいた時、それはおそらく音楽人生がひっくり返るような驚きの体験となることだろう。
 いわゆる“ドレドレ感”(ペリオーデ)に気づいた時の驚きには及ばないかも知れないが、ドレドレ感の時と同様に「今まで音楽を知らなかったのかも知れない」という感慨に関しては共通のものがあるだろう。そして、ドレドレ感同様、知らなければ知らないで全く気にならない。
 私たちが天才作曲家たちに近づくのは、本当に大変なことであると常々感じるところだが、私などいつになっても近づけそうな気がしない。謙遜しているのではない。聴こえれば聴こえるほどゴールが遠ざかってしまうのだ。


 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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