前回は学校が果たすべき役割、および学校教育に対する社会の認識がどうあるべきかについての私見を述べた。
そして、その上に立脚していよいよ本題に入る。
ずっと昔のことになるが、ある人が「漢文が得意だった」と言った。それを聞いて気づいたことが、次のようなことである。
その人が「漢文が得意であった」ことの意味は、他教科に比べて「漢文」のテストで得点することに長けていたということに他ならない。なぜなら彼は漢詩ひとつ作ったことはないばかりか、教科書に出てきたもの以外の漢詩をひとつも知らなかったからである。もちろん、授業が終わって漢詩とも縁が切れた。つまり、得意出会ったという割には、好きであったわけでもないということだ。
そもそも、学校教育における成績というものは、学力考査の出題者の意識の中にある設問に対して答えた結果である。それも問題には出題しやすい(採点しやすい)ものとしにくいものがあり、どうしても出題しやすい問題に偏って学力が測られる。それで本来の学力が分かるとは限らない。それでもなんとかなるのは順位づけをすれば済む入試のような場面だけだろう。学校では学力を測りたいのであり、生徒達に順位をつけたいわけではないのは言うまでもない。
非常にレベルの高い話をしてしまうと、優れた問題というのは難しい問題を指すのではない。また、難しい問題を解いた生徒・学生を優秀であると判断する根拠は、説明しようとすると意外に難しいはずだ。ここまで読んで、学力を測るための設問が非常に難しいことに、すでに気づかれた方もいらっしゃることだろう。
息子の高校時代の試験問題を見せてもらったことがあるが、どの教科も概ね、授業を真面目に聞いて、言われたことを覚えたかどうかを確認するための問題が大部分を占めていた。もう、覚えてはいないが私の時もきっとそうであったのだろうと思う。
習っていないことを出題したら問題になるだろうが、本来の考査は“習っていない問題”によって行われてもよいはずだ。
海外留学した高校生が、歴史のテストは教科書も資料集も持ち込み可(おそらくカンニングさえ可)であることに驚いたと書き記していたのを読んだことがある。設問は歴史観を問うものであり、歴史学者になったつもりにならなければ答えられないようなものであり、勉強するということがどういうことであるのかその時悟ったというような内容だった。
音楽で言うならば、難曲を演奏することもひとつの能力であるけれども、真に重要な力は音楽の理解である。私のところにはピアノ指導者の方々がレッスンにお見えになられている。音大で学んだにも関わらず、なぜ私のような無名の作曲家の門を叩く必要があるのか。それは、音大でさえ、小学校から連綿と連なる学校教育の範疇から外れておらず、ピアノが弾ければピアノ演奏の能力があると判断されてしまうことに気づいた人たちがいるからである。
多くの企業は、おそらく大学における授業内容をあまり重視していないだろう。どの大学を卒業したかということではなく、どの大学に入学できたかということのほうが重要ななずだ。つまり、大学はどの人の学習能力を測るための装置といっても過言ではない。大学を卒業しても即戦力ではない。仕事は現場で覚えるのが現状だ。ただ、優秀な学生のほうがよく覚えるからそういう学生が欲しいだけだ。なぜ、そうなるかは、もちろん大学において必要な教育がなされていないからである。
本当は、企業はマニュアルいらずで自分で判断できる学生が欲しい。いちいち細かい指示を与えなくとも「会社の業績を上げろ」と命じれば、本当にそのような結果を出す社員が欲しい。企業自身は気づいていないかも知れないが、その社員に会っただけで、その会社への信頼が増すような社員が欲しいはずだ。効果はどうあれ、そのために特殊な入社試験を行なう企業も現れてきている。
すでに社会人の方であるならば、社会に出た時に学校教育で役立ったのはいわゆる「読み・書き・ソロバン」だけであったことを実感なさった方も少なくないことだろう。
前述したように、学校教育における評価によって“得意である”と思い込んでいたことが勘違いであったことに気づいたり、逆に“苦手である”と感じていたことが、実はちょっとした視点の獲得によって見通しがよくなることに気づいたりしたのではないか。
人生において最も力と希望のある若い時期に、教育の真実から遠く離れた“迷信”のような環境に若者たちを置いておくことが日本のためになるとは思えない。
教育は国ごとに行なうものであるから、他国とかかわるあらゆる場面において差が出る。ビジネスシーンでも外交でも、人道援助でもどこでもだ。
かつて日本のビジネスは“エコノミックアニマル”という言葉を生んだ。日本のビジネスマンたちが尊敬されていたとは思えない言葉である。外交もそうだ。外交は意見が正しいかどうかで決まるのではなく、発言者に対する尊敬の念の占める割合が大きい。これらの根源が教育にもあることは言を待たない。
教育の最後の目標は、本当のことが分かる力を育てることである。そのためには、義務教育においては真の基礎教育を、その後の教育ではアフォーダンスから学ぶ力を育てることが最重要課題である。そうすればビジネス、政治、法律、教育、医療、芸術、スポーツなど、あらゆる分野に優れた人材が輩出するようになることだろう。
野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 13:37|
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