2009年07月26日

音楽コラム 2009-07-26 皆さんの質問にお答えして

 
 今までに皆さんからいろいろなご質問を頂き、その都度、レッスンやメールでお答えしてきました。なかでも最も多い質問が、平たくまとめて言うと「どのように作曲するのですか?」というものだった。
 さらに細かく書くと

1.メロディーと伴奏(和声づけ)は別々に思いつくのですか、同時ですか?
2.インスピレーションは空から降ってくるのですか、それとも内側から湧き出てくるのですか?
3.曲は、まず設計するのですか、それとも思いついた曲を後で形式を整えるのですか?
4.調性はどのように決定するのですか?
5.音楽理論を勉強することとと作曲することは別のことであるように思うのですが、どうしたら作曲できるようになるのですか?

 実は、質問を全部は覚えていないので多少違っているかも知れないが、おおよそこのような内容が多かったと思う。
 私は、それらにひとつひとつ答えてきたのだが、今日、急に“質問の意味”が分かった。過去の私の回答は的外れであったかも知れないので、今日はお詫びとともに訂正させていただきます。
 
 まず“私の”大前提。
「全ての芸術は事実から乖離(かいり)しては成り立たない」
 ここからスタートしたいと思う。芸術ではないが、生命は最も巧妙なからくりであり、必要な機能が全てが正しく働かないと“生命という現象”は継続しない。音楽も似たようなところがあるだろう。
 私は質問の「メロディーと伴奏」の意味を勘違いしていたかも知れない。楽譜に書き留める時に便宜上パートを分けたり、ピアノなら右手・左手のどちらで弾くかという分業をしなければならないが、音楽を思いついた時、メロディーとか伴奏という区別はないことが多い。それどころか、音楽を発想する時にメロディーも和声も後回しである。そんなものは案外些細なことで、大切なのは、その音楽がもたらす私たちへの影響である。誰もがそれについてうまく言えないので「わあ、いい曲!」と表現する“それ”である。だから“それ”のことしか考えない。
 “それ”を音で表現するために、私の中で全てが繋がってまとまるのを待つ。ボケっと待つのではない。植物から澱粉を取り出すために細かく砕いて水に晒して沈殿を待つ、というようにきちんと手順を踏んでから待つ。その手順というのは物や情報の整理と似ている。膨大な量の荷物や情報をいきなり整理しようと思ってもできない。まず、何があるのか知ることが先決で、ひととおり分かったところで頭の中でそれらの情報が熟成するのを待つ。すると、ある時、全てが一連の情報として繋がった全体像が見えてくる。そうなってから整理すれば迷いがなく、その時の基準が後で役立つ情報となる。
 さて“それ”がはっきりしてきたら、必要な音の群れは自動的に生成される面がある。これは恣意的にやっても駄目。だから「曲が空から降ってくる」というような伝説(誤りとは言えないかも知れないが、説明不足)が生まれるのだろう。
 最初に述べたように、音楽には科学的側面(事実との整合性という意味で)がある。よって、全ての音の連なりが音楽的生命を持つように組み合わされなければならないので、答えはほぼひと通りしかないと言えるくらい。もし、目指す“それ”が凄い力を持っていれば、その解となる音並びの印象は強烈なものになる。それは聴くひとの心に楔(くさび)を打ち込んでくるような存在感があり、選択的に心に残る。ベートーヴェンの“月光ソナタ”第一楽章は、音並びは単なるミラド(嬰ハ短調読み)の羅列だけれど、ミラドから発想したのではあれだけ強い印象にはならない。発想の根本には“それ”があったからこそのミラドなのである。
 インスピレーションは何もないところから降ってくることはない。歯車の役割と組み合わせを考え続けていると、ある時、求める動きをさせるにはどうすればよいかが分かってくるのと似ている。
 だから、曲の形式も調性も自ずから定まってくる。楽式論などに頼る必要もないくらい、動機や主題はすでに各細胞のDNAのように全体像の情報を含んでいるものだ。こちらの勝手な思い込みで無理やり音楽を構成していってもどこかに無理が出ることだろう。作曲家は、科学者が本当はどうなっているのかを突き止めようとするのと同じように、音楽における“それ”の本当の正体を追求するということなのだろう。
 むしろ分かりにくくなってしまった方もいらっしゃることだろうが「そういうことか!」と閃いてくださった方もあるのではないかと秘かに期待。
 過去、ご質問いただいた方々に、ひとつひとつの問題として個別に答えてしまいましたが、どれも答えはひとつでした。お詫びするとともに訂正させていただきます。


 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

気まぐれ雑記帳 2009-07-10 KJ法-改-ふたたび

 
 気がついたら2カ月も音楽コラムをアップロードしていなかった。フォルダを確認すると、書き上げたものの推敲が終わっていない、あるいはまもなく書き上がる原稿がおよそ10本あった。ウラノメトリアが最優先事項として頭の中にあって、音楽コラムは優先順位が下がっていたのだろう。
 昨夜、川喜田二郎先生の訃報を知り、お目にかかる機会がなかったことを大変残念に思った。音楽コラムを始めた頃にKJ法について書いた気もするが、おそらく当時の説明はヘタクソで的確に要点を語れず訳の分からないものだったことだろう。それにコラム自体がアーカイブにも入っていないかも知れない。というわけで再びKJ法について書く。ただし、ここに書くのは野村式KJ法“改”であって、本来のKJ法についてではない。それについてお知りになりたければ他のサイトをあたるか、KJ法の講習会に行っていただきたい。ただし、20年くらい前だとは思うが(川喜田先生とは何の関係もないと思われる)ビジネス研修団体が主催するKJ法講習会には、参加費用が100万円などというものもあって驚いたものだ。おそらく会社の経営者やエグゼクティヴを対象としていて、KJ法のマスターは、そのくらい支払ってもペイすると考えられていたのだろう。今では数千円というリーズナブルな参加費で講習会が開かれている(はずである)。
 KJ法は情報を関連付けて整理するための便法である。やり方は簡単だが奥は深い。乱暴な書き方をすれば、カードに情報を書き込んでそこから関連するものを選び出していき、立体的な意味付けにまで到達すするというものだ。今の説明がどのくらい乱暴であるかというと「ピアノ演奏とは楽譜に記された音を指で弾いて音をだせばよい」と同じくらいだ。だから、こんな説明で分かった気になってもらっては困る。
 とは言うものの、KJ法を理解したものとして書くと(それこそ乱暴な話だが)、その手順に“あること”を加味すると、一変して「天才の思考の一部のスローモーな追体験」となる。スローモーであろうが何だろうが「天才を追体験」できるのだ。こんなすごいことはない。
 では、そのあることとは何か。一言で言うならば「事実の把握」である。これがなければ情報はゴミだらけとなる。例を挙げよう。サモスのアリスタルコス(紀元前310-230頃)の「太陽中心説(人類初の地動説)」到達までの道のりである。
 日食によって、太陽は月よりも遠くにあることが確認できる(第1の事実)。では、どのくらい遠いのだろうか(到達すべき事実)。そのために必要な情報は2つ。ひとつは半月の輝面は太陽の方向を向いている。半月は太陽-月-地球が為す角が90度、つまりその配置が直角三角形となった時のみ起こる現象である(第2の事実)。ここまで分かれば、第3の事実を確認すれば「到達すべき事実」が明らかとなる。それは、日没時における半月の実際の位置である。月の公転周期は地球の自転周期の整数倍ではないので、月が幾何学的に正しい半月を迎えた時に日没を迎える可能性は低く測定には誤差が出るが(実際の観測方法は分かっていない)、日没時の半月は太陽から87度離れていると結論した。このことから、アリスタルコスは太陽は月よりも少なくとも20倍遠くにあり、その大きさも20倍以上であると結論した。
 ここで行われているもっとも重要な行為(判断)は“情報の精選”である。KJ法“改”の要(かなめ)は、そこにある。
 もうひとつ例を挙げる。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」である。
 レオナルドが前提とした事実は大きなものが2つ。ひとつは「世界は神によって創造されたので、絵を描くということは神の行ないを描くことに等しい。よって誤りがあってはならない」。もうひとつは「神の行ないには正当な理由がある」。ここでいう正当な理由とは「人類の中でもっとも聡明な女性をイエスの母として選び、それを伝える使者としてもっともふさわしい天使にガブリエルを選んだ」というものである。
 彼は、誰も見たことのない受胎告知の場面を描くにあたってマリアを人工物(建築物)側に、ガブリエルを神の創造物たる自然を背景に描いて立場の違いを明確にした。レオナルドは、まず“神の行ない”を徹底的に観察した。近景を疑似長方形のフレームとして考えると、それを徐々に遠ざけていけば最後は点となって消失する。これが幾何学的遠近法(パースペクティヴ)の概要である。幾何学的遠近法理論の最初の確立者はレオナルドではないが、彼の果たした功績は絵画史上極めて大きい。さらに、彼は空気の不透明度による距離感の差を空気遠近法として表現した。幾何学的遠近法が適用できない遠景などの表現には不可欠な技法である。また影(shadow)と陰(shade)によるキアスクーロ技法によってマリアの書見台の台座の立体感をはじめ、さまざまな3次元的要素を明確に描き出した。ひとつめの大前提に基づく作画はこのようにして行なわれた。
 そして、実際に観察することが不可能な受胎告知の場面では、人に対して跪(ひざまず)くはずのない“跪く天使ガブリエル”を描き、マリアが自らが神の子を宿していることを直感し、運命を受け入れる様子を明確にしている。数多く描かれた受胎告知の中でも傑出した場面である。受胎告知が実際にあったことであるとはキリスト教徒以外には考えにくいが、もしあったとするならばこのようであったと受容できる。
 このような結果をもたらしたのは、レオナルドが選びだした前提が事実に基づくものだったからにほかならない。この時、レオナルドは20歳だった。
 天才とは事実の把握に長けることでもあるのだ。私はオリジナルのKJ法を熟知しているわけではないのだが、情報の精選におけるいくつかの厳しい条件、それはたとえ事実と齟齬がなかったとしても、ヒエラルキー(ディレクトリのような階層的順位)の最上位だけを選び抜き、その後、初めてそれに関連する下位のヒエラルキーにおける情報の取捨選択を行なうという順序を加えたものがKJ法-改-である。
 まさに、私はこの方法で作曲していると言って間違いない。
 しかし、なんの説明にもなっていないのだ。なぜなら作曲する上でのヒエラルキーの最上位に来るのは“ドレドレ感”だからである。これは、クオリアであって説明ができない。不思議なことに録音では伝わらない。いま、このコラムを読む作曲工房関係者には“ひしひしと”伝わっていることと思うのだが、ピアノでただのドレミファソラシドという音並びを弾くにあたっても“ドレドレ感”(ドレドレ感 < ペリオーデ ≠ フレーズ)なしでは話にならない。全く話にならないどころか、両者の間には音楽的共通点を見いだすことは難しいかも知れない。
 レオナルドやベルニーニ、モネやワイエスにも美術的な意味における“ドレドレ感”があって、誤りなく必要な情報を選択できたのだろう。
 
 野村茎一作曲工房
posted by tomlin at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。