今までに皆さんからいろいろなご質問を頂き、その都度、レッスンやメールでお答えしてきました。なかでも最も多い質問が、平たくまとめて言うと「どのように作曲するのですか?」というものだった。
さらに細かく書くと
1.メロディーと伴奏(和声づけ)は別々に思いつくのですか、同時ですか?
2.インスピレーションは空から降ってくるのですか、それとも内側から湧き出てくるのですか?
3.曲は、まず設計するのですか、それとも思いついた曲を後で形式を整えるのですか?
4.調性はどのように決定するのですか?
5.音楽理論を勉強することとと作曲することは別のことであるように思うのですが、どうしたら作曲できるようになるのですか?
実は、質問を全部は覚えていないので多少違っているかも知れないが、おおよそこのような内容が多かったと思う。
私は、それらにひとつひとつ答えてきたのだが、今日、急に“質問の意味”が分かった。過去の私の回答は的外れであったかも知れないので、今日はお詫びとともに訂正させていただきます。
まず“私の”大前提。
「全ての芸術は事実から乖離(かいり)しては成り立たない」
ここからスタートしたいと思う。芸術ではないが、生命は最も巧妙なからくりであり、必要な機能が全てが正しく働かないと“生命という現象”は継続しない。音楽も似たようなところがあるだろう。
私は質問の「メロディーと伴奏」の意味を勘違いしていたかも知れない。楽譜に書き留める時に便宜上パートを分けたり、ピアノなら右手・左手のどちらで弾くかという分業をしなければならないが、音楽を思いついた時、メロディーとか伴奏という区別はないことが多い。それどころか、音楽を発想する時にメロディーも和声も後回しである。そんなものは案外些細なことで、大切なのは、その音楽がもたらす私たちへの影響である。誰もがそれについてうまく言えないので「わあ、いい曲!」と表現する“それ”である。だから“それ”のことしか考えない。
“それ”を音で表現するために、私の中で全てが繋がってまとまるのを待つ。ボケっと待つのではない。植物から澱粉を取り出すために細かく砕いて水に晒して沈殿を待つ、というようにきちんと手順を踏んでから待つ。その手順というのは物や情報の整理と似ている。膨大な量の荷物や情報をいきなり整理しようと思ってもできない。まず、何があるのか知ることが先決で、ひととおり分かったところで頭の中でそれらの情報が熟成するのを待つ。すると、ある時、全てが一連の情報として繋がった全体像が見えてくる。そうなってから整理すれば迷いがなく、その時の基準が後で役立つ情報となる。
さて“それ”がはっきりしてきたら、必要な音の群れは自動的に生成される面がある。これは恣意的にやっても駄目。だから「曲が空から降ってくる」というような伝説(誤りとは言えないかも知れないが、説明不足)が生まれるのだろう。
最初に述べたように、音楽には科学的側面(事実との整合性という意味で)がある。よって、全ての音の連なりが音楽的生命を持つように組み合わされなければならないので、答えはほぼひと通りしかないと言えるくらい。もし、目指す“それ”が凄い力を持っていれば、その解となる音並びの印象は強烈なものになる。それは聴くひとの心に楔(くさび)を打ち込んでくるような存在感があり、選択的に心に残る。ベートーヴェンの“月光ソナタ”第一楽章は、音並びは単なるミラド(嬰ハ短調読み)の羅列だけれど、ミラドから発想したのではあれだけ強い印象にはならない。発想の根本には“それ”があったからこそのミラドなのである。
インスピレーションは何もないところから降ってくることはない。歯車の役割と組み合わせを考え続けていると、ある時、求める動きをさせるにはどうすればよいかが分かってくるのと似ている。
だから、曲の形式も調性も自ずから定まってくる。楽式論などに頼る必要もないくらい、動機や主題はすでに各細胞のDNAのように全体像の情報を含んでいるものだ。こちらの勝手な思い込みで無理やり音楽を構成していってもどこかに無理が出ることだろう。作曲家は、科学者が本当はどうなっているのかを突き止めようとするのと同じように、音楽における“それ”の本当の正体を追求するということなのだろう。
むしろ分かりにくくなってしまった方もいらっしゃることだろうが「そういうことか!」と閃いてくださった方もあるのではないかと秘かに期待。
過去、ご質問いただいた方々に、ひとつひとつの問題として個別に答えてしまいましたが、どれも答えはひとつでした。お詫びするとともに訂正させていただきます。
野村茎一作曲工房