2009年05月13日

音楽コラム 2009-05-12 注意深く聴くこと その2

 
 モーツァルトを聴くと、それだけでIQが上がるという研究がある。「音楽を聴いただけでIQが上がるわけがない」と思われる方もいらっしゃるだろうが、実際には音楽を聴くということは脳を総動員しなければならない行為である。念のために断っておくと、ここで言う「音楽を聴く」とは音楽が流れている空間にいるということではなく、聴く人の脳内で音楽が再構成されて認識されているという状態をさす。
 別にモーツァルトでなくともよい、と脳科学者の茂木健一郎さんは仰っている。要するに、単なる空気の振動の中から“音楽”を認識するという行為が重要なのである。
 モーツァルトが例に出されたのは、誰にでも分かりやすいからだろう。ところが、このモーツァルトでさえ、本当に聴こうとすると大変な集中力が必要となる。
 ピアノを習って少し上手になると弾く機会の多いK.545ハ長調ソナタ第1楽章を例にとろう。ドーーミーソー/シードレドー/〜という曲である。
 もっとも単純な聴き方はメロディーを順に追っていくもので、おそらく誰にでもできるモーツァルトを楽しむ聴き方だろう。
 少し注意深く聴くと、この曲の大まかな時系列構造が分かってくる。ハ長調の第1主題、ト長調に転調したところで第2主題、そしてコデッタ(小結尾)で一度曲を閉じたように感じるところが提示部の終わり。ト短調で展開部が始まり、コーダの音形が展開されていく。そして第1主題が戻ってきたら再現部である。
 さらに注意深く聴くと、細かい時系列構造が分かってくるかもしれない。「かも知れない」と言ったのは、ここから先は独学では聴こえない人の存在が予想されるからである。
 最初の4小節(楽譜を見たことがない人には8小節に聴こえるかもしれないが、それは誤りではない)で第1主題が示され、次の4小節ではスケールによるゼクエンツが経過句として現れる。属調への転調後に現れる第2主題は、第1主題と同様に「繰り返し構造」である。そして、アルペジオによるゼクエンツがやってくる。これは、漢詩で言うところの「対句表現」であり、漢詩や欧文詩に使われる「韻を踏む」という印象もある。その後に現れる、コデッタを導く4小節の簡潔な経過句は、前半が第1主題、後半が第2主題でできており、先ほどの対句表現の「縮小形」とも言える見事な処理となっている。そしてコデッタ。
 作曲家の耳で聴くと、さらに詳しいことが分かってくる。
 第1主題は3音からなる部分動機aと、続く4音からなる部分動機bから構成されている。主題の確保となる3、4小節目の終わりにはトリルが付加される。楽譜をお持ちの方はぜひとも楽譜と見比べながらお読み頂きたいが、第1主題の冒頭はC、2小節目の第1拍はH、3小節目第1拍はA、第3拍はG、4小節目第2拍はF、第3拍はEとなっている。つまり、ハ長調の音階が徐々に短縮(加速)されながら順次進行で下降している(作曲家は、こういう単純さにこそショックを受ける)。続くスケール・ゼクエンツは3、4小節目のA-G-F-Bが各小節の冒頭にやってきて、この経過句が第1主題と有機的なつながりがあることを示す。11小節目に現れる「シ・ソミド/シ・ソミド」は、第2主題を誘導しているが、それは第1主題の部分動機a「ドミソ」の逆行形の縮小形であり、実際に第2主題は「移動ド」で歌えば「ソミドー」という第1主題部分動機aの完全な逆行・1/2縮小形で始まる。第2主題第3番目のCから始まるリズムは、第1主題部分動機bと同一であり、第2主題が第1主題の部分動機を操作することによって生まれたDNAを共有する主題であることが明らかとなる。そして、対句表現となるアルペジオによる華麗なゼクエンツが続き、それは簡潔だが見事な経過句(22-25小節)によってコデッタに導かれる。そして最大の驚きがコデッタで待っている。コデッタの2拍目から、音価を半分にした第1主題をト長調で歌いながら弾いてみていただきたい。このコデッタが第1主題のヴァリエーション(部分動機操作とは異なる)であり、第1主題そのものであることがお分かりいただけることだろう。つまり、このコデッタ主題によって、第1楽章が全て第1主題のDNAだけで構成されていることを知ることになる。「展開部は第1主題ではなく、コーダによっている・・・」という解説がしばしば見受けられるが(おまけに、そういう奇抜な発想こそがモーツァルトの天才たる所以であるという主張までが付加されている)、コデッタ主題が第1主題であるから、展開部で用いられているというのが正しいことになる。
 音楽を聴くということが、実は単純なことではないことがお分かりいただけたことだろう。音楽書を読んでいくら知識を増やそうが、注意深さと洞察力、気づきがなければ音楽の力が増すとは思えない。音楽を聴くとIQが上がるというのは、聴き方しだいではあるが、事実だろうと思う。
 ところで、ベートーヴェンが10代に書いたと思われるソナチネ第5番ト長調(ソナチネアルバム第2巻に収録)は、モーツァルトを手本としたと思われる見事な部分動機作法によって書かれており、ベートーヴェンの聴く能力の高さを感じさせるものとなっている。それは第1楽章のみならず第2楽章にも及んでおり(ソ-シ-ラ-ソ-ラ-シ-ソ)、若きベートーヴェンの潜在能力の高さを窺わせる。当時、モーツァルトのソナタ形式の分析書が出版されていたとは考えにくく(そのような分析ができる理論化・作曲家がいたら誰もが知ることになっていただろう)、ベートーヴェンは事実から学んだと考えられる。
 最後につけ加えておくと、少なからぬ音楽書がソナタ形式を「単なる時系列構造と調性構造」で記述している。つまり、提示部(第1主題/原調 - 第2主題/属調 - 小結尾)- 展開部/自由な調性 - 再現部(第1主題/原調 - 第2主題/原調 - 結尾)という形が整っていればソナタ形式というものである。たしかにハイドンを含む古典派前期ではそれで通用したかも知れないが、モーツァルト以降はショパンでもグリーグでも見事な部分動機作法を見せている。ラヴェルあたりまで時代が下ると「恐れ入りました」と平謝りしたくなるほどの綿密さになる。それらに触れずにソナタ形式(古典ソナタ形式も)を記述することは、あまり意味がないと考えるがいかがだろうか。
モーツァルトを完全に分析してみせるにはモーツァルトと同等の能力が必要になるが、音楽理論書の限界は著者の能力の限界に等しいので、それを読んで分かるのはモーツァルトのことではなくて著者についてである。
 というわけで、私の分析もモーツァルトが重要だと考えていたこと全てに言及できるはずはなく、賢明な読者諸氏からは「考え足らずの浅はかな作曲家」と思われるかも知れないが、それは事実なので仕方がない。しかし、音楽を聴くということについて改めて考える契機となれば幸いである。
 音楽書を読むよりも、注意深く音楽を聴くほうがずっと多くのことが分かる可能性が高いのだ。
 
 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

音楽コラム 2009-02-28 注意深く聴くこと その1

 サウンドスケープ(環境における音の情報、音の風景)について考える機会があった。すると、過去に出会ったさまざまな事例が思い出される。
 以前観たテレビ番組で、視覚障害者の人が街中のいろいろな場所で、ここは「何々の音とパンの焼ける匂いで分かる」というように視覚のハンディキャップをそれ以外の感覚情報から得ていることを知った。自分自身が意外にも周囲の音に対して注意深くなかったかということに気づいた瞬間だった。
 とある料理人は音でフライの火の通り具合を判断すると語った。工場の機械の点検は機械を叩いて、その音でボルトやナットの緩み具合を検査していた。缶詰めを叩いただけで中身を当ててしまう「打検士」という職業に至っては、ただただ驚くほかはなかった。詳しいとは微小な差に気づくことだと、自分自身で言っておきながら、もっとも重要な音の分野で私は少しも詳しくなかったかも知れない。
 蒸気機関車や鉄道は、それまでになかった音をもたらした。鉄道路線や駅に行けばそれを聴くこととなったが、その音は、明らかに人類の進歩を感じさせるものだったろう。ガソリンエンジンが発明されて、それが自動車を動かすようになると、鉄道とは異なり、自動車のほうから近くへやってきて否応なしにその音を聴くことになった。自然界が発する音、たとえば風雨や雷鳴などは“騒音”とは言わないだろう。しかし、鉄道や自動車、飛行機、土木工事やビル工事などの音は騒音となる。
 時代が下るにつれて人の住む環境は大きな音で満たされていくことになった。
 原始時代、あるいは古代においては、人々はほとんど足音をたてない肉食の獣の気配に怯えて暮らしていたと想像できる。あるいは獲物の気配を追って聞き耳を立てながら狩りにいそしんでいたに違いない。彼らは現代の私たちよりもずっと注意深く、繊細な感覚を持っていたことだろう。
 軍楽あるいは信号用の楽器を除けば、古楽器はおしなべて音量が小さい。もちろん、製作技術的な理由もあるだろうが、音色の繊細さを優先したことも考えられる。
 音楽史には演奏会用ホールの巨大化と楽器の音量の関係について記されているけれども、繊細な音を優先するならば大きなホールにおける演奏はそもそも受け入れられないはずであり、そこにはサウンドスケープに常在するようになった騒音も関係しているように思われるのである。
 初めてレッスンにお見えになった方とピアノに向かった時、誰もが、ほとんど例外なく“親の敵(かたき)”のように鍵盤を叩く。それはコンサートホールにおけるピアニストの打鍵の無批判なコピーであり(しかし、すぐれたピアニストのそれとは根本的に異なっている)、狭い部屋でのピアノの音の享受には全く向かない性質のものなのだが、本人は一向に気づいていない。ピアノの音に気づくと、ようやく打鍵の最適化というものがあることに気づく。
 似たような例が除夜の鐘などにも見られる。多くの人々が行列を作って鐘を突く順番を待ち、いよいよ自分の番になると撞木(しゅもく)を力の限り鐘に叩きつける。その際に生じる音は高い倍音成分が目立つ「コワーン」というような音になる。しかし、プロの僧侶による“タッチ(?)”は違う。静かに撞木を揺らして撞座(つきざ)に当て、「ご〜〜〜〜ん」という心静まるような響きが広がる。
 ピアノの音色は物理的な理由で決まるのであり、人の都合ではない。私たちは注意深く“ピアノの都合”を感じ取る必要がある。もし、才能という力を定義するならば「有意な微小差を注意深く感じ取る力」としてもよいのかも知れない。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。