2009年02月20日

音楽コラム 2009-02-20 未消化の時代

  
 録音が可能になっただけでなく、豊富な録音メディアの入手が楽になったのはそれほど昔のことではないだろう。
 ベートーヴェンでさえ、自分自身の交響曲を聴く機会は生涯にどれほどあったのだろうか。あるいはブラームスが、自らの作品だけでなく、他の作曲家のオーケストラ作品を聴く機会はどのくらいあったのだろうか。それに比して現代の私たちが置かれた状況は信じられないほど音楽情報が豊かであると言える。にもかかわらず、その利を生かしているかというと、そうとばかりは言えないのではないか。
 ピアノのようにひとりで完結してしまう楽器を扱う音楽家は、ずっと昔からいくらでも繰り返しひとつの曲に触れることができた。しかし、現代は誰でも世界の名演奏家の演奏にいくらでも触れることができる(決して、今日の食べ物にもこと欠く国々の人々を忘れているわけではない)。
 現代のこの音楽環境の最大の強みは音楽史と、まさに同時代の音楽世界を概観できるということだろう。ということは、私たちに要求される力が2つに集約される。それは時間軸と時間平面上に広がる3次元的な音楽世界の立体像を把握する力と、真に優れた音楽を選択する力である。それを持たない人は音楽の海を漂うだけで終わるか、あるいは溺れてしまうことだろう。
 モーツァルトは生演奏以外存在しない時代においても、その卓越した記憶力によって一度、あるいはほんの数回聴いただけのその交響曲の構造を理解したように思われる。これは私見であるが、もし、記憶に怪しげなところがあれば、それはモーツァルトのインスピレーションによって、むしろ高められて彼の中に再構成された可能性さえあるのではないか。現代は多少記憶力が悪くとも覚えるまで何回でも聴くことができる。しかし、覚えることと全体を把握することは意味が異なる。
 妙な話だが、私の場合、自分で作った曲なのに作曲した当初は曲への理解が全く足りない。それを痛感させられるのは決定稿を書くために推敲・校訂作業を行なっている時だ。アーティキュレーションもデュナーミクもすぐには決定できない。つまり、理解できていないということだ。繰り返しその曲を自分の中に流していくうちに、その曲の本来の姿が朧げながら見えてくる。これが記憶と理解の質的な差の一部を表していると思われる。
 元に戻る。「3次元的な音楽世界の立体像の把握」とは、音楽世界のアドレスを理解することであり、それによって、くまなく音楽世界を概観することができることになる。その世界で見いだした“真に優れた音楽”を吸収して、作曲者が理解していたことがらに少しでも接近することが私たちが積むべき音楽経験だろう。現代の音楽環境は、そのために利用すべきものであって、環境に振り回されていては意味も成長もない。
 豊富な音楽情報が豊かな音楽環境をもたらしているにもかかわらず、少なからぬ音楽愛好家が未消化のまま豊饒の海をあてもなく漂っているとしたら、なんとももったいない事だ。
 
 野村茎一作曲工房

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2009年02月19日

気まぐれ雑記帳 2009-02-19 何度でも“インスピレーション”

 
 このコラムは、基本的には私のところにレッスンにおいでいただいている皆さんへの補助教材という意味合いが強いのだが、一般の方々にもお読みいただいているということを知って大変うれしく思っているということをお伝えし、心よりお礼申し上げます。
 しかしながら、このようなコラムだけでは足りずに、なぜ1対1の生身同士でレッスンを行なう必要があるかと言えば、まさにクオリアの伝達のためである。たとえるならば、このコラムでは食べたことのない果実についていくらでも説明はできるけれども食べていただくことはできない。ましてや、私のレッスンでは市販されていない果物ばかり扱っている。だからといってレッスンにおいでくださいとお誘いしているわけではない。1回のレッスンには大変なエネルギーが必要で、本当に私を必要としている少数の人にしか力をお貸しすることはできないからだ。だから、まさに自分がそうだと思われた人が(募集もしていないにもかかわらず)、訪ねてきてくださる。これも感謝に尽きるとしか言いようがない。
 さて、クオリアは色や匂いなど、体験しなければ知ることのできない感覚による理解である。なかでもとびきり体験困難なクオリアが“インスピレーション”だろう。
 私たちが絵画を見たいと思ったり、音楽を聴きたいと思ったり、小説を読みたいと思ったりする根本的な原因は“インスピレーションに触れたい”ということではないかと考えている。
 今までにずっと書き続けてきたように、インスピレーションは、作品、あるいはインスタレーションやイベントとして実現されるべきものなので事実に即していなければならない。想像力ということばが、まるで“足が地についていないような突飛な考え”を生み出す力だと思われがちだが、それは誤りである。たとえばUFOイコール“エイリアン・クラフト”というのは想像力の欠如どころか思考停止としか言いようがないのと似ている。一度聞き及んでしまった考えから外に出られないという意味である。
 遥か昔、宇宙人という存在を思いついた人には確かにインスピレーションがあった。人類と同等、あるいはそれ以上の知性を持った宇宙人もいると考えた天文学者フランク・ドレイクは宇宙(くじら座τ星)に向けて電波信号を発信した。ここにもインスピレーションが介在している。
 簡単な例を挙げよう。図形パズルのような問題を解く時、その“仕組み(図形の全体像)”を捉えた時に解答にたどりつくのではないだろうか。それが、そのパズルにおける“事実”である。
 レオナルドは「事実から学ぶ」という態度を終生貫き通したが、これは簡単そうでなかなか難しい。私のところに初めてお見えになられた方で、すぐにレッスンを始められる人はごく少数である。私もそうであったのだが、生まれてこのかた“考えたことがない”のだ。大げさに聞こえるかも知れないが、失礼ながら、ほとんどの人は“知っている”か“知らない”かのどちらかで生きてきたように思われる。だから分からないことは教えてもらうものだと思い込んでいる。

「ならば、どうすればよいのですか? 教えてください」

 人間が決めたルールならばいくらでも説明しよう。

「これは100円硬貨というもので、(双方が同意すれば)100円までの価格が付与されたものと交換できる」

 ただし、人が定めた価格(人が付与する)は説明できても価値(そのものに内在し、人が気づかなければ無いに等しい)は説明できない(ミクロ経済学の専門家のかたには異論もおありとは思うが)。価格と価値は等価ではないのはもちろんのこと、意味が全く異なる。

 音楽は高度に抽象的であるので、事実から学ぶということ自体が分かりにくい。“事実から”ではなく“事実を学んで”終わってしまうこともある。以下の文章について論評していただきたい。

「白熱電球を発明したのはイギリスのスワンだが、発電所を建設して電力供給を行ない、電球を実用化したのはエジソンである」

 ここから読み取れることは驚くほど多い。それぞれ視点が異なるために、その内容も多様である。
 少なからぬ人々が白熱電球の発明者をエジソンだと信じているのはなぜか。そもそも、スワンとは何者か。電球というのは単体では役に立たない。まるでガソリンスタンドのない世界のガソリン車のようなものだ。実用化というのは電球を長寿命化したことを指すのではないのか。発電所よりも電球が先に発明されたことが納得できない。
 しかし、クリエイターは上記のようなことは読み取らない。

「せんせい、もし私が都市計画をやせてもらえるなら、道路を幾何学的や、あるいは街にふさわしいシンボリックな形状にして、夜になって街路灯が点灯されると上空の飛行機から見てすぐにどの街であるか分かって、おまけに幻想的で美しい景色にします」

 これは政治的・財政的な問題を別にすれば実現可能なアイディアであり、まさにインスピレーションの典型だろう。
 作曲する、あるいは演奏するということはインスピレーションを具現化することであり、それはまさに事実に即しているばかりか、発想した本人にとって真に実現する価値がなければならない。

 ところで、南の魚座の主星である“フォーマルハウト”は私の持ち物である。「フォーマルハウトについて」という拙作を聴いたおちびさんのインスピレーションによってプレゼントされたからである。もし、フォーマルハウトに行く時には私の承認が必要となるのでご注意願いたい。

 野村茎一作曲工房
 
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2009年02月13日

気まぐれ雑記帳 09-02-13 挫折の構図

 
 ゴットリープ・ダイムラーが現代のクルマの原型を完成させた時、クルマが地球の大気をこれほどまでに汚染し、地球温暖化の一因となるとは思いもよらなかったことだろう。あるいは、ロバート・ゴダードがロケットを打ち上げるために力を尽くしていた時、スペース・デブリ(宇宙ゴミ)が宇宙開発にブレーキをかける可能性には思い至らなかったことだろう。
 それと同様に、私たちが自らの将来を思い描く時にも数多くの盲点が待ち受けている。
 何度か書いてきたように、しばしば「あなたは将来何をやりたいのか?」というような問いで進路が問われる。実際のところ、人には永続的に「やりたいこと」などないのだが、それはひとまず置いて、何をやりたいのかなどと問われて答えるのはかなり難しい。なぜならやりたいことをやっても「なりたい自分になれない」からである。
 日頃の生活を考えてみればよい。やりたいことだけやっていたら生活が成り立たない場合が多いだろう。生活が成り立つためには身の回りの家事や生計を立てるなどの「為すべきことが為される」ことが基本条件である。
 人生設計も同じで「何をやりたいか」ではなく「何を為すべきか」という問題から構築しなければならない。
 モーツァルトやベートーヴェンが「やりたいから」というようなあやふやな理由で困難な作曲に立ち向かっていたとは思えない。彼らには確固たる使命感があったに違いない。しばしば、天才だから楽に作曲できたという思い込みがあるが、天才だろうが凡人だろうが全力を尽くす困難さは変わらない。変わるのは結果だけだ。その結果でさえ“入れ込み方”次第で変わる事もあるだろう。
 このコラムでは「志と覚悟」が人を形成する基本的な要素であるというスタンスをとっている。しばしば誤解されるのだが、これは“強い意思”と同義ではない。むしろ真逆の場合もある。精神力と体力は極めてよく似ている。人は多少きつい労働をしても、必要な食事をとって充分な休息をとれば体力は回復し、再び働くことができる。むしろ体力のある人は、自らを過信して無理をすることもあるのではないか。その結果、体力に自信のない人のほうが仕事量が多いということもあるだろう。
 ここで言う「志」には、何より事実と齟齬がないことが重要であり、必須である。仮に「ゾウリムシと会話をする」という志を立てたとしよう。そもそもゾウリムシに言語がなければどれだけ科学や技術が進歩しようと不可能であるから、ここには事実との大きな齟齬があると言えるだろう。しかし、ゾウリムシとて意思はあるかも知れないので「テレパシーで意思の疎通を図る」というのもあるが、時期尚早である。なぜなら、テレパシーの理論と技術が確立される見込みがたった時点で、初めて「その技術でゾウリムシと・・・」なるべきだからだ。言い換えるならば、人類が月に立つことは可能であるが、基礎技術さえ確立されていなかった江戸時代では不可能であるということと似ている。人の一生には限りがあるのだ。
 少なからざる人が現実と乖離した“志”によって、あるいは為すべきことを見極めることができなかったことによって、さらには“強い意志”と“ブレない意思”の差に気づかなかったことによって挫折しているのではないだろうか。

 野村茎一作曲工房
 

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2009年02月09日

気まぐれ雑記帳 2009-02-09 文系・理系、あるいは絶対音感・相対音感

   
 
 理系と文系という分け方がある。これは、明治時代に現在の学校教育の基となった制度がスタートした頃に文科・理科という分け方をしたことが始まりだろう。
 今日は、それらの細かい定義について書きたいのではない。「数学が苦手だから文系だ」という考え方に警鐘を鳴らしたいのだ。ならば「文章が苦手な人は理系」という考え方も成り立って然りだと思うがどうか。
 「絶対音感ではないから相対音感」という考え方も似ている。どちらも訓練(始めた年齢によって結果が異なる)が必要で、実際には絶対音感も相対音感も持ち合わせていない人が大部分だろう。
 「理系でなければ文系」という短絡的な考え方が浸透してしまったことによる人生の損失は少なくないのではないか。
 おおまかに言うと、文系は人について、理系は自然について研究する分野であるということだろうが、現在の学問は専門化すればするほど他の分野と関わってくるという状況になっている。経済学は、突き詰めるならば人の心理と行動を記述する学問であるが、現在は数学がその手法の最も大きな柱になっている。建築学科は、芸術系の大学にも工学系の大学にも設置されており、文系でも理系でもあると言える。
 文系・理系に共通するのは「発想」である。勉強すれば数学の問題が解けるようになるというのは、実は幻想に過ぎない。習った解法を当てはめることができるようになるだけである。数学的発想にたどりついた人だけが数学の問題を解くことができる。国語をどんなに勉強しても、文学的発想にたどりつかなければ架空の人物にリアリティを与えて動かし、読者に人生を考えさせるような物語を書くことはできないだろう。
 しばしば「オレだってやればできる」という考え方に出会うが、これも幻想に過ぎない。人が何かをやるのは発想(インスピレーション)があるからであって、それのない努力では正しい方向性を見いだすことが難しい。そのようなほとんどの努力は徒労に終わると言ってよいだろう。少なくとも、私はインスピレーションなしに努力している人(何をしたらよいか分からないから取りあえず努力だけしている人)に負けない絶対の自信がある(努力を軽んじているわけではないので念のため)。
 文系・理系などという分類にこだわる以前に、発想できるところまで自らを開発したかどうかを考えるべきだ。発想というのは解決への道筋へのヒントである。それは、常に事実と結びついている。事実と結びついていない考えを「荒唐無稽」という。このように書くと、私が世の中には不思議なことなど何もないと考えているプラグマティスト(合理主義者)であるように思われるかも知れないが、事実は目に見えていることばかりではない。事実こそ不思議(つまり、思い込みとは異なる姿をしている)のかたまりであり、事実をありのままに見ることこそが、私たちをファンタスティックに変貌させる。地動説(太陽中心説)を提唱した、かのコペルニクスでさえ惑星は真円運動するという考えに囚われて事実を掴みきれずに、その理論は天動説論者の反証に対抗できない要素があった。現代宇宙論の開拓者であるアインシュタインでさえ、ハッブルによってその証拠をつきつけられるまで宇宙膨張(アインシュタイン方程式のフリードマンによる解)を受け入れることができなかった。事実を受け入れるということこそが才能であると定義したいほどだ。
 レオナルド(ダ・ヴィンチ)が看破したように、私たちの世界観は観察による事実の把握によって形作られなければならない。何度も書いてきたように、ピアノ弾きがピアノ鍵盤の図を描けないことなど当たり前という状況である。少なからぬ人が黒鍵を白鍵の中央に描く。しかし、それはGis(As)だけであり、Fis(Ges)とAis(B)は約80パーセント左右にオフセットされ、Cis(Des)とDis(Es)は約70パーセントオフセットされている。だからCis-Disのトリルは幅が広く、Fis-Gisのトリルは幅が狭い。観察というのは目で見るだけではない、音も、匂いも、温度も、感触も全てが観察の対象である。平均律を理解している人もどれだけいるのだろうか。調律師は調律曲線に沿った平均律に調律する方法は知っているものの、音律とは何かということになると詳しく理解していない人もいることだろう。
 事実の把握の曖昧さの隙を突いて、疑似科学が私たちを騙そうとする。実際には、それらを主張する本人が信じていたりするので、疑似科学というよりは単に「誤った事実認識」と言ったほうがよい場合もある。それをまた他人に「本当なんですかウソなんですか?」と訊ねたりするのは愚の骨頂というものである(納得いくまで自分で調べることは別)。
 理系・文系というのは学問分野の分類であり、人の分類ではない。
 教科書をひととおり勉強したら、身の回り(自分の関心に深く関わるもの)がどうなっているのか、五感を研ぎ澄まして感じ取ることだ。何もないところからインスピレーションはやってこない。

 画家にとって真白いキャンバスなどあり得ない。(岩波「哲学講座第11巻」より)
 

 野村茎一作曲工房

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2009年02月01日

気まぐれ雑記帳 2009-02-01 天才と凡人のはざまで

 
 時折このコラムで扱う、評論家柳田邦男氏が定義した意識レベルの概念「フェイズ0〜3」(0は眠っている時、1はボーッとしている時、2は日常生活をこなしている時、3は集中している時)で言うならば、私たちは毎日0〜3までのレベルを行き来していることになる。
 有能な人というのは、いつフェイズ3という状態になるべきかを知っている人なのではないか。たとえ記憶力や計算能力が高くとも、肝心な時に気づかなければ宝(能力)の持ち腐れというものだろう。
 ところが、天才というのは時として、定義外の“フェイズ4”がやってくる。アインシュタインも天才であることは間違いないが、天才としてのデッドエンドにいると考えられるひとりであるインドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)はフェイズ4を知るきっかけを与えてくれる。答えに至った理由を尋ねられたときの「全ては女神さま(ナマギーリ女神)が教えてくれた」という彼の言葉は、自分でも解法が判らないということなのではないか。それほど一瞬にして解答がやってきた、つまり途中の演算を飛ばしていきなり正解にたどりついたということだろう。これは、ラマヌジャンの意識の中で、いくつもの事実の“意味ある相関関係”が一瞬にして明らかなったということではないだろうか。
 “集中する”という言葉(概念)を説明することは意外と難しい。心理学などにおける定義は厳密になされていると思うが、作曲工房的に言えば「事実を確認する力」である。
 バッターボックスに立った打者は、ボールの速度と軌跡の事実を確かめ、また自らの動きがそれに合致するかどうか確認するために集中する。綱渡りする曲芸師は、綱の上に自分自身の重心があるかどうかを逐一確認するために集中する。重心が外れればすぐにカウンタウェイトをかけるために、また集中する。数学のテストに解答中の受験生も、自分の計算や推論が事実と食い違っていないかどうか(論理にかなっているか)を確認するために集中する。刺繍する人も、絵を描く人も限りなく正確な位置に糸や絵の具を置くために集中する。正確さや速度のレベルが上がれば上がるほど集中力は累乗倍(感覚値だが)されて強い精神力が必要となる。しかし、どんなに集中しても、それだけはフェイズ3から一歩も進むことはできない。
 私観ではあるが、天才が到達するフェイズ4という状態は、集中しているけれども緊張していない時に訪れるような気がしている。
 それは、複数の事実から関連性を見いだすというようなことだ。簡単なところでは、階段の上下にある照明のスイッチの仕組みはどうだろう。どちらのスイッチを動かしても点灯・消灯できる回路である。スイッチ2つまでなら、少し考えれば大抵の人が回路図(正式な回路図である必要はない)を書けることだろう。しかし3つ以上になると急に難しくなる(もちろん、その回路を知らない人にとっての話)。この答えを出すには知識よりもインスピレーションが必要と言っても過言ではない。もはや発明に近いからである。インスピレーションというのは事実と事実の関連性を見いだす力(センス)のことであり、決して超能力ではない(もちろん、超能力としか呼べないようなインスピレーションもある)。想像力の本質が「何もないところから荒唐無稽な考えに辿りつく」ことではなく、事実の延長線上に考えを広げることであるように、インスピレーションも事実の把握なしでは成り立たない。やはり、ここでも事実から学べるかどうかが分かれ目になる。ちなみに3つ以上は何個のスイッチがあってもそれ以上複雑化しない。
 平々凡々とした私ではあるが、“優れる”とはどういうことかということを考え続けた結果、多少それらしい答えに近づいてきた印象がある。「天才は教育では育たない」と言われるように、勉強したところで到達点は限られているように思われる。しかし、注意深く周囲を観察して事実を読み取り、自分の認識と“事実”が一致したとき、人が高みへの階段を一段昇ったことになることは間違いないだろう。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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