録音が可能になっただけでなく、豊富な録音メディアの入手が楽になったのはそれほど昔のことではないだろう。
ベートーヴェンでさえ、自分自身の交響曲を聴く機会は生涯にどれほどあったのだろうか。あるいはブラームスが、自らの作品だけでなく、他の作曲家のオーケストラ作品を聴く機会はどのくらいあったのだろうか。それに比して現代の私たちが置かれた状況は信じられないほど音楽情報が豊かであると言える。にもかかわらず、その利を生かしているかというと、そうとばかりは言えないのではないか。
ピアノのようにひとりで完結してしまう楽器を扱う音楽家は、ずっと昔からいくらでも繰り返しひとつの曲に触れることができた。しかし、現代は誰でも世界の名演奏家の演奏にいくらでも触れることができる(決して、今日の食べ物にもこと欠く国々の人々を忘れているわけではない)。
現代のこの音楽環境の最大の強みは音楽史と、まさに同時代の音楽世界を概観できるということだろう。ということは、私たちに要求される力が2つに集約される。それは時間軸と時間平面上に広がる3次元的な音楽世界の立体像を把握する力と、真に優れた音楽を選択する力である。それを持たない人は音楽の海を漂うだけで終わるか、あるいは溺れてしまうことだろう。
モーツァルトは生演奏以外存在しない時代においても、その卓越した記憶力によって一度、あるいはほんの数回聴いただけのその交響曲の構造を理解したように思われる。これは私見であるが、もし、記憶に怪しげなところがあれば、それはモーツァルトのインスピレーションによって、むしろ高められて彼の中に再構成された可能性さえあるのではないか。現代は多少記憶力が悪くとも覚えるまで何回でも聴くことができる。しかし、覚えることと全体を把握することは意味が異なる。
妙な話だが、私の場合、自分で作った曲なのに作曲した当初は曲への理解が全く足りない。それを痛感させられるのは決定稿を書くために推敲・校訂作業を行なっている時だ。アーティキュレーションもデュナーミクもすぐには決定できない。つまり、理解できていないということだ。繰り返しその曲を自分の中に流していくうちに、その曲の本来の姿が朧げながら見えてくる。これが記憶と理解の質的な差の一部を表していると思われる。
元に戻る。「3次元的な音楽世界の立体像の把握」とは、音楽世界のアドレスを理解することであり、それによって、くまなく音楽世界を概観することができることになる。その世界で見いだした“真に優れた音楽”を吸収して、作曲者が理解していたことがらに少しでも接近することが私たちが積むべき音楽経験だろう。現代の音楽環境は、そのために利用すべきものであって、環境に振り回されていては意味も成長もない。
豊富な音楽情報が豊かな音楽環境をもたらしているにもかかわらず、少なからぬ音楽愛好家が未消化のまま豊饒の海をあてもなく漂っているとしたら、なんとももったいない事だ。
野村茎一作曲工房