カルチャースクール、あるいは資格講座のようなものが数多く開講されている。「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」という心理によるものであるとしたら、それは実に皮肉なことである。
「もっと勉強しておけばよかった」という結論は「それが今の自分の人生とは異なる結果を生んだに違いない」という推論から導き出されたものであることはほぼ間違いないだろう。
では、過去に猛勉強したと仮定する。それは教科書を丸暗記してしまうほどの徹底ぶりであった。そのかわり、代償として他の体験や経験を失うことになる。教科書から得た知識がどれだけ人の人生や人格を変えるだろうか。良いほうに変えるとはとても思えないが、どうか。
勉強しなくてよいと言っているのではない。幻想ではなく、事実を把握すべきだと言いたいのだ。
資格マニアのような人がいる。いくつもの講座に通って、次々と資格を取得する。それが、資格取得にのみ喜びを感じる本物の“資格マニア”であるならば正しい生き方だろう。しかし、人生を変えたい、あるいは、より高みを目指したいと考えているのならば、資格取得は目的ではないはずだ。自動車運転免許は国家資格であるが、30年間毎日運転しているからと言って“スーパードライバー”になれるとは限らない。勉強というのはパソコンソフトのチュートリアルのようなものに過ぎない。
私の許には音大を卒業した人も、一般大学卒業の人もレッスンに通ってくださっているが、一般大学卒の人たちには「音大コンプレックス」があり、音大卒の人たちには「勉強が足りなかった」という強迫観念がある(全ての人に当てはまるわけではない)。どちらも幻想に過ぎないのだが、それに気づくには洞察力が必要である。
卑近な例で恐縮だが、たまたま、いま手許に昨年暮に出版されたばかりの「岩波講座 哲学07 芸術/創造性の哲学」という書物がある。まだ読み始めてもいないのでランダムに一部を抜粋・引用する。
たまたま開いたのは大塚直子さんという方の「メディアとジャンルの越境と横断」という章である。
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目の前に一枚のカンヴァスがあるとしよう。描かれているのは等身大のふたりの女性。一瞥して判るのはそれだけである。
毎日テレビ映像に浸り、イメージを注意深く読むことを忘れた眼差しにとって、これは、それだけのイメージに終わるだろう。美術史の知識を持つ者であれば、彼女たちの姿や背景が、ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》に酷似していることに気づくかも知れない。
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端正で美しい文章であり、文法的に難解な点は見当たらない。しかし、“いわゆる”勉強にどれだけ励もうと、この文章の真意にたどりつくのは容易くない。引用が短すぎて、筆者の主張を伝えるに至っていないことも問題であるならば、興味を持たれた方は図書館などで続きをお読みいただきたい。私自身「ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》」というものを知らないのだが、理解のための真の問題はそこにあるのではない。おそらく、私たちが美術作品と心から対峙することによってのみ得られるレディネスが必要なのだ。
それはもはや知識ではない。
学生時代の私は、分からないことがあるとすぐに答えを知りたがった。もちろん、辞書や書物からは得られそうにない答えである。そういう時は作曲を師事していた土肥 泰(どい・ゆたか)先生が頼みの綱だった。彼は「答えを知っても分かるわけではないが」と前置きして的確に答えてくれたが、いつでも本当に分かるのはずっと後になってからだった。
分かりやすい例を挙げるならば「モーツァルトは天才ですか?」というような問いの場合、答えを聞いてもまるで意味がないのと同じだ。モーツァルトが天才であるかどうかは、自らたどりつくしかない。そのために費やす時間と精神力は計り知れないものがあるが、それは人生にとって極めて意味ある行為となることだろう。
ピアノを習うことにどのような意味があるだろうか。毎日練習してだんだん上手に弾けるようになっていくのも楽しいことだろうが、それは言い換えれば個人の楽しみに過ぎない。しかし、ピアノを通じて音楽そのものに出会えるような向き合い方をしたらどうだろうか。レッスン曲に「合格」とか「花まる」がないような世界である。
人類は音楽を生み出し、音楽は人類に高い精神性を求め、高い精神性は音楽を洗練し、洗練された音楽は、人類をさらに高みに押し上げてきた。バッハやベートーヴェンは“音楽”という美の哲学によって限りなく高められた精神である。ところが、(悪名高き)バイエルやツェルニー、あるいは初心者用のソナチネでさえ、凡人を寄せつけぬ高い精神性が潜んでいる。それに気づくとピアノを弾くことの意味がガラリと変わる。易しいと思われているバイエル序盤の練習曲でさえ(むしろ序盤こそ)、いくら弾いても完成の域に達しないのだ。その時、向かい合う相手はすでにバイエルではなく、自らの美的精神(の低さ)となる。絵画に対する理解も同様だ。眺めれば眺めるほど細部と全体が見えてきて、ついには画家の精神性に追いつかない自分自身との対峙となる。優れた画家は自然界の真理が奥行き深く見えてきて、神にひれ伏す。たとえばレオナルドの「受胎告知」はどうだろう。鑑賞者たる我々は、いつしか、そこに描かれたマリアの崇高さ( = そこに到達したレオナルドの精神性)に気づく。すると、なんとかそこに辿りつこうとして、眺めては考え込み、考え込んでは、また眺めるということの繰り返しが続く。そのように過ごすうちに、私たちの精神性も徐々に高まっていく。これは、ただ単に解答欄に答えを埋めるために勉強する(無批判に知識を受け入れる)という手順では決して得られぬ経験だろう。
それでも、まだチュートリアルや資格取得(資格取得後に本格的な探求が始まるとすれば全く別の話だ)に情熱を注ぎ込みたいだろうか。
野村茎一作曲工房