2009年01月30日

気まぐれ雑記帳 2009-01-30 学習強迫観念と幻想

 
 カルチャースクール、あるいは資格講座のようなものが数多く開講されている。「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」という心理によるものであるとしたら、それは実に皮肉なことである。
 「もっと勉強しておけばよかった」という結論は「それが今の自分の人生とは異なる結果を生んだに違いない」という推論から導き出されたものであることはほぼ間違いないだろう。
 では、過去に猛勉強したと仮定する。それは教科書を丸暗記してしまうほどの徹底ぶりであった。そのかわり、代償として他の体験や経験を失うことになる。教科書から得た知識がどれだけ人の人生や人格を変えるだろうか。良いほうに変えるとはとても思えないが、どうか。
 勉強しなくてよいと言っているのではない。幻想ではなく、事実を把握すべきだと言いたいのだ。
 資格マニアのような人がいる。いくつもの講座に通って、次々と資格を取得する。それが、資格取得にのみ喜びを感じる本物の“資格マニア”であるならば正しい生き方だろう。しかし、人生を変えたい、あるいは、より高みを目指したいと考えているのならば、資格取得は目的ではないはずだ。自動車運転免許は国家資格であるが、30年間毎日運転しているからと言って“スーパードライバー”になれるとは限らない。勉強というのはパソコンソフトのチュートリアルのようなものに過ぎない。
 私の許には音大を卒業した人も、一般大学卒業の人もレッスンに通ってくださっているが、一般大学卒の人たちには「音大コンプレックス」があり、音大卒の人たちには「勉強が足りなかった」という強迫観念がある(全ての人に当てはまるわけではない)。どちらも幻想に過ぎないのだが、それに気づくには洞察力が必要である。
 卑近な例で恐縮だが、たまたま、いま手許に昨年暮に出版されたばかりの「岩波講座 哲学07 芸術/創造性の哲学」という書物がある。まだ読み始めてもいないのでランダムに一部を抜粋・引用する。
 たまたま開いたのは大塚直子さんという方の「メディアとジャンルの越境と横断」という章である。

  ***

 目の前に一枚のカンヴァスがあるとしよう。描かれているのは等身大のふたりの女性。一瞥して判るのはそれだけである。
 毎日テレビ映像に浸り、イメージを注意深く読むことを忘れた眼差しにとって、これは、それだけのイメージに終わるだろう。美術史の知識を持つ者であれば、彼女たちの姿や背景が、ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》に酷似していることに気づくかも知れない。
 
 ***

 端正で美しい文章であり、文法的に難解な点は見当たらない。しかし、“いわゆる”勉強にどれだけ励もうと、この文章の真意にたどりつくのは容易くない。引用が短すぎて、筆者の主張を伝えるに至っていないことも問題であるならば、興味を持たれた方は図書館などで続きをお読みいただきたい。私自身「ポントルモによる祭壇画《聖母のエリザベツ訪問》」というものを知らないのだが、理解のための真の問題はそこにあるのではない。おそらく、私たちが美術作品と心から対峙することによってのみ得られるレディネスが必要なのだ。
 それはもはや知識ではない。
 学生時代の私は、分からないことがあるとすぐに答えを知りたがった。もちろん、辞書や書物からは得られそうにない答えである。そういう時は作曲を師事していた土肥 泰(どい・ゆたか)先生が頼みの綱だった。彼は「答えを知っても分かるわけではないが」と前置きして的確に答えてくれたが、いつでも本当に分かるのはずっと後になってからだった。
 分かりやすい例を挙げるならば「モーツァルトは天才ですか?」というような問いの場合、答えを聞いてもまるで意味がないのと同じだ。モーツァルトが天才であるかどうかは、自らたどりつくしかない。そのために費やす時間と精神力は計り知れないものがあるが、それは人生にとって極めて意味ある行為となることだろう。
 ピアノを習うことにどのような意味があるだろうか。毎日練習してだんだん上手に弾けるようになっていくのも楽しいことだろうが、それは言い換えれば個人の楽しみに過ぎない。しかし、ピアノを通じて音楽そのものに出会えるような向き合い方をしたらどうだろうか。レッスン曲に「合格」とか「花まる」がないような世界である。
 人類は音楽を生み出し、音楽は人類に高い精神性を求め、高い精神性は音楽を洗練し、洗練された音楽は、人類をさらに高みに押し上げてきた。バッハやベートーヴェンは“音楽”という美の哲学によって限りなく高められた精神である。ところが、(悪名高き)バイエルやツェルニー、あるいは初心者用のソナチネでさえ、凡人を寄せつけぬ高い精神性が潜んでいる。それに気づくとピアノを弾くことの意味がガラリと変わる。易しいと思われているバイエル序盤の練習曲でさえ(むしろ序盤こそ)、いくら弾いても完成の域に達しないのだ。その時、向かい合う相手はすでにバイエルではなく、自らの美的精神(の低さ)となる。絵画に対する理解も同様だ。眺めれば眺めるほど細部と全体が見えてきて、ついには画家の精神性に追いつかない自分自身との対峙となる。優れた画家は自然界の真理が奥行き深く見えてきて、神にひれ伏す。たとえばレオナルドの「受胎告知」はどうだろう。鑑賞者たる我々は、いつしか、そこに描かれたマリアの崇高さ( = そこに到達したレオナルドの精神性)に気づく。すると、なんとかそこに辿りつこうとして、眺めては考え込み、考え込んでは、また眺めるということの繰り返しが続く。そのように過ごすうちに、私たちの精神性も徐々に高まっていく。これは、ただ単に解答欄に答えを埋めるために勉強する(無批判に知識を受け入れる)という手順では決して得られぬ経験だろう。
 それでも、まだチュートリアルや資格取得(資格取得後に本格的な探求が始まるとすれば全く別の話だ)に情熱を注ぎ込みたいだろうか。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

音楽コラム 2009-01-19 経験からさえ学べない可能性

 
 以前から述べていることではあるが、なかなか理解が浸透しにくい問題でもあるので切り口を変えてもう一度書く。
 太古、人類が言語を持たなかった頃は、ほとんど全てを自らの経験から学ぶほかなかった。危険が迫れば避けたり逃げたりすることは本能的にもできるが、事前に危険を察知して近づかないようにするには経験から学んだ、というようなことである。経験から学ぶことは事実から学ぶことであり、非常に重要であるのだが大きな問題も孕んでいる。それは、個人の経験が極めて限定的であることだ。
 言語の発達とともに、最初は親から、成長するに従って出会った人々から情報を得られるようになり、個人ひとりだけの経験ではなく、何人分もの人生経験から学ぶ機会を持てるようになったことだろう。しかし、同じ地域で暮らしていれば経験も似たようなものになり、狩り場の情報なども何人から聞いても同じものだったかも知れない。おまけに、観察力の鋭い人は、そうでない人からの情報がまるで役に立たないこともあったに違いない。
 人類にとって文字の発明は言語の発明以上の画期的な出来事だった。音声は人々の記憶の中にしか残らないが(おまけに、時間の経過とともに変質したりする)、文字は時間を超えて情報を伝達する。
 時代は一気に下って、グーテンベルク(実際には彼以前にも印刷術は存在したが)は、最初の印刷物として聖書を選んだ。印刷という技術の価値を人々に知らしめるのに充分な選択だった。
 書物は、距離と時間を超えて人々に経験を伝えた。時代を隔てた昔の記述が現代に通用すれば、それは普遍的である可能性が高い。また、地域と文化を超えて通用することも普遍的であるかも知れない。ローカルな法則と普遍的な法則は、生きていく上でどちらも必要ではあるけれども、判断の最も基本としなければならないのは普遍的な法則であることは言うまでもないだろう。
 親の意見に従うことが最善と考えられいた時代も、かつては確かにあった。しかし、書物に蓄積された情報の中には自分の親よりももっとずっと高みからの判断があり、それを見極めることができた人は、当然のことながらそれに従った。
 しかし、言葉も文字も他人の認識を表しているだけで事実ではない可能性もある。つまり、究極の判断は事実を基に下す自分自身の判断であるということだ。
 そのためには、常に自分の経験と照らし合わせる必要があるのだが、これがなかなか難しい。事実から学ぶ難しさである。だから、いくら自分の判断とはいえ、事実を読み解く力が足りなければ、より優れた人の判断にはかなわない。私たちが学ぶのはテストの解答欄を埋めるためではなく、その力を育てることだ。作曲も演奏(校訂と解釈を含む)も、その力が根本にある。
 レオナルドはその困難さを観察と洞察力によって克服できることを示した。彼の初期の名作「受胎告知」には、線的遠近法、空気遠近法など、注意深い観察と洞察力の成果を見てとることができる。しかし、それを見てとることさえ、私たちの過去の観察力が試されることになる。科学と疑似科学の境界線などは、判断が非常に難しい場合がある。なぜ難しいかというと、それは一言で表現するならば“きちんと経験していない”からである。人は物事の差異を認識したときには異なる名称を付して、それらを区別する。たとえば、初めて羊の群れに出くわした時には、どれも羊に過ぎないが、羊飼いになって毎日一緒に過ごしていれば一頭ずつを区別して名前をつけて呼ぶようになる可能性が高い。
 事実は目の前にあるが、それを認識するためには私たち自身が“真に優れる”必要がある。何回も書いてきたように、アリスタルコスは半月が太陽の方向を指しているという観察的事実から、極めて論理的に太陽までの距離とその巨大さを測り、地動説(太陽中心説)に到達した。ニュートンは、物体が落下するのは物体の性質ではなく、重力によるものであることを見抜いた。マザー・テレサは、もう医者にも手の施しようがなく、助かる見込みのない死に行く人の手を握って「怖くありませんよ。私がずっとそばにいます」と言って、そのとおりにした。
 事実は決して間違えないが、凡人はいともたやすく事実を読み間違える。
 あなたは、自宅玄関ドアを記憶だけでスケッチするように言われたら、どのくらい正確に描けるだろうか。玄関ドアなどに興味がないというのなら、なんでもかまわない。ご自分が最も詳しいものについて、その姿をどこまで詳細に把握しているか確かめてみてはいかがだろうか。別に絵を描かなくともよい。思い出すだけでもよい。ちなみに、ピアノ鍵盤は記憶だけで正確に描くのは極めて難しいもののひとつである。白鍵の中央に位置しているのはGis(As)だけであり、残りは大きくオフセットしている。さらに白鍵と黒鍵の鍵盤幅、長さ、黒鍵のテーパー・シェイプ、etc. 毎日眺めたり触れているのに、大体の外見を描くことさえ難しい。
 事実を把握できずに、思い込みで行動して失敗する人を“愚か者”と言う。


 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

気まぐれ雑記帳 2009-01-02 美味しいとはどういうことか

 「美味しいものは何か」と問われたら、それは酒の肴(さかな)であると答えるだろう。ただし条件がある。
 その条件とは日頃の食生活にある。
 日常の食事は、皇室で天皇家の御料理番が作っているような質素で清廉なものでなければならない。メニューそのものは戦前の日本の家庭料理を基本としたようなもので、特別な献立ではない。庶民の料理との違いは、魚であれば骨を全て抜き、根菜類を煮付ける時には全て面取りをするという手間がかかっていることくらいで、豪華などは微塵も感じさせないケ(ハレに対する)の料理である。日常の食事がケの料理であるということは重要で、そうでないとハレとケのコントラストがなくなってしまう。自分で料理をしなければならない私たちが、魚の骨を全て抜くなどという手間をかける必要はないが、食卓にハレとケの区別のつかない料理を並べるような暮らしはしたくない。大根なら大根、芋なら芋、豚なら豚を美味しいと思って食べられるような食事こそが望ましい。毎日の料理に特別なアイディアはいらない。自然界は飽きない味をきちんと用意してくれているからだ。毎日、季節に応じて多少食材が変化していくだけでも私たちは充分においしい食事をすることができる。
 スーパーマーケットなどに並ぶ“ひと手間加えればすぐできる”という類いの半加工献立メニューは、その多くがハレの料理から発想されたものが多い。それは、まさに今の日本人の食に対する意識の低さを物語っていて、毎日の食事のアイディアに苦労しているにも関わらずあまり報われないばかりか、栄養学的にもいびつで、そして食に対する鋭敏な感覚をも失わせる構図を表している。そこには、どうすればよいか分からないという迷いが表現されている。
 対して酒の肴はハレの料理である。酒の肴にはインスピレーションが必要で、それが人の心を浮き立たせる。日本酒だったら、ちょっとあぶってねっとりとしたカラスミなどはシンプルさの極みだが、手を加えた肴はイマジネーションを加速する。酒の肴は、実は高度な概念であり、もしカミさんに望みどおりの肴を用意してもらおうと思ったら数年間は、その伝達のために忍耐の時を過ごす必要があるだろう。それが嫌なら自分で料理するほうがてっとり早い。逆に肴に対する鋭い感性を持ったカミさんを見つけた人は、それだけで人生の成功者と言えるかも知れない。
 洋酒の肴は各民族の文化を反映していて興味深い。ビールなどはザワクラウトとソーセージという定番があるが、バーボンとスコッチでは同じウィスキーでも全く異なる肴が合う。変わったところでは、普通はカクテルベースにするものの、ストレート・ラムをビターチョコレートで呑むのは格別の体験だ。
 さて、実は本コラムにおいて酒の肴が本題なのではない。
 高価な暮らしと高級な暮らしが異なる実態を表すように、高級な暮らしと上質な暮らしも異なる概念と捉えてよいだろう。
 落語に出てくる江戸の貧乏長屋で八ッつぁんが「スルメをね、こうちょっと炙って、冷や酒をキューっと一杯やるとね、ああ、オレは何て幸せ者なんだって思うんでさ」とつくづく言う。これは間違いなく上質な暮らしと言えるだろう。己の人生を知っている者にしか言えないセリフである。
 霧に包まれた人生観(単に考える機会が与えられなかっただけかも知れない)で生きていると、実に単純な判断さえできずに迷ってばかりということになる。
 作曲する、絵を描く、あるいは小説を書く、スポーツをする、料理をするなど、ありとあらゆる創作においては、そこにその人の全てが表れる。ゆえに、そのための訓練だけをしていても上質な結果が得られるとは限らないだろう。花屋の店先の人工的な栽培品種の花にしか目が向かず、路傍の花(まさに自然が必要として生み出した)に気づかぬような人が大成するとは、私には、とても思えない。

※ 念のために書き添えておくと、私は酒も肴も大好きだけれど飲むと作曲できなくなるので、今は晩酌はほとんどしません。

 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。