2008年12月29日

気まぐれ雑記帳 2008-12-29 “優れる”ための覚え書き

 
 まず最初に明らかにしておかなければならないことが「優れている」という言葉の定義である。ここでは「真実への到達度が高い状態」とする。「ここでは」というのは「私が語る時には」と読み替えていただいてかまわない。
 「優れる」というのは「優れた状態に向かう過程」ということになる。

 日本では多くの子どもたちが学校に通ったり、塾に通ったりして勉強している(?)が、そのことによって誰もが優れていっているだろうか。年齢とともに経験値が増して、社会性などは身についてくるとは思うが、勉強によって人が優れるかどうかは私には判断がつきかねる。
 念のために断っておくが、私は学校教育や勉強を否定するつもりは一切ない。むしろ、もっともっと勉強すべきだと考えている。
 少し前のコラムで「ニュース脳」という言葉を出した。それは知識や情報を無批判に受け入れてしまう傾向が強いことを指す。何度も繰り返してきた言い方で説明すると「(天文学としての)天動説を習えば、そのテストで良い成績をあげてしまうのが性能のよいニュース脳の持ち主であり、その矛盾に気づいて地動説にたどりつけば“すぐれている”ことになる」ということだ。
 優れた人は、(ごく少数の例外的な天才を除けば)最初からすぐれていたわけではない。“優れてあろう”と志さない限り、真に優れることはできない。それに比して、成績を上げようなどという志は極めて低いと言わざるを得ない(それが楽だとは言っていない)。成績を上げるには、すでに用意された解答への道筋をたどるのに対し、優れるためには道を模索しなければならないからだ。つまり、優れようと志した段階で、すでにその人は優れていると言えるのかも知れない。
 優れようとした人が勉強に向き合うと、そうでない人(よい成績を望む人)との間に顕著な差が生じることだろう。
 優れているということの意味を理解しているが作成したテストは、ニュース脳教師が作成したテストとは大きく異なるものになる。テスト問題を見れば、その出題者のレベル(問題の難しさのレベルではない)が分かる。以前、長男の高校時代の音楽のテストの問題用紙を見て、その無意味さに言葉を失ったことがある。なんとか成績を出さなければならない教師側の意味のない論理がさらけだされていた。駄目なテストは授業内容を問い、すぐれたテストは真実を問う。
 優れようとした人は真実を学ぼうとし、成績を上げたい人は授業を学ぶ。
 誰もがすぐれた教師に学べるわけではないが、ガリレオ・ガリレイは自分が学び、そして自分が大学で講義していた天動説のほころびに気づくことによって地動説への扉を開いた(ガリレオが地動説を最初に唱えたのではない。これについては過去のコラム参照)。つまり、真に優れた人は誤ったことを習っても、そこから真実にたどりつく。
 “優れる”ことを志すのは、優れた存在を知ることがきっかけになるのではないか。
 私自身の例を挙げるならば、初めてバッハの偉業(フーガの技法)の一端に触れた(部分的な理解)時、一瞬にして体温が数度上がったような錯覚にとらわれた。今まで自分自身が何をしていたのだろうという無自覚さへの気づきと後悔と焦りと懺悔が一度に襲ってきた。この時、音楽は趣味ではどうにもならないないことを悟り、一生を賭ける決心をした。大学生の時だった。これと同じようなことは、アリスタルコスが半月が太陽の方向を向いているということに気づいて、太陽-地球-月のなす直角三角形だけから太陽と月との距離の比を導き出し、論理的に地動説にたどりついたことを知った時にも起こった。
 優れたいと思った。優れなくてはならないと思った。そう思ってから、初めて優れることの難しさを知った。
 小学校の時から子どもを有名進学塾に通わせたとしても、人生の途中で“優れたい”と心底、志を立てた人には全く敵わないことだろう。
 優れるためには、本当に大切な事柄では正確でなければならない。大雑把でよいところと微小な差を見分けなければならないところが分からなければならない。人の言葉は真実であるとは限らず、その人のことを表しているだけかも知れない。真実に到達した人だけが思ったことが実現する。
 レッスン(教育)とは、知識を教示したり技術の単なる伝達ではなく、優れたいと志すことの“威力”が全てに勝ることを伝えることが第一義であると考えている。
 老婆心ながらつけ加えておくと、いわゆる“強い意志”というのは、しばしば優れるための障害になることがある。アマチュア・ランナーが日課であるランニングを“強い意志で”休むことなく続けようとして心不全などで事故死したというニュースを聞くのはそういう例のひとつである。強い意思は、正しい判断の基準をいとも簡単に狂わせる(無判断の誘導、判断の停止)。毎日欠かさず(言い換えれば、思うところがなくとも)ピアノの練習をしている人は、そのうちインスピレーションをも失うことになるかも知れない。
 いつか優れて真実に到達したい。
 論語にあるように「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」の心境である。


 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

気まぐれ雑記帳 2008-12-27 山野に薬草があるのはなぜか

 
 人の身体には、自然治癒力や免疫などの力が備わっている。もちろん、そのような能力があるからこそ今まで生き延びてくることができたにちがいない。
 ところが人に生まれつき備わった力だけでは足りない時もある。そういう時には、驚くべきことに山野に薬草が用意されている(当然のことながら医学の発達も必要である)。
 それこそが神の行ないであると主張する人もいることだろう。率直に言うなら、その意見に全面的に賛同することに吝(やぶさ)かではない。
 ガイア仮説的に考えると、全ての生命は生態系によって生かされている。また、生態系は生命活動によって環境を保っている。免疫などの力は個体ごとに持っていたほうが有利だが、珍しい病気など、全ての病気に備えるのは身体に必要とは言えない機能まで持たせることになるので効果的ではない。それで、自然界に薬草を共有するようになったという考え方はどうだろうか。
 漢方薬は、その多くが薬草である(動物性のものもある)。薬草には医薬品と違って効能が表示されていない。動物が食べているのを見たり、長年の経験で効能を発見したりして徐々に蓄積された知識が薬草を実用的なものにしてきた。
 宇宙船や粒子加速器は工場で作られているような気がするが、その材料は元をただせば、全て地球が原料である。アフォーダンスとしての地球を探索することによって、いろいろな事が分かる。それが科学である。そして、目的を達成するために知識を武器に物に対して働きかけるのが技術である。薬草と同じように、地球には工夫次第でいろいろなことを可能にする資源がある。
 ここで最初に戻る。
 生命は生態系によって生かされている。しかし、行きすぎた資源開発と生態系を無視した技術開発やその行使は環境を危うくする。
 薬草に効能が表示されていないように、資源にも注意書きがない。人類は持続可能なライフスタイルを大至急確立する必要があるだろう。
 そのために必要なのは“知ること”である。その根本は、生態系が破壊されたら、生態系はバランスを取る形で回復しようとするだろう。しかし、その変化した環境が人類の生存に適しているとは限らない。
 もし、人類の幸福とは何かと問われたら、川の水が飲用可能であることと答えるだろう(ただし、水棲寄生虫も生態系の一部なので完全な排除は不可能だが、それでもよい)。水がきれいであることほど文明のスコアの高さを表す指標はないだろう。
 そのためには、よくよく考えれば必要のない物を、魅力的であると思わせて買わせようとする経済圧力に動じなければよい。私たちは自らの真の望みについてもっともっと詳しくなる必要がある。
 環境保護を訴える時に悪者にされるのが科学と技術であるが、科学も技術も真の悪者ではない。人間の誤った欲望こそが悪者だろう。むしろ、人類はもっともっと地球を探索して真実に到達しなければならない。人が本当の望みに到達した時、それは生態系を破壊するような圧力を持たないはずであると信じている。


 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 02:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

気まぐれ雑記帳 2008-12-09 ゲームばっかりしてなさい

 長男が小学生だった頃「今度の誕生日には“マザー2”が欲しい」と言ってきた。両親の答えはNo!だった。

「だって、お前は、まだ“マザー1”をやっていないじゃないか」

 当時すでに“マザー”は絶版ゲームで、カミさんと私は手当たり次第、中古ゲームソフトを扱う店を訪ねてソフトと攻略本を手に入れた。そして、しばらく後、マザーをクリアした息子はマザー2にとりかかることができたのだった。
 一時期、「ゲーム脳」という言葉が世間を騒がせた。大喜びしたのは、すっかり「ニュース脳」にやられている親たちだったに違いない。
 我が家はマンガとゲームで子育てしてきたので「ゲーム脳」のおおよその正体を知るまでは心穏やかではなかったが、恐れるに足るものではないと判断し一件落着した。後述するが「ニュース脳」のほうがはるかに怖い。
 子どもたちが小学校に入る頃から、我が家のテレビはアンテナ線に接続されていなかった。テレビはビデオゲーム(日本ではテレビゲーム)専用だったのである。ゲームをやってもよい時間は平日と休日で異なる時間が与えられていて、兄妹3人が時間をシェアしあいながら、結局親も一緒に画面を眺めてゲームを楽しんだ。テレビ番組が見られないという贅沢な環境でこそ実現できた家族団欒だった。ゲームには、我が家独特な条件があった。どのゲームも、最初に開発されたバージョンから順に行なうというルールである。だから、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーがどのように進化して行ったのかを順次体験することができた。プラットフォームの進歩がそのままゲームの面白さにつながるとは限らないこと。そのゲームがオリジナリティにあふれるものなのか、それとも単なる亜流であるのか、家族の誰もがすぐに判断できるくらいの嗅覚が身についた。
 そのうち、子どもたちは自分でゲームを作り始めた。私もやらせてもらったが、亜流を脱するのは芸術絵画や芸術音楽と同じくらい大変な世界であることを直感した。
 ロールプレイングと呼ばれるジャンルでは、冒険に出かけるパーティーのメンバーには家族の名前がつき、みんなで応援した。シューティングゲームなら点数を競い、カーレースでは、4人が同時にコントローラーを握った。“落ちもの”と言われるゲームではカミさんが子どもたちを全く寄せつけず圧勝し、「落ちものクィーン」の称号を得た。
 実は、子どもたちにゲームをやらせるにあたって、カミさんは大反対で「あたしの目が黒いうちには絶対やらせないわよ!」と仁王立ちになって家族全員を睨んでいたのだった。
 それを説得したのはゲーム自体だった。現代では優れた才能がゲームとアニメーションに集結していることを理解したのだ。
 「どうぶつの森」というジャンル不明、目的不明のゲームには家族そろってハマった。パラレルワールド(平行世界)をもじって“ひらゆき村”を作り、家族全員で村づくりに励んだ。
 子どもたちの誰ともなく「天国ってこういうところかなあ。死んだら“ひらゆき村”で暮らしたいね」と言った。家族全員が黙ったまま強く強く同意した。この瞬間、家族で世界観を共有したのだった。
 このように書くと我が家でがゲームばかりしていたように思われてしまうかも知れないが、ゲームの制限時間は短く、ボスキャラと戦うのは休日でなければ無理なくらいだった。子どもたちは週末は早く布団に入り、翌日のボス戦に備えるのが常だった。
 ゲームの時間が終わると、アンテナ線につながれていないテレビはただの箱になってしまう。子どもたちはヒマを持て余して家事の手伝いにいそしんだ。おかげで、誰もが炊事・洗濯・掃除の技術は早くから一人前になった。それでも時間が余る。残りの時間は読書だった。毎週日曜日になると、図書館でたくさんの本を借りる習慣だった。その時の読書体験が役に立ったのか、子どもたちは今でも読書家である。おそらく私と、アウトドア派の次男坊がもっとも読書量が少ないのではないか。
 カミさんや子どもたちから今でも次々に「面白かった本」というのを薦められるのだが、とても読み切れない。カミさんはそれらを全部読んでいるようだが、私は年間100冊を超えることは不可能だ(そんなに読みたくない!)。
 昨年(2007年)、エンターブレインから「ゲームばっかりしてなさい」というゲームで子育てをしたゲームクリエイターの浜村弘一(はまむら・ひろかず)さんの本が出て、家族みんなでワクワクしながら読んだ。
 その正体も知らずにゲームを嫌悪し、敵意に満ちた目で睨みつける親の監視下で、孤独にゲームを続ける子どもたちのことを思うととても気の毒に思えてならない。ゲームも玉石混交だから、子どもが小さい時には道標(みちしるべ)となってゲームを選んで与えるくらいのことがあってもよいのではないか。我が家でも、もし親がゲームに嫌悪感だけがあって、そのくせ無関心であったならば、子どもたちはゲームをする罪悪感とともに、ゲームのクォリティにも無頓着で単なる暇つぶしをしていたかも知れない。
 最後につけ加えなければならないのが「ニュース脳」問題である。ニュース報道をそのまま無批判に受け入れてしまう状態を指すのだが、これは我が家ではもっとも問題視されることなのだ。
 1994年に発生した松本サリン事件の際、第一通報者である河野義行さんが犯人として報道された。その時伝えられた証拠は、私の記憶では「河野宅の納屋に農薬があり、専門家によると専門知識があれば、農薬を原料にサリンは合成可能」という根拠の乏しいものだった。あの報道を聞いて違和感を感じた人は少なくなかったことだろう。しかし、そのニュースを鵜呑みにした人もまた少なからずいたはずである。そういうことを起こさせるのが「ニュース脳」である。後に、河野さんがテレビ出演する機会が増えて彼が素晴らしい人格者であることを日本中が知ることになる。「ニュース脳」は、こういう人をいともたやすく犯罪者に仕立て上げてしまうのだ。
 同様な例は「和歌山毒物入りカレー事件」でも起こった。第一報は食中毒事件だったが、その後すぐに「青酸中毒」と訂正された。食中毒にしては急性すぎるし、青酸中毒にしては発症が遅すぎるので、きっと多くの人がその発表にも違和感を抱いたことだろう。後に、中学生がそれを指摘したとして話題になったが、私は日本全体では相当数の人が気づいていたのではないかと考えている。
 「ニュース脳」はゲームを根拠なく嫌悪するのと逆の働きもする。たとえば健康食品を宣伝文句どおりに盲目的に信じてしまったり「◎◎高校、あるいは××大学に入れなかったら人生おしまいだ」というような考えに陥ったりする。みなさんは「ゲーム脳」と「ニュース脳」のどちらが問題だと思われるだろうか。
 今回はマンガについて書かなかったが、マンガも優れた才能が集う分野である。黎明期の源流から読み解いていかないと、亜流を区別できない可能性が生じるので子どもたちには指針が必要だ。音楽や美術と全く同じである。

 野村茎一作曲工房

posted by tomlin at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

気まぐれ雑記帳 2008-12-02 失われた未来

 
 昨日、岡田斗司夫著の「失われた未来」(2000年 毎日新聞社刊)を読了した。
 簡単に言ってしまえば、これは未来に対する世界の勘違いを検証した書であり、それを事実と思い込まされてきた人々の悲喜こもごもをも同時に綴っている。
 「ロボット駅馬車」の項目で扱われているハリー・エントンの小説「フランク・リード・ライブラリー」が描く未来は「無限に発達する蒸気機関。この素晴らしいボイラーの力で世界は変わる。やがてロボットの馬が駅馬車をひっぱり、果てしない荒野を駆ける日が来るに違いない」というものだった。挿し絵では、蒸気機関で動く鋼鉄の馬が駅馬車を牽引して荒野を疾走している。
 しかし、著者は昔の人の想像力を笑うわけにはいかないと書いている。なぜなら現代人の未来予測もこれと大差ないに違いないだろうという主張があるからだ。
 あまりの面白さに他の項目も全編紹介したいところだが、今日のテーマは本書にあるのではない。失われた未来は、多かれ少なかれ私たち個人ひとりひとりにもあるのではないか。
 そんな今日は、すでに30歳を過ぎた人たちが対象である。
 自分の人生の設計図を具体的に思い描き始めた頃の未来予測と今の人生との落差を思い浮かべることができるだろうか。
 世間一般には“過去に未来予測した人生と現在の自分とのズレ”を“挫折”という鬱屈した言葉で呼ぶ。今の人生は挫折した結果ではなく、現実である。果たして現代の高速輸送機関は、ロボット駅馬車が“挫折”した結果なのだろうか。ロボット駅馬車を無理矢理実現させていたら、現代は大変困った世界になっていたことだろう。挫折というのは、未来予測のほうが正しかった場合に用いるべきだ。実際、そういうこともあったに違いない。自分のせいではなく、抗しがたい力、たとえば事故や病気によって望みが絶たれてしまった場合などである。
 私たちは幻の“ロスト・フューチャー”などに惑わされることなく、現実認識の重要性に目を向けるべきではないか。未来に対応する前に、現実に対応するのである。
 私自身について言うと、性格的な“欠陥”からか、自分の未来がよく分からない。将来に対する危機管理の重要性だけは分かるので、保険に加入するなどはするのだが、具体的な未来を思い描くことがない。それは根拠のない自信によって「今日よりも明日のほうが人生は上向くのではないか」というような気がするためなのかも知れない。また「人を使わず、人に仕えず」という信条のために、他人の考えによって人生が左右されることも少ない。よって、挫折という言葉には昔から違和感があった。もうひとつつけ加えると、過去への執着もほどんどない。「昔は良かった」などと思うことは稀で、常に「今も馬鹿だけれど昔はもっと馬鹿だった」と思う程度である。
 しかし、自分の未来が分からないとはいえ、どうなっているのかは楽しみだ。じっと待っていても望んだ未来はやってこないことだろう。現実の積み重ねだけが未来を作る。言葉にすると薄っぺらなので自分でびっくりしたが、それしかない。
 高校1年の時から大学を卒業するまでにFM番組から録音したカセットテープは少なくとも2000本に及んだ。いつの間にか、書物からではなく実際の音楽で音楽史を理解した。数多くの曲を聴く一方で、たった1曲の交響曲を、その7年間を通じて毎日最低でも2回は聴きつづけた。それでオーケストレーションに必要なクリアリティや音響に関するセンスを、文字からではなく、実際の響きから学んだ。学業は必要最低限の勉強でぎりぎりクリアし、アルバイトに時間を割き、毎日作曲した。ところが努力らしい努力は何もしていない。それが生活そのものだったからだ。だから続いた。そして実は、内容は変化したものの、同じような生活が今も続いている。
 私自身の意識の中では1年、時には3日で思いもよらぬ進歩が生じることがある。その都度、私にとっての“ロスト・フューチャー”が起こる。だから自分の未来は予測することができない。
 30歳を過ぎれば、未来予測がいかに当てにならないかを理解してくることだろう。特に、組織や社会制度に依存すると運不運の占める割合が増えてくる。他人の判断に振り回されるからだ。
 未来を見据えることは非常に重要で、それなしに有意な人生を送ることはできないが、それは未来に備えるということであって、あらかじめ未来をがんじがらめに規定してしまうことではない。私たちは、唯一自分でどうにかすることのできる“今”を充実させて、その結果やってくる予測不可能でフレキシブルな未来を楽しみに待つべきだろう。

 野村茎一作曲工房
 
posted by tomlin at 15:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 気まぐれ雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。