まず最初に明らかにしておかなければならないことが「優れている」という言葉の定義である。ここでは「真実への到達度が高い状態」とする。「ここでは」というのは「私が語る時には」と読み替えていただいてかまわない。
「優れる」というのは「優れた状態に向かう過程」ということになる。
日本では多くの子どもたちが学校に通ったり、塾に通ったりして勉強している(?)が、そのことによって誰もが優れていっているだろうか。年齢とともに経験値が増して、社会性などは身についてくるとは思うが、勉強によって人が優れるかどうかは私には判断がつきかねる。
念のために断っておくが、私は学校教育や勉強を否定するつもりは一切ない。むしろ、もっともっと勉強すべきだと考えている。
少し前のコラムで「ニュース脳」という言葉を出した。それは知識や情報を無批判に受け入れてしまう傾向が強いことを指す。何度も繰り返してきた言い方で説明すると「(天文学としての)天動説を習えば、そのテストで良い成績をあげてしまうのが性能のよいニュース脳の持ち主であり、その矛盾に気づいて地動説にたどりつけば“すぐれている”ことになる」ということだ。
優れた人は、(ごく少数の例外的な天才を除けば)最初からすぐれていたわけではない。“優れてあろう”と志さない限り、真に優れることはできない。それに比して、成績を上げようなどという志は極めて低いと言わざるを得ない(それが楽だとは言っていない)。成績を上げるには、すでに用意された解答への道筋をたどるのに対し、優れるためには道を模索しなければならないからだ。つまり、優れようと志した段階で、すでにその人は優れていると言えるのかも知れない。
優れようとした人が勉強に向き合うと、そうでない人(よい成績を望む人)との間に顕著な差が生じることだろう。
優れているということの意味を理解しているが作成したテストは、ニュース脳教師が作成したテストとは大きく異なるものになる。テスト問題を見れば、その出題者のレベル(問題の難しさのレベルではない)が分かる。以前、長男の高校時代の音楽のテストの問題用紙を見て、その無意味さに言葉を失ったことがある。なんとか成績を出さなければならない教師側の意味のない論理がさらけだされていた。駄目なテストは授業内容を問い、すぐれたテストは真実を問う。
優れようとした人は真実を学ぼうとし、成績を上げたい人は授業を学ぶ。
誰もがすぐれた教師に学べるわけではないが、ガリレオ・ガリレイは自分が学び、そして自分が大学で講義していた天動説のほころびに気づくことによって地動説への扉を開いた(ガリレオが地動説を最初に唱えたのではない。これについては過去のコラム参照)。つまり、真に優れた人は誤ったことを習っても、そこから真実にたどりつく。
“優れる”ことを志すのは、優れた存在を知ることがきっかけになるのではないか。
私自身の例を挙げるならば、初めてバッハの偉業(フーガの技法)の一端に触れた(部分的な理解)時、一瞬にして体温が数度上がったような錯覚にとらわれた。今まで自分自身が何をしていたのだろうという無自覚さへの気づきと後悔と焦りと懺悔が一度に襲ってきた。この時、音楽は趣味ではどうにもならないないことを悟り、一生を賭ける決心をした。大学生の時だった。これと同じようなことは、アリスタルコスが半月が太陽の方向を向いているということに気づいて、太陽-地球-月のなす直角三角形だけから太陽と月との距離の比を導き出し、論理的に地動説にたどりついたことを知った時にも起こった。
優れたいと思った。優れなくてはならないと思った。そう思ってから、初めて優れることの難しさを知った。
小学校の時から子どもを有名進学塾に通わせたとしても、人生の途中で“優れたい”と心底、志を立てた人には全く敵わないことだろう。
優れるためには、本当に大切な事柄では正確でなければならない。大雑把でよいところと微小な差を見分けなければならないところが分からなければならない。人の言葉は真実であるとは限らず、その人のことを表しているだけかも知れない。真実に到達した人だけが思ったことが実現する。
レッスン(教育)とは、知識を教示したり技術の単なる伝達ではなく、優れたいと志すことの“威力”が全てに勝ることを伝えることが第一義であると考えている。
老婆心ながらつけ加えておくと、いわゆる“強い意志”というのは、しばしば優れるための障害になることがある。アマチュア・ランナーが日課であるランニングを“強い意志で”休むことなく続けようとして心不全などで事故死したというニュースを聞くのはそういう例のひとつである。強い意思は、正しい判断の基準をいとも簡単に狂わせる(無判断の誘導、判断の停止)。毎日欠かさず(言い換えれば、思うところがなくとも)ピアノの練習をしている人は、そのうちインスピレーションをも失うことになるかも知れない。
いつか優れて真実に到達したい。
論語にあるように「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」の心境である。
野村茎一作曲工房