2012年12月31日

9人のフルート奏者のための組曲(1999)より第1曲 Prelude


フルート・アンサンブル・フラッシュからの委嘱第1作。曲の終わりがブツ切りに聴こえますが、楽譜どおり正しく終わっています。




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2012年12月30日

8人のフルート奏者のためのコンチェルト・グロッソ(2005)第2楽章(ソフトウェア再生)


コンチェルト・グロッソ第2楽章もセリーを散りばめて仕上げた曲です。古典的な言い方をすればロンドということになりますが、誰にも、そう聴こえるとは限りません。




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2012年12月28日

8人のフルート奏者のためのコンチェルト・グロッソ(2005)第1楽章(ソフトウェア再生)


フルート・アンサンブル・フラッシュの委嘱を受けて2005年に作曲したコンチェルト・グロッソの第1楽章。
計画段階では全4楽章。第1楽章から第3楽章まで完成、第4楽章も途中まで書き進めていたもののセリーを多用していたため、曲長を短くして聴きやすくするため計画上の第2・第3楽章を第1・第2楽章として2楽章制の構成に変更。
複数回演奏されているものの、録音を持っていないのでソフトウェア再生です。



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2012年07月16日

機械より人間らしくなれるか?



「機械より人間らしくなれるか?」ブライアン・クリスチャン著

 新聞とってないけれど、読売の書評欄を読んだから書く。
 アラン・チューリングの名前は、今年(2012年)が生誕100年ということもあって、いやでも目にする(ネット時代特有の表現か)ことが多かった。誰なのか全然知らないので、当然検索してみると天才的な論理学者(ここには数学者とか暗号解読者とか計算機科学者というような意味を全て含んで書いた)らしかった。
 あらためてウィキペディアを読みなおしてみると、1952年に同性愛の罪(当時のイギリスではそれは犯罪だった)で逮捕。「セキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった」とある。イギリスは偉大な才能を自ら手放すことにしたわけだ。たかだか半世紀前であってもジョルダーノ・ブルーノの時代と大して変わらない世界だったことに驚く。ガリレオの名誉回復が1992年であることを考えれば、半世紀どころではない。まだ20年しか経っていない。

 ここから、ようやく書評の内容に移る。
 アラン・チューリングが「5分間チャット(会話)して人と区別できなければ知能とみなしてよい」と提案したそうだ。だれもチューリングに敵わないからかどうか分からないが、その定義で毎年人工知能コンテストが行なわれている。
 審査員はモニタ上で、本物の人と機械と一対一でチャットし、どちらが「より人間らしいか」を判定する。当然のことながら優勝は人工知能の開発者に与えられるのだが、本書のタイトルは、もうひとつの賞に由来する。それは人工知能に対抗して人間側に立つ役割の人に与えられる「もっとも人間らしい人間賞」だ。
 実際、機械に対抗して人間らしく会話に答えていたのに「機械」と判定されてしまうことがあるのだ。機械に負けてしまう人間というのは、いったいどういうことだろうか。というわけで、人間側を“演じる”人も本気で審査に臨む。その努力の結果が、先の賞である。
 著者は、そういう一人で「(私の)目の黒いうちはAI(人工知能)には勝たせません」と書いているそうだ。
 さて、私たちは機械よりも人間らしくなれるのだろうか?
 評者は、脳研究者で東大准教授の池谷裕二氏。読んでみたくなりました?。草思社刊、2940円。(2012年7月16日現在、アマゾンに中古品は出品なし)
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2012年03月30日

気まぐれ雑記帳 2012-03-30 “分かる”という手順


 若い頃に読んだ江戸時代の国学者か誰かの評伝に「幼少期より漢文を習い・・」というようなくだりがあった。おそらく当人はちんぷんかんぷんだったことだろう。
 私は高校時代から「漢文」という独立した授業があった。高校生くらいになれば漢文もよく分かるだろうという、文部科学省のありがたい配慮(むしろ逆配慮か?)によって漢文のテストには問題なく解答できるようになったが、漢文に親しむまでは至らなかった(今でもいくつかの漢詩は暗唱できるので、無理やり)。
 手元に世田谷区教育委員会が編纂した小学生用の教科書「日本語」(低学年、中学年、高学年用の3分冊)があるのだが、これが実に素晴らしい。
 和歌、俳句から漢文、日本の詩、西洋の翻訳詩、能、狂言、歌舞伎まで、相手が小学生だなんて関係ないというような内容。もちろん、やさしく語りかけてくれているが、言葉の問題では解決しないことばかりだ。
 世田谷区教育委員会の英断には敬意を表するとともに、この考え方が日本中に広がれば良いと切に願うものだ。

 さて、私が作曲をしようと思い立った中学校1年生の時、当然のことながら何をすればよいのかさっぱり分からなかった。とにかく作曲をしなければならないとだけ思い、1年ものあいだ五線紙に向かい続けた。1曲も完成しないのに、1日も休むことなく五線紙に向かい続けた熱意だけは立派だったと思う。
 2年生の時ころだったか「楽典と楽式」(属 啓成著)という本を手に入れ、それを暗記してしまうほど読み込んだ。いま、それが手許にないということは、形がなくなるほどボロボロにしてしまったということだろう。
 それを読んで何がわかったかというと、おそらく「音読すれば、このような音声が発せられる」という言葉の順序くらいのものだろう。

 なぜ、このような物言いをするかをご理解いただくために、試しに“フォルテ”を説明してみていただきたい。ふつうは「強く」と教え込まれているので、それで分かったような気がしているが、楽譜を書くにあたっては(演奏する時も同じだけれど)それでは分からない。
 フォルテを理解しているかどうかは「白地図」ならぬ、デュナーミクもアーティキュレーションもない「白楽譜」にフォルテやピアノを書きこんでみれば分かる。

 優れた指揮者の演奏する、優れた作曲家による作品を、できれば優れた案内役のもとで聴き続けたらどうだろうか。
 最初はメロディーだけを追っていることだろうが、そのうちオブリガートも聴こえてくることだろう。アーティキュレーションは比較的早い段階で聴きとるだろうが、デュナーミクとアゴーギクは聴きとろうと思うようにならなければ「聴いているつもり」で通りすぎてしまう可能性がある。さらに聴きこんでいくと、曲の大まかな構造が見えてくることだろう。そして、適切なナビゲーションがあれば詳細な時系列構造にも気づくことができるだろう。しかし、作曲家が丹精込めて打ち込んでいるのは、曲のどの部分を聴いてもその曲だと分かる統一された個性の表出だったりする。大きなコントラストを持つ対立した主題であったとしても、いわば共通するDNAとなる部分動機を与えて、それが同じ曲の一部分であることを分からせようとしていることにまで気づけば、作曲家も少し安心するかも知れない。それは、手を見ただけで「人のものである」と分かるように、優れた芸術は往々にして生命のデザインに倣っていることが少なくないのだ。
 それで、ようやく「フォルテ」が「強く」などという一言では説明しきれていないことがお分かりいただけたことと思う。
 言葉の説明の前に、子どもたちに実際の音楽に触れさせる大切さもお分かりいただけることだろう。

 ここで、世田谷区の教科書「日本語」高学年用にある漢詩をひとつ。

 子曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

 これが小学生の理解の範疇にあるとは思えない。しかし、早いうちに「学に志す」というフレーズを心に刻み込んでおかなければ「学に志す」という発想は生まれないだろう。同様に、四十、五十、六十の時にそれぞれの心境を理解できないことだろう。強烈なのは「心の欲する所に従えども、矩を踰(こ)えず」の一文。「思い通りに振舞っても道から外れることがない」というような意味だけれど、言葉では説明しきれない凄さがある。

 最後にもうひとつのエピソードを。
 私は中学生の時に読んだブルーバックスの「マックスウェルの悪魔」でエントロピーという概念を知り、以後、物理学に興味を持つようになった。
 実は、分からないことのほうが多かったのだが、それでも手当たり次第物理学の書物を読み漁った。そうこうしているうちに相対論がもっとも興味深く思われ、自動的に宇宙論が私のキーワードになった。
 2003年、ダークマターと斥力を持つ謎のエネルギー(ダークエネルギー)が宇宙の9割以上を占め、今まで宇宙の大部分を構成していると考えられてきたバリオンが4%しかないということが明らかになった時、人並みに驚くことができた(もちろん、驚いただけに過ぎない)。
 現代物理学に全く触れることなく過ごしてきた人が、今からチャンドラセカール限界だの、ボルツマン定数だの、Ia型超新星爆発だの、宇宙項の再導入だの、インフレーション理論(経済学ではなく、ビッグバン理論の一部としての)などをただの言葉から実感としての“概念”として捉えるのは大変なことだろう。
 断っておくけれど、私は物理学の素人であって、単なるファンに過ぎない。

 孔子の「論語」には次のような言葉もあると世田谷区の教科書は示している。

 子曰わく、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむものに如かず。

 子どもたちには分かろうと分かるまいと、優れたものを与えるべきだ。いや、子どもだけではない。全ての人がそうあるべきだ。
 


※4月から音楽コラムを下記URLに移転します。

http://tomlin.hatenablog.jp/
野村茎一作曲工房音楽コラム

 野村茎一作曲工房
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2012年01月12日

気まぐれ雑記帳 2012-01-12 地震雲はあるのか



 地震雲について知りたくて検索などでたどり着いた方には申し訳ありませんが、ここで扱うのは、その情報を受け止める人間側の問題です。地震雲についての新たな知見はありませんので、前もってご了承ください。

 「地震雲」という言葉を誰もが1度は聞いたことがあることでしょう。この概念の提唱者は鍵田忠三郎(かきた・ちゅうざぶろう:1922年7月25日 - 1994年10月26日)という奈良市町、および衆議院議員1期を務められた政治家の方です。1980年に「これが地震雲だ-雲はウソをつかない」という本を出版し、人々に知られるきっかけとなりました。
 その後、賛同者が現れ、地震雲のメカニズムについていくつかの仮説も立てられるようになりました。
 そのひとつを紹介すると、地震が起こる前には岩盤が押されて圧縮され、石英などが電荷を生じます。これは圧電効果(ピエゾ電荷)といって、ガスライターやガスコンロなどを点火する時のカチッという音と火花は、ロシェル塩を圧縮した時に生じる電荷を利用したものです。岩盤の圧縮は電磁波を生じ、その電磁波が気体分子をイオンに変え、そのイオンが空気中の水蒸気を凝結させて雲が生じるというものです。
 ここで書いておきますが、私は地震雲が存在するか・しないかと訊かれれば、存在する可能性のほうが高いと答えます。世界の様々な現象は少なからず影響を与え合っているし、論理学的に考えてもないことを証明するのは不可能に近いからです。しかし、「これが地震雲だ」と断言するのはまだ時期尚早であるという印象です。
 今の私に興味があるのは、地震雲の形態が明らかになって、それがどのように人々に伝わり、理解されていくのかということです。天動説も相対論も人々に浸透するまで紆余曲折がありました。しかし、天動説も相対論も実は人々に理解されないまま、浸透してしまった感があります。
 さて、民放テレビの夕方の天気予報番組で男性人気お天気キャスターが「地震雲はありません」と断言していました。その根拠として「気象学者は誰もあると言っていません」ということを挙げていました。これは厳密に言うと「気象学者で地震雲が存在すると考えている人はいない」ということであって、「地震雲の存在の有無」という事実については言及していないことになります(彼の中では、ないことになっていることでしょう)。
 気象学者の方で、地震雲について研究しておられる方はどのくらいいらっしゃるのでしょうか。雲を研究する視点が異なれば、観察上重要なポイントが変わってくるはずです。
 私は作曲家ですから音楽を例にお話しましょう。
 私はソナタ形式の認識についてしばしば言及します。作曲家、たとえばモーツァルトがソナタ形式について詳細に述べた事実を寡聞にして知りません。ソナタ形式について述べるのは作曲者以外のことが多いと思います(一部の作曲家は過去の大作曲家の作品をアナリーゼして、公開しています)。
 一般の解説では古典ソナタ形式について、その多くが「主題提示部(第1主題:主調)(第2主題:属調)(コデッタ)」「展開部(調性に決まりはない)」「再現部(第1主題:主調)(第2主題:主調)(コーダ)」という時系列構造で記述しています。
 これは間違ってはいません。しかし、これは一般に日本では朝食・昼食・夕食を食べます、と言っているようなもので、日本人が何を食べているかとい実態には全く触れていないのと同じです。
 ここでは詳しく書きませんが、モーツァルトの時代から優れた作曲家たちはソナタ形式で重要なことは、もっと別のところにあると考えていました(それについて過去の音楽コラムに書きましたが、どの記事であったかは今すぐわかりません)。
 かなり高名な音楽学者の方のアナリーゼでも聴く側の視点から分析が行われており、発想する側がなにをよりどころにしているか(何を重要であると考えているか)については、ほとんど触れられていません。
 私の作曲の師は常日頃「書物でわかるのは著者の限界だ。だから楽譜から学びなさい」と言っていました。これは厳しい言葉です。「作曲家と同じ視点に立ちなさい」ということと同義だからです。

 私は地震雲について気象学者に問うのはお門違いであると考えます。
 気象学者の中にも地震雲の検証をしようという人がいるかも知れません。そういう人は期待できます。気象学は固体地球物理学ではありませんから、専門外のことを学び直す必要があるかも知れません。それを実行しようという人です。
 逆に地震学者などの個体地球物理学の人も、地震雲を検証しようと思い立ったらやはり気象学や化学を学ぶ必要が出てくるかも知れません。新しい分野に挑戦するには過去の一般論から一度離れる必要があることでしょう。
 そして、最後は観察です。これはレオナルドが述べているように「事実から学べ」が誤らないための基本だからです。「事実は間違えない」のです。事実を見間違えなければ商売は繁盛するし、発明したものも期待どおりに動きます。物事は事実に従うからです。
 観察するということは、その背景の理論を見ることです。
 太陽が昇って、また沈むのを見ると地球のまわりを回っているように見えます。しかし、宇宙から地球を見ると、地球が自転しているためにそう見えることが分かります。また、地球が太陽のまわりを公転しているために四季の星空が変化することも分かります。それらを全て矛盾なく説明できるのが正しい理論ということになり、天動説が誤りであることが分かります。しかし昔の人々は宇宙に視点を移すことができませんでした。 ケプラーは惑星の運行を観察して惑星が日周運動とは逆に動くように見える逆行現象に着目しました。その逆行現象は惑星が惑星を追い越すことによっておこることに気づいたのも、両者がどちらも太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を公転しているという理論があったからこそです。理論が、厳密な観察によって得られた「信じるに足る多くの事実を矛盾なく説明」できれば、より強固なものになります。その積み重ねによって人類は徐々に自然や宇宙の真の姿に近づいてきました。

 地震雲の研究者がどれだけ現れるかは分かりません。地震研究にとって地震雲が最も重要であると考える人だけが、その研究者となるからです。どんな分野でも一朝一夕に答えが出るものではないでしょう。地震研究にはさまざまな手法があり、研究者はそれぞれ得意とする分野も方法論も異なるからです。
 ですから、地震雲は誰かによってその理論が解明されるかも知れないし、このまま疑似科学という認識のまま終わってしまう可能性もあるのです。誰かがその問題に全身全霊を傾けなければ、解明・証明できないというのは、過去の全ての科学上の業績と同じです。

 そして、これは音楽でも全く同じことなのです。


 野村茎一作曲工房

 
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2011年12月02日

2011-12-02 作曲が上手くいかない人へのナノ・メッセージ


 これは作曲工房で作曲を学ぶ人へのメッセージです。しかし、作曲を学ぶ全ての人にヒントとなることが含まれているかも知れません。ですから読者を限定することはしません。

 私は作曲課題として「大楽節」を作ることを求めます。8小節になることが多いのですが、他の小節数のものも存在します。
 8小節というと短いのものですが、決して小品を求めているわけではありません。大楽節を書けない人がそれ以上大きな曲を書けるとは思えませんから、小品であれ大作であれ、大楽節は全ての出発点です。もし、大楽節を書くことが難しいと感じたならば(実際に難しいものですが)、初期バロック時代からラヴェルくらいまでの楽譜を片っ端から読みなおしてみてください。メロディーを追うだけではなく、そこに共通するルールやセンスを見出してください。
 どの曲を参考にすればよいのか迷うこともあるでしょう。もし、音楽の才能とは何かと問われれば、私は「優れた曲から学ぶ力」であると答えます。
 ですから、どのような曲を見出すかという事自体が作曲の重要なトレーニングとなります。
 携帯型音楽プレーヤーの時代になってから、聴く音楽の幅が狭くなっているかも知れません。私は、若い頃に長い間FM放送から流れてくるありとあらゆる音楽に触れるという幸運に恵まれました。
 若い皆さん方のほうが、私よりもずっと多くの音楽情報にアクセスできる環境にあると思います。にもかかわらずわずか9曲(番号付きに限れば)しかないベートーヴェンの交響曲全曲を聴いたことがある人は意外にも少ないのではないでしょうか。
 脳科学者の茂木健一郎さんは「音楽を聴くだけで頭が良くなる」と断言なさっています。私もそのとおりだと思います。
 仮にシベリウスの7つの交響曲(前衛的なところなどない名曲揃いです)を聴いてみてください。いわゆる“ながら聴き”ではなく、7つの交響曲が区別できる程度までには聴き込みます。ひとつひとつの動機、経過句などをたどって聴いていくにはそれ相当の集中力が必要なはずです。これによって得られるのは知識だけではありません。むしろ知識以外のものです。
 このトレーニングを経るとあなたにはどのような能力が芽生えるでしょうか。箇条書きにしても1冊のノートには収まりきれないほどの力が加わるはずです。
 しかし、シベリウスの音楽にあなたが必要とする音楽の要素が全て揃っているわけではありませんから、他の作曲家からも学ぶことになります。
 その時、どの作曲家を選ぶかであなたが学ぶものは大きく変わってくることでしょう。それで、優れた音楽を選び抜く力が“音楽の才能”であると書いたのです。
 もっとも優れた音楽のひとつがバッハ晩年の「フーガの技法」ですが、それ以前に基本的なトレーニングを積んでおかないとメロディーを追うだけで終わってしまうかも知れません。
 数学が加減乗除から順を追って学んでいくように、音楽にも経るべき手順があります。
 
 さらに付け加えるならば、レオナルドが看破したように、人類に共通する美の基盤は“自然美”です。ドビュッシーも「過去のスコアを研究するよりも海を眺めていたほうがずっと勉強になる」と言っていますが、それは過去のスコアを研究しつくしたドビュッシーだからこそ出た言葉でしょう。
 私達も“自然美と矛盾しない音楽”とはどういうものであるか理解する必要があるとは思いますが、それはこのコラムの目的を超えているのでまたの機会にしましょう。
 

 野村茎一作曲工房
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2011年11月29日

音楽コラム 2011-11-21 強いメロディー


 タイトルについては、誤解を招く表現ではないかとかなり悩んだ。
 しかし、物理学でも核力を「強い力」「弱い力」と表現しているので、正確に分かりやすく説明すれば理解していただけると思い「強いメロディー」というタイトルとした。
 では、あらためて「強いメロディー」とはなにか。

 それはアクが強いとか、押しが強いとか、いわゆる“キャッチーな”というものではない。
 そのひとつに「忘れられないメロディー」であることを挙げたい。
 ドヴォルザークの「母さんが教えてくれた歌(古くは「わが母の教え給いし歌」という訳もあった)」などは、私にとってはその1曲。
 もうひとつは比較的シンプルであること。モーツァルトのアイネ・クライネの第1楽章序奏部などはどうだろう。冒頭2小節の動機にはGDHの3音だけしか使われていないのに、「モーツァルトの個性」「曲の個性」が見事に表現されていて、一度聞いただけで覚えてしまうシンプルさ。
 さらに「他に類例のない際立った個性」も挙げられる。上記の2例にも当てはまっているが、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」にある「金平糖の踊り」は、似た曲を探すのが難しくはないだろうか。ほかにはショパンの「幻想即興曲」に登場する主要な3つのメロディーは全て際立った個性(特に曲独自の個性)を感じはしないだろうか。
 アクの強いメロディーはいずれ飽きるが、ここでいう「強いメロディー」は劣化にも強い。長く聴いても、時代が変化しても変わらず魅力を発揮し続ける。
 ビゼーの旋律には時代を感じさせないものが数多くある。「ハバネラ」や「美しいパースの娘」から編曲された「小さな木の実」などは作曲年代を言い当てることが難しいのではないだろうか。

 では、次に「弱いメロディー」である。これは枚挙に暇(いとま)がなく、逆に何を挙げるか悩むのだが、演奏会で聴いて数日後にはひとつとしてメロディーを思い出すことができない曲を数えていく。
 その代表はハイドンの「オラトリオ“四季”」。聴いている時には気持ちがよかったのだが、数日後には覚えているのは雰囲気だけで、正確に再現できるメロディーがひとつもなかった。決して駄作などではないだろう。しかし、メロディーが弱くて心にスタンプされなかった。
 よくよく考えてみると、初期古典派の交響曲も後期ロマン派になってからの交響曲も、主題は強烈でも全ての部分が強いわけではない。それどころか大部分は弱いメロディーが主題の間を埋めていたりする。優れた作曲家たちは、その部分に「強い主題」に関連付けられた旋律(部分動機作法やリズム借用旋律など)を持ってくるので弱さを感じさせないだけである。
 しかし、ひとつでも強い主題がないと私たちはその曲を思い出す機会が減ることは確かだろう。
 調性音楽では、楽譜で見るかぎり、強いメロディーも弱いそれももそれほどの差がない。無調音楽では楽譜が大きく異なっていても、さらに差が小さい。
 
 強いメロディーには作曲者と、その曲固有の個性が明確に打ち出される。くり返し念を押すけれどもアクやクセ(どちらかというとマイナスイメージとしての)が強いというわけではない(そういう時もある)。
 ショパンのワルツやノクターンは1曲1曲がどれもはっきりと区別できるのではないだろうか。それらはどれもアクやクセが強いだろうか。

 作曲家として人々の印象に残る作品を書こうと思ったら、少なくとも数曲は、人々にすぐに思い出してもらえる、あるいはついつい口ずさんでしまう“強いメロディー”を持つ必要があるだろう。私は、もう何十年もそればかりの考えてきた。

 作曲の師である土肥先生は「旋律作法を学ぶことが最も難しい」と語っていた。それは作曲技術だけ「では解決できない側面を持つからだ。しかし、学ぶことが不可能なわけではない。
 先生は、またこのようなことも言っていたからだ。

「旋律作法に優れているのはモーツァルト、ビゼー、チャイコフスキー」

 この3人のメロディーのヒミツを探ることはきっと何かのヒントになることだろう。



 野村茎一作曲工房
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2011年09月29日

気まぐれ雑記帳 2011-09-29 育ちの良さ


 私には、常日頃カミさんから注意を受け続けていることがある。
 
「ドアは静かに閉めてね」

 これがなかなか治らない。
 言い訳めいたことを書かせてもらうならば、私が幼稚園児であったころ、ドアでも引き戸でもきちんと閉めずにいると祖父から「のろまの三寸、大馬鹿の開けっぱなし」と注意を受けたことが尾を曳いているのかも知れない。
 カミさんは「人の育ちの良さは名家に生まれ育ったということではなく、動作の静かさにある」と主張する。
 そのとおりだ。考えれば考えるほど、そのとおりだ。反論の余地はない。
 動作が静かであるということは、それが動作するのに必要な最小の力を推し測って自分自身をコントロールできるということだ。そういう行動が身につけば物が壊れにくいだろうから、美しい暮らしになることだろう。
 待ち合わせ場所に早く到着してしまった時など、行き交う人々の歩みをぼんやりと眺めたりすることがあるが、静かに歩く人には目が行く。静かに歩くということが遅く歩くことを意味するわけではない。無駄な動作がないと言ったほうが正確だろう。そういう人は、動作も静かなのかも知れない。
 
 そういう意味では、音楽の演奏でも育ちの良さがあると言えるだろう。
 たとえば、内田光子さんのピアノはとても静かだ。音量のことではない。彼女のフォルテがもの足りないと思ったことなどない。
 しかし、どんなに強く弾いても、どんなに速く弾いても静かに思える。静謐な音楽だ。
 彼女のピアノを育ちが良いと喩えてもよいだろう。
(ただし、CDではそのクオリアが伝わりにくいと思う。おそらく不可能だろう)

 作曲ではどうだろう。バッハの3声シンフォニア第9番からフーガの技法に至る一連の対位法作品をはじめとして、パッヘルベルの「シャコンヌヘ短調」やマルタンの「小協奏交響曲」、あるいはヴォーン=ウィリアムズの「田園交響曲」などは音量にかかわらず「静謐な」音楽に聴こえる。
 ひとこと断っておかなければならないが、静謐な音楽でなければ名曲ではないなどと主張する気はさらさらない。喧騒の名曲も数多くある。レスピーギの「ローマの祭」などは、よくぞやってくれたという曲だし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、第2部の「祖先の儀式」のようなピアニッシモのところが最も心がざわついたりする。

 人だって、育ちの良さが一番重要というわけではないだろう。本当のことが分かり、事実を事実として受け止めて行動できる(つまり、為すべきことを為せる)人こそが偉大であって、動作の静かさだけで人生をカバーできるわけではない。世の中には色々な人がいて然るべきだ。
 しかし、いま一度「静かさ」について思いを巡らせてもよいのではないか。

 私もドアを、その質量に合った力で動かし、閉まる時に速度がゼロになるように心がけたいと思う。
 静謐な曲も書いてみたいと思う。静謐な演奏だってしてみたい。

 そうすれば“がさつ”な私でも少しは育ちがよく見えるようになるかも知れない。
 

 野村茎一作曲工房
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2011年09月17日

気まぐれ雑記帳 2011-09-17 小さな判断

 
 ここ一番という時の重要な判断を正しく下すことはなかなか難しい。
 そんな時でも常に正しい判断が下せる人こそ、人々の代表としての政治家であってほしいものだ。
 正しい判断とは何か、という問題に答えるのは易しいことではないが、次のように答えることはできるだろう。

 あなたは朝起きる。何時に起きるべきだろうか。他人は参考にならない。あなたと全く同じ生活をしている人はいないからだ。仮に朝7時に起きれば自分が思い描いたいたことをやるのに十分な時間が得られるとする。ならば7時に起きるべきだ。しかし、実行してみないと正しいかどうか分からない。あなたは、それを早速実行できたとしよう。実際には7時では10分ほど足りないことが分かったとする。あなたのライフスタイルでは、起床時刻は6時50分が正しかったことになる。
 ここで、あなたは小さいことではあるが、正しい判断を学んだことになる。
 朝食は食べたいが用意するのが面倒だ。そんな時、あなたは次のように考えて判断を下すとよい。面倒であるかどうかは考慮に入れずに、あなたの人生には朝食があったほうがよいかどうか。
 あったほうがよいと思ったなら朝食は取るべきだ。ここから先はあなたのライフスタイルに依存した朝食になる。面倒ならばシリアルと牛乳、バナナ1本、食後に缶、あるいは紙パックなどのコーヒーというような調理のいらない朝食にすればよい。もう少し朝食を楽しみたいのならば、ご飯だけ炊いておいて、スーパーやコンビニで手に入るようになったチルドのレディミールと味噌汁で「焼き魚と焼き海苔、漬物と味噌汁」など何種類もの朝食が10分ほどで食べられる。もちろん、自分で全て調理できる人はそれが一番良いだろう。出勤するのなら、道すがら朝食の外食でもよい。とにかく現代は選択肢が多くなったのだから、あなたに合う朝食スタイルが見つかるはずだ。
 判断したら実行する。実行すれば、その判断が正しかったかどうか分かる。間違っていたらすぐに修正する。それで、正しい判断を知ることができる。
 人には多かれ少なかれ実現したい将来があることだろう。今やっていること(たとえばゴロ寝や、見たいわけでもないのにテレビ画面を眺めているなど)が将来につながるかどうか判断すれば、何かが変わるだろう。
 自分が何を為すべきなのか分からないということもあるだろう。原因のひとつには学校教育が国民全員に「勉強しなさい」と言ってきたことがあげられる(決して間違ってはいない。全ては受け手の問題)。ここでいう“勉強”には枕詞として「学習指導要領に沿った教材で」が付く。だから「学習指導要領大明神」に権威を感じているひとは、お参りしないと後ろめたさを感じたりする。また、この大明神は非常に役に立つものの、この大明神から自分の将来を見出すことは稀有であろう。
 私達に必要なのは「読み・書き・計算と読解力(仕組みがわかること)」である。
 読書を習慣として、日記やブログを書き続け、さまざまなパズルを解くような人が大明神に出会うと、それほど苦もなく大明神をクリアできるかもしれない。
 そのようなレディネスなくして、いわゆる“勉強”をさせたところで成績は簡単には上がらないこともあるはずだ。
 少々脱線した。言いたかったのは、いわゆる“勉強”するということは自らの判断ではないということだ。
 自分が知るべきことがなにかに気づけば自分の判断で学ぶことができる。
 ここで元に戻ろう。
 じぶんが何をすればよいのかが分からない人は、何もしていない人だ。息を吸ったり吐いたりして、あとは他人(世の中の無言・有言の圧力)の指示で勉強してきた人だろう。
 さあ、まず小さな判断をしようではないか。朝、ベッドの中で判断留保のまま過ごすか、それとも人生にとって起きるほうが正しいと考えて起き上がるかだ。これはちょっとくらい勉強するよりも、あなたを変える。先ほど「何もしていない人だ」と書いたが、これであなたは「何かをした人」に変わる。これが続けば、あなたは自分がどのような未来を迎えたいのかが見えてくることだろう。
 小さな正しい判断の積み重ねは、大きな決断の時に正しい判断を下すための力になる。人の評価は、どのように判断し行動したかで決まる。
 
 「尊敬できる人」とは「為すべきことを為す人」である。「為すべきこと」は人によって異なるが「為すべきことを為している人」に私たちは苛立ったりするだろうか。
 自分自身が為すべきことを為していたら、自分自身を尊敬できることだろう。その状態を「誇りを持つ」とということだと言っても間違いではないだろう。
 自分がなすべきことを為せるようになれば、思い描く未来は実現することだろう。それも、全て小さな判断と実行の積み重ねがもたらす。


 野村茎一作曲工房
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